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がんを生きる:鳥越俊太郎の挑戦/4 治療格差、なくしたい

 ◇同じ病、分かれた明暗

 自分のがんを自分で背負う。それ以上でも、以下でもない。そう思っていた鳥越俊太郎さん(69)を、ひとつの死が変えた。

 今年3月22日、東京・品川のホテル。全国50以上の患者団体が加盟するNPO法人「がん患者団体支援機構」の理事会に、鳥越さんは出席した。「あなたがいること自体が、患者の声を世間に聞いてもらう力になる」。丸テーブルを囲む理事たちに口説かれ、鳥越さんはうなずいた。空席になっていた理事長への就任が決まった。

 「日本はがんの情報や医療レベルが一定ではなく、地域格差がある。それを僕なりに紹介したい」。そうあいさつした鳥越さんの胸には、3年前のクリスマスイブに、自分と同じ直腸がんで逝った、いとこの姿が浮かんでいた。

 鳥越さんより五つ下の永利(ながとし)修さんは、田園風景の広がる福岡県うきは市で仕立業を営んでいた。外国産の生地を使い、オーダーメードで高級スーツを作る。きまじめな職人だった。

 生家が近く、永利さんは鳥越さんのことを「お兄ちゃん」と言って慕った。故郷を離れた鳥越さんのためにスーツを作り続け、テレビで鳥越さんの服装を確認しては、「これはおれが作ったんだ」と喜んだ。

 妻千佳子さん(59)によれば、永利さんは01年の検診で異常が見つかり、早期の直腸がんと分かった。地元の病院の医師に促されるまま内視鏡による手術を受け、「これで3年間は大丈夫」と太鼓判を押された。

 しかし05年に再び体調を崩し、念のためにと、今度は開腹手術を受けた。

 手術室から出てきた医師は千佳子さんに言った。「もう末期。(亡くなるまで)あっという間です」。再発したがんが、骨盤一面に広がっていた。夫婦にとっては思いもしないことだった。

 「修、死ぬときは一緒ぞ」。その年の秋、自身のがんが見つかった鳥越さんは永利さんに電話し、せめてもの言葉をかけた。どこかに「自分だって長くはないかもしれない」との思いもあった。

 だが、鳥越さんは生還した。2人を分けたのは「医療の環境の違いだ」と鳥越さんは思う。自分が身を預けたのは、腹腔鏡(ふくくうきょう)手術で日本有数の症例を誇る東京の有名病院だった。一方、永利さんは県内の大学病院に転院し、その後も先端治療を受けられる施設を探したが、もう、地元を離れるだけの体力は残っていなかった。

 たまたま永利さんの運が悪かったというだけなのかもしれない。だが訃報(ふほう)を聞いたとき鳥越さんは、巡り合わせとか偶然とか、そんな言葉で割り切るには、あまりにも切ない彼我の差を感じた。

 5月10日に東京医科歯科大で、がん患者団体支援機構の総会が開かれた。理事長に就任したばかりの鳥越さんは所信をこう述べた。「私たちがん患者が発言をして、格差をなくしていく」【前谷宏】=つづく

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毎日新聞 2009年6月24日 東京朝刊

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