SPECIAL 2007
2007年6月21日 第25号 掲載
帰国準備に大忙しの猪俣さん。「日本では友達と出かけたり、温泉に行くのが楽しみです」 |
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「身辺雑記」「かもめ」と、1987年から14年間、弊紙の連載コラムを執筆した猪俣満子さん。みずみずしい視点と洗練された筆致の珠玉のエッセイを、覚えている読者も多いことだろう。そして今、猪俣さんは22年のカナダ暮らしにピリオドを打ち、日本へと旅立つ。「人生の終焉を日本で」と語る猪俣さんに、カナダの思い出と現在の心境を伺った。
55歳でのカナダ移住
猪俣さんのカナダ物語は1985年に始まる。夫でシナリオ作家だった猪俣勝人さんの七回忌をすませた頃だった。「子供もいないし、特にしたいということもなく、私はどうでもいいという感じになっていたんです」と猪俣さんは振り返る。
その頃、猪俣さんの妹がバンクーバーに住んでいた。「日本にいる私には、近くに(助けてくれる)きょうだいがいますが、彼女は一人で娘を育てていた。それで、少しは妹の手助けが出来るかもしれないとカナダへ行ったんです」
55歳、リタイヤビザでの移住だった。「その前にもカナダに遊びに来たことがあり、ここに住めたらいいなと思っていました。ヨーロッパ人の造った街で、生まれ育った青島にちょっと似ているんです」
カナダで心機一転、新しい生活をスタートさせたものの、英語は全く出来なかった。そこでバンクーバー・コミュニティ・カレッジのESLクラスを受けることになる。
「授業中、先生がおっしゃっていることはわかるのですが、スペルが覚えられないし、記憶力もないしで…。半年ほどで、『英語を習いに来たんじゃないから、もういいか』と諦めました(笑)。でも、今までで一番勉強しましたよ。だけど、当時のノートを今見ても、頭に残っていないですね(笑)」。
猪俣さんの女学校時代は、英語が「敵性外国語」として排除されていた頃。学校でも英語の授業は廃止され、英語に関する知識はほとんどなかったと言う。
言葉の不安にも関わらず、猪俣さんがカナダ移住を敢行できたのは、16歳まで中国で過ごした経験があったからかもしれない。青島時代は、父親の経営する大きな電気店の娘として、日本人や中国人の従業員、住み込みの韓国人従業員、コックやお手伝いさんなどに囲まれ、「自分のことを自分でしないですむ生活」を送っていた。それが終戦を迎え、生活は一変する。苦しい引き揚げ、母の死、貧困…。「でも弱音を吐いている暇はなかったんです。そして今では、貧しさは私にとって必要だったと思っています。若い頃、苦労を経験していると、『今はそれよりもラク』とすぐ思えるからです」
先付けでボランティアを
英語を断念した猪俣さんは、ボランティアを始めた。「隣組でボランティアの募集が出ていたんです。最初は、シニアホーム『クーパープレイス』で週一回、日本食のランチを作っていました。そこには10人ほどの日本人のシニアがおられたのです。予算は1人1ドル。後はドネーションでまかなっていました」
その後、隣組のプログラムでランチを作るようになった猪俣さん。当時、隣組の事務所はダウンタウン・イーストサイドにあり、その近くには、ホームレスの人などに衣類や寝具、その他を配布している団体があった。「そこにいたボランティア15年目という白人女性が『ここに来るのは私の喜び。奉仕しているようだけれど、実は奉仕されている』と言われたんです。その時、考えました。これから15
年経っても元気だったら、私も(ボランティアを)続けられるかもしれない。いずれは私も、人様のお世話になるのだろうから、それまでに先付けしてボランティアをやっておこう、と」
目標の15年を越え、今年で18年目。猪俣さんは週に一回、隣組のキッチンに立ち、ランチを作り続けてきた。その間、「『猪俣さんはご飯を作ってくれるから、私は○○をやってあげる』と、シニアの方から言われることが多かった」と振り返る。そしてこの3月、猪俣さんは帰国を決意するとともに、ボランティアを引退。最後の日には大勢の人が集まり、猪俣さんに感謝の意を表すと同時に、目前に迫った別れを惜しんだ。
『終焉の地』を決める
91年に著書『老いとの対話死との対話』を刊行した猪俣さん。そこには、母、祖母、夫と、身近な人々の死に立ち会ってきた壮絶な体験が記されている。そして猪俣さんは、75歳という年齢を、自らの死と向き合う節目として捉えていた。「この歳までに終焉の地を決めようと思っていました。自分の最期について、自分の考えで決められるのは、75歳くらいまでだと聞いていたのです」。猪俣さんは静かに語る。
カナダ暮らしを楽しんでいた猪俣さんだが、帰る場所はやはり日本だった。「ここでは英語で必ずヘルプが要ります。例えば病院で、その処置はしてほしくないと思っても、それを自分の英語では言えない。だからやっぱり帰ろうと思って」
本当は75歳で帰国しようと思っていた。しかし、数年前から体調を崩していた妹さんを置いて行くことはできなかった。「姪には姪の人生があるし、私は妹の手助けをしに来た訳ですから…」。幸い、妹さんの状態は好転。検査の結果が良好だったことから、この夏にカナダを去ることを決意した。当初の予定より、2年遅れての帰国である。
猪俣さんは帰国後のプランとして、ケアハウスに入ることを考えていた。「知り合いのハウスを見せてもらったり、入居者の方とお話ししたり。自分で自分のことが出来て、団体生活が出来る人なら楽しそうだなと思いました」
日本にいるきょうだいたちが、一緒に住もうとも誘ってくれる。しかし「身内の家族と住むと、返って孤独感が深まることもあるでしょう。それよりも、他人なら遠慮もあるし、逆にやっていけるのではないかと思っています。ケアハウスに入ることは、みんなが言うほどには、私は恐れていないんですよ」と言う。
しかし、ケアハウスは全国津々浦々にあり、施設もサービスも千差万別。その中からひとつだけ選ぶのは、思った以上に大変だった。気に入ったホームでも、定員オーバーだったり、遠過ぎて身内に反対されたりと、なかなか決めることが出来なかった。
そうこうするうちに、バンクーバーで知り合ったボランティア仲間から誘いを受ける。「彼女も一人暮らしなので、うちにいらっしゃいよと声をかけてくれたんです。一度日本に来てじっくり考えなさい。何年でもいていいから…と言われて(笑)」。その友人の厚意を受けて、しばらくは東京で暮らすことに決めた。
「徳は孤ならず、必ず隣あり」
帰国を前に、猪俣さんは「今は未知数でいい」と自分に言い聞かせていると言う。「カナダに来たときもそうでした。最初は英語ができず、買い物さえ一人で出来なかったけれど、今は隣組や友人、知人、妹、姪夫妻にサポートしてもらいながらも、ちゃんと日常生活を送っているんですから」
22年にわたるカナダ生活を振り返り、「ラッキーでやってこられたという感じですね。英語が出来なくても楽しかった。苦しいこともありましたけれど、でもそれは、『どうして英語が出来ないんだろう』という自分に対する怒り。日本より暮らしやすいし、気候もいいですしね。幸い、大病もしなかった。健康でいられたことが、一番幸運だったことでしょうね」
「それと、交友関係が広がってラッキーでした。気の合った人とは、身内のようになってしまうんです。私は、人とすぐに仲良くなれるタイプという訳ではないのですが、争うことが好きではないので…。きょうだいが多く、喧嘩しているとやっていけないということがあったからだと思います。中国から引き揚げ後、母が亡くなり、みんなで助け合わなければならなかった。きょうだいの仲が良いのが、不幸中の幸いでした」
猪俣さんは自分が「ラッキー」だと言う。しかしそれらは、いつも物事を前向きに捉える猪俣さん自身が招き寄せたものではないだろうか。「いい方向に考えないと、悪く考えると落ち込んでしまうから…」と猪俣さんは笑う。
最後に、猪俣さんが大切にしている『言葉』を教えてもらった。「女学校卒業の時に受け持ちの先生が、私の『想い出草ノート』に、『徳は孤ならず、必ず隣あり』と記されたんです。なんていいことを書いてくださったのだろうと。淋しいときや苦しいときに思い出しています」
(取材 宗圓由佳)