もうお分かりだと思うが、私が、日本の右傾化を進めており、支持している中心的な層として考えているのは、こうした、戦後日本社会を「平和国家」および「平等社会」としての一つの達成として擁護する、「ウヨク」または「サヨク」である(従来型の右派勢力を軽視しているわけではない。これについては後述する)。特にマスコミ関係者はほとんど全員これだ、と私は思っている。もちろん、日本政府は一貫してこの立場であり、外務省官僚たる佐藤優も、このラインからは基本的に外れていない。自らが「ソーシャルなウヨク」であることを否定しないであろう、厚生労働省官僚の濱口桂一郎が、『世界』その他の左派系メディアで活躍したり「連合」と関係を持っていたりすることも、なかなか示唆的である。
こうした戦後社会を擁護する「ウヨク」または「サヨク」の支持を中心とした右傾化は、特に安部政権崩壊以後、顕著になっていると思う。 安部政権は、周知のように、「戦後レジームからの脱却」を唱えた。こうした安部の主張や、「小泉・安部政権の新自由主義」に対して、左派は、「戦後社会の肯定」という形で対抗した(これが<佐藤優現象>の基盤である)。そこにおいては、そうした大義名分の影で、「戦後社会」を肯定したいという欲望がだだ漏れしている、ということは、既に指摘した。大雑把に言えば、左派において対抗戦略上、「戦後社会」の肯定が解禁されたことで、「戦後社会」の肯定に歯止めがかからなくなり、そうした「戦後社会」の肯定は、左派のイデオロギーの「国益」論的再編に当然ながら帰結した、と私は思う。 また、右派においては、安部政権を支持しなければならない手前、従来は「戦後レジーム」に否定的だった論者の一部が、安部政権の「現実主義」外交を支持せざるを得なくなり、「戦後レジーム」に取り込まれてしまったのだと思う。これが、小林を、右派知識人たちの変節として激怒させた事態である。「戦後レジームからの脱却」という虚像の下で、左派と右派のかなりの部分と、「現実主義」外交を進めざるを得なかった当の安部政権が、「戦後レジーム」に取り込まれたのである。 こうした流れは、安部政権とのカラーの違いを出さざるを得ない福田政権下で、さらに進んだと思う。安部政権下あたりから大手紙でも取り上げられるようになった「格差社会論」も、「戦後社会」の擁護に帰結したから、こうした動きをますます強めただろう。 念のために言うが、大多数の左派にも右派にも、少し前までは、戦後社会の肯定はそれほど大っぴらに語られるものではなかったのである。ところが、反対者だった人々が、わずかの期間で、推進者に変わったのだ。要するに、左右の大多数の知識人やマスコミ人は、「戦後」への批判すなわち、押し付け憲法論も沖縄への米軍基地の集中への批判も被害者中心主義史観批判も東京裁判史観批判もアメリカナイゼーション批判も消費社会文化批判も、本気では信じていなかったのである。安部政権以降の言説および政治状況は、左右の知識人やマスコミ人を、戦後批判(というタテマエ)の呪縛から解放した、と言えると思う。 この「戦後レジームの擁護」という枠組みは、左右のかつての反対者すらその擁護者として組み込んでいる。自民党も民主党も、この「戦後レジームの擁護」の枠組みの下でしか物を語れなくなっているはずである。自民党は、「戦後社会」の政権政党としての実績を売り物にして、民主党の統治能力が欠如していると叩いており、民主党は、自民党政治が「戦後社会」の安定性を崩したと批判しているのである。この枠組みにおいては、「改憲」か「護憲」かは、大した問題ではないのだ。「ウヨク」も「サヨク」も、「日本国憲法の精神」を尊重し、「平和国家」として日本を位置づけるという点では一致しており、「豊かな社会」(国民の間での「平等」性を担保し得る富を持った社会)を維持していくためには、対テロ戦争への協力は不可欠という認識でも本音では一致しているのだから。 現在の日本の右傾化の基盤は、こうした「戦後レジーム」または「戦後社会」の擁護という認識によって支えられている。もちろんこれは、一つの開き直りであり、かつて左右が「生活保守主義」とか「「金、物欲、私益」優先主義」とか、さんざん批判した大衆像そのものである。実際にはそうではないと思うのだが、「ウヨク」または「サヨク」は、大衆は「戦後社会」を丸ごと肯定していると決め付けている(吉本隆明のようだ)から、自分たちは大衆的基盤に依拠するようになった、と自信を持っていることだろう。だからこれは1930年代の日本の左翼知識人たちの「転向」過程と似ているのである。 (つづく)
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