外部からの衝撃によって脳の組織が破壊されることを脳挫滅と呼ぶらしい。頭を巨大な万力か何かで完璧に潰されたらそれはきっと脳挫滅なのだろう。ところで今、自分は精神的な錯乱によって頭がぜんぜんうまくまわらない。大脳、小脳、脳幹、どれもがまるで機能をなしていないように思われる。昆虫のサナギは、割ってみると中にはただドロドロとした液体があるばかりだが、自分の頭の中もそんな風になってしまったのではないだろうか。思考がぐるぐると渦巻くうちに、本当に渦を巻き始めて、攪拌されてしまったのではないだろうか。ちびくろさんぼのトラバターの要領で、どろどろになってしまったのではないだろうか。ばかが、そんなわけがない。
鬱病という病気があって、自分は病院へ行ってしまったものだからそう診断されてしまったが、心療内科というんですか、あれは注意したほうがよいように思う。確かに気分もいまひとつなら現実を厭世的に俯瞰しているような節もあったし、加えて大きな精神的動揺がそれに拍車をかける格好ともなった。空いてしまった心の隙間は、それを他が埋めてくれるまでは耐えられぬほどに辛いものである。結果、思考がどんどん沈降し、死ぬとか物騒なことを考え始める。とはいえ、それを指して鬱病と呼んでいいものかどうか。そもそも、鬱病とは一体何だ。
何故こんなことを考えるに至ったかといえば、薬を飲むことで自分の性質に変化が起きているような気がしたからである。医者の云うには、薬には思考停止を促す働きがあるそうで、あんまり難しいことを考えようものなら脳の焦げ付く前にそれをストップさせてしまうらしい。そうすることで自分を追いつめたりせず、気楽でいられるのだという。確かに、薬を飲んでからは異様な悲観に陥ることもなくなった。ただ、思うにこれは問題の先送りに過ぎず、根本の解決にはなっていない。今まで考えることのできていた事柄について思考の及ばないなどという現状は、むしろ退化ではなかろうか。
自身の体験から、抗鬱の薬には感受性その他を非常に鈍らせることで『不安』から目を背けさせるところに意図があることを理解した。であるから自分は、もう薬は服用しない。何故というに、逃げたところで、現実は変わらないのであって、薬によってぼかされているものの、不安は常に存在しているのであって、何より、ぜんたいがぼやけることによって今までよりも色々に気がつかなくなってしまっているのである。喜怒哀楽の振幅が実に狭い。感性を自ずから劣化させるくらいなら、自分は意志で現状を乗り越えるほうを選ぶ。そう考えるうち、どうも自分は鬱というほどの鬱ではないことに、気がついた。
時間がすべてを解決するとはよく云うが、それはその通りで、おそらく時間だけが人の心に安寧をもたらすのだと思う。忘れたいことほど忘れられないものだけれど、日常の蓄積は、どんな記憶をも相対的に縮小させてゆく。抗鬱の薬は、結局のところ時間のそうした機能なしには何らの価値もなく、ただのばかを作る薬でしかない。時間が存分に経過するまでの苦しみから目を逸らさせるために、薬で頭を半分ばかみたいな状態にしておくのが抗鬱薬の役割だと思う。だから、自分なんぞよりもずっと苦しい人こそが服用すべきだろう。あれは、ばかにでもならないことには直面出来ない悲劇を抱える人のための薬だ。
心療内科へ行って「なんだか人生にぼんやり」みたいなことを云えば誰でも気軽に手に入れることのできる抗鬱薬ではあるが、それというのも偏に鬱という概念の曖昧なところに原因がある。簡単な質問とペーパーテストで心の深部を捉えられるはずがない。心療内科も宗教も、救済を求めるという点においてはあまり変わらぬ気がする。『宗教はアヘンである』とマルクスは云ったが、まさにそのままである。本来服用する必要のない人も安易にあれをばりばり貪っている現代には、底知れぬ暗さを覚える。依存しているという妥協、安心の気持は現状打破をすら放棄しかねないし、そのうち『自分は鬱ですから』のような弱者表明によって、鬱を理由に何事にも甘えようとするかもしれない。拠り所を過ててはいけない。
今後の予定はしばらく編集作業をこなした後に22日からアメリカへ出張、27日に帰国して、28日に大阪に入り、二郎松田氏の脚本を手がけた芝居を観、さらに翌日には京都を観光となっている。懸念されるのは時差ボケで、自分は割とこれに弱いきらいがあるものだから、せっかくの観劇を舟漕いですっ飛ばしたくはないし、古都を巡るにしても頭の冴えた状態でありたい。いずれにせよ、関西へ赴くまでにはもやもやを払拭させておきたいところ。
鬱病という病気があって、自分は病院へ行ってしまったものだからそう診断されてしまったが、心療内科というんですか、あれは注意したほうがよいように思う。確かに気分もいまひとつなら現実を厭世的に俯瞰しているような節もあったし、加えて大きな精神的動揺がそれに拍車をかける格好ともなった。空いてしまった心の隙間は、それを他が埋めてくれるまでは耐えられぬほどに辛いものである。結果、思考がどんどん沈降し、死ぬとか物騒なことを考え始める。とはいえ、それを指して鬱病と呼んでいいものかどうか。そもそも、鬱病とは一体何だ。
何故こんなことを考えるに至ったかといえば、薬を飲むことで自分の性質に変化が起きているような気がしたからである。医者の云うには、薬には思考停止を促す働きがあるそうで、あんまり難しいことを考えようものなら脳の焦げ付く前にそれをストップさせてしまうらしい。そうすることで自分を追いつめたりせず、気楽でいられるのだという。確かに、薬を飲んでからは異様な悲観に陥ることもなくなった。ただ、思うにこれは問題の先送りに過ぎず、根本の解決にはなっていない。今まで考えることのできていた事柄について思考の及ばないなどという現状は、むしろ退化ではなかろうか。
自身の体験から、抗鬱の薬には感受性その他を非常に鈍らせることで『不安』から目を背けさせるところに意図があることを理解した。であるから自分は、もう薬は服用しない。何故というに、逃げたところで、現実は変わらないのであって、薬によってぼかされているものの、不安は常に存在しているのであって、何より、ぜんたいがぼやけることによって今までよりも色々に気がつかなくなってしまっているのである。喜怒哀楽の振幅が実に狭い。感性を自ずから劣化させるくらいなら、自分は意志で現状を乗り越えるほうを選ぶ。そう考えるうち、どうも自分は鬱というほどの鬱ではないことに、気がついた。
時間がすべてを解決するとはよく云うが、それはその通りで、おそらく時間だけが人の心に安寧をもたらすのだと思う。忘れたいことほど忘れられないものだけれど、日常の蓄積は、どんな記憶をも相対的に縮小させてゆく。抗鬱の薬は、結局のところ時間のそうした機能なしには何らの価値もなく、ただのばかを作る薬でしかない。時間が存分に経過するまでの苦しみから目を逸らさせるために、薬で頭を半分ばかみたいな状態にしておくのが抗鬱薬の役割だと思う。だから、自分なんぞよりもずっと苦しい人こそが服用すべきだろう。あれは、ばかにでもならないことには直面出来ない悲劇を抱える人のための薬だ。
心療内科へ行って「なんだか人生にぼんやり」みたいなことを云えば誰でも気軽に手に入れることのできる抗鬱薬ではあるが、それというのも偏に鬱という概念の曖昧なところに原因がある。簡単な質問とペーパーテストで心の深部を捉えられるはずがない。心療内科も宗教も、救済を求めるという点においてはあまり変わらぬ気がする。『宗教はアヘンである』とマルクスは云ったが、まさにそのままである。本来服用する必要のない人も安易にあれをばりばり貪っている現代には、底知れぬ暗さを覚える。依存しているという妥協、安心の気持は現状打破をすら放棄しかねないし、そのうち『自分は鬱ですから』のような弱者表明によって、鬱を理由に何事にも甘えようとするかもしれない。拠り所を過ててはいけない。
今後の予定はしばらく編集作業をこなした後に22日からアメリカへ出張、27日に帰国して、28日に大阪に入り、二郎松田氏の脚本を手がけた芝居を観、さらに翌日には京都を観光となっている。懸念されるのは時差ボケで、自分は割とこれに弱いきらいがあるものだから、せっかくの観劇を舟漕いですっ飛ばしたくはないし、古都を巡るにしても頭の冴えた状態でありたい。いずれにせよ、関西へ赴くまでにはもやもやを払拭させておきたいところ。