ご来客数;



私が第2回カザルスホールアマチュア室内楽オーディションで1位をいただいた時のカザルスホールでのお披露目演奏会に四国高松から母が来てくれました。ちょうど母の誕生日の少し前でしたので、母の誕生会を、東京全日空ホテル内のフランス料理店で開催したあと、サントリーホールへ演奏会を聞きに連れて行って、そのあたりの噴水の前で撮影した写真です。タイトル1994年に私が東京から高松にUターンして初めての春、公渕森林公園へ母をお花見に連れて行ったときに母と二人で撮影した写真です。父の女遊びのために薄幸な生涯を送ってきた母は、当初、愚痴ばかりこぼしていましたが、長男の私がUターンして母のそばにいるだけで、だんだん明るく前向きになりました。残された母の生きている時間はわずかだと思っていましたが、この時間を長男の私が全ての貯金をはたいて、母の晩節を素晴らしいものにしてあげたいという気持ちで一杯でした。
Katsuhiko Okada (Composer) Official Web Site
楽器演奏仲間達との恍惚、不安、熱き心を忘れずに



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BGM;MP3:フォーレ作曲「レクイエム」より、『ピエ・イエズス』(エンドレス) by Windy Midi Classics
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「K.OKADAワールド」へようこそ!

「K.OKADAワールド」は、四国・高松在住の、

私、岡田克彦の、ライフワークの、作曲・アレンジ・ピアノ演奏を

テーマにしたホームページです。






私は、尊敬するアーティストの一人、チャーリー・チャップリンの言う、次の言葉をいつも忘れずに、ライフワークの作曲をやってゆきたいと思っています。



「人生に必要なものは、勇気と想像力とほんの少しのお金だ」
・・・・・チャーリー・チャップリン・・・・・





香川県地域活性委員会顧問
元.日本アマチュア演奏家協会(APA・エイパ)理事
ラヴィーヌ楽派(フランス近代室内楽の会)
代表・ラヴィーヌ将軍
ピアノと遊ぶ会会長
(作曲、ピアノ)岡田克彦








直近のコンサート・2009年7月18日
『JA香川県・高松市丸亀町壱番街ドーム下・フェスティバル』のご案内






はじめに・・・・・母、岡田直子の逝去

岡田克彦





2006年9月19日、母・岡田直子が、逝去しました。

母の死去の少し前から、一周忌が終わって、母の追悼のために作曲した、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園』OP.111(全18曲)を2007年10月14日に初演したことや、 母の思い出の詰まった高松市内で私が連れて行ったレストランなどの思い出、母の死を通じて実感した、無常観に関する日記は、 併設ブログに書いています。


                                                                          



私の母・岡田直子は、2006年8月17日の昼食直後に、自宅にて脳幹部脳内出血で突然倒れ、意識不明のまま、わずか1ヵ月後に、香川県立中央病院脳外科集中治療室にて、眠るように他界いたしました。

1994年に私が東京から高松にUターンした頃は、骨粗しょう症もそれほどひどくなかったので、母を私の車に載せて、いろんなところへ連れてゆきました。

父・岡田寛の女遊びがひどかったこと、そして、祖父の残した莫大な遺産を使って、遊び飽きたのでしょう。ついに8人目の妾を後妻として入籍するに至り、母がとても可愛そうでした。

父・岡田寛が、いくらクラシック音楽の香川県内での普及のために尽くした音楽評論家だと言っても、快楽のためにセックスをして子供を二人作ることは出来ても、女性一人幸せに出来ないような 男は、人間じゃないです。

しかも、父は、ただの音楽評論家でした。楽器一つ演奏できず、作曲なんて全く出来ない男でした。

大型倒産して有名になった「綜合企画梶vという広告代理店の会社を設立した本当の目的は、長男の私はよく知っていました。それは、女性が圧倒的に多い一流ピアニストを高松に呼んで、 演奏を聴く前から絶賛する美辞麗句を並べ立ててPRして、恩を売り、肉体関係を迫るためでした。

実に下らない男でした。




父の女遊びのために薄幸な生涯を送ってきた母は、私がUターンした当初、愚痴ばかりこぼしていましたが、長男の私がUターンして母のそばにいるだけで、だんだん明るく前向きになりました。

残された母の生きている時間はわずかだと思っていましたので、この時間を長男の私が全ての貯金をはたいて、母の晩節を素晴らしいものにしてあげたいという気持ちで一杯でした。

だから、私は、転職してまで、高松にUターンしたのです。母を一人高松に放っておけなかったのです。

もし、父が後妻にした、8人目の妾と一緒に高松の町を歩いている時に、一人ぼっちの母とすれ違った時、長男のぼくは、母のそばにいてあげたかったのです。

父は何も言えないでしょう。だって、長男の私は、父と母が協力して生産したのですから、直系卑属なのです。そして、親子の縁は、法律では絶対に切れないこと、相続財産の遺留分請求 が出来ることも、それが遺言より強いことも、生前贈与のからくりを見抜く方法も、私は、住友信託銀行で16年間勤務して熟知していますので、この点でも、父に勝ち目はありませんね。

私の尊敬する諸葛孔明が言っているように、私は「負ける戦は最初からやりません。」

まあ、音楽面でも、作曲家の私と音楽評論家の父では、勝負は、最初からついているのです。演奏がうまい下手という問題なんか吹き飛んでしまうのですよ。

私はBGMのうるさい喫茶店で、目の前で、ピアノ小品なんか、数曲すぐに五線紙の上に作曲してしまうことが出来るのです。1時間もかからないのですから、いざとなったら、
「お父さん、こんなこと出来る?」と質問しながら、作曲してしまって、ピアノのあるところへ連れて行って、即興で出来た自作を聴かせれば、何も言えないことは明らかでしたからね(笑)。




それぞれの人の家庭の中には、周囲の人達には絶対にわからないいろいろな事情があるのです。外から見えているものなんてほんの一部なのですから、表層的な観察だけで、人の生き方にとやかく 言うことは、明らかな、人権侵害なのです。




ところで、2002年頃から、高松の自宅で介護していた年老いた母の様態が悪くなったため、私は自作自演の演奏活動を中断していました。

母の病気は『肝硬変』でした。

母が介護していた母の母(つまり私の祖母)は、肝臓ガンで他界しましたが、もともと、この原因はC型肝炎だったのですが、 C型肝炎を母は介護していた祖母から移されたようです。

ご存知のように肝臓という臓器は、止血作用に大変に関っていますので、『肝硬変』の末期症状というものは、非常に悲惨な もので、就寝中に、突然、口の中から出血が起こったりして、その都度、私は、近所の、「香川県立中央病院」に、母を 連れて行って止血していただいたりしました。

母の場合は、強力ミノファーゲンの投与で、肝臓ガンになることは押さえていたのですが、かなりひどい骨粗しょう症を患って いましたので、その痛み止めの投薬が、どうしても肝臓に負担をかけるというジレンマにありました。

また、カルシウムの吸収にも、肝臓は深く関っていて、どんなにカルシウムを摂取してもそれが体内に吸収されないので、 どうしようもない状況でした。

就寝中に寝返りを打つたびに、背骨の圧迫骨折箇所が痛むので痛がったり、また、突然の出血が起こるなどのことがありました ので、2002年頃からの5年間は、母にとっても、大変に苦しい時期だったと思います。

が、最後に、母が出血を起こしたのは、脳幹部の呼吸中枢の2センチ上の血管でしたので、脳内出血で直ちに意識不明に陥り、 約1ヶ月で、「香川県立中央病院」の集中治療室で、2006年9月19日に他界しました。が、今にして思うと、この1ヶ月が母に とっては、骨粗しょう症の痛みも感じない、とても幸福な時間だったようです。

まあ、こんな風に振り返ることが出来るのも、母が他界して一周忌を過ぎた今だからで、母が他界して49日までは、喪主として いろいろ忙しく、大半が遠方にいる親戚の人たちの受け入れ等で、動いていましたので、気持ちも紛れていましたが、 100ヶ日を迎えた2006年の年末は、一人になってしまった寂しさと、「香川県立中央病院」の集中治療室で毎日付き添っていた けど、母が全く意識不明だった時からの疲れが、全て、同時に押し寄せて来ました。

こうした状況下で自作自演活動をするなどということは、全く考えられませんでした。

1994年に、肝硬変で倒れた母の介護のために、転職して四国高松にUターンし、2人でささやかながらも、ゆったりとした生活をしていた私にとっては、あまりの突然の死去でしたので、精神的に大変な打撃を被りました。

大変に悲しい思いに浸った、母の死去からの一年間でしたが、この中で、私を救って励ましてくれたのは、音楽と古くからの友人、うちの近所の海沿いで聞くことの出来る穏やかな瀬戸内海の波の音、そして、母の死去の2年程前から出会った、ウェブ上のSNSで出会った、たくさんの人達でした。

どんなに辛く悲しい目にあっても、人は、それを記憶の底に沈めて生きてゆかなくてはなりません。泣き喚いても、愚痴をこぼしても、最終的な問題解決は、自分自身の気持ちの整理ですから、自分の力で、悲しい記憶の全てを、記憶の底に沈めるしかないのです。

音楽や私のブログを通して出会った彼らは、そのことを、私に示唆してくれました。





そして、大きな転機になったのは、年が明けた、2007年4月でした。

2007年4月中旬、香川県立公園の栗林公園庭園コンサートの出演依頼を、関係スタッフの方からいただき、高松ワシントンホテルのティーラウンジ で面会し、一緒にアイスコーヒーをいただいていた時でした。

「栗林公園庭園コンサート」出演依頼の話を聞いて栗林公園を思い出した時、真っ先に私の脳裏によみがえった光景は、2006年の3月、 年老いた母と一緒に栗林公園へ行った時のことでした。

場所は、梅林橋のたもとにある茶店。行きたかったお茶室の掬月亭(きくげつてい)にたどり着く前に腰が痛くなって、そこの軒下のイスに 腰かけて熱いお茶をすすっていた母と話していた時、梅林橋の裏の満開だった梅の香りが漂ってきた瞬間の思い出でした。

江戸千家不白流の茶道が趣味だった母が、久しぶりに大好きだった栗林公園のお茶室の掬月亭に行きたいということでつれてきていま したが、もう、腰が痛くなって歩けなかったのでその茶店で一服して帰りました。





歩けないことを悔しがっていた母を励まそうと、裏の梅林の梅が満開だったので、私はそちらへ目を向けさせました。

「お母さん梅が満開だよ。」

「うわぁー、ものっそ綺麗なのう。もうすぐ春が来るんやのう。やっぱり栗林公園はええのう。お母さんのう、来年の春こそは丈夫になって 掬月亭まで行くけん、克彦すまんけどのう、また栗林公園に連れて来てえたのう。」

「わかったわかった。ぼくにまかせまい。はよ元気になりまいよ。」

母が亡くなる半年前でした。

あの時、ああ言っていたのに、母は二度と栗林公園に行けないまま、他界いたしました。





でも、あの時は、梅の香りが漂ってきて、春の訪れを予感したよなぁ、なんて思い出してしまいました。

そして、あの時、漂ってきた梅の香りが、音楽のモチーフに変換されて、変ト長調の響きで、私の頭の中で鳴りました。

私の作曲の開始は、いつも、このような形で、思い出が、音楽のモチーフで浮かぶのです。

旋律は陽旋法で終結は、平行調の変ホ短調で寂しく終わりました。このイメージが全てを決定しました。

曲全体の開始のプロローグは、近隣調の変ロ短調を提示して、終結のエピローグは、その同主調の変ロ長調にして、フラット系の 調性で品格のある物にしないといけないという基調構想が、アイスコーヒーを飲みながら頭の中で決まったので、関係スタッフの 方に私は答えました。

「自作自演で行きます。栗林公園をモチーフにした新しいピアノ組曲を書きます。作品番号は、OP.111になります。」





栗林公園を音楽で表現してやろう、なんて、大それた野心なんか全くありませんでした。

私の作曲動機は、過去から今まで、ずっと、もっと日常的な感覚に訴えてくるモティーフが浮かぶからなのです。

東京にいた頃の会社からの帰り道、先輩と桂浜で寝そべって太平洋を眺めていた時、合奏していたクラリネット奏者が 手料理を作ってくれた時等々・・・・・、ふとした時の自分のハートに触れた感覚が、しばらくの時間を置いて、音に 変わるのです。

音型の原型は最初からあることもあります。しかし、それが、モチーフになる時には、和声も対位も決まっているのです。 そして、そこまで決まっていないものは、モチーフではないのですから。





亡くなった母の思い出という一大事だっただけに、この時は、モチーフだけじゃなく、組曲の曲想全体のプランまで瞬時に 浮かびました。





こうして、4月23日の夜、数時間で一気に書き上げたのが、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)でした。

その後、5月のゴールデンウィークに、母の川崎市日吉にある、岡田家先祖代々の墓への納骨と、生前から希望していた 京都西本願寺への分骨をすませましたが、私の心は空虚なままでした。

人間の無常観というものを身近に感じることはそんなに楽なことではありませんでした。

母の追悼のための作品がたちまち作曲出来たのは、母が私が幼少の頃から、英才教育を施してくれ、作曲やピアノが出来るように、心を砕いてくれたお陰でしたので、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)の作品の全てのモチーフは私の独力で出来たものではなく、母が下さったものだと思いましたから。

母の逝去後、母の残した桐のたんすを整理していると、私が幼稚園の頃、初めて出演した、ピアノの恩師の石井ルリ子先生のピアノの発表会で演奏している写真、小学校から高校までの通信簿、早稲田大学政経学部在学中に母に送った手紙が全て大切に保管されているものが出てきましたので、思わず泣いてしまいました。

従って、香川県庁の依頼で、この作品を、2007年10月14日に、香川県立公園の栗林公園庭園コンサートで、母が大好きだった栗林公園で初演することが決まった後も、この作品の作曲者名を、岡田克彦、とすることは、適切でないんじゃないか、と思っていました。

私一人が生き残って、死んだ母の追悼という大義名分で作品を披露することに、偽善性を感じて、大変な抵抗がありました。こんな感覚に陥ったのは、これまで、いろいろ自作自演をやってきた私としては、全く初めてのことでした。



五色台・大崎の鼻展望台




こうした初演前の虚脱感から私を救ってくれたのは、瀬戸内海の穏やかな海の音でした。

上に掲載した、高松市の西の五色台・大崎の鼻展望台に行って、私はじっと瀬戸内海を眺めてぼーーーっとしていました。

写真からは何も伝わりませんが、ここに行くと、瀬戸内海の潮のにおいと穏やかな波の音が聞こえるのです。

そして、母がなくなった悲しみは消えませんでしたが、ほっとしたのです。

それは、いつか私も母のところに行くことを瀬戸内海の穏やかな波の音が教えてくれたからです。


このことがわかったことが一番救いになりました。

2007年の9月、母の一周忌法要を開催しました。

その宴席は私の住む四国の香川県高松市の、瀬戸内海の風情を堪能出来る和食レストラン『海欒亭(かいらんてい) きらら』 〔住所 香川県高松市浜ノ町49-19 Tel.087-811-7611 営業時間 11:30〜22:00 (14:30〜16:30はティータイム) 日祝は〜21:30 年中無休〕でした。

ここのお座敷は瀬戸内海が美しく見えるので、2007年9月の、2006年9月19日に脳幹部脳内出血で急死した母の一周忌法要の宴席は、いろいろ迷ったのですけど、東京から親戚が たくさん来たことと、生前母も気に入っていたので、ここで開催しました。

一周忌法要の日は雲ひとつなく晴れていましたので、屋島から女木島まで素晴らしい眺めでした。宴会の途中、ここのお座敷の窓から、美しい瀬戸内海を眺めていると、ここで いつも魚介類のオイルフォンデューを一緒に食べた母のことを思い出して私は涙があふれそうになりました。それを見ていた、世田谷の叔母から、

「克彦ちゃんどうしたの。」

って言われたので、

「ここの大的場からの瀬戸内海の眺め、おふくろが大好きだったんですよね。」

と答えました。

「そうよねぇ。直ちゃん(母のこと、名前が岡田直子だったのでこう呼ばれていました。)瀬戸内海が好きだったわよねぇ。」

「叔母さんねぇ、母のお骨は、川崎のお墓に納骨して、西本願寺に分骨してあげてよかった、って思ってますよ。川崎のお墓にはおばあちゃんとおじいちゃんもいるから 母もとても喜んでると思いますし、生前から西本願寺に分骨して欲しい、って言ってたからそうしてあげようと思ってそうしたんだけど、高松の焼き場の人の手違いで、 もう一つ骨壷が残ってるんですよね。お寺さんに聞いたら、浄土真宗では、四十九日が終わった段階で成仏しているので、お墓は別にいらなくて、納骨は形だけなんだ そうですけど、残ったお骨はどうしましょうか、ってお寺さんに聞いたら、これから寒くなるのでずっと家に置いてあげてもいいです、って言われたので置いてるん だけど、散骨してもいいそうです。だから、私は、母の残りのお骨の一部は、母が大好きだった瀬戸内海に散骨してあげようと思うんだけど。」

こうして、お骨の一部は、いずれ、母の大好きだった瀬戸内海に散骨することにしています。


そして、もちろん、2007年10月14日に栗林公園で開催された、母の追悼のために私が作曲した新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)の初演の際には、 ピアノの傍らに母の骨壷を持参して聴いてもらうことに決めましたので、この段階で私の心は決まりました。


こうして、母の一周忌法要も終わった2007年10月14日に、栗林公園の緑の中で、 ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)を初演しました。


演奏中、母のことを思い出して涙があふれそうになったので、私は上空を見て(自作ですから、鍵盤なんか見なくても大丈夫なのです。)演奏しました。


この日を境に、私は、平常心に戻ることが出来ました。


その後も、骨壷は、ずっと自宅の仏壇の隣に置いています。

毎朝、ご飯さんをあげて、母と話しています。

その方が私の気持ちも落ち着くからですし、浄土真宗はそれでいいのだそうです。





小さい頃からやっていた、作曲やピアノ演奏を仕事になんかせずに、ライフワークで、豊かな人生を歩んだ方がいいと、私に言ってくれたのは、母でしたが、本当に、そうやって来て、よかったな、と思いました。

作曲をライフワークにして生きて来たお陰で、辛かったことや悲しかったことを、私は、全て、記憶の底に沈めることが出来ました。

ですから、この、私の新作ピアノ組曲の題名は、『記憶の底の栗林公園』でなくてはならないのです。母との大切な思い出が、記憶の底に沈んだ時に、この作品は出来ましたので。

母の一周忌を終えて、新作を書いて発表出来るまでに回復できる環境を整えて下さった、全ての友人と、大好きなフォーレの作品に、深く感謝しています。

特に、このページのBGMの、フォーレ作曲の「レクイエム」の、『ピエ・イエズス』には、とても励まされました。

なぜなら、このフォーレ作曲の「レクイエム」は、次々と亡くなった、フォーレの父と母の追悼のために作曲された作品だからです。

私はフォーレのこの作品が大好きです。が、全てを包み許すようなこのような作品は、両親の仲がいい家庭で育った人にしか書けない作品です。

従って、両親が離婚して家庭が崩壊してゆく様を日常的に目の前で見て育った長男の私には絶対に書くことが出来ない作品なのです。

とても悲しいことですけど、私は、これを受け入れて生きて作曲してゆかなくてはならないのです。

が、そんなこともあり、私の作曲作品の中でも、自分の楽器を使った、ピアノ曲のモティーフには、「家庭の温かさを象徴するような小品が多いですね。」と、周囲のいろんな人達から 言われることが多いのです。そんなことを言われる度に、私は嬉しさと悲しさが入り混じった複雑な気持ちになってしまいます。





今回、このページの上部に掲載し、クリックしてご覧いただけるようにしている、直近の2009年7月18日(土)開催予定の、『JA香川県・高松市丸亀町壱番街ドーム下・フェスティバル』は、 来年2010年の年初に開催予定の、「JA香川県」主催の朗読ミュージカルの中の、朗読などをスポットで何回か披露する中の一つです。

私は、来年2010年の年初に開催予定の、「JA香川県」主催の朗読ミュージカルの総合プロデューサーとして、台本、作曲など全てをお引き受けしました。が、その理由は非常に簡単なこと でした。

それは、この朗読ミュージカルに出演する、JA香川県の会員の香川県内のたくさんの農家の、幼稚園から小学校在学中のお子様達と、そのご両親が参加している、田植え体験に、 先日、視察に行って、全てのご家庭の親御さんが、大変に子煩悩で、それぞれに、素晴らしく温かい家庭を構築されていることを拝見したからなのです。

私は心の中で、是非、やらせていただきたい、と思いました。地位、名声、お金の問題じゃないのです。素晴らしく温かい家庭を構築されている皆様に感動を与えるような音楽を提供したい、 私が欲しくても絶対手に出来なかった、温かい家庭を構築している皆様を、作曲やアレンジで応援したい、と切実に思ったからなのです。

さらに、本当に偶然でしたが、合唱指導、振り付けとダンス指導の先生方は、全員、私のピアノの恩師、石井ルリ子先生の門弟でしたので、非常にうまくコラボなども出来る状況に なりましたので、とてもラッキーだと思っているところです。これは、一期一会ではなく、神様の配慮だと、私は感謝しているところです。





ところで、母の追悼のための、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』は、下記18曲のピアノ小品集です。

1「プロローグ」

2「講武射の芝生」※

3「三島一連の池の仙磯(せんぎ)」※

4「花しょうぶ園」※

5「日暮亭」※

6「鳳尾塢(ほうびう)」※

7「小普陀(しょうふだ)」※

8「会千厳(かいせんがん)」

9「麩にかぶりつく鯉」

10「吹上の朝」※

11「楓岸のギャロップ」※

12「雨の掬月亭」※

13「飛来峰から」

14「梅林橋の梅」※

15「桜の馬場のトッカータ」

16「晩鐘」※

17「家路」※

18「エピローグ」



曲目解説は、下記をクリックしてご覧いただけます。





また、それぞれの小品の中の、※印をつけた、12曲の演奏動画は、下記をクリックして、連続してご覧いただけます。


岡田克彦作曲;
ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園 OP.111(全18曲)」より、12曲
2番.講武射(こうぶしゃ)の芝生 〜 
3番.三島一連の池の仙磯(せんぎ) 〜 
4番.花しょうぶ園 〜 
5番.日暮亭(ひぐらしてい) 〜 
6番.鳳尾塢(ほうびう) 〜 
7番.小普陀(しょうふだ) 〜 
10番.吹上の朝 〜 
11番.楓岸(かえでぎし)のギャロップ 〜 
12番.雨の掬月亭(きくげつてい) 〜 
14番.梅林橋(ばいりんきょう)の梅 〜 
16番.晩鐘 〜 
17番.家路
〔2001年1月31日倉敷市御園旅館「岡田克彦の世界」サロンコンサート、及び
2000年4月9日岡山市デビッドホール・復活リサイタルライブ収録〕


曲目解説



昨今は、「作曲」という言葉が安直に使われているようで、楽器演奏の延長上にあるように考えられているきらいがありますが、モチーフは、楽器も何もないところで自分の頭の中で瞬時に浮かばないといけません。楽器はそれを表現する道具なので、道具に頼っている作曲家は作曲作品の守備範囲が狭くなります。

3歳の時からピアノをやっていたのでピアノ曲しか書けなかった20歳当時の、しろうとナルシストコンポーザーだった私を、本来の作曲家に育ててくれたのは、作曲の恩師の、故.座光寺公明氏と、故.小倉朗氏でした。

特に、故.座光寺公明氏は、新宿中村屋の中地下のBGMと人の声でガヤガヤとうるさい喫茶「マシェーズ」で、26歳当時の私に、「一緒に作曲しようぜ。」と、毎週水曜日の夜6時から5時間くらい、一緒に作曲しました。作曲の際には楽器などいらないのです。頭の中で絶対音を響かせて、曲の最後まで書けないといけないことを、あの時に、私は習得しました。

だから、この、新作のピアノ組曲『記憶の底の栗林公園』OP.111も全て、18曲のモチーフを、私は、自宅で紅茶を飲みながら、頭の中で響かせて組み合わせて5時間くらいで、テーブルに向かって五線紙に全て書いてしまってから、はじめて電気ピアノに向かって弾いてみて、音色を考えて一部手直ししただけなのです。本番が電気ピアノでしたからそうしたのです。

頭の中の絶対音がしっかりしていれば大丈夫なのですよ。ピアノの入らない、弦楽四重奏の作曲に比べたら、そんなに手間もかからないのです。





また、母の逝去から辛い時期を過ごした私を励ましてくださった、SNSの皆様には大変感謝しています。

特に、SNSをご覧いただければ、母の逝去前から逝去、そして、一周忌を過ぎて、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』を作曲、初演するまでの間、どれだけたくさんの人達に励ましていただいたかをご覧いただけます。

が、この一連の期間のブログは、人に見せるような成果物ではありません。私の宝物だと思っております。

人間は、ただ一人、孤独に生きていても、自分だけの宝物がいくつか出来るものです。それは、自分の感性や嗜好と素直に孤独に対峙してゆくことによって成し遂げられ、それが、運よく、芸術作品に昇華されることもあります。

私が若き日、大学時代に愛読した、リルケの著書『若き詩人への手紙』の中に書かれているたくさんのアーティストとしての生き方を示唆する文章から、私は、それを学びました。





21世紀になり、日々、全ての価値観が覆されるような、激動の時代になっても、 J.S.バッハの『マタイ受難曲』のように、海や空のような自然、人間の持つみずみずしい感受性やヒューマニティーと 同様、永久に変わらない普遍的なものもあります。

かつて、ドビュッシーは、若い頃、『昨日の不協和音は今日の協和音』と主張して、協和音の世界を崩そうとしていましたけど、 その後だいぶたった今日でも、協和音の世界は、人間の大部分に、癒しと安らぎを与えてくれます。

今後は、この、普遍的なものをしっかりと腹に据えて、毎日変貌する世の中の常識を見てゆくバランス感覚が重要になると 思っています。

有限な生存期間を生きているにすぎない、自分自身のちっぽけさを感じる時、この世で出会う、全ての、

“Friends of the Earth”との『一期一会』

を大切に生きたいと思っています。



                                                                          





※ 背景は、母が脳内出血で倒れる半年前、最後に一緒に行った、「栗林公園」の、梅が満開だった『梅林橋』です。
お茶室の「掬月亭」に行きたいということで連れて来ていましたが、『梅林橋』まで来たところで腰が痛くなって 歩けなくなったので、仕方なくここで一服して帰りました。
満開の梅に感動した母が、来年の春こそは元気になって、今度こそ「掬月亭」に行きたいと言っていましたが、それもかなわず、 半年後に他界しました。
ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」OP.111全18曲の、14番の『梅林橋の梅』は、このとき漂ってきた梅の香りの 思い出が音楽になったもので、この組曲の中心です。
『梅林橋』は、生涯忘れることの出来ない、大切な場所になりました。







下記の五色台からの瀬戸内海の写真をクリックして、
総合入口へご入室下さい。

総合入口・五色台・大崎の鼻展望台からの瀬戸内海の眺め









主なエッセイ :
『失われた時のために』   『梅の香りは、変ト長調』
『メルヘン「ラブ・ユー・フォーエバー」』(朗読文面付き)
『ショパンの「雨だれの前奏曲」を弾き始めて』
『高松高校の甲子園出場と、さぬき弁、さぬきうどんのこと』
『マシェーズから、座光寺君に宛てて』
『ネルケンの思い出』   『孤独とノスタルジーの果てまで』
『若き日のドビュッシー』   『北ドイツの寂しい午後』
『世界の子供達のためのチャリティ受難曲』
『君と好きな人が百年続きますように』   『千の風になって』
『ぼくの大好きなショパンのこと』   『白骨のお文』
『20世紀末より愛をこめて』   『瀬戸内海のこと』
『栄養マヨネーズの思い出』   『ピアノ奏法について』
『ディヌ・リパッティーのこと』   『ホロヴィッツの思い出』
『グレン・グールドのピアノを聴いて』
『晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔』
『アーティストとして』   『プッツンに関する若干の考察』
『演奏会のプロデュースについて』   『アマチュアとして』
『感覚的な経験について』   『知識と感性、響きと語法』
『海の色も、山の姿も、昨日に続く今日でした。』
『室内楽の演奏について』   『響き合いを求めて』
『芸術家と音楽愛好家について』   『1986.10.10.P.M.』
『母の告別式を終えて』   『母の納骨と分骨をすませて』
『出身地・備讃瀬戸内海地域での演奏再開』
『香川県・さぬきの国に思うこと』
『ドビュッシーの弦楽四重奏曲』
『童謡の中の深い悲しみ』   『東京 VS 大阪』






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