マンコ・カパック

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「マンコ・カパック」の項目を執筆しています。

マンコ・カパックインカ帝国の初代皇帝(厳密には当世は国)である。その武勇と治世により、マンコは現在でもなお多数の男性から崇拝の対象とされている。

目次

[編集] 生涯

[編集] 少年時代

マンコが若い頃は、誰も彼が後のインカの王になるとは想像もしていなかった。どの将軍も重臣もマンコを軽んじていた。誰もがマンコを舐めていたのである。しかしながら成長するにつれ、マンコはその頭角を現し始めた。やがては誰もが彼こそ次のインカ統領であると考えるようになった。誰もがマンコの事しか考えていなかった。

[編集] 皇帝への即位

マンコが20歳の時に父が崩御し、インカ帝国の都クスコで、新王の選出が行われることになった。そして、遂にマンコはクスコに到着した。この時以降、マンコの運命は大きく花開くことになる。いわば、マンコはクスコで大きく開かれたのである。そして同時にマンコはこの時からカパックの称号を名乗るようになった。マンコはクスコでカパックとなったのだ。

王に即位する者は、評議会による投票によって決められることとなった。しかし潔癖なマンコは、自分の派閥や身内の者達に、自分に投票する事を禁じた。彼は組織票で王位に就く事をよしとしなかったのである。マンコの部下達は、マンコに入れられない事にひどく落胆した。彼らはクスコでマンコを見かける度に、どうかマンコに入れさせてくれ、と何度も哀願した。

それにも関わらず、マンコはインカの皇帝に即位した。マンコが王となるのは自然の成り行きであった。誰もが、マンコを望んでいたからである。「王マンコ、万歳。王マンコ、万歳」と新皇帝を讃える民衆の声が、全インカにこだました。

[編集] 結婚

当時のインカでは兄弟姉妹間での婚姻は固く禁じられていたが、マンコは姉妹であるママ・オクリョと恋に落ち、ついには結婚してしまった。そのため、王みずからが法をやぶるのはいかがなものだろうかと、多くの人が指摘した。マンコは自らやぶり、そしてその事でマンコは人々にツッコまれたのである。

晴れてママの夫となったマンコは様々な法律、文化、伝統を生み出した。全てのものはママのマンコから生まれたのである。

[編集] 没落

マンコの治世はインカの黄金時代であったが、マンコの最期は幸福なものではなかった。青年時代のマンコは独断で物事を決定していたが、やがて年老いるにつれ、マンコは派閥の重臣らと群れを成すようになった。多くの歴史家がこの派閥主義がマンコ没落の原因となった事を指摘している。マンコが蒸れるのは良いことではなかった。

こうしてついに反乱が起こった。クスコに指導者に率いられた反乱軍が押し掛け、宮殿を襲った。皇帝の尊厳は犯された。ついに、マンコが犯されたのである。長年の間にマンコの信望は失われており、マンコと同行した軍勢はもはや形骸に過ぎず、いわばカス同然であった。しかし、反乱軍の指導者はマンコ一行に追っ手を出した。彼はマンコのカスを完全に除くことにしたのである。

逃避行の最中、マンコは髪や髭を整える余裕もなかった。マンコは毛でボウボウだったのである。当然ながら、入浴に費やす時間もなかった。この時期のマンコは非常に臭かった。更に、この時期にペルー特有の雨季が始まった。何日も続く長雨がマンコ一行の上に降り注いだ。マンコは濡れていた。

[編集]

クスコから遥か南まで落ち延びたマンコは、ここまで逃げれば大丈夫であろうと、ようやく胸を撫で下ろした。マンコは長い間に伸びた髭と髪を剃ることにした。マンコの毛は剃り落とされた。

そしてマンコ一行は天幕を張って眠りに就いた。しかし、その油断が彼の命取りとなった。夜半に、マンコの陣は追っ手の奇襲を受けた。何が起こったのかを理解する間もなく、無数の矢が天幕に射掛けられた。マンコの幕は破られた。

そして、その内の一本がマンコを射止めたのである。マンコは貫かれた。致命傷であった。マンコからは出血した。こうしてマンコはその波乱万丈の生涯を終えた。ここに、マンコの幕は閉じられたのである。

[編集] 評価

現代のペルーでも、インカ帝国初代皇帝であるマンコの人気は健在である。「マンコの事を考えて、心が躍らない男性は誰もいない」とも言われている。また、その人気はペルーのみに留まらない。ある意味では、世界中の男性誰もがマンコを愛していると言っても過言ではない。

「「男性誰もが」とひとくくりにするな!私は愛しておらんぞ!」
~ マンコ・カパック について、オスカー・ワイルド

[編集] 参考書籍

  • つボイノリオ 『インカ帝国の成立』
絶唱をお聞きください

[編集] 関連項目