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2・ラジオのPHONO端子こそ、わがオーディオの原点 |
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ある日父がどこかから大きな木の箱を持って来た。これははっきり覚えている。幼稚園に入る前だがそれほど印象深かったのである。それがレコードプレーヤーだった。驚くべきことにすでにこの時、このプレーヤーの木製ボディに傷があることを発見し、父がそれをもらって来たか中古で買ったかということまで考えて、私には何も言い出せなかった記憶がある。
そこ迄ませていたということを自慢しているのではない。そのことを50年以上も記憶していることに自分自身で驚いているのである。ませていたということならば人後には落ちない。幼稚園で描いた絵の右下にはすべてローマ字の筆記体でサインをしていたくらいである。小学校に入学した時には6年生の本まですべてが読めた。
これには理由がある。私は体が非常に弱かったため、本だけが楽しみだったのである。少し無理をして遊ぶと夜には熱が出た。子供心に実は自分は肺結核なのではないかと考えてそのうちサナトリウムに入れられるのではないかと震えていたことさえあった。人に聞くと未熟児で生まれるとそういうこともあるようだが、私は未熟児ではない。しかし扁桃腺が非常に弱かった。だから野球も知らなければ何も知らない。私がプロ野球にもサッカーにもまったく興味を示さない理由はここにあるのだ。子供の遊びというものはほとんどしなかった。しかし身長だけはグングンと伸びて行ったので、まさにモヤシそのものであった。
写真は皇居のお堀にて。後ろに国会議事堂が見える。一番右が私である。父が指差しているのは方向的に東京タワーではなかろうかと思っている。東京タワーが完成したのはこの写真の翌年末のことであるから、ちょうど「三丁目の夕日」のような作りかけのタワーが見えていたのであろう。
この当時、長野の田舎から上京するだけでも多分7時間くらいは要したと思う。まだ蒸気機関車が現役時代であり、東京近辺で電気機関車を見るのが楽しみであった。こうした旅は大いに楽しかったが、夜になると必ず熱を出してしまった。
ヤシカ6×6二眼レフにて
母が撮影。昭和32年5月。
話をプレーヤーに戻そう。父が持って来たプレーヤーは実はSP専用であった。SPといってももうまったく知らない読者もいるはずだ。今アナログレコードと言っているのはその後に出たLPである。勘のいい人はお分かりかもしれないが、SPがスタンダードプレイ、LPがロングプレイの略。SPは回転数が78回転と途轍(とてつ)もなく速い。だからせいぜい3分といえば終わってしまうのである。しかもSP盤は落とせばすぐに割れる。
ちょっとマニアックなことを書くとSP=78回転というのは正しくない。SPの回転数は正確に決まっていなかったのである。一説によるとコロンビアが80回転でビクターが78回転という時代もあったと聞く。だから正確には絶対音感を持った人が回転数を微調整して聞かなくてはならない。いずれにしても私には経験のないことだし、当時は音が出ることだけで感動したのである。
父はプレーヤーから出ているシールド線をラジオに接続した。と言っても今のようなRCAピンジャックなどではない。先バラの裸線をネジでベークライト板に付けられたプラスとマイナスの端子に接続するのである。当時はこれが当たり前であった。
それが済むと今度は針をアームの先に取り付ける。針はナポレオンというブランド(?)で、肖像画が描かれていた。当時すでにナポレオンもセントヘレナも知っていた私はなぜナポレオンが針の箱になっているのか疑問だった。
針は虫ピンより短い、しかし太さは2倍くらいの鉄製である。これを取り替えて聞く。こんなことで驚いてはいけない。竹を削って針を作っていた時代もあったのだから。もっと若い世代が驚く話をしよう。SP盤の材料だ。シェラックというものを使っていた。これは何か?ずばり「虫」なのだから恐れ入る。正確には虫の殻だ。
針圧は2グラムとか3グラムなんてものではなく、数十グラムはあったろう。下手をすると携帯電話に近い。子供には驚くほど重かった。何しろ先端は鉄の針だから、間違って左手の上に落としたら間違いなく大怪我をする。
父は童謡や今で言うファミリーコンサートのSP盤をたくさん買って来てくれた。これは間違いなく中古で買っていたようだ。とにかく今まで放送局が流す曲しか聴けなかったのに、突然に好きな曲が好きな時に何回でも聴けるようになったわけだからこんなうれしいことはない。
今でも覚えているがファミリーコンサート物は「スケーターズワルツ」が最初に聴いた曲だった。当時は指揮者なんか全然無関心だったが、高校生の時このレコードを引っ張り出したらなんとトスカニーニだったので仰天した思い出がある。
トスカニーニというのはカラヤンなどよりももっと昔の、名指揮者と言われた人物だがとにかく速度が早くてあっさりと、味も素っ気もない演奏をすることが多い。時々この人には情緒というものがあるのかとさえ思うが、メンデルスゾーンなどを振らせると情緒のないところから情緒が漂うから不思議である。その点カラヤンなどは無理してムード音楽並の情緒を演出しようとするから策に溺れることしばしば。でも逆にこのカラヤンが淡々と振るシベリウスはコリンズにさえ迫ると思うほど素晴らしい。
指揮者論が本題ではないが、高校生の頃の私はトスカノーノー(これは彼が存命中アメリカで毛嫌いする人々が実際にこう呼んだらしい)というほどトスカニーニが嫌いだった。唯一素晴らしいと思っていたのがドボルザークの「新世界」で、これもすべての情緒や感情を捨て去ったところに他の演奏には見られない新しい境地があると思った。そのトスカニーニが自分の初めてのクラシックレコードを演奏していたというのがショックだった。子供の頃からの恩人が親の仇という時代劇みたいなものである。
子供心に不思議だったのは落とせば割れてしまうほどモロいSP盤を鉄の針で演奏するのになぜ針を交換せねばいけないのか、だった。減るわけがないと思っていた。残念ながらこれには父も答えられなかった。貧しい時代のことだから「音が出なくなるまで使ってやろう」というような風潮があり、きわめていい加減だった。
このプレーヤーが家に来てからというもの、私は本を読むかレコードを聴くかのどちらかだった。ますます外出しなくなった。同世代の子供はチャンバラやメンコ、ピストルや釣りといろいろやっていたようだが、私はこのどれもしたことがない。今で言えば完全に根暗なお宅人間の幼少時代だが、何せ外に出たら即日寝込むくらいなのだから仕方がなかった。
この時代になると戦前や戦後の歌謡曲や軍歌のSPレコードを捨てる家が多くなって来た。父は親戚や友人からそれをもらって来てくれた。私にとってはみな異国文化のようなものだが、違和感はなかった。何でも貪るように聴いた。
だから私は大抵の歌謡曲なら歌えるし、軍歌もほとんど知っている。
そんなことをしているうちに事件が起きた。ある日突然、この「オーディオシステム」が壊れたのである。
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