対 談 2 (うらそえ文藝14号2009.5より)

                上原正稔との一問一答   
 
               ―― 集団自決をめぐって ――       ホームへ


(1から続く)
 星 この裁判によって勝った沖縄側の心の傷は深まるばかりでなく、本当の反省資料を見失うことになりそうだ。沖縄側はこの問題に対して真剣に取り組んだかどうかというと、私にほ疑問が残るんです。要するに、怒りで一丸となったというのはおかしいけど、驚くほど多数が賛同している。県民総決起大集会とマスコミの力で裁判も国も動かしたわけね。一一万人の県民が集まって。しかし、あの人数は眉唾だと思います。実際は半分以下でしょうね。

 上原 実際はね、僕は五分間でちやんと計算しましたけれど、あれは一万五千人足らずです。簡単に計算できるんですよ。原稿用紙の一マスは一センチ四方です。一センチ四方を新聞にあててみますと、一マスに一〇人足らずです。新聞の写真のマス目は三〇センチX六〇センチ、多めに見てですよ。そうすると一八〇〇コマがあるわけです。その一八〇〇コマを一〇倍すると一万八〇〇〇です。多めにみても一万八〇〇〇にしかならないものを、一一万何千何百と発表することじたい嘘八百だ。昔から新聞発表は大きく発表する傾向があって主催者発表と警察発表があるけど、限度というものがある。警察発表の数字というのほ、土地の面積です。一平米に一人という計算です。だから広さはだいたい四万平米だから約四万人だろうという計算ですよ。どっちにしてもいい加減なんですよ。あれほ大間違いというか大ボラです。

  だから、右翼からも突っ込まれたり、笑われたりする。
 北京のオリンピックの巨大なメインスタジアム、あの立体的な上から下まで全部入れて、テレビで何回か放送していたけれど、九万人と発表していた。あれで九万人だから。沖縄の会場はあの全体の
三分の一くらいだろう。
 あの虚偽の発表には、それなりの理由があるとしても堂々とした大々的な新聞の取り上げ方は、形を変えて今も続いているわけだ。沖縄全体がそう願っているということだろうけれど。どうですかね、黙っている人たちがたくさんいるわけだし、また参加しなかった人たちもたくさんいるわけだけど、その人たちの心の中には口に言えない不信感があるんではないか、と思ったりする。

 上原 僕もみんなもおかしいというふうに言っています。しかし、新聞社はいつも発表はそうですけれど、沖縄の人たちはこれについてどうのこうのという結論を下しても、新聞社が勝手に発表するわけだから、みんなそれで反論も出せないですよ。これは新聞社は自ら自分の首を絞めていますよ。こんなことしちやいかんですよ。要するに敵の意見も味方の意見も入れて初めて新聞記事が成り立つんであってね。新聞の意見は、それは社説ですよ、社説という場所で意見を言う、自分達の社の意見を言うべきであってね。ニューヨークタイムズは両方の意見を載せて、見事ですよ。要するにプロとコン、即ち賛成意見も反対意見も。一つの意見があったらこれに対する反論がありまして、この反論も一緒に載せるのが新聞の本当のやり方ですよ。

 今度の裁判から幾つかの教訓みたいなものが出ていると思う。しかし、まだ活かされてないようです。そしてキャンペーンのゆきすぎは、止めてほしいね。

 上原 止めてほしい。僕はこれを実感しています。体験していますからね。今の対話の内容も、本来は新聞に発表すべきものですけれどそれが許されない。しかしそのかわり「うらそえ文藝」で発表してくれるということになったんだけど、「うらそえ文藝」は歴史的に重要な役割を果たすことになるわけです。

 そうおだてないで…。そのために恨みつらみを私はみんなから受けて非難されるかもしれない。

 上原 恨みつらみを言う者がおればの話だが、こういう連中を恐れないことですよ。

  私は、ある程度覚悟しています。それに今の沖縄の状況については、これでよいのかという疑問を泡いているので、やらざるを得ない気持ちです。

 上原 それはむしろ誇りにすべきことですよ。裸の王様が街中を進むと、全ての住民が王様の着物は見事だと褒めそやす。ところが、一人の少年が「王様は裸だ」と叫ぶと皆は我にかえる、という童話と同じですよ。真実とはそんなものです。僕はそんな少年でありたいと思いますよ。

  真実の追究には本能的な喜びがあるようだしな。

 上原 そう、こんなおもしろい仕事ないですよね。これを発表して読者に読んでもらって、読者がどうのこうの意見を出すでしょうけれど、世の中を騒がしく動揺させるわけだから、これが僕の楽しみになっているんです。

  だから、薄っぺらな真実なんていうのは、本物の真実とそれは背中合わせで紙一重だから簡単には見極められないようです。

 上原 沖縄には基地やらいろんな問題があるけれども、一番切実な問題が渡嘉敷,座間味の集団自決に関する裁判です。それについて我々ウチナーンチュは間違った認識をもっている。マスコミに扇動されて一部の県民は赤松さんと梅澤さんを悪者に仕立ててきた。これは早めに止めてきちんとしないと。彼らは逆に本当に慶良間の住民の人たちのためになってきたわけですから、彼らに対してちゃんとごめんなさいと謝って、村の人たちもちゃんとありがとうといって手を握ったらね、本当に素晴らしい物語ができますよ。
 僕はだから本当はね、梅澤さんや赤松さんのご家族を、元気なうちに沖縄に招待して、その時には別のかたちで歓待してあげたいなと思っています。そうやってはじめてウチナーンチュが優しいウチナーンチュであったことを証明することになると思います。

 そこまで考えていますか。ただ真実を公表すればよいと思う。ところで、右翼は戦争を美化する傾向があるでしょう。左翼はどうなんですか?  左翼はいつも正しい運動をしているわけではないでしょう。これに対して我々は真実と向き合うつもりで、ある意味ではブレーキをかけないといけないかもしれない。

 上原 右翼・左翼はすべて自らを正当化し、美化します。自分たちに都合のよい独自の歴史観をつくっている点では共通している。同じ広場で今、互いに石を投げ合っている。けがをするのはその中間にいる子どもたちですよ。しかし、何はともあれ、赤松さんと梅澤さんを、今の窮地から救い出すことです。彼らの汚名を晴らしてあげることです。

  それができればね。ところで沖縄は、国際的にみて最も危険な地帯だと地政学的にそう考えますが…。

 上原 いや、最も安全地帯じゃないですか。基地があるから危険だと考えるよりも、基地があってもなくても安全と考えた方が妥当だと思いますよ。もしどこかの国が攻撃するとしたら、沖縄よりも効果的なターゲットを狙いますよ。僕は出来るだけ外から自分達を見つめるようにしているんです。外から沖縄を見ると、沖縄はヤマトという鮫の腹にくっついているコバンザメです。鮫の食べ残しを食べてオレは鮫だと威張っている。鮫はコバンザメを食べないから安全です。鮫のゴミをとっているのがコバンザメ。しかし僕は青く小さいコバルト・スズメでありたいと思っています。敵も味方もつくらず、悠々と泳いでいる美しい珊瑚礁の魚。実際「琉球」という言葉の意味は青い宝玉ということですよね。外から見つめるとそういうことが見えてくるのです。

  説得力は弱いような気がするけれど…。コバンザメの話、エスプリがきいていますよ。

 上原 沖縄の人でこういうことが言える人はほとんどいません。僕ぐらいだと思いますよ(笑い)僕は外から沖縄を見ているから、沖縄で騒いでることは本当に小さなことに目くじらを立ててるようにしか見えないんです。それで訊いておきますけれど、どこの国が沖縄を攻めてきますか。北朝鮮ですか。

  いや、それは分からない。要するにね、日本全体、沖縄も戦後六〇数年になるけど、その間全く戦争というものはないし平和であるわけだ。沖縄から米軍の爆撃機や戦闘機などが発進はしてる、基地からね。しかし、沖縄自体は安全という言葉も当たらないわけではない。

 上原 外からの目と自覚が大事です。僕はいつもウチナーンチュで通しているんです。アメリカヘ行ったら、何処から来たかとき口われたらね、「アイ・力ム・フローム・オキナワ」と言うんです。この姿勢が一番大切なんですよ。僕は日本人だと思ったことないですから。日本という国を外国として見ているわけです。僕はヤマトゥンチュと話をするとき違和感を感じるんですよ。

  日本人もウチナーンチュに対し、少し違和感があるらしいけれど、人類はみな兄弟。それに、日本は沖縄を必要としているよね。

 上原 必要としています。絶対必要としている。だから復帰の時に三億二千万ドルを払って基地を購人したわけですよ。

  え、アメリカが強引につくった基地を…?  日本政府が?  基地をどうしてまた・・・。

 上原 購入しているんですよ。アメリカ軍の基地を、自衛隊のものとしてです。

  それで基地のあらゆる費用は日本が支払ってるわけか。そういう取引をしているわけね。

 上原 そう、その上にね、日本政府は復帰前に沖縄が持っていたドルを円に換算したら全部で二七〇億円でした。それで一九七二年に、沖縄に大金が送られてきたでしょう。あの時送られてきた金は三〇〇億円ですから。これで沖縄の経済状態がばれたわけですよ。どんなに沖縄の金を集めても三〇〇億円以内にしかならない、それ以上ないわけですから。それにも拘わらず日本政府は約一千数百億円の金をアメリ力政府に払ってる。でも、安い買い物をしたわけですよ。当時のお金としては大変な金ですけれど、よく考えると安い買い物をしました。日本にとってはそれだけの価値が沖縄にあるわけです。
 実は、アメリカから沖縄を見ると、沖縄というのは太平洋のキーストーンとしていい場所ですよ。中国にも近いし、朝鮮半島にも近いし、日本にも近いし、台湾にも近いということで本当に地理的によいわけです。しかも基地はちやんと用意されているしね。

  昔から文化の交差点でもあるし、何もなくても地理的条件は抜群に良いわけですからね。

 上原 地理的条件、キーストーンになる。だからアメリカは最初からこれをどうにかしようかということで、強行に基地を確保した。

  それに、沖縄戦でアメリカ兵も一万人以上戦死しているから、そう簡単には手離さないだろうしね。

 上原 それもあります。アメリカは当時の統計では一万二千二五二人の米軍兵士を沖縄戦で亡くしました。そのうち五千人は海軍です。そこで海兵隊、陸軍も併せて全部で一万二千二五二人です。しかし、南部の「平和の礎」ね、僕は「平和の石ころ」と呼びますけれど、あれは僕の発想だったんです。一般には知られていない。僕があれを発想して、「沖縄戦メモリアル」の企画を立てて一九九〇年六月に発表しました。アメリ力兵も日本兵も、軍人も住民もという発想は世界のどこにもありません。それでタイムスとか新報の社説にもなり、大きく取り上げられました。しかし、その後のことは思い出したくないほど嫌なことばかりです。反戦平和を叫ぶ政治家や大学教授たちの卑しい姿を見せつけられ、そのうえ僕の「沖縄戦メモリアル」企画は、彼等に奪われたのです。そのことについてはいくらでも話せますけど、今日は「集団自決」の話にしぼります。

  反戦平和を叫ぶ左翼の人たちの心境や実態は、どういうものなんだろう?

 上原 僕は人間を右、左に分けて考えることをしません。よく人は、鏡の中の自分と鏡の前の自分は同じだと思っているけれど、自分が右手を上げると、鏡の中では左手を上げている。同様に右翼とか左翼どか決めるのもいい加減なものです。自分がどこに立っているのか、見る目の位置で変わって見えてくるということです。
 人は誰でも自分は善人で、生きる価値があると思っていますが、自分の過ちを認めたがらない。また、反戦平和を信じている人は、戦争はすべて悪で、平和は善だと思っているだけでなく、自分の考えは常に善だと信じているようです。そこで彼等は、隊長の命令によって「強制集団死」が起きたと主張していますが、確かな根拠があるわけではなく、さまざまな証言はやらせか伝聞だし、一定の方向に決めつけている点ではマスコミも同罪だと思いますよ。

 反戦平和運動は、客観的には単純明瞭だが、基地問題と同様に内部は複雑で不明瞭な問題が欝積しているわけですかね。

 上原 沖縄の米軍基地については、日本政府はたいへんな金額を払っています。また、アメリカと日本は日米地位協定を結んでいるから、これを完全返還は無理な話です。それにアメリカ軍も自国の目衛隊もいるし、日本政府にとってこんないい島はないんです。タダみたいに基地が手に入ったわけです。アメリカの用意してきた一つのキヤンプをつくるにしても今だったら何千億円ですよ。普天間飛行場代替地の北部の理立てを見てください。実はあれでも数千億円から一兆円はかかると言われていますよ。

  そうするとね、いわゆる基地撤去とか基地が諸悪の根源みたいなことを言っても実力発揮が十分にできなくて、経済的にも沖縄が生きていく道は基地と切り離せないというふうに考えざるを得ないのか。

 上原 そうは考えてはいませんよ。

 そうじやないとしたら、粘り強く「反戦平和」で闘うしかないのか。

 上原 僕は沖縄が生きていく道は別にあると思います。ヤマトの国はみんなお金、お金ですよ。金、金で価値観を決めつける。お金持ちがカだという。敗戦直後の、政治の原点だったあの頃は、一番素晴らしかったと思う。一九四五年の八月一五日から沖縄ではアメリカ軍政府の指導によって民政府がつくられましたよね。当時は諮詞会という名前で、この諮詞会は翌年の四月末までです。ところがお金は一銭もなかった、貨幣はなく、沖縄の経済はなかったも等しい。その中で志喜屋孝信とか諮詞会の人たちが戦後沖縄を治めた。戦前は、開南中学校の校長だった志喜屋孝信は天皇陛下を信じて、七月半ばまで山から降りてきませんでした。彼らは徹底的に戦前の皇民化教育を受けながら、戦後は彼らが荒廃した沖縄を立て直した。当時、そうした沖縄人の生き方を見たアメリ力人は沖縄を「アイランド・オブ・スマイルズ」(笑顔の島)と呼んだのです。その戦後数年は、沖縄は苦しい生活をしながらも光り輝いていた、と思いますよ。

  戦前の軍国主義と皇民化教育の片棒をかついだ人たちなのに、絶望から立ち上がる根性があったわけだ。最小限の欲望を捨てて純粋さがあったということだろうな。

 上原 そう、皇民化教育を受けて、彼らは皇国の民じやないが、愛国精神を持っていましたからね。彼らにとってはアメリカは完全な敵だったんですよ。しかし、アメリ力人に会ってみたら、みんな二コニコ笑って素晴らしい人間だということが分かったわけです。それで彼らば心を入れ替えて、アメリカ人に協力して、自分たちで国をつくろうということでみんな頑張ったんです。その時に給料は全くありませんから、その中で約百人近いメンバーがいましたけれど、この人たちは全員協力したんですよ。そして一九四六年には瀬長亀次郎もアメリカ軍に協力しました。みんなそういうふうに戦後沖縄を生きた。

 そうそう。人の思想というのは一八〇度転回して変わり得る場合もあり得る。真剣に真実を歴史的に生きるということでしょう。ただ、無償で働き、ひたすら立ち上がるために無心になる生き方は美しいし、いまそれが問われている。

 上原 僕は日本が負けて本当によかったと思っています。そうでないと、僕のように自由にもの事を考えて、やりたいことがやれる、そういう自由人にはなれませんでしたよ。

 話をもう一度、集団自決の問題に戻します。例えば左翼の人たちが主張するように、慶良間諸島では、戦隊長が玉砕命令によって、集団自決が行われたとしたら、伊江島でも読谷村でも軍命なしに集団自決があったわけだから、説明が成立しなくなる。軍命がなくても集団自決は起こり得たということだろうと思う。伊江島と読谷での集団自決はそのことを物語っている。そしてそれほ隊長命令にこだわる必要はないということになるのではないか。

 上原 読谷のチビチリガマでは一八歳の少女が「天皇陛下のために死にましょう」と叫んだことがきっかけで、集団自殺が始まった。すぐ隣りのシムクガマではハワイ帰りの人が「アメリカ人は我々を殺すようなことはしない。投降しよう」と誘って、全員助かったのです。二つのガマには日本兵はいなかったのですよ。

  無理と承知の上で、隊長命令の有無で裁判闘争になったのは、大江健三郎の「沖縄ノート」の存在価値を利用して、右翼と左翼の対立関係を浮き彫りにした。今回ほ、その思想的な対立関係からの壮大なデモンストレーションでもあった。踊らされているのは、沖縄県民のすべてということになる。我々はこの負の遺産を冷静に分析しなければならないんですよね。
 問題は、軍国主義による「軍の命令」というのは沖縄全体の至るところに浸透していたということであろうし、強制ではなく、自主的に死を選択した事実関係があったということ。心情的には天皇信仰と「軍民一体」の思想も実在しただろうし、それを認めないことには死者たちは浮かばれないのでほないかと思うんです。

 上原 間違いないですよ。そのとおりです。

 そしてそれは何かというと、要するにウチナーンチュがより日本人になりたいという気持ちの現れでもあっただろう。要するにお国のためにという、そういう忠誠的な考え方からそうなったと思うんです。

 上原 僕自身は日本人になりたいという気持ちはなく、正真正銘ウチナーンチュだと思っています。日本人と沖縄人はDNAも違うし、歴史も違う。北と南では住む場所も気候も宗教も違う。また言葉も顔つきも違う。同じものはほとんどない。しかし僕のように認識している人は少ないかもしれないけれど。戦時中の沖縄の人たちは完全に自分たちは日本人だという意識が強かった。天皇は神様だと一〇〇パーセントみんな信じていた。だから僕はいつも言っているんだけど、簡単に教育というものを信じちやいけないと。それから新聞も本も読むならその裏を読みなさいと言っているわけです。そのまま信じちやいけないと僕はいつもそう言っているんです。へそ曲がりな人間かもしれない。そうしないとものは見えないんです。だから、当時、戦時中は一〇〇パーセント沖縄の人たちは軍に協力して、天皇陛下のために死ぬというのは当たり前だったんですよ。 当時の沖縄新報の記者も、例えば、沖縄タイムスの社長だった上地一史は軍隊に全面協力したんですよ。彼は記者でありながら軍人の格好をして、第三二軍壕に長勇参謀長の伝令として働いた。

  今風に言えば、琉球弧だが、当時の南西諸島は日本の辺境であり、そこの人たちは精一杯の生き方をした。日本国家の方針を馬鹿正直に丸ごと受け人れていたわけですね。

 上原 当時の新聞記者も全部、敵はアメリ力、イギリスであって鬼畜米英思想があった。そうじやないと生きていけない時代ですから。所詮、沖縄の人は年寄りも子どももみんな天皇陛下のために死ぬのはなんでもないわけですから、だから自分の愛している子どもを殺すことができるわけです。死んでもあの世で会えるという思いだったから。おまけにみんなの考え方は、統一されていた…。別な形で現在も通用してますよね。

  そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。

 上原 もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報のM記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

  社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原 いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。

  あってはならないことだが、記者は往々にして個人的感情で過った記事の扱い方をすることがある。

 上原 僕は沖縄を徹底的に批判もしますけれど、しかし、根底にあるのは、沖縄に生まれて沖縄から逃げられないと思っていますから、ウチナーンチュであることを意識しながら批判しているわけだけど、多くの記者はこういう姿勢をとらないわけです。だから今新聞は結局反戦平和に隠れて、自分たちはいい子ぶっている格好。鬼畜米英を叫んでいた戦前の新聞と何も変わりませんよ。ただ向きが違ってるだけ。

 星 新聞批判はそのくらいにして、沖縄とどう上原正稔は向き合っているかを話題にして締めくくってください。

 上原 沖縄の人たちが、戦争の犠牲になったとは僕は考えたことないですよ。全くないです。僕はね、沖縄戦のフィルムの中で生き残った子どもたちの笑顔、老人たちのシジ(聖衆)高さる姿を見たら感動しますよ。彼らほ僕にとっては師であり友人なんですよ。ほんとに素晴らしい人たちだなと思ってる。また僕は言いたい、戦争の犠牲者の振りはするな。自分を哀れむなとね。そういうことは止めて、当時の戦争の状況では、みんな間違いなく共通の敵があった。それほアメリカでありイギリスであり鬼畜米英だったから、日本人は天皇陛下のために死ぬことは何の疑問もなかったし、それから親兄弟を敵に殺されるよりも自分たちで殺すことに何の疑問もなかった。

  そういう時代であったわけで、あの時代を現在の見る目や価値基準で判断すると過ちを犯すことになる。

 上原 そういう現実を見た上で、死者は僕らが涙を流したところで戻ってきませんから。一番言いたいのは、みんな人生を謳歌してくれということです。時々は祈ることも大切かもしれないが、そうじゃなくて人生は続くわけですから、ずつと。だから人生を謳歌してくださいと言いたいですよ。

  いろいろと考えや心情を率直に話していただき、どうも有難う。そこで、ドキュメンタリー作家、上原正稔についてだけど、今までの著書なども含めて自負していることなどを…。

 上原 自負という言葉は中国語ではあまりいい言葉じやない。自分に負けると書きますでしょう。自負という言葉は「傲り」という意味なんです、中国語では。だから僕は自負という言葉はつかわない。そういうことじやなくて、小さな誇りです。大きな誇りになると、これは傲りになりますから、小さな誇り。言いたいこと。なんで自分をドキュメンタリー作家と呼んでいるかといえば、事実は小説より奇なり。事実を掘り起こしてはじめて真実が見えてくる。

 そうそう、それはよく分かります。少し身につまされる思いもしている。

 上原 その意味で僕は自分は小説家とは違うと。小説というのは明治の頃からこういうふうに定義されていたんですよ。嘘と真実をごちやまぜにして書くもの、それを小説とよんでいたんです。

  フィクションの世界ですね。

 上原 僕はそうじゃない。本当はノンフィクション作家というべきでしょうけど、ところがノンフィクションという言葉はフィクションが先になっている。フィクションでないという言い方でしょう。それじゃあ僕の誇りが許さないわけです。事実があって真実がある。だからドキュメンタリー作家と位置付けている。そこには僕の小さな誇りがあるということを忘れないでください。

 それはね、心得ておきましょう。

 上原 僕はこれからコバルト・スズメとして、いやドキュメンタリー作家として、生きていくでしょう。いや・サメやコバンザメに食われてしまうのかな(笑い)。

 星 沖縄の現実と対峙するという意味も含めて、かなりユニークな対談になったようです。このへんで終わります。
   (了)      (ほしまさひこ・うえはらしょうねん)
  
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