対 談 1 (うらそえ文藝14号2009.5より)

                上原正稔との一問一答   
 
               ―― 集団自決をめぐって ――       ホームへ


  これから『集団自決』について率直な意見を交わしたい。私は以前に、上原正稔の『沖縄戦トップシークレット』という著書や沖縄戦記録・『パンドラの箱を開ける時』という新聞連載を読んだとき、それらが米軍側から入手した確かな資料や客観的な情報を基にして書かれたものであろうと、それらに説得力を感じた。今日は確認の意味も含めていろいろと聞きたい。

 それで、沖縄戦の中で重要な象徴的事件である「集団自決」について、一問一答したいというわけです。それらの話の中から別な負の遺産としての考えるヒントが出てくればと思う。例えば、見せかけの表現の自由や社会的風潮にまどわされずに、ある誠実な考えとして然るべきことが出てくればと願っています。そこでまず、単刀直入に質問します。
 沖縄戦において集団自決は、果たして隊長の命令で行われたものなのかどうか。そのことを簡単明瞭に答えて下さい。

 上原 結論的に言いますと、隊長の命令は全くなかったんです。これが隊長の命令があったと喧伝された背景については、何度も書きましたけれども、読者はほとんど読んでないので、読んでも古い話だからみんな忘れてしまっている。だから今改めてこういう質問と問題が提起されているから答えますけれども、とにかく隊長命令はなかった。これはもう動かしがたい事実です。詳しいことはこれから説明します。

  軍命がなかったとすると、最近は集団自決のことを強制集団死という呼び方が一般的になっているようだが。集団自殺と呼んだ方が適切ですね。左翼が好む強制集団死ではむしろそぐわない。どうなんですか。

 上原 僕はね、強制集団死という表現は適切ではないと思う。そんな言葉をつかうのを聞くと、もう本当に悪寒がして、ゾッとしますよ。これは「玉砕」という言葉と本質は同じです。実は、"集団自殺"という言葉を一番最初に報道したのはニューヨータタイムズなんです。ニューヨークタイムズは一九四五年四月二日に渡嘉敷島の集団自殺について発表している。

  一九四五年四月二日ですか、非常に早いですね。

 上原 早いです。本当はもっと早くて、この記事は三月二九日付の記事なんです。

  じやあ、集団自決の翌日だ。

 上原 その翌日にはアメリ力には送られているはずなんですけれども、実は沖縄戦はアメリカ軍からみると、四月一日の本島への上陸作戦があるから、敵方に上陸の情報が漏れないようにという配慮からすぐに発表するなということになって、それで四月二日に遅らせて発表されたんです。しかし、それも長い間、誰も気付かずに、ニューヨータタイムズについて僕が初めて発表したのが一九八五年です。沖縄タイムスの新聞連載の中で僕が発表しました。

  それはいわゆる隊長命令の有無とは直接関係ないわけね。

 上原 その通りです。英語では集団自殺のことを「マススーサイド(mass suicide)」という言葉をつかっていますから、直訳しますと、集団自殺です。この言葉でいけばよかったんですが、集団自決になった。その言葉になったのは、「鉄の暴風」で、渡嘉敷の集団自決を書いた伊佐良博さんが、集団自決という言葉を初めて使ったと、本人が自分で書いています。渡嘉敷の現地では「玉砕」という言葉を使っていました。

  太田良博さんのことね、当時は伊佐良博。かれが書いた「鉄の暴風」については後で詳しく聞きたいと思います。
 この集団自決が隊長命令であったと「鉄の暴風」に書かれている。それがもし本当だとしたら、どういうことになるかというと、沖縄戦においてすべての沖縄人は揃って強制集団死であり、いやだいやだと悶え苦しんで死んだということになる。要するに、軍隊の命令で仕方なしに死んだという解釈だ。それは当時の考え方とはかなり違うものではないのか。そのことについてはどうですか。

 上原 いや、これは逆です。戦前、戦時中のウチナーンチュはね、みんな軍に全面協力したんです。瀬長亀次郎は琉球新報に連載されているおかげで英雄扱いされていますけれど、池宮城秀意と瀬長亀次郎は、戦前の一九三二年に赤狩で捕まり、投獄されましたけれども、彼らは転向組なんですよ。転向して、戦時中はおとなしくしていました。数年間刑務所に入っておとなしくなって、いろいろと彼らは要するに軍に協力したわけですよ、本当のことを言うと。瀬長は軍役にもつきましたからね。
 戦時中の彼らをはじめ沖縄の人たちって、特に学校の教員連中は、もう全面協力ですよ。全面協力して、例えば校長なんか、志喜屋孝信もそうですけれど、天皇陛下の写真、ご真影を持って逃げ回っているわけですよ。

  ご真影を大事に持って戦場を命がけで逃げ回っていた話はよく聞く。

 上原 そういう状況なんですよ。学校教員がそうですから、生徒はじめ一般大衆はみんな軍国主義に染まっていたわけです。100パーセント軍に協力している。このことを頭におかないと、この問題は理解できませんよ。

  そう、軍国少年だった私などもそういう教育を受けていて、少しは軍国主義を肯定的に感知していた。ましてや年配の人たちはみんな戦争協力者だったわけです。どうして現在の価値感的な解釈を押しつけるのか。この変化は不思議な気がします。

 上原 これも別に不思議でもないんですよ。戦後気がついてみたら、文明国のアメリ力人が優しかったわけですよ。国が教えたことはみんな間違いだったということになりましたからね。

  そこで、「鉄の暴風」のことに入るんだけど、実は「鉄の暴風」は沖縄戦のバイブルであるとか、正しい戦記であるとかマスコミで報道されたことが大いに災いしている。そしてまた、私たちが名嘉正八郎はじめ県史で沖縄戦記録を創るときに、『鉄の暴風』は、多くの証言を基にして書いたんだろうと想定していた。それで戦争記録編九巻を宮城聰さんと私が執筆するにあたり、あちこち歩いて二百人以上の人たちからの証言を集めて文章化した。そのとき『鉄の暴風』の中には幾つもの間違いがあることを発見した。後で太田良博さんと牧港篤三さんにそのことで二度ほど話し合った。実相とは若干違うものになっているかもしれない…と、お二人とも異口同音に認めてもいたが、別にそれ以上は何も言わなかったですよ。そして名嘉正八郎も『鉄の暴風』には、間違いがいくつかあると言っていた。
 ただ『鉄の暴風』については、いろいろと謎が多いと思う。あれの初版は一九五〇年八月一五日で朝日新聞社発行になっている。そのまま二〇年間も伏せられ空白があり、第二版は一九七〇年六月です。なぜ放置同然にしてあったのか。また大江健三郎の『沖縄ノート』の第一版の発行は一九七〇年九月であり、大江は『鉄の暴風』の初版を参考にして『沖縄ノート』を書いた可能性が強い。『鉄の暴風』の第二版を見たとしても、ほとんど同じだしね。

 上原 『鉄の暴風』の集団自決の記述についでは、ほとんど真実のかけらもないですよ。日付から何から何まで、場所も間違っていて、有名な恩納河原というのは場所が違います。阿波連のウフガーの上流での集団自決もない。だから何から何まで間違っている。

  実際に現地に行って、足で歩いて調べてないからです。

 上原 僕は自分で行って調べたから分かります。それで行ってみたら、恩納河原は渡嘉敷の部落のすぐ西側に川があって、この川のことですよ。とにかく真実のひとかけらもない。それで『鉄の暴風』は他の章については、だいたい当たっているところもある。しかし、集団自決の部分はとんでもない間違いだらけですね。この間違いを引き起こした決定的な事件が、一九七〇年の三月二六日に赤松さんが渡嘉敷村の人たちから招待されて来たときです。慰霊祭に参加することになって、その時に空港に着いたら、「赤松帰れ」、「人殺し帰れ」と大勢で怒鳴ってね、「何しにのこのこ出てきたんだ」と抗議団体は言ってね。もうそういう大変な目に赤松さんは遭った…。それを目撃した比嘉喜順さんは、本当に恐ろしかった、と僕に話していました。

  あの現場に私もいた。だからすごいことになったなと思って、渡嘉敷島までついて行った。結局、兵隊たちは島へ慰霊祭のために渡ったんだ。しかし、赤松元隊長だけは渡れなかった。

 上原 そう、渡れなかった。赤松さんは沖縄から帰って、四月二日に比嘉喜順さん、当時は安里喜順巡査といっていた、その喜順さんに手紙を出した。四月一七日の手紙の中で、直接的な表現はしてないけれども、要するに、渡嘉敷の人たちはね、援護法のお金が必要だろうから、ああいう形になったのだろうということを彼は書いたわけです。

  慰霊祭のときには、島の人たちの対応のしかたを見ていると、新聞記者と平和団体が激しく詰め寄った怒りの情景とは、裏腹だった。じつにしめやかな慰霊祭で、非常に懐かしがって、静かに語り合っていた。そして帰るときに村人はみんな手を振って、船付場で見送るその状景というのは、何だか感傷的な別れのシーンでしたよ。再会を懐かしみ、別れを惜しむ状況だったのに、赤松は島に渡れず、そしてマスコミに糾弾されて帰ったわけだ。彼の心境というのは、私には想像できないけれど、非常に複雑で苦しかったと思う。丘の上から見下ろすと、一隻のポートが島に近づいていた。そのボートに赤松が乗つていたことは後で知ったが、彼は弔辞を手渡したらしい。それと、もう一つは、『鉄の暴風』では梅澤少佐は慰安婦と一緒に死んだことになっていたわけだ。本当に何と言えばいいのか、生存者を死者にしたわけだ。一九八〇年頃に、沖縄タイムスはそこのくだりは削除してあるが、どういう形で解決したんだろうか。このことについて知っている人だったら名誉棄損の意味がよくわかるだろう、不自然ではなくて当然出てくるような問題なんだろうと思う。しかし裁判の争点は、別な角度で隊長の命令の有無になった。

 上原 だからね、渡嘉敷村でも座間味村の人たちでも、実は赤松さんと梅澤さんには感謝しているわけですよ。というのは、彼らが黙っているお陰で、彼らを悪者にしたてあげているお陰で遺族年金がもらえているわけですから。そこで、これから重要なことを話しますけれど、親や子や兄弟を殺してお金をもらうということはあり得ない話ですよ。しかし実際には、これが起きているわけです。実はこのことをみんなが隠したいがために、赤松さんと梅澤さんを擁護できなくなっているわけですよ。 

 星 ただ、もう一つ不思議なことは、新聞にも一、二回誰かが書いていたんだけれど、なぜそうならば『鉄の暴風』を訴えないのか°そこに何か秘密があるような気がする。

 上原 これについでは原告側にちょっと聞いたことがあるんですよ。どうして『鉄の暴風』を訴えなかったか、と聞いたら、向こうは、裁判の結論については自信満々だったわけです。しかし『鉄の暴風』に書かれていることは、中傷どころの騒ぎじゃないですよ、これは大変なこと。攻撃目標は、ヤマトから見ると沖縄タイムスというのは小さな新聞です。小さな新聞よりか『沖縄ノート』を書いた大江健三郎という、大物をもつてきたほうがいいだろうということだったらしい。それだけのことなら、僕は『鉄の暴風』を訴えるべきじゃなかったかと、言ったらね、今から考えてみるとそう思うけれどと言っていた。今からでも遅くないからもう一回やりなさいと言いましたよ。

  そう、『鉄の暴風』の間違いに対しては、訴えるべきだろうし、抗議して謝罪させることだってできるはずだったのに…。

 上原 それについては次のような裏話がある。ある悪い奴がいて―― 富村という男が沖縄タイムスに何度も訪れ、執拗に賠償金を要求して夕イムスから金を受け取つたという。そのことを僕は八〇年頃にタイムスのある記者から聞きましたよ。

  悪いウチナーンチュ?

 上原 そういう奴が、沖縄タイムスを脅迫したんです。彼は梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけて、それをネタに沖縄タイムスを脅迫して、賠償金を要求したんです。

  そんなでたらめなことを。

 上原 でたらめじやなくて事実です。「梅澤さんは生きている。これを書いたのは君たちの間違いだろう」というふうに沖縄タイムスに抗議したわけです。それでお金を要求して、士方なく五〇万円を沖縄タイムスは渡したわけです。これは有名な裏話ですよ。


  その男に渡したんですか。それ本当の話ですか。立証できますか。

 上原 間違いない。彼はあくどい点でも有名な男ですから。

  生きているのに、慰安婦と一緒に死亡とは、悪意さえ感じられる。

 上原 梅澤さんは要求など、そんなことはしない。タイムスの昔の記者だったらたいてい知ってしいますよ。宮村という男がタイムスに抗議して、梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせたのです。この削除にはそういう背景があったということです。

  そうすると、一九七○年に東京タワー事件を起こして、アメリカ人の神父を人質にして昭和天皇を処刑台に送れ!と叫んだあの富村順一ですね。それにしても彼がタイムスへの謝罪要求をしたとは・・・。

 上原 とにかくはっきりしてるのは、梅澤さんは現在も九一歳でとても元気だということですよ。

  それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
 
 また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。

 上原 集団自殺と関係者の発言はまさに援護法というものが作用しているんです。実は一九五一年九月八日に「サンフランシスコ平和条約」が締結され、それで沖縄は日本から切り離されて、沖縄から抗議の声が上がったわけですよ。どこにもこの記録はないんですが、僕の推定では、沖縄の声を日本の政府は開き入れて、沖縄はアメリカに自由に使ってくださいと提供したが、そこで沖縄に申し訳ないという気持ちがあったわけですよ。そのために沖縄にお金を落とすことにしたわけでですよ。これが援護法の拡大適用というやつです。
 それで、この援護法というのは、本来は軍人と軍属だけにしか下ろされないものなんです。ヤマトでは東京でも大空襲の被害者にはお金は一銭も下りてません。また、原爆被害者にもお金は一銭も下りていません。それは原爆手帳というかたちの診療を受ける権利しかないわけです。それなのに、日本政府は自国民には一銭も出してないが、沖縄には集団自決者にも援護法を拡大適用して給付金を出した。沖縄の人たちはそれを隠し通したわけですよ。

 星 一般住民にも遺族年金が支給されたのは、『鉄の暴風』が隊長命令で集団自決が起きたと書きたてたために、後で援護法が適用されるようになったと、そんなふうに解釈している人もいる。

 上原 いや、『鉄の暴風』が書かれても書かれなくても援護法は、拡大適用されたのです。沖縄だけなんです。

 星 「沖縄住民に特別配慮を賜つた」わけだ。

 上原 この援護法というものに、厚生省は条件を付けた。それは軍協力者であるということ。そうであれば五歳以上の者は受ける権利があるということだった。後年、幼児も含めるようになつたようです。

  隊長の命令とは関係ないが、追いつめられ住民は軍民一体にさせられた・・・。

 上原 それでね、渡嘉敷村役場でも、それから座間味村役場でも偽の報告書を作ったわけですよ。それぞれ「赤松隊長の命令によって我々は集団自決しました」と。座間味でも「梅澤隊長の命令によって集団自決しました」と出して、遺族年金がもらえることになったわけです。それで、それに立ち会つた県援護課の照屋登雄さんは非常に重要な証人なんですね。まだ那覇に健在の照屋さんは、、二〇〇六年の一月の産経新聞のインタビューの中で、そのことを証言している。

  それは『正論』で読みました。あの照屋登雄さんが、調査員だったことも島に渡って調査をしたことも事実でしょう。しかし、その後の赤松とのやり取りなどには、どうも粉飾した部分がありそうな気がする。

 上原 照屋さんと赤松さんのやりとり
があるはずはない。そうじゃなくて赤松さんは、そのようなことを言ったりする人じやないですよ。僕は本当に立派な人だと思います。なぜそう言えるかというと、僕は赤松さんから安里巡査へ送った手紙を二通見せて貰ったわけですよ。その手紙を見ると、赤松さんは大した男ですよ。まさに昔のタイプの誠実な人ですよ。

  赤松の『渡嘉敷戦闘の概要』を読むと折り目正しい軍人気質を感じました。

 上原 いや軍人気質というよりも、昔風のサムライ。今風に言えば紳士です。本当に立派な人ですから。だからね、大城良平さん、金城武徳さん、安里巡査、それから知念朝睦さんも、赤松さんを尊敬しているわけですよ。

  赤松隊長に対する知念さんの話は僕も四〇年ほど前に、会って聞きました。あの時点で聞いた内容では、嘘はないと思ったな。

 上原 一九七一年の『潮』に二〇〇人の証言が全部出てきますよ。その中に赤松さんの「自決命令は出してない」という手記もあります。また、大学生の娘さんから「お父さんはどうして村の人たちの命を助けなかったの?」と責められる場面があったが、今でも胸が痛くなります。

  私もあの雑誌に書いていますけど、あれは、ノンフィクションにも受け取れるだろうし、どっちつかずで、右と左の両者に都合よく利用されたみたいですね。しかしそれ以前に、新聞のコラムに隊長
命令には疑問があるという意味のことを書いています。そのことで、曽野綾子さんは私に訊きに来たことがある。あとで分かったことだが、前後して、牧港篤三さんもいろいろ質問を受けたようです。それから二年ほど経って『ある神話の背景』が世に出て話題になる。私は別に曽野綾子ファンでも何でもないけれど、彼女は作家魂ともいうべきか異常なくらい真相究明に熱中していたし、また大江健三郎に対する一種の敵憮心みたいなものもあったようだ。ただもう一つ、近年来この問題を論評する人たちが大江健三郎を尊敬するあまりその問題の論文の中には、芥川賞を受賞した初期作品からずっと大江文学を愛読してきたとか、ノーベル賞作家云々の決まり文句を添えて書いていたが、あれは逆効果だったし、説得力を弱めていた。

 上原 言っておきますけれど、僕は大江文学というものを全く読んでおりません。思うに大江健三郎は、沖縄については多少の知識はあっても何も知りませんよ。彼には幼稚園生程度の知識しかないですよ。

  それは極論だが、彼は思い込みがあったようだ。大江健三郎は何度か沖縄に来ているし、沖縄ファンでもあるわだけど、彼の「沖縄ノート」は革新的な概念はよいとして、あの中に沖縄の知識人が何人か登場するけれど、私の読みが浅いせいか、私にほ雑駁な内容だった。いろいろ沖縄問題をごっちやまぜにして深遠な思想に誘い込んでいるような印象でした。私は古堅宗憲と酒を酌み交わしたこともあるけれど、冒頭の彼のことからして何か思い込みがあるような気がした。そしてこの本の沖縄一色の終わりの章に、渡嘉敷島の守備隊長の軍命を出している。でもよくもあの『沖縄ノート』を名誉毀損で訴えたものだと不思議な気がした。だから、原告の方に何か一つの復権への挑発さえ感じさせるものがあった。

 上原 とっつきにくいあの文章はどうでも良いが、『沖縄ノート』を訴えるよりも『鉄の暴風』を訴えるべきだった。表現の自由について言えば、戦時中はアメリカの表現の自由とはどういうことかといいますと、全く自由なんです。今よりもあの時は自由じやなかったかと思うぐらいですよ。というのは、バックナー中将なんかは批判される側なんですよアメリカでは。それでバックナー中将自身は新聞記者が嫌いなんです。彼のお陰で海軍は五千名の被害者が出たとか、そういうのも書かれるんです。彼が奥さんに送った手紙の中でこう言っているんですよ。彼らは新聞記事でこういう記事になってるけど、また別の記事でほ沖縄作戦を褒める側もいると。結論はあなたが自由に選びなさい、と奥さんに手紙を書
いているんですよ。だからアメリカというのは本当に表現の自由は憲法上保障されています。日本も本当は表現の自由は憲法上保障されているはずじやないですか。

  日本も憲法で保障されているはずだが、自由な意見をいうと、右翼的発言をするなどと、すぐ規制される。

 上原 ところが、勝手に自主規制というのがあって、今の沖縄の新聞は自分達に都合の悪いことは載せないわけですよ。

  載せない。編集方針が偏っていると言えるだろう。

 上原 こんなことでは沖縄の新聞の未来は全くない。もう沖縄の新聞の良心は地に落ちたと言ってもいいじやないかと思ってます。

 星 だからね、もちろん左翼の思想の中にもいろいろ傾聴に値するものがあるようだし、そういう理論家もいる。左翼と右翼の間にはいろんな反目があるとしても、この裁判の問題は、結局は争点が
隊長命令の有無だけでなくなって、だんだん広がっていって、当時の戦前の空気を捉えて、全体の軍国主義の空気を現在に置き換えて、現在の視点で批判しているわけですね。すると、政治的な運動になっていて、究極的には裁判の勝敗だけを問題にしているふしがある。

 上原 三年前に岩波の(世界)の編集長が僕に会いたいと言ってたんですけれど、会えなかったんで、手紙を書きましたよ。その中で言ったことは、裁判ではこの問題については何の決着も得られないだろうと。真実は明らかにされない。しかし、どんなことがあっても人の道を踏み外してはいけないということを僕は間接的に言って、自分の本当の意見は言いませんでした。けれども、赤松さんと梅澤さんに対して、人間として対処するようにという手紙を書いたんですよ。しかし、今問題になっているのは、岩波も大江さんも自分達を正当化するために、赤松と梅澤たちが命令したということにしているわけです。でも完全な間違いなんだよね。本当は裁判があってもなくても、きちんと謝るべきですよ。そして『沖縄ノート』も書き替えるべきですよ。それから特に『鉄の暴風』、これは何度頭を下げて謝っても足りないですよ、本当はね。昔の表現にすれば、腹を切らんといかんということですよ。

  超党派的に、新聞社の良心が望まれている。しかし、新聞社はどんなことがあつても謝罪しないし、一筋縄ではいかない。

 上原 本当に、沖縄だけではなく日本の新聞社というのは右も左もなく過ちを認めませんからね。こんなことではダメです。アメリカの新聞を見てください。ニューヨークタイムズとワシントンポストにしても誤報はありますよ。ありますけれどもちゃんと間違いでしたと、後でちゃんと発表しますよ。発表してその新聞記者をクビにしますが。最近ではピーター・アーネットというイラク戦争で有名なCNNの記者がいたんですよ。ピーター・アーネットがタイム誌で別の記事を、自分で書いたものじゃなくて、要するにピーター・アーネットが有名になったものだから、彼の名前で発表した記事が、これがまたとんでもない間違いだったわけですよ。それでピーター・アーネットは結局タイム誌でも誤報を理由にマスコミから姿を消しました。こういうことですよ。だから、ちゃんと謝罪すればいいんですよ。何で
もそうですけれど、自分達が過ちを犯したら謝罪すれば読者の気持ちもすっきりする。

  それが本当のプライドのはずだし、正義の味方でしょう。

 上原 だから僕は三年前に琉球新報で『沖縄戦ショウダウン』を発表した。その中で赤松さんと梅澤さんについでははっきり書きました。二人は自決命令していないと。

  それで今言ってることと裏腹に、『沖縄ノート』にしても『鉄の暴風』にしても話題性だけで版を重ねているが、本当に読まれているのかどうか。読まれていても問題を指摘しないのなら、それが問題だ。

 上原 恥ずかしい話ですよ。「間違っていました、ごめんなさい」と言えば、赤松さんも梅澤さんも本当に喜んで涙ながして「ありかとう」と言うんですよ。それが人間の尊厳を取り戻すことだというふうに僕は書いたんですよ。

  それでね、この裁判は最高裁までもっていかれても現在の動向では、結果は同じになるだろうと思う。ただね、ここには厳しい教訓があると思うんです。
                     (ほしまさひこ・うえはらしょうねん)

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