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連載「命語い」(20)

小嶺正雄さん -4- (7月1日朝刊総合3面)

むごい死に気持ち一変
「生きよう」と避難生活開始

 渡嘉敷島北山の谷あい。十五歳だった小嶺正雄(77)の家族や親族が座っていた輪では、防衛隊が持っていた手榴弾も、正雄が拾って所持していたものもすべて不発だった。輪の周辺では、手榴弾の爆発で、人々がなぎ倒され、死んでいった。「血だらけで倒れている人、大声でわめきながら逃げ回る人…」

 むごたらしい死に、正雄の気持ちは一変したという。「とにかく穴でも見つけて隠れたくなった。そんなことはできないが、一人でも逃げたくなった」

 動転した住民らが、玉砕場から日本軍本部を目指し逃れた。正雄も母親と妹とともにいったんはその方向へ逃げた。しかし、パニックに陥った正雄は一人でいつの間にか、下流へ戻っていた。正気に返り、上手に戻ろうとして再び来た第一玉砕場。「集団自決(強制集団死)」によるおびただしい遺体の中で、けがをして助けを求める人々が叫びやうめき声を上げていた。「水ちょうだい」。若い女性のか細い声がした。逃げるのに懸命だった正雄は、何もしてあげられないことに良心の呵責を感じながらも、遺体の間を縫って、歩き続けた。

 正雄が、次にたどり着いたのがヒータティヤー(立火所)だった。そこは琉球王国の進貢船の往来を知らせるためのろしを上げた場所だ。進貢船の船頭だった正雄の祖先もここから上がるのろしに送られたはずだった。島の人々の誇りの場所は第二の玉砕場と化していた。

 一帯はもともと低木しか生えない。周辺の土が爆発で吹っ飛び、あちこちに遺体が散乱し、血だらけのけが人が倒れていた。「あのわめき声を聞いたら…。ほんとに恐ろしい。話をすることができない光景だった」

 「玉砕」は正雄の心から吹っ飛んでいた。「人が傷つき、血だらけになっているのを見たら、全然死ねない。どうやっても生きようという気持ちになった」。八月に山を降りるまで、長い避難生活が始まった。

 進貢船で海を往来した渡嘉敷島の先祖たち。島の豊かな文化や歴史を伝える西御嶽やヒータティヤーは、沖縄戦では「集団自決」の現場となった。日本軍に支配され、島外渡航も制限され、軍命で住民は「集団自決」に追い込まれた。

 「教科書検定や憲法改正、今の動きは戦争をするための準備のようだ」。そうはさせない—。正雄は、自分の掘った防空壕を通して「集団自決」に追い込まれた島の歴史を伝えようと決意している。=敬称略(編集委員・謝花直美)(木—日曜日掲載)


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