朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか
今日、韓国と北朝鮮は、太平洋戦争の被害者と称して、日本に対して謝罪と賠償を求めている。しかし、当時の朝鮮人は、太平洋戦争を熱烈に支持し、侵略戦争の被害者というよりもむしろ加害者としての役割を果たしていた。では、なぜ反日的なはずの朝鮮人が、日本の侵略戦争に加担したのだろうか。彼らの戦略のルーツは、元寇での成功体験にまで遡る。
1. 朝鮮人はなぜ太平洋戦争を熱烈に支持したのか
韓国の歴史教科書は、朝鮮人(以下、韓国人を含めた朝鮮民族という意味でこの言葉を使う)が日中戦争や太平洋戦争に従軍したにもかかわらず、それを、もっぱら被害者の視点から描いている。
わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、わが国の青年は志願兵という名目で、また徴兵制と徴用令によって日本、中国、サハリン、東南アジアなどに強制動員され、命を失い、女性まで挺身隊という名で強引に連行され日本軍の慰安婦として犠牲になった。
しかしながら、当時の朝鮮人たちは、必ずしも、強制されて受動的に従軍したわけではなかった。1938年に陸軍特別志願兵制ができて以来、朝鮮人は日本軍に志願兵として参加することができたのだが、以下の表が示すように、その応募者は、日中戦争の進展とともに、採用数以上に伸び、倍率は、太平洋戦争が始まった年には、45倍に達した。しかも、「血書を書いての従軍志願者が何百という数に上り、中にはその希望が達せられないので自殺した青年まで現れ」[名越二荒之助:日韓2000年の真実, p.435]たというのだから、相当熱心な志願者がいたということである。
西暦(和暦) | 採用数 | 応募者数 | 倍率 |
---|---|---|---|
1938(昭和13)年 | 406 | 2946 | 7.7 |
1939(昭和14)年 | 613 | 12348 | 20.1 |
1940(昭和15)年 | 3060 | 84443 | 27.6 |
1941(昭和16)年 | 3208 | 144743 | 45.1 |
1942年に日本政府が朝鮮での徴兵制の実施を閣議決定した時、『朝日新聞』5月10日朝刊は、「昨年の大東亜戦争開始以後の朝鮮人の戦争完遂に関する熱意は、献金に、あるいはその他各種の銃後援護に強く表明され、内鮮一体の機運はますます強固なるものがあるので、政府は朝鮮同胞のこの報国の赤誠に応え、朝鮮に徴兵制を施行し」たと報道し、同6月11日夕刊の「朝鮮・徴兵制に感激の波高し」と題した記事では、「大東亜戦争の実戦に参加し得る栄誉を与えられた朝鮮同胞は広大無辺の皇恩に感泣し半島全域の同胞から陸軍省へ寄せられた感謝の手紙や電報は連日引きもきらず遂に数千通の多数に達した」として、それを紹介している[安田将三, 石橋孝太郎: 読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事, p.198-199(原文は旧仮名遣い)]。
こうした新聞報道は、必ずしも誇張や捏造によるものではない。1923年生まれの崔基鎬(チェ・ケイホ)が当時を回顧して述べているように、朝鮮人の大部分は、日本の侵略戦争を熱狂的に喜んでいた。
戦前から東京にいた私は、年に1~2回はソウルとか当時の平壌に行きました。その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。
では、なぜ朝鮮人は、日本人以上に日本の侵略戦争を喜んでいたのだろうか。それは、日本が始めた冒険的な戦争に加担すれば、それが成功しても、失敗しても、どちらに転んでも、自分たちにとって利益になるからである。すなわち、
- もしも太平洋戦争が成功すれば、日本軍に参加して手柄を立てた朝鮮人の地位が大日本帝国内部において向上し、朝鮮人は民族のプライドを取り戻すことができる。
- もしも太平洋戦争が失敗すれば、朝鮮半島を支配している日本の軍事力が後退し、朝鮮は日本から独立することが可能となり、朝鮮人は民族のプライドを取り戻すことができる。
民族のプライドを取り戻すということは、私たち日本人が考えている以上に、彼らにとっては重要なことである。朝鮮人が、今日の韓国人に典型的に見られるような、プライドに飢えた民族になったのは、朝鮮人が、知能に優れた、潜在的能力のある民族であるにもかかわらず、大国に隣接するという地理的事情により、自分たちにふさわしい国際的な地位をこれまで持つことができなかったからであろう。朝鮮人は、古代より中国の冊封体制に組み込まれ、二等国民としての屈辱的地位に甘んじ、そしてその後、それまで冊封体制外だから自分たちよりも格下だと思っていた日本の支配下に入ってしまった。そんな彼らにとって、世界の一等国民の仲間入りをして、民族のプライドを取り戻すことは、歴史的悲願だったのである。
日中戦争が始まった頃、朝鮮人のプライドを刺激するような人物が現れた。陸軍士官学校出身の陸軍少佐で、千名の日本人部下を指揮する大隊長、金錫源(キム・ソクウォン)である。
彼はかつての宗主国であった支那の大軍を、山西省で木っ端微塵に撃破し、朝鮮人として初めて「金鵄勲章功三級」が授与された。少佐クラスでしかも生存者での「功三級」は全く破格であった。このビッグニュースは朝鮮の新聞に連日、「金部隊長奮戦記」「戦塵余談」等、でかでかと紹介された。日本兵を率いて、支那を撃つというのは、朝鮮人にとって夢みたいな事だったので、早速歌になった。朝鮮人の作詞、作曲で「金少佐を思う」「正義の師に」「正義の凱歌」等々の歌が出来、歌謡大会まで開かれた。文那派遣軍を駅で送る歓声と旗の波、それに金大隊長の賛歌で、自然に朝鮮人のボルテージが上がった。
陸軍特別志願兵制が作られ、朝鮮人青年がその応募に殺到した背景には、こうしたロール・モデルがあったわけである。もしも日本の太平洋戦争に参加して、日本が戦争に勝てば、自分たちは、当時劣等人種と思われていた黄色人種の国の下層に位置する情けない被征服民族から世界的スケールでの征服民族へとステイタスを高め、かつての宗主国である中国のみならず、人類の指導者を気取る英米すら自分たちの目下にすることができると思って喜んだことだろう。
では、もしも日本が太平洋戦争に負けたならば、どうなるのか。当時は検閲が厳しかったので、日本の敗北が朝鮮人にもたらすメリットが公然と語られることはなかった。しかし、検閲で押収された手紙などを読むと、朝鮮人の本音を観て取ることができる。以下の手紙は、金某が愈某に宛てた手紙である。
我等は何時迄も日本の奴隷下に呻吟し乍ら宿命論と亡国論を叫ぶを止め、朝鮮民族独立の為め闘争すべきだ。君も同じ朝鮮民族精神が生きて居る事を信じて疑はない。我等の敵日本は十二月八日自ら死地に入って行った時、正に絶好だ。今こそ我等青年が起ち上る時だ。吾々の同胞は蘇聯[ソレン]で満洲で又中国で準備を整へて居る事を忘れないで下さい。
この手紙に出てくる「十二月八日」は、真珠湾攻撃の日付である。この手紙の執筆者が、日本が米英と戦争を始めたことを「自ら死地に入って行った」と捉え、それを朝鮮民族独立の絶好のチャンスと認識していることに注目しよう。こうした認識は、直接独立運動に従事していなかった朝鮮人にも共有されていたのではないだろうか。日中戦争が始まり、陸軍特別志願兵制が行われるようになると、それまで朝鮮民族の独立を要求してきた「三・一運動の指導者や民族文学の第一人者たちが率先して戦争への協力を呼びかけ」[名越二荒之助:日韓2000年の真実, p.436]たのは、必ずしも彼らが転向したからではなくて、日本が始めた無謀な戦争が、結果として自分たちの解放につながるという計算があったからなのだろう[a]。
朝鮮人が日本人以上に太平洋戦争を「気違いのように」喜んでいたのは、彼らが「気違い」だったからでもなければ、崔基鎬が言うように「日本人以上の日本人」だったからでもない。もしも朝鮮人が本当に「日本人以上の日本人」であるならば、なぜ彼らは現在あれほどまでに反日的であるのか。朝鮮人の太平洋戦争への加担は、計算された戦略に基づくものであって、それを見抜けずに「朝鮮同胞の赤誠(偽りのない誠の心)」などと言って、朝鮮人の戦争協力を賞賛していた日本人は、なんとナイーブなことか。
朝鮮人は、このような見事な戦略をいつ身に付けるようになったのだろうか。私が見るところ、彼らの戦略は、元寇で得られた教訓から練られたようだ。元寇と日中戦争・太平洋戦争とでは、侵略のベクトルが異なるが、異民族の支配を受けて、独立性を失った朝鮮民族が、支配民族の侵略戦争に加担することで、独立を勝ち得たという点で共通点を持っている。そこで、以下、元による支配の中で、高麗国王がどのようにして自らのステイタスの向上を図り、成功したかを見ていくことにしよう。
2. 高麗はなぜ自主的に元寇に加担したのか
韓国の歴史教科書は、高麗人が元寇(韓国は「日本征伐」と呼んでいる)に従軍したにもかかわらず、それを、もっぱら被害者の視点から描いている。
高麗は蒙古との講和以後自主性を著しく損なうに至った。講和後、高麗が最初にうけた試練は日本征伐に動員されことであった。高麗は、国号を元と変えた蒙古の強要によって日本征伐のための軍隊をはじめ多くの人的・物的資源を徴発された。
しかしながら、当時の高麗人たちは、必ずしも、強制されて受動的に従軍したわけではなかった。元寇当時の高麗国王であった忠烈王は、文永の役が起きる2年前からクビライが死去する2年前に至るまで、何度もクビライに、自ら「日本征伐」をしたいと要請していた。
そもそも、クビライが日本に関心を持つようになったのは、趙彝(ちょうい)という高麗人の進言による。趙彝の出身地は、日本への門戸である合浦や金州の近くに位置する咸安で、このため、趙彝は、日本についての情報に詳しかった。趙彝は、進士に合格して、クビライの知遇を受けると、クビライに、日本について詳しく語り、高麗に郷導(道案内)させて、日本に使者を送ることを勧めた。
趙彝 出入帝所讒曰、高麗與日本隣好、元遣使日本、令本國鄕導
趙彝は、宮廷に出入りし、「高麗は日本と好を通じています。元が日本に使者を出す場合、本国に道案内させてください」と讒言した。
『高麗史』は、趙彝を、洪茶丘等と同様の叛逆者としている。理由は、当時元と交戦状態にあった宋が日本と国交があり、そして高麗がその日本と非公式に交流していたことを密告したからというのだが、これは誤解である。クビライは、高麗と日本との間に非公式の交流があったことを全く咎めていない。そもそも趙彝には、洪茶丘のように、祖国を恨む理由はない。趙彝は、むしろ、元と日本の交易が活発になって、高麗、特に彼の故郷が、東アジア経済のハブになるということを期待したのではないだろうか。また、趙彝は語学に秀でていたので、そうなれば、自分は外交官として活躍し、出世できるようになるとも目論んだのだろう。
クビライは、高麗国王元宗に日本招諭を命じ、元宗は、側近であった潘阜(はんふ)を派遣し、牒状を鎌倉に送ったが、日本側は、返牒を拒否した。何度使者を送っても、成果が上がらないので、クビライは、武力で日本を支配することを決意する。そんな中、当時世子(皇太子)で、モンゴルに送られていた諶(しん=後の忠烈王)は、クビライに、次のように言った。
惟彼日本、未蒙聖化、故發詔使、繼糴軍容、戰艦兵糧、方在所須、儻以此事委臣、庶幾勉盡心力、小助王師
あの日本だけは、いまだに陛下の支配に服しておりません。それゆえ、私どもは、日本に陛下の命令を伝える使者を発して、さらにその後、軍容を整え、戦艦と兵糧を準備万端にしているところです。もしも、このことを臣である私めにお任せいただけるのであれば、心力を尽くして励み、そして陛下の軍隊を、微力ではありますが、お助けいたします。
諶はなぜ自ら日本遠征への協力を要請したのだろうか。高麗は倭寇に手を焼いていたので、元の力を借りて、倭寇の本拠地を攻撃しようとしたという説がかつて有力であった。たしかに、1223年以降、倭寇が何度もあったことが『高麗史』に記されている。しかし、日本は、元寇以前、倭寇の取締りに協力的であった。
例えば、1227年、鎮西奉行の少弐資頼(しょうにすけより)は、倭寇の悪徒九十人を捕らえ、高麗国使の前で斬首した。このことは、以下のように『高麗史』にも書かれている。
日本國寄書、謝賊船寇邊之罪、仍請修好互市。
日本は書を寄せて、日本の海賊が高麗沿岸を荒らしたことを謝罪し、両国間の関係を修復し、相互に交易することを要請した。
是歳、遣及第朴寅、聘于日本、時倭賊侵掠州縣、國家患之、遣寅齊牒、諭以歷世和好、不宜來侵、日本推檢倭賊誅之、侵掠稍息。
高麗は、この年、科挙に合格した朴寅を派遣し、日本に行かせた。当時、日本の海賊は、高麗の沿岸を荒らしまわっていた。高麗は、これを憂い、朴寅を遣わして、国書を送り、これまでの友好関係に基づき、海賊行為を行わないように教え諭した。日本は、海賊を検挙し、彼らを処刑した。その結果、倭寇は、しばらくの間、沈静化した。
元寇によって、倭寇を取り締まる日本の為政者を攻撃することは、倭寇対策としては逆効果である。実際、元寇以降、倭寇はいっそう盛んになってしまった。
では、なぜ高麗国王は、元寇に積極的に加担したのだろうか。太平洋戦争の時と同様に、二つの理由が考えられる。
- もしも元寇が成功すれば、元寇に参加して手柄を立てた高麗の地位が元内部において向上し、高麗国王の権力が増大する。
- もしも元寇が失敗すれば、朝鮮半島を支配している元の軍事力が後退し、高麗が元から独立することが可能となり、高麗国王の権力が増大する。
2が歴史的現実となるのだが、諶=忠烈王は、当初1しか考えていなかったと思う。だが、時の経過とともに、忠烈王は2の理由でも元寇を支持するようになる。以下、忠烈王の動機の変遷を、文永の役の前、文永の役の後、弘安の役の後の三つの時期に分けて、辿ってみよう。
2.1. 文永の役の前の忠烈王
忠烈王が、最初に日本遠征への参加を要請した1272年当時、高麗国王は、高麗国内において、有名無実の存在となっていた。ちょうど、同時代の日本において、武士が台頭して、天皇や貴族たちが実権を失ったように、高麗でも、1170年のクーデター(庚寅の乱)以来、武臣が国王や文臣よりも優位に立ち、政治を動かすようになる。もしも、モンゴル軍が高麗に侵入してきた時、高麗国王が全実権を握っていたならば、国王は、自分の利権を守るために、最後まで抵抗したかもしれない。しかし、当時既に実権を失っていた高麗国王は、どうせ実権がないのなら、国内の武臣よりも強大な軍事力を持つモンゴル帝国に服従したほうがよいと判断し、江華島に残って抵抗を続ける武臣と決別して、モンゴル帝国に臣従した。
武臣は、高麗国王と結託したモンゴル帝国軍の攻撃を受けて、権力を失ったが、武臣勢力の残党、三別抄は、1270年に江華島から南部の珍島や耽羅島に移って抵抗を続けた。1272年当時、三別抄の乱はまだ続いており、高麗国王としては、日本遠征を促すことで、ついでに国内の反乱軍も一掃してもらおうという意図があったと解釈できる。というのも、日本に遠征するためには、その通路を塞いでいる三別抄を壊滅させなければいけないからである。
1274年に、元と高麗の連合軍は、日本への攻撃を開始した。日本で謂う所の文永の役である。元と高麗の連合軍は、日本に上陸して戦ったが、思うように進軍できないので、引き返し、夕方、軍議を開いた。その時、高麗軍の主将である金方慶(キム・バンギョン)と元の総司令官(東征都元帥)である忽敦(クドウン)との間に次のような議論がなされた。
方慶謂忽敦茶丘日、兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、巳入敵境、人自爲戰、即孟明焚舩淮陰背水也、請復戰
金方慶は、忽敦と茶丘日に言った「兵法には、本国を遠く離れて敵地に入った軍は、かえって士気があがるとある。我が軍が劣勢ではあるが、既に敵地に入っているのである。兵は自主的に戦う。帰国用の船を焼き、背水の陣を敷いた孟明や韓信のような状態だ。もう一度戦うことを請う」と。
忽敦日、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍
忽敦は言った「兵法には、少人数の敵が力量を考えずに堅守すれば、必ず大軍の虜になるとある。疲れた兵を動員して、日ごとに増えていく軍勢と戦うことは、無謀だ。軍を撤退させるほかない」と。
結局、忽敦は、金方慶の主張を退けて、海中に引き上げ、その夜、暴風に逢ったこともあって、帰国する。韓国の歴史教科書では、嫌がる高麗に元が戦争を強制したことになっているが、ここの件を読むと、まるでその関係が逆であるかのように見える。崔基鎬の表現を借用するなら、この時の高麗人は、「モンゴル人以上のモンゴル人」ということになる。
2.2. 文永の役の後の忠烈王
文永の役が終わった翌年の1275年1月に、忠烈王は、高麗国内が経済的に困窮していることを訴えているが、その後、1278年の7月には、以下のように言って、再び日本遠征を要請した。
日本一島夷耳、恃險不庭、敢抗王師、臣自無念以報徳、願更造船積穀、聲罪致討、蔑不濟矣
日本は、一介の野蛮な島国にすぎませんが、天然の要害があることをよいことにして、来貢せず、敢えて陛下の軍隊に抵抗しております。私が自ら思いますに、これでは陛下の徳が報われることがありません。戦艦を作り、兵糧を蓄え、日本の罪を強調し、討伐して、日本を辱め、救わないことを願います。
忠烈王がクビライに自ら日本遠征を要請したことは、『高麗史』のみならず『元史』にも書かれている。
高麗國王請自造船一百五十艘,助征日本
高麗国王は、百五十艘の船を自ら作り、日本征伐を助けることを請うた
経済的負担が大きいにもかかわらず、忠烈王が再びクビライに日本遠征への協力を要請した理由は何か。実は、1276年と1277年に、金方慶が忠烈王に対して謀反を企てているという密告がなされた。そして、以前から、父が讒言により処刑され、祖国に恨みを抱いていた高麗人の洪茶丘は、この機会を捉えて、クビライに、元軍による高麗の直接統治を進言した。しかし、金方慶の謀叛疑惑は事実無根であることが明らかとなり、クビライは、高麗から元軍とダルカチを引き上げ、洪茶丘を召還した。忠烈王は、この決定の後、日本遠征への協力を申し出て、洪茶丘ではなくて、自分に重要な地位を与えてくれて懇願している。その結果、娘婿の国王として、征東行省の中書左丞相、つまり日本遠征軍の指導的地位に就いた。したがって、この時の動機は、元に対する忠誠心を示すことで高麗の独立を維持するというところにあったようだ。
1281年に弘安の役が始まったが、この時も高麗軍は積極的に戦った。元・高麗の連合軍(東路軍)は、予定よりも早く出港したが、これは、他に先駆けて手柄を立てたいという思惑からだったのだろう。反対に一番士気が低かったのは、1279年に新たに元の支配下に入った南宋出身の兵である。南宋軍主体の江南軍は、予定よりも半月ほど遅れて東路軍と合流したが、その後1ヶ月近く海中にあって戦いに参加しなかった。そうこうするうちに、台風に遭って、海の藻屑となった。台風で沈んだ船のほとんどは、江南軍の船だった。高麗で造られた船が堅固であったのとは対照的に、旧南宋で造られた船は手抜きで造られたものが多く、これは、日本遠征に好意的ではない旧南宋民のサボタージュによるものだったと見られている。
弘安の役の後、1286年1月、クビライが日本遠征を中止した時の状況を『元史』は次のように描いている。
連年日本之役,百姓愁戚,官府擾攘,今春停罷,江浙軍民歡聲如雷。
長引く日本遠征のおかげで、庶民は悲しみ、官吏も苦しんだ。今春、日本遠征が中止となり、それを聞いた江蘇・浙江の軍民の歓声は雷のようにとどろいた。
これは、いかに旧南宋民が日本遠征の負担を嫌っていたかを物語るエピソードである。日本遠征の負担は、旧南宋よりも高麗のほうが大きかったはずなのに、同じような記述が高麗に関してないのは、なぜだろうか。1293年に、第三次日本遠征計画が練られたとき、造船命令は、高麗に対してしか出されなかった。クビライは、江南軍が全くあてにならないことを学んだようだ。
2.3. 弘安の役の後の忠烈王
弘安の役が無残な結果に終わった後も、クビライは、日本遠征をあきらめなかった。クビライの日本遠征に対する執念は異常であり、たんなる征服欲によって説明できるものではなく、おそらく、マルコポーロの『東方見聞録』にも登場する、日本に豊富にあると信じられていた金を手に入れようとしていたのだろう。だが、無駄な遠征を繰り返すクビライに対して、帝国内の不満分子が次々に反乱を起こし始めた。まず、1283年以降中国南部で、1284年以降にはベトナムで反乱が起きた。さらに、1287年には、ナヤンの反乱、1288年にはカダアンの反乱といった身内による反乱が起きたことで、日本遠征どころか高麗の支配すらおぼつかなくなってきた。1290年にカダアンが高麗に侵入すると、クビライは、それまで元が直接支配していた東寧路総管府を高麗に返還した。これは、おそらく、高麗がカダアンに寝返ることを恐れたためだろう。結局、1291年に元の援軍が高麗に到着し、元と高麗の連合軍はカダアンを鎮圧することに成功した。
これまで、元は、高麗が元に反抗したことを口実に、高麗の領土の一部に総管府をおいて、直接統治した。1225年に、高麗に送られたモンゴル帝国の使節が高麗で殺害されると、1231年に、モンゴル軍は、報復のために高麗に侵入した。その時、洪福源は、高麗の鎮将だったが、投降し、モンゴル帝国の高麗侵略に協力した。この時の占領地が、後の東寧路総管府となる。1254年には、崔氏などの武臣が江華島に残っていることを口実に、モンゴル軍が高麗に侵入した。1258年には、高麗北部の和州以北が占領され、双城総管府が置かれ、降伏した高麗人が総管に任命された。1273年には、元に最後まで抵抗した三別抄を耽羅島で滅ぼし、後に、ここに耽羅総管府が置かれた。
こうした、奪われた領土を取り戻すことは、高麗王朝の悲願であり、元での内乱のおかげで、失われた国土を取り戻せたことは、高麗にとっては望外のことであった。これに味をしめたのか、忠烈王は、カダアンの反乱の翌年、次のように言って、クビライに日本遠征を要請している。
臣既隣不庭之俗庶當躬自致討以效微勞
我が国は、元朝に来貢しない殊俗の日本にもともと隣接しております。私ども自ら日本を討伐し、もって、ささやかながら功績を挙げることを願っております
これまでの奏上とは異なり、元軍の補助ではなくて、高麗単独の出兵を要請したとも取れる内容になっている。単独で日本遠征を行うとなれば、忠烈王には、今よりももっと多くの権力がなければならない。おそらく忠烈王は、双城総管府の返還を期待していたのではないだろうか。
結局、クビライは、この2年後死去し、第三次日本遠征は中止となった。忠烈王の生前に戻ってきた領土は、東寧路総管府と耽羅総管府だけであったが、かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだったモンゴル帝国も、日本遠征の失敗以降衰退し、1351年に起きた紅巾の乱で元が壊滅に瀕すると、その5年後に高麗は元と断交し、独立して、双城総管府など北辺の領土を奪還した。
朝鮮人は、ここから一つの教訓を得た。モンゴル軍のような強大な権力に対して、武臣たちがやったように、無駄な抵抗を試みても、領土を奪われたり、自治権を奪われたりして、なにもよい結果をもたらさない。むしろ、忠烈王がやったように、元の侵略戦争に積極的に加担した方が、その侵略戦争が成功した場合はもちろんのこと、失敗した場合ですら、自分たちにメリットがある。元寇での体験は、560年後、日本人と朝鮮人の行動指針にそれぞれ異なった影響を与えた。日本人は、国難に際しては神風が吹いて、どんな大きな敵からも神が日本を守ってくれるというばかげた信仰を抱き、無謀な戦争に突入して、破滅への道を歩んだ。朝鮮人は、もっと現実的で巧妙な戦略により、独立を果たした。朝鮮人と日本人が元寇から学んだことには雲泥の差があったと言わなければならない。
3. 韓国はなぜ米国のイラク戦争に参加したのか
一般に、ある民族が異民族の圧政下に入って、被支配民へと転落すると、ゲリラ活動的な反乱によってその支配に抵抗し、独立しようとする動きが出ることが自然である。元朝に支配された旧南宋民や大日本帝国の支配下に入った台湾人たちがそうだった。朝鮮人は、そういう無駄な抵抗を試みるよりも、むしろ、支配者の侵略戦争の手先になって、自分たちの地位を向上させようとする。もしその侵略戦争が成功すれば、強大になった帝国内で、より高い地位を手に入れることができる。もし侵略戦争が失敗したら、宗主国の軍事力が衰退するので、独立することができるようになる。戦場で残虐な行為を行っても、後世になってから、「自分たちは宗主国に戦争を強要された被害者だ」と主張することで、戦争のすべての責任を宗主国に転嫁することができる。この伝統的戦略は、今でも韓国人によって使われているように思われる。最近の事例は、盧武鉉によるイラク戦争への派兵である。
盧武鉉は、反米左翼の政治家であったが、2002年の大統領選挙に当選することができた。これにはある偶然の出来事が追い風となった。この年、米軍装甲車が二人の韓国人女子中学生を轢き殺すという事故が起きたのである。11月に、米軍の軍事法廷が無罪の表決を言い渡したために、国内で反米感情が高まり、それを背景に、12月、反米左翼の盧武鉉が大統領に当選したのである。
盧武鉉は、大統領に就任すると、前任の金大中から太陽政策を継承し、北朝鮮に対しては宥和的な政策を採り、さらに「北東アジアのバランサー」として冷戦構造が残る北東アジアで中立的な立場を採ろうとしたために、日米との溝を深めることとなった。このように、反米左翼路線を邁進し続けたにもかかわらず、盧武鉉は、米国の侵略戦争であるイラク戦争に、派兵という形で協力した。しかも、その兵数は、約3600人で、米英に次ぐ規模であった。また、これに加えて、イラク再建のために2億6000万ドルの支援を行った。なぜ反米左翼のはずの盧武鉉が、米国の侵略戦争にこれほどまで加担したのだろうか。一般には、次のように解釈されている。
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は、「(イラク派兵は)北朝鮮の核問題など、韓(朝鮮)半島の安保に重大な影響を与える懸念があり、これを解決しなければならないわれわれとしては、いつも以上に篤実な韓米関係が望まれる」(12月3日付け朝鮮日報)と、イラク派兵の最大の根拠は北朝鮮への抑止力としての米国との関係を維持、強化するためであることを明らかにしている。
韓国民には数百万人もの死傷者を出した朝鮮戦争はまだ記憶に生々しい。米国との同盟関係が損なわれた場合、在韓米軍の縮小、撤退などを招き、南北間の軍事的バランスが崩れることを怖れる人は少なくない。その不安感は戦争の体験者ばかりでなく、一般の国民の心にこびりついている。多くの人々は米国のイラク攻撃に「大義」はないと考えているものの、米国の派遣要請を断ることにはためらいがある。
たしかに、表向きの理由は、米韓同盟の強化であるが、これが本当の理由であったとは思えない。なぜならば、後に、盧武鉉は、自主国防のためと称して、米国に戦時作戦統制権の返還を要求したからだ。この要求は認められ、2012年4月に戦時作戦統制権が韓国に移管され、米韓連合司令部は解体され、半島における米軍のプレゼンスは大幅に縮小されることになった。盧武鉉は、「在韓米軍の縮小、撤退」を怖れていたどころか、自ら率先してそれを行ったのである。
朝鮮人の伝統的戦略を知らない者には、盧武鉉がやっていることは、矛盾しているように見えるだろうが、実は彼の政策は、計算された合理性に基づいており、首尾一貫している。盧武鉉が、「自ら死地に入って行った」米国の背中をポンと後押しして、米軍を泥沼の戦争から抜け出ることができないようにしたおかげで、米国は、朝鮮半島に余分な部隊を置けなくなり、盧武鉉の戦時作戦統制権返還要求を呑まざるを得なくなった。近い将来、韓国が自主国防を取り戻し、米国は、在韓米軍を縮小、撤退させなければならなくなったのだから、盧武鉉は、朝鮮半島の赤化統一という彼の野心の実現に向けて、大きな一歩を踏み出すことに成功したと言うことができる。
2007年に、米国下院外交委員会で、イラク派兵やイラク再建への資金援助など、韓国によるテロとの戦いへの参加に感謝する決議案が満場一致で通過した。オバマ大統領も、「韓国は米国の最も親密な同盟国の一つで、最も偉大なる友邦の一つ」[The Washington Post (2009/04/02) Obama Discusses N. Korean Missile at G-20]と褒めちぎっている。どうやら今の米国は、太平洋戦争時の日本と同様に、朝鮮人の伝統的戦略を理解していないようだ。これまでの朝鮮人の行動パターンから予測すると、将来、米国の覇権が崩壊し、朝鮮人が米国の支配から脱したら、彼らは、米帝が韓国人青年をベトナム戦争やイラク戦争に強制動員したとか、IMFを通じて韓国を経済植民地にして、韓国の資源を収奪したとかいったことを歴史教科書に書くだろう。そしてその時、米国は、韓国が「最も偉大なる友邦」という認識が間違いであったことに気がつくだろう。
以上、朝鮮人の戦略について述べたが、ここで謂う所の朝鮮人の戦略は、この民族にのみ特有の戦略というわけではなくて、戦争を望むプロレタリア型右翼に共通して見られる戦略ではないかと私は考えている。本稿は既に十分長文になったので、これについては、次回改めて論じよう。
凄い分析ですよね。
ただ、新羅のところですが、これまた朝鮮人の伝統的な戦略に気がつきましたw
新羅は結局は、唐を利用して百済領を併合、その後は唐を追い出してしまったw
ちなみに、百済は扶余ですから、言語的にはモンゴル語族であって
孤立言語である朝鮮語とは別言語ですよね。
つまり、百済ってのは、モンゴル系の中国人ですよ。
その征服者(扶余と日本)を、征服者(唐)と戦わせて、滅ぼし、一方は撃退させ、
そして、最終的には、その唐も追い出してしまった。
そして、百済や高句麗といった、モンゴル語族系の扶余人の歴史を
自分たちの歴史というふうに奪い取ろうとしてたw
こういうふうに、周辺の大国同士を争わせて、漁夫の利を得るのが、抜群にうまい。
そういえば、やたら、現在の南北朝鮮も、この戦略を使ってくる。
北朝鮮は建国から、ソ連、中国の間を行ったり来たりして、それを利用し
現在では、米国と中国の間を行ったり来たりしている。
一方、韓国も、やたら日本と中国の仲介をしようと名乗り上げてくる。
まるで、無理にでも、日本と中国を喧嘩させて、その間で利益を得ようとするみたいだ。
正直、お人よしの日本人は考え付かない発想ですよね。
ただ、日本も参考になるかも。
“新羅のところですが、これまた朝鮮人の伝統的な戦略に気がつきました”
「周辺の大国同士を争わせて、漁夫の利を得るのが、抜群にうまい」というのはたしかにそうですが、新羅は、高句麗と百済が滅んだ後、唐の支配下に入ったり、唐と一緒に日本本土を攻めたりしなかったので、元の支配下に入って、元と一緒に日本本土を攻めた高麗とは対応が異なると思います。
“そういえば、やたら、現在の南北朝鮮も、この戦略を使ってくる”
以前、テレビを見ていたら、脱北した北朝鮮の難民が、「いっそう戦争が起きてくれたほうがよい」と言っているのを耳にしました。彼らは、抑圧的な体制から自分たちを解放してくれるのが戦争だということを過去の事例から知っているのでしょう。実際、戦争になれば、金正日体制は崩壊し、北朝鮮の人たちは解放されるでしょうが、金正日もそのことがよくわかっているので、口では好戦的な挑発を繰り返しながら、自ら戦争を仕掛けることはまったくしません。
朝鮮人たちの国家戦略は、日本の国家戦略とは根本的に違うと思います。
朝鮮人というのは、永遠の弱者である自国が、いかにして外国を利用して、自分たちへ利益を誘導するのかというのが、抜群にうまい。
朝鮮人の地政学的な戦略は、他人のフンドシで相撲をとるということ。
こういう発想は、日本にはないです。
日本の場合、明治維新以来の富国強兵でも分かるように、いかに自分たちを鍛え、自分たちの国力を高めていくかという戦略である。
ある意味、日本は真面目。
これは、日本が島国であり、周囲を海で囲まれているので、異民族から邪魔されることが少なかったから、出来上がった戦略。
しかし、朝鮮人というのは、たえず、陸続きで異民族からの干渉があるので、真面目にコツコツ国家を発展させても、すぐに異民族にそれを奪われてしまうわけです。
だったら、頑張っても仕方が無いわけです。
だから、彼らは外国をいかに利用してやろうか、外国からの攻撃や支配までも、自国の利益に変換してしまうノウハウを身に着けたんだと思います。
凄く新鮮な分析でした。朝鮮戦争の時は、この国の性格が災いしました。
南北分断状態も、彼らの戦略のように思えてきました。
朝鮮(人)及びアジア諸国(人びと)を実践にて学んできましたが、学術的に研究等をしたことは今まで一切無いですが、この論文に書かれている分析結果と私が肌で感じた朝鮮(韓国)人感が全く一致しているのには驚嘆しました。
今日何気なくこのサイトを始めて読みました。 数十年以上実際に関わって体験してきて得た事柄が歴史書等の書物研究で的確に解明でき分析できると言うことを学びました。 これからのご活躍期待しています。