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date 2002/9/8(日)11:47 困ぺい糖さま 通説(防衛研修所戦史室)によると安岡支隊は戦車第3連隊(吉丸部隊)車両108(うち戦車95台)総員367人、第4連隊(玉田部隊)車両112台総員561人とあります。これを根拠にほとんどの本が書かれていると思いますが、これは真実でしょうか? また吉丸部隊の戦車は57ミリ41、37ミリ35、7.7ミリ機銃171とされています。ご指摘の通りBTは45ミリですから相当に上回っています。 また安岡支隊をとりまく編制がどのようなものか、史料にないのですが通信・偵察・輜重・自走砲・対歩兵戦力を全部欠いているとは思えません。いずれにしても安岡支隊の発想は歩兵の直協部隊としての戦車ではなく、戦車部隊の単独運用を考えたようにみえます。実戦については吉丸部隊が(ハルハ川)右岸攻撃に参加し戦果をあげたというだけが普通書かれるようです。 ただポーランド戦のさいのドイツ軍と比較すると、砲の口径で上回り速度でやや劣るが、1個機甲師団(パンター)の3分の2程度の実力を有していたと考えられます。 それと日本人がノモンハンについて書いているもので真実に近いのはノモンハン会(第23師団(小松原)関係者の会)関係者による記述だけだと思われます。とりわけマル歴が書いたものはその後のロシア流出史料でことごとく否定されており元ソ連プロパガンダや抑留洗脳者の記述に従うことがいかに危険かわかります。 そして防衛庁(防衛研修所)の記述がまた誤解を招いています。この組織は自衛隊のなかの河辺派に敗れた旧服部派(参本・作戦課畑)及び旧復員省派(阿南派)の巣窟でありとりわけ服部の意見の見解が通っていたようです。つまりノモンハンも作戦計画について問題なく、物量や武器のスペックで負けたというものです。すると奇妙なことにマル歴と見解が合致してしまいます。 そこでノモンハン会関係者(小沢親光)の記述を参考にすると吉光部隊は相当の戦果をあげた、しかし(おそらく吉光が血気にはやって)単独行動に陥ることが多く、突出した行動が目立った。しかし地理に不案内なため、ソ連歩兵に肉薄されることも多く拳銃弾の使用量も多かった(!)。 この記述から行くと戦車に白兵攻撃をしたのはソ連兵だったようにもみえます。ともあれ問題となる7月10日関東軍作戦司令により全戦車の撤退命令が出され、日本軍戦車の影は消えることになりました。これの理由は「員数合わせ」のように思えてなりません。また戦車は歩兵に勝てないと即断したのではないでしょうか。 ノモンハン会はノモンハン事件は日本の局地的大勝利であり、新編4個師団が来着すればチタまで攻め込みシベリア鉄道の切断が可能だった。スターリンが謝って来たので和を講じただけだという見方です。 別宮 |
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date 2002/9/8(日)14:58 別宮さま 97式の57mm砲ですが、圧倒的にBTの47mmに劣ります。 97式の57mmは砲身長が18口径(1030mm)しかなく、初速が非常に遅いためです。 97式が対戦車戦を捨ててまで大口径(低初速)にしたのは、歩兵やトーチカを相手にする場合、基本的に口径が大きい方が有利(炸薬量が多いため)ためです。 |
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date 2002/9/8(日)21:02 別宮様 軟体金属様 安岡支隊の兵力とりわけ吉丸隊のデータについてはソ共の水増し宣伝が絡みます。とにかく敗因を正当化したいためか、戦車130台、装甲車6台としています。 当時の稼動数、(確かなデータではないが、2個連隊で200台達しなかったのでは?)からみても防衛研資料は定足数を丸書きした気配が濃いと思います。 ちなみに服部、辻コンビはあとあとまでノモンハンの作戦指導については自分らの責任を棚にあげてつらく当たりますが、二人が作った満ソ国境紛争処理要綱なるマニュアル(ソ軍の警備兵等が多少でも満州国側に踏み込んだら、躊躇なく現地軍が国境越えて撃退するを許すというシュリーフェンプランがとてもソフィステイケートされて見えるほど途方のないもの)がいったん参謀本部の稲田らにボツにされたことを恨んでいたのでしょう。 用兵については別宮様のおっしゃるとおり、戦車団を単独で突破運用することを狙っていました。この辺は他国同様、機甲兵科に騎兵からのシフトが多かった当時の戦車部隊独特の発想でしょう。 そして両軍とも他兵科との協同に成功しませんでした。日本側の戦車隊がやれ、単独夜襲だのと一人でワルツを踊る(本格的な歩甲協同夜襲は80年代以降の暗視装置と高感度なスクランブラー付デジタル通信機普及後でなければ無理)一方でソ軍はBTの速度が速すぎて歩兵が追求出来ず、突破されても蛸壺にこもった日本兵に銃火と擲弾筒で射すくめられて立ち往生という事態がジューコフの八月攻勢時にも随所で起こりました。 そこでよく言われる戦車同士の遭遇戦における優劣ですが、7月3日から6日の玉田隊(戦車4連隊)戦闘詳報によれば、連隊正面にて交戦せる敵戦車33から37台としておりどうもいわれるほど戦局を左右したとは思われません。むしろ、最終的に支隊があげた戦果主張60台、損失40台を多少眉に唾して見るにしても、戦車のスペックの差が影響したようには思えず、統帥部の作戦とその思想に現場がどれだけ折り合えたが、勝敗の分かれ目という気がします。 ジューコフは本来勝ち戦とすべきところ、あわやという目にあったために、本来はバルト、フィンランド作戦担当方面軍の参謀長あたりに栄転するはずが、ポーランドへの赤軍進駐後にウクライナ軍管区に左遷されます。ブリュッヒャーのごとく処断されなかったのは不思議なほど(空軍関係者は軒並み処刑)ですが、妙なところでテフロンみたいに無傷で済まされる運のよさはその後もついて回ります。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/9(月)09:34 困ぺい糖さま ハルハ川西岸作戦は、辻の主張を小笠原が受け入れ開始されたのは、複数の証言があり事実でしょう。服部・辻が反撃だとしても、日本の主張の国境ハルハ川を越えること(及びタムスク飛行場の爆撃)をなぜ主張したのか動機がわからないところがあります。服部という人物は戦後、東條の娘の仲人をした位の腰巾着ですが、書いた本を読むとただの能吏にすぎないのではないか(ただの法匪ではないかと)思える節があります。最近の論調では日本陸軍の中心人物とすらされていますが、早死にしたこともあり謎の残る人物です。 この事実とフェクレンコが更迭されジューコフが着任その後攻勢が開始された事実をつなぎ合わせると、双方とも事前に作戦計画を準備し敵野戦軍の殲滅をめざすという考えはなくいわば功名心にはやった、国境警備隊同士の大規模な喧嘩にすぎず戦争ではなかったのではないかと思われます。日本は日華事変、ソ連はモロトフ=リッペントロップ協定にもとづくフィンランド・バルト三国・カーゾン線までの回復・ベッサラビアの獲得が眼前の課題としてあれば、満ソ国境は静謐であればよいと考えるのが普通でしょう。 また国境線の是非は論争たりえますが、ハルハ川は自然国境であること、ところがこの地域はモンゴル族の中心地でハルハ川は夏の放牧地の水源であり遊牧民として両岸を確保できなければ(水利権を確保)生活にならず、明らかにモンゴル族の施設(ラマ教寺院など)が東岸に散在することを考えると甲乙つけがたいものがあります。ただモンゴル人は自国を侵略されたと考えたのは事実でしょう。終戦直後ハイラル第12軍管区司令官正珠爾札布中将が日本人軍民を集合させ機関銃で全員射殺した事件が思い出されます。大相撲でモンゴルの力士が活躍するのを見ると何かこの事件が思い出され気分が重くなります。 ご指摘の通りで現在日本側の同時代史料は断片的な戦闘詳報しかなく、かつそれも過大な戦果報告と狭い専担領域に限られたものばかりで、価値が高いとはいえません。 戦車戦について吉丸部隊は敵戦車遭遇の報告がなく、玉田部隊は実戦に参加していないのではないかと推定していました。玉田隊の60台撃破を少なめに見ても、どのような戦闘だったか知りたいところです。ただ吉丸部隊の報告は故障と近寄ってくるソ連兵を隙間から拳銃で射殺したの類であり、どうもあまり勇ましくありません。 ただ戦間期戦車はスペイン・グランチャコ・南京とほとんど活躍できませんでした。歩兵に捕捉されて、アンパン・手榴弾で壊されるというのが大部分です。ノモンハンでもソ連軍の設置したピアノ線による対戦車阻止設備が有効だったとありますが、今であればブルドーザーでも突破できる感じです。 ノモンハンの勝敗ですが、参謀次長の中島(鉄蔵)沢田(茂)が敗北だと認め、とくに後者は帝国陸軍開闢以来の大敗北だと表現しています。これにより中島は予備役へ稲田は転出したのですが、処分であることは疑いありません。一方ご指摘の通りジューコフも従来説のようにキエフ軍管区への転出はザバイカル軍管区の重要性からみて栄転ではなく左遷とすべきでしょう。ただ同時に大将に昇進しており、お咎めなし程度でしょう。北集団のシュブニコフも左遷されています。 ジューコフは「一生涯で最も苦しかったのはノモンハンだ」としており、またソ共極東副部長コワレンコも「戦車は全滅し飛行機は半減、戦死者は日本軍の2倍出て、捕虜も同数だ。ヨーロッパに送らねばならないウラル越えの鉄道は負傷者の阿鼻叫喚のウメキ声で埋まった。本当によい時期に日本は停戦の申し込みをしてくれた」としています。 戦争とは両方苦しいもので、そのなかで苦しさのあまり声を出した方が負けだというのがありますが、ノモンハンは当時の日本人にとり戦略価値を発見できなかったのかもしれません。 また冗談ですが実記には必ず「蚊」の話が出てきます。ハルハ川の水で米をたくと、メシの上に寒天がかかり、それはボーフラだと言われたそうです。とにかく空が蚊で暗くなり、兵士は防蚊面をかぶって戦ったといわれます。このような場所に戦略的価値を見出せなかったのもわかるのですが…。 別宮 |
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date 2002/9/9(月)13:03 別宮様 辻、服部の師匠筋にあたるのが石原莞爾ですから、独断専行と称して彼らが植田、磯谷を慫慂してやらせた出兵という気もします。つまり、最後は内蒙と外蒙の合邦を策し、その一歩としてソ共、ソ軍の排除を図ったのではないでしょうか。そうするとこれは明らかに大逆になりますが、陸軍は日華事変などで弱みを見せたくないので、とりあえず負け戦として隠蔽を図ったのかもしれません。へたに勝ち戦を宣伝して張作霖爆殺、満州事変を想起されるのもまずいと感じたのでは。 無名の師という言葉がそのまま当て嵌まるいくさと感じました。 モンゴル自体の内部におけるこの事件の対応ですが、モンゴルの政権党内での粛清合戦が本格化しました。侵略を許したのは誰か的な論争ですが、若手のバトムンフらの台頭を招きます。ちなみに彼はほとんど終身に近い政権担当で、80年代半ばに金日成死亡のニュースがささやかれたとき、ウランバートルで打ち消すように彼と抱擁するシーンが配信されたのですが、肝心の金よりも彼がまだ生存しているのに驚いた記憶があります。 ソ連に備えるという関東軍の任務は技術的な部分ではこの戦いで十分確信あるプルーフがとれたと思います。ただ、中途半端な火遊びに近い関特演、1945年夏の一部参謀の裏切りに近い停戦交渉など政治で頭でっかちな軍官僚に振り回された度合いの高い軍隊ではありました。もっとも植民地派遣軍とはこういう物なのかも知れません。 それにしてもロシア兵も蚊除けのメッシュの支給がなくて困ったとこぼすほどの蚊の大群とは驚きです。最優先で配備すべき対空兵器は除虫菊(金鳥蚊取り線香)だったかもしれません。冗談ですが。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/9(月)13:32 別宮様ならびに諸賢各位 下記の文章についてお伺い致します。 > そこでノモンハン会関係者(小沢親光)の記述を参考にすると吉光部隊は相当の戦果をあげた、しかし(おそらく吉光が血気にはやって)単独行動に陥ることが多く、突出した行動が目立った。 さて、敵歩兵の肉薄に対しては日本軍戦車の拳銃孔(ピストル・ポート)の配置は適正だったのでしょうか? それから日本軍の戦車には主砲と同軸の機銃がなく、砲塔の後部に(つまり背後に向って)機銃がついています。 また『ノモンハン事件の真相と戦果』(有朋書院)の5ページに「ザンゴウに落ちた敵戦車」としてソ連軍のベーテー(BT=高速タンク)の写真がありますが…。 これは、砲塔の前部に大砲(砲手)、後部に機銃(車長)の配置なら、敵歩兵に囲まれた時にも全周を撃ちまくれると…、そのための機銃の配置なのでしょうか? Caine@cafe |
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date 2002/9/9(月)21:54 大学での試験での話です。 馬鹿にしてんのかなあと思いつつ 回答を・・・ 私の回答は @徳川慶喜による政権の放棄(大政奉還) はともかく上の@とAは間違ってないと思ったのですが、 私は突発的に物事が起こることは無いので徳川幕府の政治の破綻が農民層分解の原因であり |
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date 2002/9/9(月)23:38 Caine@cafe様 言及されておられる書物はノモンハン事件については別宮様も触れておられるノモンハン会資料をベースに戦況を時系列順に各部隊ごとにまとめたものですが、過去の五味川はもちろん、クックス、シースキン、扇等の記述についても検証批判を加えており、現状一番まとまったものかと思います。 おっしゃておられるBTの写真にある後部機銃は生産されたものすべてに装備されているわけではなく、一部の物のようです。通常あの砲塔後部の出っ張りには弾薬庫があり、後ろにハッチがついてるそうで、機銃装備車のみ、車内に弾薬庫を移設したようです。 日本の戦車も同じ理由で機銃をつけていますが、ノモンハンでのピストル云々は当時の特殊状況がからむと思います。 日本の戦車隊は夜襲もマニュアルに載せていますが、本格的な訓練はこの戦闘の戦訓研究をえてからで、結果は2年半後のマレーにおける島田戦車隊によるジットラライン奇襲突破に結実します。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/10(火)00:34 毒電波ゼロ加奈子様 いやあ、お久しぶりです。元気してましたか? ご質問の答えですが @黒船来航 と加奈子様の逆の順番です。 農民層云々はよくマル歴のいう民衆史観なるものにのっとっての説ですが、日本の農民は革命蜂起をするほど経済的に追い詰められていたとも思えません。第一、金さえ積めば町人(農民より身分は下)でも武士(支配階級)になれて娘をお旗本にも嫁にやれるような絶対封建制などどこの国にあるでしょうか? 困ぺい糖 |
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date 2002/9/10(火)02:41 毒電波ゼロ加奈子さま @鳥羽伏見の戦いにおける徳川慶喜の戦意喪失。 徳川幕府は大政奉還で終わっていますから、正確には徳川政権の崩壊ですね。@が要因で、ABがその前提条件です。@は説明するまでもないと思います。Aについては、ライフル、大砲の数や性能よりも、士気の問題が大きいですね。幕末、戊辰で死に物狂いで戦ったのは、薩摩、長州、会津、長岡、新撰組ぐらいで、その他大勢は、数がいようが、最新式ライフルを持っていようが烏合の衆でしょう。Bは岩倉、西郷、大久保によるクーデタが成功したのは、明治天皇にまだ当事者能力がなかったからで、孝明天皇が存命なら、徳川慶喜に代わり薩長が政権を握る事を承認することはなかったということです。 徳川幕府の崩壊が農民層の分解の為だと云って聞かない大学教授はマル歴ではないですか?律令国家か社会主義国家でない限り、農民が富農と貧農に分かれるのは当たり前です。二宮金次郎のように、一度貧農に転落してもそこから這い上がることも可能でした。そんなことで政権は潰れはしません。徳川幕府の政治は穏当なものです。中国のように農民が大量餓死したとか、匪賊が跋扈するとか、役人が略奪同然の不当な課税をするとかそんなことはありません。幕府の政治が破綻したと云えるのは、家康以来の、幕府対朝廷、幕府対雄藩との関係が黒船来航によって破綻したことですが、これは農民とは全く関係ありません。農民は雲の上の権力闘争とは無関係でしょう。 わたしも学生時代に経験しましたがマル歴、マル経は思いつきで珍説、奇説を云う人が多いです。ノルマンディー上陸作戦は半年前に準備が完了していたが、独ソを共倒れさせる為延期されていた(準備ができたとしても冬に上陸作戦をやるのですか?)とか、皇居の下に東京と新宿を直結する地下鉄が通っていないのはケシカラン(戦前にはそういう計画があったが、そんなのなくても中央線快速で行ける)、明治政府は地主利益の為に河川に連続堤防を造った。堤防が出来て水害がヒドくなった(堤防がない方が水害がヒドくないんですか?理解不能)・・・ カカニア人 |
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date 2002/9/10(火)09:17 困ぺい糖さま 陸軍内部人事抗争は非常に理解が難しいと思うのですが、ノモンハン事件についていえば関東軍といえども新編師団または建制上の単位を軍の隷下に置く事はできないはずで、中央の承認=勅令がなければ動かないはずでず。 すなわち、6月までの事態は第23師団中心の戦い(と言っても小松原のもとに火力や戦車を集中したが)であり関東軍がある程度東京の幕僚との打ち合わせで中支派遣軍の一部の流用などを行なえたにしても、それ以降は不可能と思われます。 また当時の帝国陸軍の1個師団は強力で3万人弱の兵力があったと思われます。第23師団も本来3.5単位程度の師団ですが、編組編組で後半には師団というより兵団という言葉がふさわしい状態だったと思われます。総員増加は大隊定員を増やす方法で行なわれており、当時の1個大隊は1250人と普通国の750人より相当多かったようです。このため連隊死傷率を当初定員(900〜1000)と比較して算出すると異常に高い数字となってしまう傾向があります。 第23師団が実質全滅したなどとマル歴が書くのはこのためですが、休戦協定成立後もこの師団がピンピンしていたのは事実です。また連隊のうち戦闘参加者にたいする死傷者の割合により損耗率を算出する方法をノモンハン事件からなぜか防衛研究所は採用しており紛らわしいこと夥しい結果となります。ただ戦闘期間中補充に問題があったとは思えません。 また関東軍は所論の通り植民地軍であり、応急に補充する体制を整えていました。代表的なものは独立歩兵連隊で、損耗した各連隊に補充要員として配属されています。 またノモンハン事件を停戦に持ち込んだのは昭和天皇ではないでしょうか。昭和天皇に戦闘結果がどの程度、どの位正確に知らされていたかははっきりしません。ただ参謀総長が閑院宮のため責任回避の必要があり、宮が指揮している戦闘を中止させるのには隠蔽工作も必要だったのではないかと推定するのですが。 プルーフとしては当時省にいて政治的には脳天気な有末精三が「関東軍作戦青年参謀達の越軌の構想を(参本が)抑えられずに突入したノモンハンの戦闘、軍中央部(省)もこれを掣肘しきれずにー略ー大命を拝し漸く停戦、事なきを得た」と書いています。 当時の省部軍人の思考の脈絡としてはこのようなものではないでしょうか。ただ7月に奉勅命令により4個師団の集中が決定され、その後それが覆される結果となっており、理解に苦しむところです。昭和天皇は冬までに一撃を加えることを考えたかもしれず、またジューコフの攻勢で考え直したか、ヒトラーのポーランド侵攻で考え直したか、個人的にも結論を出せないでいます。 なおヒトラーは5月に大島に独ソ協定成立の可能性について日本の了解を得るようにリッペントロップに命令しましたが大島はノモンハン事件の発生により東京への発電を拒否、ヒトラーが延期した経緯があります。昭和天皇の反ヒトラー意識は強く、あるいは独立ポーランド消滅による独ソ戦開始を見越し、ソ連との紛争に終止符をうつべきだ(=単純にヒトラーの味方はしない)と考えたのかもしれません。 別宮 |
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date 2002/9/10(火)12:56 別宮様 ノモンハン事件の後始末で毎度解釈に困ってしまうのが指揮官等の責任、処分問題です。 小松原が自決しなかったのはけしからん的ないわれ方がされますが、勇戦敢闘して戦場離脱に成功した指揮官が自決の必要などなかったはずです。ただ、死んでいった将兵(部下)への個人的な鎮魂感情は保持したと思いますが。 この事件で予備役編入された将官が普通陛下への拝謁を賜れるのに記帳のみで門前払いされたとあとで怒っていますが、昭和天皇としても顔を見れば何か言わねばならず、穏便に収めるために拝謁は避けたと思います。 昭和天皇の関与があったという点は実はあまり考えていませんでした。ただ、やはりポーランドのことが念頭にあったのではないかと考えます。つまりご指摘のように新編4個師団にてソ軍に打撃を与える事をねらったとしますと、現地軍の功名稼ぎとはいえ、ソ軍側が第一弾を撃ったと解釈したのではないでしょうか。 もちろん一応の推測ですが、プルーフとろうにも当時の政治家軍人の言が形容詞に韜晦した、別の言い方からすると断片的で歯切れの悪いものが多いため、真意を量りかねる部分が多いのも事実です。 陸軍の内部抗争に戻しますと、日ソ戦については参謀本部(東京)で腹案、試案が常に練られているのに派遣軍(関東軍)が余計な事をしてくれたという部分もあったと思います。ただ、作戦主導権が東京に移るに従い辻などは母屋をとられたと感じ、これが荻洲(第6軍司令官)等への悪罵のもとという気がします。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/11(水)09:07 困ぺい糖さま 外交と戦争はクラウゼビッツの言をまたず切れないのですが、1939年5月から1941年7月までは日本にとり極めて難しい時期だったと思います。 とりわけ日本のように首相が機能しない政府(結ぶのは閣議だけ)だと、その両者を結ぶのは困難です。また当時の議会は陸軍に広範囲な予備費を認めていましたから、5個師団程度は閣議決定だけで動員・集中ができました。 すると外交と戦争を結ぶのは昭和天皇しかなく、軍部といえどもそこは動かせなかった、軍部外交など存在しなかった(対中工作を除く…但しアグレマンとれず全部失敗)と思います。つまりモスクワと休戦交渉するには外務省を経由する他ありません。中国に対し、外交工作ができた、一応ルートをつけられたのは中国も近代外交を理解できないためでしょう。 そして当時の省間折衝のやり方は陸軍省の政務局員が外務省の各局員とレベルをそろえて話すだけです。石原莞爾(参本作戦部長)も船津工作をやるには、作戦課員を外務省東亜局満支課に派遣して交渉させていました。ノモンハン事件のように大きな紛争となった場合、陸・外の交渉で収まるとは到底思えません。その意味で犬養から東條の間は首相・閣議双方が機能しないので、昭和天皇が判断せねばならない局面が多かったと思われます。昭和天皇はこの間、一人で書類に埋もれ女官も何事が呟いている天皇に近づけなかったといわれます。 当時戦況について上奏できるのは参謀総長・参謀次長・作戦部長の三人ですから、この三人が嘘の上奏をすれば極めて厳しいことになります。また昭和天皇は参謀総長以下の人事権をもっていませんでした。(三長官合意)これは推定ですが、辻の思い込みにより参本の三人はジューコフ8月攻勢で敗北したと信じ、敗北で上奏したのではないでしょうか。当時東京は戦況の分析は関東軍参謀部に頼るしかないためです。 かつてチャーチルは三軍の長、最も獰猛な陸軍の将軍、最も狡猾な海軍の提督、最も敏捷な空軍の空将を集めて、戦争開始についての意見をきいてみたらどうか?その三人の答えは決まっている。英国人のなかで最も臆病な人間が出す結論の総和だ。…と言いました。 この言葉は日本にも当てはまるのではないでしょうか。東條・田中・服部・辻が陸軍を掌握するまで、陸軍首脳部に好戦的な男はいないようにみえます。つまり戦争開始にはいずれも反対、(始まれば)早期講和を叫んだようにみえるのですが。この点で昭和天皇はどうだったかは興味を引きます。第一次大戦末期ルーデンドルフは14ヶ条受諾を叫び、自由主義政治家首相バーデン公マックスはそれに反対したことが思い出されます。 別宮 |
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date 2002/9/11(水)12:21 毒電波さま 最近、私は体にクロムを入れて毒電波発信の修行をしています。 私の考える幕府崩壊の原因は以下の三つです。 私の思考回路を示します。 以下余談です マルクス主義云々より、その教授があまり頭がよくないのではないかと思うのです。 |
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date 2002/9/11(水)12:57 別宮様 1939年から1941年まで昭和天皇が軍事、外交の総覧をしなければならなかった事情はよくわかりました。 はじめの疑問については、たとえば、別宮様が言われるようにノモンハンのジューコフ攻勢の結果について参謀総長等から事実と異なる報告が上奏された場合、カウンターとるすべがあったのかという疑問があります。 また、ポーランド覆滅後の独ソ戦までは予想されていたとして、英仏の宣戦、1940年5月の仏の敗北までは見通していられたのでしょうか。 昭和天皇独白録に戻りますと、張作霖事件で田中の上奏に嘘があったので叱り付けたが、若気の至りであった、それ以後は内閣の上奏はベトー(本では拒否としている)しないことにした、とあります。なら、統帥部からのものは?とも思われますし、ベトーという仏語表現をなぜ使ったのか、本当にただの拒否なのか疑問が生じました。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/11(水)20:19 青山里戦闘ですが韓国では日本軍25000をゲリラ2000が包囲、3300人を殺害したと学校で教えています。 |
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date 2002/9/11(水)21:27 すみません即日レスを返す予定が恥かしい事に マルクス的歴史観の内容は驚きの連続で・・・・ 私の好きな作家さんがよく「マルクス的歴史観では日本の歴史は理解出来ない」と レスにおいて皆さんの意見は大体私の考えた範囲と大差なく安心しました。 軟体金属様 追記軟体金属様 困ぺい糖さま カカニア人 |
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date 2002/9/12(木)02:02 昭和天皇は、日米開戦を避けるために尽力されたことは事実であり、同時に終戦のときに尽力されたことも事実です。 |
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date 2002/9/12(木)05:04 農民層の分解が本格化したのは明治以降です。 ところで、農民についての考え方は薩長と土で違いあると思います。 徳川政権の崩壊は、確かに京都政権樹立、軍事力の勝利、そして幕府の自己終結でしょう。そして、もし、その3条件がそろってなかった場合、幕府と雄藩による連合政権か幕府存続から近代政権への移行などが考えられますが、最悪の場合、「竜馬がゆく」の記述から推察されるように可能性として日本全土の内戦になったかもしれません。 竜馬の役割について近年は過大評価すべきでないとの説があるも、慶喜の政権譲渡は評価されるべきかもしれません。 |
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date 2002/9/12(木)09:10 mokuzouさま ご紹介いただいたサイトはおそらく韓国のものと推定されますが、マイクロソフトのブラウザーでよく見ることができませんでした。 青山里の戦闘は通常の匪賊討伐で警察の一部が羅南周辺でなにかした程度の話ではないでしょうか。11人死亡すら疑わしく、サイトの5個師団動員は空想意外の何者でもありません。 またこのでっちあげ作者は軍隊を動かすことがどのようなことか全くわかっていないのではないでしょうか。軍隊とはいわば役所の一部であり、たとえば霞ヶ関にいる国土交通省を戦闘配置につけるようなもので、本国(根拠地)との通信・補給がつながっていることが国軍の証明です。それでなければ国策の遂行と継戦能力の維持は達成されません。 これがために戦争行為を目的として、戦闘序列が発令されます。そして参謀本部は制令線を定め、独立して行動できる単位、例えば師団がある程度独断で行動できる地域を指定します。軍隊(歩兵連隊)が普段いるのは連隊本部にある場所で、師団の戦闘序列には定例連隊などに加え新たに野砲連隊・偵察大隊・工兵連隊などを加える必要があり、さらに歩兵連隊には定員を充足させるため予備役を充員召集令状をもって召集せねばなりません。 帝国陸軍で戦闘序列を発令することは奉勅命令(天皇の勅旨にもとづいて参謀総長が命令すること)であり、予算措置も別途必要なことから現在のインド洋への海自出動以上に面倒な手続きです。韓国人は君主国における近代的軍隊を保有した経験がなく、反面現在は全員徴兵制で兵士経験があることから、帝国陸軍の動かし方について理解できないのでしょう。 以上のことから複数の師団が同一地域に(独立)分遣隊などを派遣することは帝国陸軍は土台できない組織となっていることは容易にわかると思います。師団Noも全くわかっていないとしか言い様がないのですが省きます。日韓歴史論争なるものも相手がこれだけ朱子学にこりかたまっては意味をなさないですね。 別宮 |
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date 2002/9/12(木)09:46 困ぺい糖さま まず昭和天皇のうけた教育ですが、軍事教育についてほとんどなかったと思われます。また興味の点ですが、自然科学と(漢籍でなく)和歌に傾斜しており、そこからも軍人趣味とは縁遠いものがあったのでしょう。 昭和天皇もあとで述懐されていますが、演習の統監説明などは退屈だったとしており実際は眠たかったのではないでしょうか。当然陸大優秀者の進講なども同じと思われます。この辺りは第一次大戦前のジョージX世やニコライ二世の感想と同じです。つまり武器オタクとか軍事オタクの反対の正確で、軍はむしろ図演や兵棋演習などのシミュレーションに誘えばよかったのかなと思われます。 陸軍教育としては秩父宮が代表していたわけですが、秩父宮は陸海軍分裂などに嫌気がさし陸軍(軍部)独裁を主張、昭和天皇と対立していましたから、役を果たさなかったと思われます。 情報の点ですが、軍事・外交情報をライン以外からのルートで取得することは当時も現在も不可能ではないでしょうか。太平洋戦争勃発以降も反東條の意見について有責のもの以外からの意見をむやみに取り上げることはできないと言っておられます。ただこの時東條贔屓であり割り引く必要があるかもしれません。 つまり陸海軍の最高司令官だが、軍事教育も興味もなく情報はラインからのみしか伝わらないという前提で判断するとどのようになるかと考えるべきでしょう。 それとベトーですがこれはフランス語の外交用語で、明治末の教育としては普通の発言ではないでしょうか。やや大国がかっていますが当時の万国公法はこのようなものでした。つまり(ヨーロッパ)5大国の一国でも反対すれば成立しないの類です。 ベトーと統帥の関係ですが、昭和天皇のベトーとの係わりは軍事と外交(休戦交渉・軍事同盟)のみに生じています。予算や文部行政でもあとで怒っていますがベトーについて考えることすらしていません。 そして軍事・外交についてはベトー否認の対象とならず、つまり内閣の助言を必要としない統帥上の事項と考えておられたと思います。もちろん軍令参謀部の助言については簡単に整理していたとは思えませんが…。また開戦の決断となると更に難しくなりますが、内閣が有責と考えたと思います。 別宮 |
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date 2002/9/12(木)12:34 別宮様 情報ルートがラインのみとして、上奏(報告)が事実と離れていると、おっしゃるとおりこれはきつい事になりますね。 ただ、いくら報告が善意で解釈すれば冗長を排すべく押さえられても、裁可が必要なもので報告されるべきものはされるのでボリュームはどうしても膨れ上がるのではないでしょうか。 アメリカの例ではレーガンは本文はA4半分(!)での報告を要求し、それでも読みとおす途中で白河夜船だったと当時の報道官はあきれて述懐しています。JFKはさすがにA41枚要求でしたが、整理が下手なためにいつも机の上で書類をなくして大騒ぎだったとか。 昭和天皇の自然科学的な素養からは数多く集まりしかも断片的な情報からロジカルに類推することはお得意だったとは思われます。しかも演繹に悪戯に走って誇大妄想的な部分がなかったのは救いという気がします。ただ、実戦体験はありませんので、ヒトラー式の見切りの速さは望むべくもありませんが。 軍事素養についてですが、陸軍大演習等は実施する側も年に1度のセレモニーイベントという気分があり、いろいろ総花的に開陳すれば事なれりの部分が強かったのでマンネリ化もして、仮にどんなに軍事に関心が強くてもあくびの一つも出たのでは。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/12(木)13:24 別宮さま 有難うございます。 一方 |
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date 2002/9/12(木)18:46 毒電波ゼロ加奈子様 どぉぉぉぉぉしても、社会変革は経済が原因で、幕藩体制も農家がだめになったせいだ!と言い張るお方には以下のとおり反論してみましょう。 よく上記の説の根拠とされる米主体の石高制が貨幣経済の浸透で崩壊して、幕府、藩の財政は圧迫されるは、貧農層は年貢の重みと借金のカタで農地は取られて小作に転落するはで大変であった、という通説から疑っていきます。 当時の年貢の負担率(七公三民、六公四民)が重たいかというと実はあまり高くありません。たとえば、現在日本の企業で事業利益に対する法人税、事業税あわせた実効税率は49%とされ、諸外国より高い!ということが良く言われますが、実際は各種減免措置により、そこまで行っていません。ばか儲けしても30%台後半では。 さらに言えば、百姓なる言葉は武士、公卿、坊主、商人以外のすべてを指す言葉で、いまだに百姓=農民という人は同じマル歴上りの網野史学も知らない事になります。 小作に転落してもカカニア人様ご指摘の二宮尊徳の例もあるように、また自作農にカムバックする者はいっぱいいましたし、そういう者を日本の地主はよく応援したほうだと思います。 貨幣の浸透による幕藩財政云々も実態は各藩とも大阪蔵屋敷を前線基地に船場の相場にて換金をはかったわけで、この辺は短期国債、公債の発行業務そのものでした。ただし、当然市場の原理に身を委ねる事になりましたので、相場が下がれば欠損(償還不能)を生み、そのタイミングで一番ババを引いた藩がひどい目にあうのは為替差損で泣く企業がいる現在と変わりません。 幕府も負けてはいません。小判の金含有量を下げる改鋳を幕府の衰えと言い募る向きがありますが、この世の万物の交換価値を単一のマテリアルで固定する事が国の経済にとっていかに危険か枚挙に暇がありません。 ちなみにマル経の人ほど金銀などのマテリアルにこだわる性質があります。1972年アメリカは金とドルの交換を停止、通貨価値は他国通貨やその時の市場に則る変動相場制に移行しましたが、ベトナム戦の戦費負担もあって米も日も衰退すると主張したのがこの人たちでした。生活水準が米国でイタリアなみに落ちるから、日本などインド以下だとはやし立てましたが、あれからちょうど30年、結果はご存知のとおりでしょう。 いますいます、こういう人は。○○に会って目が覚めたとか、××のおかげで物の見方、人生観が変わったとか言う人が。こういう人は大概うまく行かないと◇◇のせいだと言い出すので、この世の悪い事はみんな金持ちのせいだという言葉は心地よいんでしょうね。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/13(金)00:44 別宮様 具体的に昭和天皇が1939年夏の情勢を判断されたか考えてみないと片手落ちになると思います。 ノモンハン事件をソ連よりの侵略として、増援を裁可された段階でのモロトフ・リッペントロップ協定締結は寝耳に水であったろうと思えます。 ここらへんはラインの公式情報とメデイアの公開情報からのみの情報入手を考え、無意識にパターンマッチング(認知工学用語、MITのミンスキーらが提唱。人口知能設計概念で人は経験値踏まえて論理式で完全な一致見なくても近しいものを取捨選択するという思考方法)をされたのなら、こんなことをお考えになった公算が大きいなという私の考えです。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/13(金)08:52 困ぺい糖さま その通りで昭和天皇は迷信や精神論を嫌い科学的・論理的な見方を常に主張していました。分類学的な見地もその通りで生物学はとりわけその色彩が強いと思われます。おそらく法律や経済についてもその考え方だと思います。天皇による内閣の決定に対し反対することをベトーといったのは、完全に天皇機関説を支持していることの現われでしょう。おそらく枢密院や元老などの憲法外の機関についても同様の分類の仕方をしていたと考えられます。 またこれも沢田茂の見解ですが、天皇は常に陸軍に反対だったと言っています。即ち下のような図式となるでしょう。 満州事変 陸軍…賛成 天皇…反対 立憲君主制の君主は国民の声を過大にまで斟酌しますが、昭和天皇がもし批判されるとすれば国民世論をあまり考えていないことでしょう。このあたりは自然科学者の面目躍如の観があります。すなわち少なくとも満州事変は国民に人気のある戦争でした。 一方、陸軍首脳部についていえば、東條一派が出るまで石原らクーデター主義者を除きまともな人間だったと思えます。すくなくとも外交官よりはむしろ小市民的だったとすら思えます。戦後いろいろ海軍や服部に言われていますが多田・沢田・梅津・畑らはむしろ立派な教養人で海軍軍人や外交官とは異なり嘘はつかずまたいずれも消極的ながらも日本の窮地を救っています。地味でマスコミはとりあげませんが。 それではなぜまともな陸軍軍人と天皇の間にこのような懸隔が生じたのか?それは昭和天皇は分類学的な見方でことを処理する、すなわちこちらから第1撃をうつことには反対だがもし撃たれたならば、徹底的に反撃するという考え方をとっていたのに反し、陸軍軍人はイニシアチブを重視したのではないでしょうか。すなわち陸軍軍人はインシアチブをとれる軍事行動には賛成していますが、敵にとられた場合は逃げるだの調停だのあいまいな態度に終始する傾向にあります。 陸軍軍人の当時の(現在でも)教育は統帥の最も重要な目的はイニシアチブの確保(行動の自由の確保)ですから、これは埋めがたい溝です。結局軍人は政治から引っ込んで与えられた職務に万全を尽せということになるのかもしれません。外交で現代のマスコミが言うように年中イニシアチブをとっていたら、幾ら金と力があっても足りません。 別宮 |
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date 2002/9/13(金)09:28 mokuzouさま 青山云々はともかく、間島出兵はありました。1個連隊程度が朝鮮駐冊師団(内地から交代で1個師団がソウルを中心に駐在;このとき朝鮮の羅南・竜山を師管区とした第一九と第二〇はいずれも進出なかばで内地扱い。第一九は仙台第13(廃止予定;山梨軍縮)の代わりで実際には仙台地区から、第二〇は大阪から徴募されており、当時まだ将校を除いて朝鮮人から募兵していなかった。つまり朝鮮軍という単位は帝国陸軍の朝鮮駐冊師団をさす言葉です。)から派遣されました。(シベリア出兵師団ではない) 間島とは当時朝鮮人が満州東南部を指して呼んだ呼称であり、そこでは中国人と朝鮮人との間で武力紛争が絶えませんでした。当時朝鮮人は日本人でしたから総督府は朝鮮に住む朝鮮人の応援すべきだとの声におされ出兵を決意したものです。これには中国・官民の大きな非難がありました。満州のこの地区は従来から朝鮮人が居住したのを中国人が圧迫したわけです。ですから朝鮮人と日本人の戦闘が生じるわけがありません。これ自体は歴史の単純な事実を追えば簡単にわかる話であり、議論の余地はないのではないでしょうか。ここで朝鮮人の満州帰属をめぐるクレームについて論及する必要もないでしょう。 朱子学のためか、朝鮮人(韓国人)は中国人に圧迫されたことに目をつぶります。実際はポーランド人がロシア人には全生理的な憎しみを感じるのと同じことでしょう。小さな国の人々が、世界史のなかであまりにも自己の果たした役割が小さいことを卑下することはよくあることです。朝鮮に限ればそのような必要はないのですが、朱子学はその当時の人々がいかに苦闘したかについて無理解です。日本のマル歴はバックボーンが朱子学なのでしょう。南朝正潤論のあと後南朝の画期的な戦いの幾つかについて戦前随分著作がありました。その著者の多くが戦後マル歴に転換しています。 1個連隊(4000人)が野営しながら半年もウロウロすると10人程度は死ぬものです。アフガニスタンでアメリカは既に41人死亡しています。戦争とは、作戦計画をもって敵野戦軍の殲滅を目指すものであり、治安出動とは根本的に異なります。 別宮 |
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date 2002/9/13(金)13:33 別宮様 軍人がイニシアチブを渇望するのは洋の東西を問いません。 ドイツ軍人の回想録における「俺が、俺が」的記述は有名ですし、CBI戦線司令官のスチルウェルは蒋介石お雇い顧問から現役復帰したシェヌー(シェンノートとする本が多いがフランス系米人なのでこちらが正しい)から航空戦指揮権をもぎ取るのに最後まで苦労しました。 冷戦末期、ICBMの精度向上を受けて、ヘッドカッテイングなる作戦理論が生まれました。敵国指導部をピンポイントで潰して指揮管制能力を奪うというものですが、逆に重しが取れて実戦部隊がイニシアチブとって気ままに反撃してきたらたまらないというクレームがでて沙汰止みになったそうです。制服の側からこんな言葉が出るのは驚きだったとされています。 JFKをキューバ危機の際罵倒したルメイもそうですが、専門馬鹿といわれる人ほどおのれの職掌が国家の安危とか重要なものであるほどトップに好きにさせてくれと言い募ります。しかし、大概官庁、大組織の日常様式に行動が規制されますから、自ずと思考に限界が生じます。 つまり、敵兵や、敵タンクを際限なく潰し続ける事はできても、停戦のタイミングはつかめないの意です。帝国陸軍が仕掛けられたいくさからすぐ逃げようとするのは生活基盤が壊されるとともに自分が押し付けられた状況の中で日頃思い描いていた行動が取れないのを嫌がるためといえないでしょうか。 ノモンハンの場合も昭和天皇のモロトフ・リッペントロップ協定という予想外のカウンターの内蔵する条件を瞬時に勘案し、ソの停戦意図まで類推しつつ交渉を指示した類推力と判断力には尋常でないものを覚えます。 昭和天皇にとって能吏然とした東条をひいきにし、それ以前の軍首脳達とはうまく行かなかったという事は近現代における君主と臣下の関係を象徴していると思います。つまりかつての王様対貴族の個人同士(家柄同士)の関係から、組織人とそれから超越した存在との対決になりますが、クラフツマンには土台忖度できない部分があり、その苛立ちが時に軍人達の大逆的とも取れる言辞につながったのかと思います。 おっしゃるとおり陸軍人は陛下や国民にあまりたちの悪い嘘はついていません。今回外務官僚はとりあえず置いておくとして(言い出せば切りがない!)、海軍人の嘘はやはりおのれの生活基盤(ハンモックナンバーに代表されるヒエラルキー、一人当たり陸軍の何倍にも当たる予算、常に用意される最新鋭のマテリアル)を日本の国内でもひどく特殊なものと見て、過剰防衛を図る意識が強かったのではと思います。 山本、古賀亡き後シンパシー持つ者のいなくなった戦艦大和を平然と特攻に出すところに、チャーチルの言ではないですが、あざとさを覚えるのは私だけでしょうか。 困ぺい糖 |
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date 2002/9/14(土)09:07 困ぺい糖さま ご指摘の通りで昭和天皇の判断力は当時の周囲にいた人士を圧倒していたと思います。それでも能吏でありまた無法者(新聞記者を殺害の目的をもって召集、サイパンに送るのは、当時の陸軍刑法でも量刑相当にあたると思います)の東條を重用するにはやはり距離があります。 それでも東條を陸相にしたのは三長官(直接には沢田の推薦、東條は多田と対立しておりその更迭を画策したことがあり、いわゆる人事好きとみられていたことから疑問とされる)であり、昭和天皇はタッチしませんでした。首相には木戸が選んだとされていますが手遅れでしょう。単純な疑問ですが宛がい扶持のような形で陸相がそこにいたならば、君主はどう接するべきかなどと考えてしまいます。 ノモンハンに戻りますが、始原的な問題として満蒙国境を誰が明示したかという問題があります。磯谷の言によると1939年初頭上京のおり、中央(部)でハルハ川を国境とすることを明示されたと言います。そして「満州が嫌いなのに(俺は)無理にやられたのだ」と言ったそうです。(額田坦回想録) これを稲田などは否定し額田は磯谷よりの発言をしています。しかし、この磯谷の発言は矛盾を含んでいます。なぜ国境線の問題を上京時話す必要があったのかはっきりしません。国境の敵側の防衛線の情況を話すことがあっても問題となる国境線の話をタイミングよくその6ヶ月前、東京に出かけていって話すのは、やや理解できず無理があります。 この事件は当初段階は国境警備隊同士の喧嘩ではなかったかと思います。日本側の記録でも当初の戦死者は蒙古人が多かったとしています。磯谷がハルハ川が国境だと思い込み、第32師団にその線まで敵を撃退すべきだと植田に具申したのではないでしょうか。額田の言によれば昭和天皇は「国境線はどこなのだろうか?」=明示の必要は?とご下問されたそうです。 この段階でソ連側は外蒙東部に集中を開始しました。このためにソ連側は事前に非経済的な盲腸線をシベリア鉄道から延引しています。ソ連の策源地はチタ・オムスクで日本は新編師団となれば内地です。動員速度はソ連有利であることは疑えません。絶好のキャンペーンシーズンである8月のソ連側攻勢がある程度成功したのは当然でしょう。そこで4個師団が到着し、かつ休戦となるので、日本側の動きがおかしいのです。またジューコフ攻勢は日本側の集中遅延を見越して6個師団で日本の2個師団(ソ連式換算だと3.5個師団の実力はあったと思われる)に襲い掛かったもので、これは侵略行為とみなせなくもありません。 一つに被害が大きかったという問題はあるにせよ、ご指摘の通りでポーランド情勢の進捗によったと思われます。昭和天皇はドイツの防共協定違反の信義則に反した行為を怒り、仮想敵ソ連と抗争する必要はないと考えられたのかもしれません。 別宮 |
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date 2002/9/14(土)19:46 主に困ぺい糖さまへ すみません私は大学生でございます(笑) しかし最大の疑問はなぜこのような価値観や考え方がはびこったのでしょう? |