経歴

1975年5月 東京都にて生まれる。
1982年4月 小学校に入学。
1982年4月〜1983年3月
(小学校一年生時代)
家でも学校でもそれなりに良い子にしていたと思う。
この頃は、まだ「いじめ」も受けていなかったし、友達もそれなりにはいたと思う。
学校の成績は、中くらいだった。
1983年4月〜1984年3月
(小学校二年生時代)
一年生の時同様、家でも学校でもそれなりに良い子にしていた。
また、この時、人生で初の「彼女W」ができる。「初キッス」も体験(何て「マセたガキ」だったんだ・・・)。
さらに、「ラブレター」もしばしば貰っていた。
学校の成績は、中くらいだった。
1984年4月〜1985年4月
(小学校三年生時代)
この頃より、徐々にではあるが、「いじめ」を受けるようになる。
また、通知表の「友達と仲良くできる」という項目で、初めて「できない」との判定受ける。
つまり、この時期から、既に「対人関係を円滑に営めない兆候」は出ていたということである。
学校の成績は、中の下くらいだった。
1985年4月〜1986年3月
(小学校四年生時代)
「ファミコン」「漫画」にハマりだす。
「ファミコン」は、「スーパーマリオブラザーズ」「漫画」は、「キン肉マン」が大流行しており、私もハマった。
学校の成績は、中の下くらいだった。
1986年4月〜1987年3月
(小学校五年生時代)
この時、丁度世間では、「ドラゴンクエスト」が発売され、大流行していた。
私も購入してハマった。私の「ドラクエ病」が始まったのも、この時である。
また「漫画」では、「ドラゴンボール」が大流行しており、私もその時から長期に渡り、大ファンとなる。
さらに、自作の漫画を大量に描いていたのも、丁度この頃であった。
上記の様に、急速にマニアック化していったのが響いたせいか、勉強は全くせず、学校の成績は一気に下降し、下の中くらいになってしまった。
1987年4月〜1988年3月
(小学校六年生時代)
「ファミコン」「漫画」に死ぬ程ハマり、学校の成績は「壊滅状態」となってしまった。
なお、この頃「社会現象」とまでなった、「ドラゴンクエスト3」が発売され、私は、家電量販店で徹夜して並んで購入し、ハマりまくった。
1988年3月 小学校を卒業
1988年4月 中学校に入学
1988年4月〜1989年3月
(中学校一年生時代)
手ひどい「いじめ」に遭う。
休み時間になる度に、「プロレス技」の実験台にされたり、「ボクシング」のサンドバックにされたり、「パンツ」を脱がされたり、「お前なんか死んじまえ!!!」と暴言を吐かれたり、実に辛い日々で、何度か本気で「自殺」を考えたこともあった。
また、部活は「バドミントン部」に入ったが、技術が下手な私は、その部で、最も技術の上手い「F」に多大なる「いじめ」を受けた。
なお、私生活では「ファミコン」「漫画」に没頭し、学校の成績は下の上くらいであった。
また、秋頃、「喘息」で初めての入院を経験する。
1989年4月〜1990年3月
(中学校二年生時代)
クラスに、「悪魔の様な人格を持ったA」がおり、その「A」に徹底的にいじめられた。
また、「部活」では相変わらず、「F」による執拗な「いじめ」が続き、ついに二学期で、部活を退部。
なお、私生活では相変わらず「ファミコン」「漫画」に没頭し、学校の成績は下の上くらいであった。
1990年4月〜1991年3月
(中学校三年生時代)
「受験学年」である三年生になったのに、「受験勉強」はほとんどせず、「ファミコン」「漫画」にハマっていた。
なお、三年生時は、あまり「いじめ」は受けなくなったものの、クラスでの存在感はゼロであった。
結局、「受験」は単願で、偏差値が50くらいの男子校(現在は共学。偏差値は55程度に上昇し、「日東駒専」輩出が最も多い「中堅レベル」の進学校に成長)に合格。
1991年3月 中学校を卒業
1991年4月 高校に入学
1991年4月〜1992年3月
(高校一年生時代)
運悪く、「ワル」をたくさん集めたクラスで、クラスの半数程度が「ヤンキー」であった。
顔に唾を飛ばされたり、カバンにガムを引っ付けられたり、「俺よう、お前みたいな奴見てると、いじめたくなってくんだよ!!!」と暴言を吐かれたり、弁当を取られたりする等の「いじめ」を受け、毎日学校へ行くのが辛かった。「自殺」を考えたこともあった。なお、学校の成績は、周囲がアホばかりだったので、上位だった。
また、高校一年生時、初の「アルバイト」を経験(ファミレス)
1992年4月〜1993年3月
(高校二年生時代)
一年生の時より、「ヤンキー」の少ないクラスだったが、一年生の時の「いじめ」「トラウマ」から、登校から下校まで、誰とも一言もしゃべらない日々が続いた。
クラスでは、「自閉症」扱いされ、「○○君」「君付け」で呼ばれていた。
「不登校」をしたこともあり、一時は本気で「中退」も視野に入れたが、当時の担任の先生の必死の説得により、復帰することとなった。
なお、学校の成績は、中の上くらいだった。
1993年4月〜1994年3月
(高校三年生時代)
「受験学年」である三年生になり、「予備校S」に通い始めた。
そこは非常に「熱血講師」の多い(特に「塾長Y」は、「超人」とも言える人だった。授業中のキレかたは尋常でなく、青スジをたて、目を血走らせ、「顔を洗いに行ってこい!!!!!」と凄まじい勢いで大激怒するのである。しかし、それは正に命をかけているのではないかと思わせる程、凄い迫力だったし、それ程までに「その一人の生徒の事」を考えているのかと思うと、感動で胸が一杯になった。また、「この授業の緊張感」は、体験した者でないと絶対に理解できない。「激高させた時の瞬間」と言ったら・・・(言葉にならない)。これまでの人生で、私を最も変革させたのは、「Y」である。断言する。現在「Y」「高校の理事長・校長」も歴任。「高校の理事長・校長」「カリスマ予備校の塾長」・・・私にとっては人生最大の「教育者」である)、「凄く厳しい予備校」で、これまでの人生に無い「大変なカルチャーショック」を受けた。
「塾長Y」以外でも、パンク風の兄ちゃんの様な「講師K」にも大変お世話になった。
しかし、「厳しい講師」が多かったお陰もあって、今までにない程勉強量も増え(一日15時間勉強を継続すること一ヶ月・・・という「驚異的なテンション」で勉強をした時期もあった)、今までの人生の中で、最も勉強したのは、間違いなく高校三年生の一年間であった。
学校の成績も、クラスで上位だった。
しかし、高校二年生まで全く大学受験の勉強をしてこなかったので、その遅れが響き、現役時代は受験した大学は全て不合格だった。
1994年3月 高校を卒業
1994年4月〜1995年3月
(浪人時代)
高校を卒業後、浪人生活に入った。
最初は現役時と同じ「予備校S」に通っていたのだが、現役時にあれほど「師事していたY」があまりにも恐く、その恐怖心で、夏場あたりから「予備校S」へ行くのを止め、宅浪生活に入った(これは、「人生における第一の誤り」であったと、今でも後悔している)。
「宅浪生活」に入ってからは、全く勉強しなくなり、オタッキーな日々を過ごしていた。
それが響いたのか、「合格」したのは、「五流の私立大学」になってしまった。
1995年4月 大学に入学
1995年4月〜1999年3月
(大学時代)
大学時代は「優等生」を絵に描いた様な生活を送った。
講義は必ず一番前の席で受講した。何故なら、それが「教授への礼儀」だと思ったからだ。
もっともそのせいで、後部に座っているヤンキー軍団に、テスト前に徹底的にノートをタカられる羽目になってしまったが・・・(特に代表格だったのが、この大学一のワル「Y」)。
学校の成績も、最終的に「優」を30個以上取得し、卒業時には、「学業優秀賞」を受賞し、「首席」で卒業した。
もっとも、「五流大学」でのことなので、大した事ではないが(当然、大した事ではないので、達成感もあまりなし。前述の「予備校S」での「モチベーション」の5分の1」・・・)。
なお、「ゼミ」では、「ゼミ生の鑑」と言われ、「卒論」は夏には完璧に仕上げ、「模範論文」と評された。
しかし、その「ゼミ」は、得体の知れない学生の集まりで、卒業寸前まで「卒論」を書かず、非常勤講師を激高させたという大馬鹿野郎もいた(この大学は、非常勤講師に「ゼミ」を持たせていた・・・何て大学だ)。
また、大学時代は、4年間ずっと、「地元のスーパーS」でアルバイトをしていたが、そこでの評価も高く、「アルバイトの鑑」「準社員レベル」と評された。
アルバイトで貯めたお金もほとんど遊びに使わず、貯金して最終的には200万円ものお金を貯蓄するに至った(もっとも最後の最後に、「アメリカ旅行」「ヨーロッパ旅行」には費やしたが)。
だが、一般の大学生がやる合コン等には一切参加せず、今思えばもう少し遊びもしておく必要があったような気がする。
その他では、毎朝5時に起床し、数キロのジョギングをしていた。
そして就職活動の時期になり、そのアルバイトをしていた「スーパーS」から、「社員になってくれないか?」との非常に強い勧誘があったが、当時私は一部上場企業志向が強かったため、「大手のスーパー」ばかり受験し、幾つか内定を貰ったが、結局、「現在売上高日本一の某大手スーパー」に就職することに決めた(これが「人生における第二の誤り」。この時、素直に「地元のスーパーS」に就職していれば、「引きこもり」「ニート」を体験せずにすんだ。その「スーパーS」は、「小売業界」としては珍しくアットホームな雰囲気で、社員もとても良い人が多く、私も公私に渡り大変お世話になり、今でも「予備校S」「Y」に次いで感謝している)。
なお、大学一年時に「普通自動車第一種免許(AT限定)」、大学四年時に「実用英語技能検定試験2級」を取得した(「英検2級」を取得した経緯として、学歴は五流大学卒でも、英語力だけは、「日東駒専レベル」はあることを証明したかった事(「英検2級のレベル」「日東駒専の入試レベル」<2ちゃんによると>)と、浪人時代、前述した「予備校S」に途中から行かなくなって、せめて「英検2級」を取得する事で、ささやかな恩返しをしたかったから、といういきさつがある。また、英検担当の講師からは、「惜しいなあ。あと一年あれば、君なら「英検準1級」(2ちゃんによると、東大レベル)も合格出来たのに・・・と惜しまれた)。
最後に、「恐ろしいエピソード」として、大学一年生時、アルバイト先の知人とカラオケボックスに行き、そこで「アルコール」に非常に強い知人Kのペースに合わせて酒を飲んでいたら、「急性アルコール中毒」で倒れ、意識を失い病院に運ばれ、幸運な事に、一命をとりとめた。
最後の最後に、「多少泣かせる人間ドラマ」を一筆。
「前述の予備校S」に、浪人時代途中から行かなくなったことに、大学に入った後もずっと「申し訳なかった」という思いが引きずっていた。そして、大学二年の終りに、謝罪をしに「予備校S」に出向いた(おそらくその時の勇気は、人生の中で最大の勇気だったと確信している)。その時は、私は間違いなくYの逆鱗に触れると覚悟していた・・・が、行ってみると、実に優しい表情で、「俺も昔は凄い落ちこぼれだったんだよ。お前が行っていた高校よりもっとレベルの低い高校だったし、俺は別に大したことはない」という調子で、逆鱗どころか、常に私の立場にたって、優しく諭してくれたのである。この人は本当は「凄く優しい人間」なんだ、と感じ、多大なる感銘を受けた。今でも、この謝罪をした事は「正当な行為」であったと確信している。
1999年3月 「大学」を卒業
1999年4月 「某大手スーパー」に入社(正社員)
1999年4月〜1999年6月
(某大手スーパー正社員時代)
「某大手スーパー」入社(大阪の大型店舗)したが、「研修」「軍隊方式」「売り場」では、一日「百回」怒鳴られ、「課題」を山積みに出され、ろくに「睡眠時間」も取れない日々。
「うつ状態」が限界に達し、結局6月で「退職」する羽目になった。
1999年7月〜2001年1月
(1回目の引きこもり時代)
「大手スーパーでの激務」「トラウマ」となり、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」となり、約一年半引きこもった。
引きこもっている期間は、・・・いや、人に言いたくないような生活を送っていたので、具体的には言わない。
2001年2月〜2001年8月
(パソコンスクール通い+
1回目の転職活動時代)
パソコンスクールに通い、「MOUS一般(Word、Excel)」を取得。そして、「転職活動」をし、「某中小IT会社」より、「時間給社員」(アルバイトの様なものだが、この会社では、そういう名称だった)として内定が出た。
2001年9月 「某中小IT会社」に入社(時間給社員)
2001年9月〜2002年12月
(1回目の某中小IT会社時代)
MOUS一般を取得していることを買われて、「某中小IT会社」「時間給社員」として入社。
しかし、そこは非常に緩い環境であった。
仕事中にテトリスをやっている社員がいても、叱責する人もいず、正に「無法地帯」とも言うべき職場だった。
そんな会社が長続きするはずもない。
結局、2002年12月をもってこの会社は「倒産」してしまった。
なお、この会社で、異常人格者「T」「A」にも遭遇。さらに、人生で「2回目の彼女O」が出来た(1ヶ月くらいで破局。ちなみに「O」は自称「メンヘラー」ということだった)。
また、この時並行して「コンビニ」でバイトをしていたが、「対人折衝」「超苦手な私」には不向きで、2ヶ月程で辞めてしまった。
最後に、上記を見れば確かにどうしようもない会社であるようには見えるが、この会社は、私に「かけがいの無い遺産」を残してくれた。「ホームページを作成する技術」を授けてくれた事が・・・。ひいては、この技術が自分を救うことになるかもしれない。
2003年1月 「某中小派遣会社」に入社(派遣社員)
2003年1月〜2003年5月
(某中小派遣会社時代)
「派遣社員」として、「携帯電話のデリバリー」の仕事をした。
仕事は非常に楽で、ただ携帯電話を機種変更し、家電量販店に配達するだけであった。
何ヶ月かやったが、前職のIT会社でのキャリアを活かしたく、別の仕事を探すことにした。
2003年6月 「某中小IT会社」に入社(最初「アルバイト」、3ヶ月後に「正社員」
2003年6月〜2005年10月
(2回目の某中小IT会社時代)
「某中小IT会社」に入社したが、そこでは、1回目の某中小IT会社に所属している人がいた。
仕事に関しては、「パソコンオペレーター」というIT系列の業務の中では、最も「精神的負荷が軽い仕事」だった。
しかし、そのうちアルバイトや外注の「管理」を任されるようになり、さらに仕事量が膨大になってきたので、日に日に「うつ状態」がひどくなっていった。
そして、ついに「精神神経科」を受診することに決めた。
そこでは、様々な薬が処方されたが、中でも「ルボックス」はかなりの効果を発揮した。
精神的に楽になり、「出張」「外注管理」も苦にならなかった。私生活では、「ルボックス」効果で、人生で「3回目の彼女M」が出来た(半年くらいで破局。「M」は大変人格の良い女性で、この様な素晴らしい女性が私などと交際してはいけない、と感じ自ら交際にピリオドを打った)。
しかし、効果があったのは、最初の2〜3ヶ月ほどで、それからは、飲んでようやく「デフォルト」、飲まないと、「禁断症状」でけだるい倦怠感に襲われ、仕事も手につかないという状況に陥った。
そのような状況で、とうとう「休職」をすることになった。
「長い休職期間」を経て、結局症状が改善されなかったので、2005年10月をもって、「退職」することとなった。
しかし、この会社の直属の上司であった「S」「K」は、とても良い人で、この方々にお会い出来ただけでも、この会社に入った意義はあったと感じた。
なお、この会社に在職中に、「XMLマスター:ベーシック」「Webクリエイター能力認定試験上級」「イータイピング検定1級」を取得した。大した資格ではないが、この技術が私の身を救う事になるかもしれない。
2005年11月〜2006年1月
(2回目の転職活動時代)
前会社を退職後は、精力的に「転職活動」をした。
だが、ある会社の面接の前に、私の「愛読書」である「人格改造マニュアル」に記載されていた「アルコール」による「緊張緩和」を狙ったところ、「急性アルコール中毒」となって、路上で倒れ「意識」を失い、病院に運ばれたが、幸いにも一命はとりとめた。
そんな「恐ろしいエピソード」もあったが、2006年1月に、「某中小IT会社」から内定を貰った。
2006年2月 「某中小IT会社」に入社(正社員)
2006年2月〜2006年2月
(3回目の某中小IT会社時代)
「某中小IT会社」に入社したが、これまで「パソコンオペレーター」の経験しかない私に、突然「高度なプログラムの技術」を要求され、仕事に全くついていけず、すぐ「重度のうつ状態」になった。
さらに、この頃「抗うつ薬」を飲み過ぎていて、「耐性」がつき、効き目が薄くなっていたため、「うつ状態」を撃退することができなかった。
そして、ついに耐えかね、わずか3週間で「退職」することになった。
2006年3月〜2007年4月
(3回目の転職活動+
2回目の引きこもり時代)
前会社を退職後、しばらくは「転職活動」をした。
「パソコンオペレーター」を志望していたが、ある会社の面接で、
「その年で「パソコンオペレーター」じゃ未来はないよ」と言われ、「これで完全に終わった・・・」と思い、絶望感の元、それからは「転職活動」を止めてしまった。
そして、2007年4月まで、「RPG三昧の生活」を送った。
2007年5月〜2007年6月
(文部科学省勤務時代)
「RPG三昧な生活」は変わらなかったが、1日単発のアルバイトの応募をしたり、「アフィリエイト」によって、月に2000円程度を得て、また家の草刈りの手伝いをするなど、徐々にではあるが、上向きの方向に向かっていった。
そして、ついに「某派遣会社」「派遣社員」として内定を貰った。
これで、「引きこもり・ニート」「フリーター」「派遣社員」とステップアップした。
そして、「文部科学省生涯学習政策局」に派遣され、「事務業務」に従事し、時給は1750円であった。職場環境も最高で、ここでなら、期間満了まで気持ち良く働けると思っていた。・・・が「自律神経失調症」により、「自殺」をも考える程に病んでしまい、結局10日程で辞めることになった。派遣とは言え、時給も高く、職場環境も良かったのに、病気で勝手に「自滅」してしまい、非常に残念である。
2007年6月〜2007年10月
(日雇い労働+
4回目の転職活動時代+
WEB関連会社勤務時代)
「日雇い労働」「アフィリエイト」などによって、収入を得ていた。
また、「スクウェア・エニックス」の人事部の正社員の募集に対して応募していた・・・が、これは書類選考ではねられた。
さらに、「スクウェア・エニックス」のおさえとして応募していた第二志望のWEB制作会社から、書類選考通過の連絡が来た。
最初は、契約社員からのスタートだが、社会保険完備で、正社員への登用の道もある。
そして、面接が行われたが、不採用となった。
その後も、色々な「WEB制作会社」を受験したが、全て不合格になった。
そのうち、転職活動の資金が無くなってしまったので、「日雇い労働」で転職活動の資金を稼いだ。
そして、めでたく、WEB関連会社の正社員として採用が決定し、大手ポータルサイト運営会社に出向して、業務をしていたが、わずか1週間程度で退職した。
2007年11月〜2008年2月
(厭世期)
その後、内勤の月〜金のレギュラーワークに対する「適応障害」があることがわかったので、再び「日雇いバイト」をして稼いだ。
しかし、運良く派遣の官公庁のデータ入力の仕事のオファーがきた。だが、業務内容は、データ入力ではなく、会計事務という畑違いの業務だったので、即行で辞めた。
その後、以前の日雇い派遣会社と同業の日雇い派遣会社に登録し、サンプリングやプラカード持ちをやっていたが、丁度この頃、厭世観に囚われていたので、そこも辞めた。
また、前述の様に、厭世観に囚われていたため、2008年1月、向精神薬50錠をウイスキーのボトル二本で飲み下し、自殺をはかったが、すぐに救急車で運ばれ、翌日には全快し、自殺は未遂に終わった。

2008年3月〜2008年5月
(ビラ配りバイト時代)
地元のコンタクトレンズ屋のビラ配布のアルバイトをする一方、アフィリエイトで収入を得ていた・・・が5月に人件費削減によるリストラに遭い退職。
2008年6月初旬
(官公庁派遣時代)
官公庁でデータ入力(派遣)をしていたが、ちょっとしたトラブルが生じて早期退職。
2008年6月中旬〜2008年8月末
(廃人時代)
半寝たきりの日もあれば、ラグナロク中毒の日もあるなど、廃人同様の生活を送っていた。しかし、そんな中でも、ちょくちょく「データ入力」でキーワード検索をして仕事を探していたら、某東証一部上場企業の男女不問の一般事務のアルバイトという求人があったので、試しに受けてみたら、採用されてしまった。
2008年8月末〜2008年9月中旬
(一般事務時代)
某東証一部上場企業で、一般事務のアルバイトをしていたが、2週間程度で辞職。
2008年9月中旬〜2008年10月中旬
(廃人時代2)
完全に引きこもり、ラグナロクに没頭し、情けないと痛感するも、結局廃人生活を送ってしまった。
10月中旬
(インターネットカフェバイト時代)
インターネットカフェのPRスタッフのアルバイトに即決採用となり、週5日、1日6時間で働いていたが、腰痛が悪化し、結局すぐに辞めることとなった。
10月下旬〜11月下旬
(バイト探し時代)
正社員は無理だとわかっていたので、アルバイトの面接を幾つか受け、結果、業務委託で、携帯電話会社の申込書のデータ入力の仕事で内定を貰った。勤務開始は12月9日から。
現在
携帯電話会社の申込書のデータ入力の仕事開始が12月9日から始まったが、規則、管理が極めて厳しく草々に離脱。現在ぷー太郎である。


おまけ

職務経歴書