朝日新聞

臓器移植法案―参院の良識で審議尽くせ (2009年6月19日)

本人の意思が不明でも、家族の同意があれば臓器を提供できるとする臓器移植法の改正案が、衆議院本会議で可決された。

成立すれば、現行法ではできなかった脳死の子どもからの臓器移植にも道が開かれる。心臓などの移植を受けるには海外に渡るしかなかった子どもたちにとっては朗報といえる。

3年後とされていた現行法の見直し時期が過ぎて10年近い。これ以上の放置は許されなかった。

とはいえ衆議院の委員会での審議はわずか8時間。勉強会などへの出席者も少なく、態度を決めかねた議員が多い中で結論を急いだ面も否めない。

なによりこの改正案は、本人の書面による意思の表明を前提とする現行法の枠組みを一変させるものだ。

同時に提出されていた三つの改正案は、いずれもこの現行法の根幹を守っている。採決には至らなかったが、その事実は重く残る。

ほかの案の意図するところは、臓器の提供は本人の意思に基づくのが本来のあり方で、子どもの場合でも可能な限り、そうあるべきだということだ。現状では無理のない考え方だろう。

舞台は良識の府とされる参議院に移る。議論を重ね見識を示してほしい。

97年に施行された現行法の枠組みを作ったのも実は参議院だ。この時、衆議院では、脳死を一律に人の死とする法案が可決された。しかし、まだ社会的な合意がないとして、参議院が、臓器移植のときに限って脳死を人の死とするという修正を加えた。

今回の改正案は、衆議院の審議の中で骨格が揺らいだ。もともとは脳死を一律に人の死としていた。ところが採決を目前にした委員会で、提案者は臓器移植の場合に限って死とすると、異なる見解を述べた。

「脳死」は医学の進歩で生まれた、いわば新しい死だ。法律で死と定めることの影響は、医療現場をはじめ広い範囲に及ぶ。日本弁護士連合会や学会などから、拙速な法改正は慎むべきだという意見が出ていた。

法案の文言こそ変わっていないが、こうした強い反発に加え、提案者自身の戸惑いゆえに軌道修正を図ろうとしたのだろう。参議院ではまず、この点を明確にしなければなるまい。

また、この法案は、親族への優先提供を認める。これは臓器移植システムの公平性の点から問題がある。

臓器移植は、臓器を提供した人の死と、その臓器を移植された人の新しい生という両面を必然的に持つきわめて特殊な医療だ。どちらもゆるがせにはできない。社会としてどう進めていくのか、死生観も絡む重い問題だ。

現行法の下での経験や実績をもとに、社会の変化も踏まえ、納得のいく結論を出さねばならない。

景気底打ち宣言―回復への道はまだ遠い (2009年6月19日)

政府が事実上の「景気底打ち」宣言をした。これには多くの人が実感とのズレを感じたに違いない。

失業率は上昇し、有効求人倍率は過去最悪。雇用の先行きは不安がいっぱいだ。大手企業が夏のボーナスを大幅にカットしているが、賃金も減って、家計が苦しいと感じる人がますます多くなっている。消費者の財布のひもは固く、モノが売れない。これで「底打ち」といえるのか……というのが人々の受け止め方だろう。

それも当然だ。底を打ったと言っても、生産も輸出も、水準は世界経済危機が一気に表面化した昨秋と比べ、まだ3割以上も低い。景気の急降下のスピードが弱まり、ようやく「底抜け」の恐怖は去った。だが回復への足がかりもなかなか見えない。現状はそんなところではないか。

政府には、底打ち宣言で消費の萎縮(いしゅく)を食い止めたい、との狙いもありそうだ。大型の危機対策の効果と実績を演出し、総選挙に役立てたいという思惑もあるのだろう。

だが、今回の不況はその程度で克服できるようなものではない。日本がバブル崩壊後の長期停滞から抜け出したころには、米国や中国の経済が好調で、輸出が力強いエンジンになった。ところが今は米国も欧州も金融システムがいまだ不安定で、回復にはかなり時間がかかると見られる。

中国は大型景気対策の効果が出ているものの、息切れしたときにどこまで高成長路線を突っ走れるのか。

とても外需頼みの回復シナリオを描けるような環境とは言えないのだ。与謝野経済財政相が底入れ宣言の記者会見で「日本単独での回復はなく、世界経済の状況によっては下ぶれリスクがある」と慎重な見方を付け加えたのは、そのためだ。

人口減少社会の日本では内需拡大にも限界がある。となるとV字形回復が無理なのはもちろん、回復軌道は中華鍋形でもなく、底ばい状態が長いフライパン形になる可能性もある。

この不況との闘いは長くなりそうだ。一時的な景気刺激に重点を置いた対策では、通用しない。むしろ長期的な視点から新産業を育てると同時に、社会保障や財政を立て直し、安心感を生むことで国民経済を安定させるという本格的な取り組みが問われる。

とくに社会保障の再建は急がねばならない。財源として有力視される消費税増税などの税制改革は景気回復まで実施に踏み切れないとしても、総選挙ではそれらに関する基本戦略を政権公約の柱に据えるべきである。

党首討論で「政権を取っても4年間は消費税を増税しない」という鳩山民主党代表も、「消費税論議は避けて通れない」と批判した麻生首相も、政策と財源の具体化を語ることが必要だ。

読売新聞

景気底打ち 本格回復まで手を緩めるな (2009年6月19日)

底が抜けたような景気の悪化には歯止めがかかったが、深刻な状況は、まだしばらく続くと見るべきだろう。

政府は6月の月例経済報告で、景気の基調判断を2か月連続で上方修正し、「悪化」という表現を7か月ぶりに削除した。事実上の「景気底打ち宣言」である。日銀も景気判断を「下げ止まりつつある」と上方修正した。

だが、景気が力強く回復を始めたと勘違いしてはいけない。深い谷底に達した景気が、わずかにバウンドしただけなのだ。

確かに経済指標などの一部に明るさは見えてきた。世界不況で急減した輸出と生産が持ち直し、3月に7000円割れ寸前だった東京市場の平均株価も、1万円前後まで回復している。

経済対策の効果もある。低燃費車や省エネ家電の購入を促進させる制度の導入を追い風に、ハイブリッド車や薄型テレビの売れ行きが伸びている。公共事業など他の対策の効果も加わり、今年4〜6月期は5四半期ぶりのプラス成長になりそうだ。

とはいえ、成長のペースは緩やかで、対策の効果が出尽くしてしまうと、回復が息切れするとの予想も多い。最悪期を脱したとされる米国など海外経済の行方も、不透明さがぬぐえない。

政府・日銀は、小康状態に油断してはならない。経済が不況前の「健康体」に戻るまで、まだかなりの時間を要すると見るべきだろう。ここで政策の手を緩めれば、景気が「二番底」に落ち込む危険が大きい。

とりわけ心配なのが雇用だ。失業率は5%台まで上昇し、戦後最悪の水準に迫っている。

前年度に続いて今年度も企業業績は厳しい。このため今夏のボーナスを大幅に減額する会社も相次いでいる。賃金カットやリストラの拡大は、個人消費や住宅建設などを一段と冷え込ませる。

雇用の安定が内需回復のカギを握る。失業防止や再就職支援など、雇用不安を和らげる措置を、粘り強く続ける必要がある。

日本経済の需要不足は、40兆円を超え、バブル崩壊後の「失われた10年」の時期さえ上回る。

生産能力が需要を大幅に上回る状況だと、設備投資は低迷を抜け出せない。物価が下がり続けるデフレが再発する懸念も強まる。

日銀は、国債などを購入して資金を大量供給する量的な金融緩和を続け、デフレの兆候があれば、国債買い入れの増額など追加的措置もためらうべきではない。

移植法衆院通過 臓器提供の拡大へ踏み出した (2009年6月19日)

日本国内では臓器移植を厳しく制限しながら、海外で臓器をもらう。こんな状況を、続けるわけにはいかない。

多くの衆院議員がそう認識し、国内での臓器提供の拡大を図る意思を明確に示したと言えるだろう。

臓器移植法改正案は18日、四つの案が衆院本会議にかけられ、国内で臓器移植の道を大きく広げる「A案」が可決された。

棄権を決めた共産党以外は党議拘束をはずし、議員一人ひとりが自らの信念で記名投票した。賛成が263票で、反対167票を大きく上回った。最初にA案が可決されたため、他の3案は採決されなかった。

A案は、脳死を「人の死」と位置付けた上で、脳死判定を受けるかどうか、脳死とされた後に臓器提供するかどうかは、本人の意思が不明なら家族に委ねる、という内容である。

これは世界保健機関(WHO)の指針や主要各国の臓器移植法とほぼ同じものだ。

日本の現行の臓器移植法は、臓器提供の条件が世界の中で突出して厳しい。まず本人がカードなど書面で提供意思を残していることが絶対条件だ。それでも家族が反対すれば移植はできない。

その結果、法律の施行から約12年で、脳死移植は81例にとどまっている。米国では毎年数千例、欧州の主要国でも年間数百例あるのにあまりにも少ない。

また、提供意思を示す能力があるのは民法上15歳からとされ、臓器の大きさが合わない乳幼児は、国内移植の道が事実上、閉ざされている。

このため、多くの子どもが支援金を募って海外で移植を受けてきた。大人も、中国で死刑囚から摘出されたと見られる臓器の移植を受けるなどしている。こうした日本の現状に対して、海外の視線は厳しい。

家族の同意で移植を可能にするA案は、15歳の壁を取り払い、乳幼児に国内移植の道を開く。大人の臓器提供もかなり増えると予想されている。

採決されなかった3案には、15歳未満に限り家族同意で移植を可能とするなど、提供条件を部分的に緩和する案もあったが、現状を根本的に改めることは難しい。

臓器移植法改正案の審議は、舞台を参院に移す。さらに新たな提案を模索する動きもある。

死生観を問われる難しい問題だが、これ以上、結論を先送りすることはできない。

毎日新聞

社説:臓器移植法改正 参院で議論を尽くせ (2009年6月19日)

脳死を人の死とする法案「A案」があっさり可決された。臓器移植法改正4法案をめぐる衆院本会議の採決に、とまどいを感じる人は多いのではないか。

長年たなざらしにされてきた法案である。各案が十分に検討されたとはいえず、議員や国民の間に理解が行き渡っているとは思えない。参院は課題を改めて整理し、議論を尽くしてほしい。

現行法では、本人と家族の両方の同意がある時に限り、脳死となった人を死者とみなし、臓器を摘出できる。移植を前提とする場合だけ「脳死は人の死」としたもので、15歳未満の子供からは臓器摘出できない。

長い議論を経て成立した法律だが、脳死移植を推進する人々は、現行法の厳しさが臓器提供を妨げていると指摘してきた。小さい臓器を必要とする子供は国内移植ができず、海外に渡る人も多い。そこへ、世界保健機関(WHO)が国内移植の拡大を求める指針策定の動きを見せたことが法改正の動きを後押しした。

A案はこの流れに乗ったもので、本人が拒否していなければ家族の同意で提供できる。大人の臓器提供を増やし、子供の国内移植を可能にすることをめざした内容だ。

ただ、本人同意を条件からはずしたからといって、提供が確実に増えるとは限らない。家族が判断する際には本人の意思を推し量ろうとするはずで、それには前もって脳死や移植について話し合っておく必要があるだろう。これは、現行法の下でも、移植を進めようと思えば欠かせなかったことだ。しかし、現実には、国民の関心を高める努力は不十分なままだ。

子供の場合には、脳死判定の難しさや、親の虐待による脳死を見逃さないようにするという課題もある。子供に限らず、提供者の死因をきちんと確かめる体制を確保しておくことは、脳死移植への信頼性を確保するために不可欠だ。

親族に優先的に臓器提供できる規定についても、現行法が原則とする「公平性」の変更による弊害はないか。親族の範囲をどう限定するか。さらに慎重に検討すべきだ。

現行法にせよ、A案にせよ、生体移植の規定がないことも問題だ。日本で多数実施されている生体移植では、臓器提供者に後遺症が残るなど、不利益が及ぶ場合がある。今は学会レベルの規定があるだけだが、提供者保護は法律で規定すべきではないか。

移植を待つ患者側はA案を歓迎すると思われるが、脳死移植でも生体移植でも、提供者側への配慮を忘れてはならない。WHOの指針案の全体像を、きちんと把握した上での議論も欠かせない。

社説:海賊対策 根本的解決は外交力で (2009年6月19日)

ソマリア沖などの海賊対策のための海賊対処法案は19日、参院で否決された後、衆院で再可決され成立する。次回の派遣からこの法律が適用され、海上自衛隊などは外国船舶の護衛が可能となるほか、武器使用基準も緩和される。海賊行為の抑止と取り締まりに実効性を確保するには今後、各国が派遣している部隊との連携が重要となる。しかし、海賊対策はこれで終わりではない。周辺国の海賊対処能力の向上とソマリアの政情改善がなければ根本的な解決はないからだ。日本はこれらの分野でも積極的に取り組むべきである。

今年のソマリア沖の海賊事件は15日現在142件に上り、前年比で2・5倍だった昨年1年間の111件を上回っている。ソマリア沖海賊は1隻当たり数億円の身代金を狙い、母船に小型高速艇を組み合わせて重武装で大型船を襲う特殊な犯罪集団である。海賊への対応は、輸入大国・日本にとっても国際社会にとっても切実な緊急課題だが、その根絶には軍事的対応だけでは不十分である。各国の軍艦派遣後も事件が増え続けていることをみても明らかだ。

軍事対応以外で何が大切なのか。第一に、イエメン、オマーンなどソマリア周辺国の沿岸警備能力を向上させることである。日本は、イエメンの海上保安能力向上に向けて同国の沿岸警備隊職員への研修を実施しているほか、海賊情報共有センター・訓練センター設立支援のための資金を今年度補正予算に盛り込んだ。

かつて日本は、東南アジアの海賊対策で「アジア海賊対策地域協力協定」策定を主導し、マラッカ海峡周辺国に海上保安庁の巡視船を提供するなどして海賊封じ込めに成功した実績がある。こうした経験を生かし、周辺国の海賊対処能力向上に向けた支援をさらに強化する必要がある。

第二は、海賊多発の背景にある破綻(はたん)国家・ソマリアの国内事情だ。

同国は内戦の激化で無政府状態が続き、一部に放牧・農業、漁業がみられるものの産業と呼べるほどのものはない。海賊は、麻薬などの密輸による資金ルートがアフガニスタン戦争などによって断たれた「元漁民」とみられている。根本的な解決には、統治能力を持った政権の樹立と、農業・水産業などの振興が必須である。

中心になるのは国連であろう。現在は国内勢力による暫定政府への支援が中心だが、政情安定にはほど遠い。国連にはカンボジア暫定統治機構(UNTAC)の経験があり、日本が大きく貢献した。同様の方式による支援の先に統治能力を持つ政権の樹立を展望する方法もある。

こうした取り組みなしには、自衛隊派遣など軍事的対応の「出口」を見通すことはできない。

日本経済新聞

社説1 移植医療の海外依存から脱する一歩だ(6/19)

臓器提供の条件を緩和し国内での移植医療の拡大を目指す臓器移植法改正案が衆議院本会議で可決された。現行法で禁止している15歳未満の子どもの臓器提供に道を開き、大人の場合も含めて家族の承諾があれば提供を可能にする内容だ。海外に頼らない移植医療を実現するための第一歩として評価したい。

臓器移植法は1997年に施行されたが、国内での脳死臓器移植は12年間でわずか81例にとどまる。海外で移植を受ける患者が後を絶たない状態は施行前と基本的に変わっていない。15歳未満の子どもについては事実上、渡航移植以外の道はない。移植臓器は海外でも不足しており、外国頼みの日本の移植医療に対し国際的な批判も強い。世界保健機関(WHO)が渡航移植の自粛を求める新指針を決めようとしている。

現行法は、臓器提供について本人と家族双方の意思が明確な場合にだけ脳死を死と判断することを認め、脳死者からの臓器提供を可能にした。本人が「臓器提供意思表示カード」などの書面で提供意思を示していることを条件としている。

これは個人の死生観を尊重し、脳死を死と考えない人や臓器提供したくない人の意思が確実に生かされるよう配慮した結果だ。海外と比べて厳しい条件を課している。

議員立法で提案された4つの改正案のうち、今回可決された「A案」は年齢制限をなくし、大人も子どもも本人がカードなどで提供拒否の意思を示していなければ、家族の承諾で臓器の提供を可能にする。

「脳死は人の死」との考えに立ってはいるが、法律で一律に脳死を人の死とするのではなく臓器提供の場合にだけ脳死を人の死とする現行法の基本姿勢を受け継ぐものという。家族が断れば、臓器提供はもとより法に基づく脳死判定もされない。

内閣府の世論調査では、提供意思を示していた家族のだれかが仮に脳死判定を受けた場合、その意思を尊重するとした意見が8割を超えた。しかし脳死移植への懐疑的な意見は根強く、その背景には医師への不信がある。国内最初の心臓移植が疑惑を呼んだ「和田移植」(68年)だったことは記憶から消えない。

医師主導とみられがちな移植医療への不信をぬぐい臓器提供を確実に増やすには、中立的な立場で臓器提供を橋渡しする移植コーディネーターの機能を高めるなど制度づくりが欠かせない。参議院でも議論を重ね、自国内で完結する移植医療の実現と、個人の死生観の尊重が両立する制度を目指してほしい。

社説2 目を離せぬ米金融規制改革(6/19)

米国が約80年ぶりの大掛かりな金融規制改革に動き出した。金融システムに影響の大きい大手金融機関の監督を米連邦準備理事会(FRB)に一元化し、金融商品の利用者を保護するための組織も新設する。米国の規制改革は国際金融に与える影響が大きいだけに目が離せない。

今回の改革は、金融危機で米国を代表する銀行、証券、保険会社の経営が行き詰まり、規制・監督の不備が明らかになったのを受けて米政府が打ち出した。米議会には異論もあり、法案化の過程で修正もあり得るが、大きな方向として金融規制・監督が強化されるのは間違いない。

米国は大恐慌時の1930年代に銀行・証券を分離するグラス・スティーガル法や証券取引委員会(SEC)創設など規制の枠組みを整備した。ところが80年代に入ると、米国は金融自由化に大きくかじを切り、銀・証の垣根も行政裁量や裁判判決などを通じ徐々に低くしてきた。そして99年の銀・証分離を撤廃する法改正で規制緩和は完結した。

自由化を進める一方で、監督は古い体制をほとんど残した。保険監督は州当局、銀行も国法銀行と州法銀行に分かれ、複数の監督当局が並ぶ複雑な制度だ。今回の危機では、この監督体制が機能せず金融全体のリスクを当局が十分に把握できなかったという反省が改革の出発点だ。

改革案では、大きな金融機関の監督をFRBに一元化する。銀行、証券、保険の垣根がなくなり、世界的に金融の総合化が進むなかで、そのリスクを全体として当局が把握するのは必要なことだ。

日本はバブル崩壊後の90年代後半に、旧大蔵省から金融監督を分離し金融庁を創設、日銀の政府からの独立性を認める法改正などの改革を実施した。日本でも、金融庁と日銀が、総合化・巨大化した日本の金融機関のリスクを十分目配りできているかを再点検する必要はある。

米国だけでなく欧州も金融規制見直しに動き、改革の新潮流が生まれつつある。米国は国内改革にあわせ、銀行の自己資本規制など国際的な規制の協調も各国に求める方針だ。今後、厳しい国際交渉が必要になる可能性もあり、日本の当局もルール作りに積極的に参加すべきだ。

産経新聞

【主張】臓器移植 A案で参院成立を目指せ (2009.6.19)

遺族の同意により「脳死」の人からの臓器提供が可能になる臓器移植法改正案(A案)が、衆院本会議で賛成多数で可決された。ドナー(臓器提供者)不足が深刻化する一方で、移植を受ければ助かる患者は少なくない。他の3案に比べドナーを確実に増やせるA案の可決を評価したい。

この案は平成17年夏に提出されたが、衆院解散で廃案となった。翌年3月に再提出されたものの、審議が行われないまま、棚ざらしにされてきた。やっと本格的審議が始まったのが今国会だった。7月28日の会期末を控え、審議日程も限られてくる。送付された参院でも早期に審議を進め、今国会で成立させるべきだろう。

ドナー不足は深刻である。世界的に臓器売買が横行し、国際移植学会は昨年5月、経済力のある国の患者が貧しい国に渡り、移植手術を受けるいわゆる“移植ツーリズム”の廃絶を求め、自国内でドナーを見つけるよう宣言した。世界保健機関(WHO)も同様の指針を採択する方針である。

日本は国際社会から「自分の国に期待できないからと、海外のドナーに頼るのはおかしい」と批判を受けてきた。この国際的流れに目をそむけてはならない。

ところが、日本の脳死ドナーは年間10人前後で、数千人規模の欧米の移植先進国と比べてあまりにも少ない。ドナー本人が生前、書面で臓器提供の意思を明確に示すよう求めている現行の臓器移植法が足かせとなっているからだという。普段から自らの死後について考えている人も少ないだろうから、この「本人の生前同意」は臓器提供に結び付きにくい。

臓器移植法は、心臓や肝臓、肺、腎臓といった臓器を自らの死後に提供しようとする善意のドナーと、その臓器を必要とする患者とを結び付けて支える法律でなければならない。A案はこの趣旨に沿っている。

ただ、現行法は臓器提供の場合に限って「脳死を人の死」とし、脳死を人の死とは認めない死生観の人々との妥協点を見いだそうとした。それに対しA案は「脳死は人の死」を基本にしている。

さらに、親の同意によって15歳未満の子供からの臓器移植にも道が開かれることになったが、子供の脳死判定の難しさや親の感情にこだわる声もある。こうした問題をどう解決していくか、参院での審議に期待したい。

【主張】米韓首脳会談 対北の結束固める好機だ (2009.6.19)

訪米した李明博韓国大統領がオバマ米大統領と首脳会談し、米国の「核の傘」による安全保障と米韓主導の朝鮮半島平和統一の原則を明記した共同文書「米韓同盟未来ビジョン」を発表した。

韓国が過去2代の対北朝鮮融和政策に決別し、オバマ政権とともに圧力重視路線に切り替えたことを意味する。日米韓の結束と連携を強化する重要な節目として歓迎したい。これを軸として中露を説得し、北に核廃絶を迫る強い推進力としていくべきだ。

首脳レベルの文書に「核の傘」を初めて明記したのは韓国側の強いイニシアチブによる。李大統領は先月末、日米などを主体とする大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)にも正式参加を決めた。

いずれも相次ぐ北の核・ミサイル実験で米国の核抑止力に対する韓国国民の信頼が揺らぎ、核拡散の脅威も高まっていることに対応した現実的措置といってよい。

共同文書には「民主主義と市場経済に基づく朝鮮半島の平和的統一をめざす」との表現で、米韓同盟を通じて主体的に南北統一に取り組む原則も盛り込まれた。

一方、オバマ政権も発足当初の対話重視路線を改め、「北の挑発的行動に見返りを与えるパターンを断ち切る」(オバマ大統領)と国連制裁決議などを厳格に履行する姿勢を明確に打ち出した。

米韓が圧力重視にシフトして、核、ミサイル、拉致の包括解決を掲げる日本と久しぶりに足並みがそろった。日米韓を主力として北に対処する好機としたい。

過去10年間、韓国は金大中、盧武鉉両政権下で容共・親北路線に傾斜し、日米韓の結束を損なう要因となっていた。米国も前政権末期にかけて、北に不要な譲歩を重ねる失敗を繰り返してきた。

米韓の重要な路線転換をもたらした原因が、核・ミサイル実験を含む北の行動にあったことは重ねて言うまでもない。

北は米韓共同文書に「核戦争宣言だ」と激しく反発しているが、これは本末転倒である。自らの無謀な冒険主義と挑発的行動がこうした結果を招いていることを反省し、直ちに核放棄とミサイル実験停止の約束を履行すべきだ。

同盟の安全保障への不安や疑問は日本にもある。「核の傘」明記などの議論が日本にも必要なのではないか。日米、日韓などの実務協議を深めて、さらなる抑止力の向上に努めることが大切だ。

東京新聞

学校の耐震化 安全確保は待ったなし (2009年6月19日)

全国の公立小中学校のうち、震度6強の地震で倒壊の危険性が高い校舎や体育館は七千三百棟にのぼる。子供たちの学びやは地域の防災拠点でもある。自治体は待ったなしで耐震化の工事を進めよ。

昨年五月の中国・四川大地震では、校舎倒壊などによって死亡したり、行方不明になった児童や生徒は五千人を超えた。遺族らは校舎の不十分な耐震設計や手抜き工事が原因だとして行政の責任を追及している。

この地震を受けて、日本では法改正が行われ、公立小中学校などで耐震補強工事を行う場合、国庫補助率が二分の一から三分の二に引き上げられた。地方交付税も拡充され、自治体の実質的な負担は31%から13%に下がった。

国は一定の措置を講じたといえる。それなのに文部科学省の調査では、全国の耐震化率は今年四月の時点で67・0%。前年度から5ポイントほどしか改善していない。

耐震診断や工事が進まない要因の一つに自治体の厳しい財政状況がある。「景気対策にならないから」と後回しにしている自治体もあるようだが、子供の安全を考えれば最優先の政策ではないか。

都道府県別の耐震化率では、神奈川、静岡、三重、愛知が高い一方、長崎、山口は五割に届いていない。この地域差は気になる。

過去に大きな地震が発生していない地域では危機感が薄いようだが、日本はどこで大地震があっても不思議ではない。低いところほど急ぎ耐震化を進めるべきだ。

法改正で自治体は耐震診断の実施と結果公表が義務付けられた。しかし、非公表の自治体が三百二十もあった。「住民の不安をあおるから」という言い分らしい。

学校は子供の学習や生活の場だけではなく、災害が起きた際に地域住民が駆け込む避難所になる。安心して身を置ける場所かどうか住民は知っておきたい情報だ。

住民の不安を解消するには、診断結果を公表し、問題があれば耐震化工事を進めるしかない。公表すると対応を迫られるというのが非公表の本音ではないのか。

財政難で速やかに工事に入れないのであれば、危険性が高い校舎や体育館は使用禁止として、一時的に近隣の学校施設を共用させるといった対策はとれるはずだ。

非公表のままで何もしないのは怠慢というほかない。地震自体は自然災害だが、危険性が高いのに放置された学校で子供が被害に遭ったなら「人災」といえよう。

衆院A案可決 移植法の性格が変わる (2009年6月19日)

衆院を通過した臓器移植法改正のA案では、家族の同意で臓器提供できる。本人意思を尊重した現行法を根幹から変えることになり、不安を覚える国民は少なくない。参院で審議を尽くしたい。

一九九七年に成立した現行の移植法は、臓器提供をする場合に限って脳死を「人の死」とし、臓器提供者が生前に提供の意思を書面で示すとともに、家族が提供を拒まないことを条件にしている。指針で意思表示できるのは十五歳以上と定めている。

A案では脳死を一律に人の死としたうえ、本人意思が不明のとき家族の承諾だけで提供できるようにするほか年齢制限を撤廃するなど提供条件を大幅に緩和する。

現行法下での脳死移植は八十一件と諸外国と比べ桁(けた)違いに少ない。A案が成立すれば、移植推進派の期待通り提供者がある程度増えるのは間違いないだろう。だが、衆院で四割近い議員がA案に反対したことは軽視できない。

現行法に厳しい制約がつけられたのは、六〇年代後半に行われた不適切な心臓移植が批判され、透明性を高めることが狙いだった。

その後の日本移植学会の移植例をみると、現行法を順守し、大きな問題になった手術例は今のところ見られない。かつてのような不透明な移植が今後行われるとは思われないが、それでも参院でA案が成立すれば、脳死になった患者の家族へ提供に向けた無言の圧力や誘導が働くのではないかとの懸念はまだ払拭(ふっしょく)されていない。

B−D案が主張こそ違え、現行法の根幹である本人意思の尊重を重視していたのは、こうした危惧(きぐ)の表れだろう。A案支持派はこの疑問にこたえる必要がある。

現行法には確かに改正を要する点がある。最大の問題は、提供者の年齢制限のため幼い子供が国内で移植を受けられないことだ。

これまで多額の寄付金を募って海外で手術を受けてきたが、その道も閉ざされつつある。国際移植学会が昨年五月、移植用臓器の自国内での確保の方針を打ち出したほか、世界保健機関(WHO)も来春の総会で同様の趣旨の指針を決めるとみられる。

衆院の採決で多くの政党が党議拘束をはずしたように、臓器移植法をどう改正するかは各議員の倫理観や死生観と深くかかわるだけに「数の論理」だけで割り切るのはどうか。本人意思の尊重と子供の国内移植をどう両立させるか、国民全体でこの重い課題を考えることが迫られている。