最近の韓国メデイアは、「日本では、『在日同胞を差別する手段』と考えられている『外国人登録証制度』を廃止するに当たって、『その代わり、特別在留資格者(殆どが在日韓国人、台湾人)に特別永住者証明書を発給し、常時携行を義務つける』という方向で、これまで話が進んでいた。しかし、この度、 自民党、民主党、公明党の三党は、『常時携行義務を撤回する』方向で暫定合意した」というニュースを、一斉に伝えています。
一方、日本の新聞や雑誌を読んでいると、民主党や公明党には、「在日韓国人に参政権も与えろ」と言う論議もあるようです。私には、「在留証明書の常時携行は差別だ」とか、「参政権を在日韓国人に与えなければ差別解消が出来ない」と言う理屈が全く理解出来ません。

在日韓国人社会や韓国政府は、これまで長い間、「在日同胞を、権利と義務の両面で、日本人と対等に待遇せよ」と主張し続けてきました。しかし、この論議は、在日韓国人の帰化を制限していた時代ならともかく、帰化が自由になった今日では通じない論議だと思います。「自由意志で、『日本人』ではなく『在日』の身分を選択しながら、日本人と対等の待遇を要求するのは身勝手過ぎる」と思うのは行き過ぎでしょうか? 

所謂「在日」に属する人は、その歴史的経緯から、「特別永住者」として、日本国の治安・利益にかかわる重大な事件を起こさない限り、居住権が保障されています。しかも、強制退去の対象となる7年以上の懲役又は禁固刑に処せられても、法務大臣が強制退去の対象として認定した例は皆無だとの事で、,退去を定めた法律が死文化だと言う批判がある位です。これでは、「在日」と呼ばれる人々は、差別されているどころか、特権階級であるとさえ思えますが、如何でしょうか?

移民先進国のアメリカでも、永住証明(俗称グリーン・カード)の常時携行を義務つけ、犯罪を犯すと強制退去させられますが、永住韓国人や韓国政府が差別だと抗議した話は聞いた事がありません。韓国民が米国では甘受しながら、日本では差別だと主張する根拠を知りたいところです。

米国の永い移民史は、差別の歴史でもあり、黒人奴隷は言うに及ばず、日系人も酷い差別の対象にされました。真珠湾事件勃発と共に、日系アメリカ人を敵性国民と断じた米国政府は、西海岸に住む日系人の財産を没収し、強制収容所に送り込んだ史実は、米国史に大きな汚点を残しました。(一方、日本が犯した韓国人への数々の蛮行は、日本の歴史の汚点であり恥部だと私は思っていますが…。)

日頃従順な日系人の中で,強制収容に敢然と抵抗を続けたフレッド・コレマツ氏(日本名:是松豊三郎)の存在は、米国の人権関係者で知らない人はおりません。彼は、闘争の場として、感情に流され易い「政治」の舞台ではなく、正論の通り易い「法廷」を選びました。 半世紀近く続いたコレマツ氏の闘争を支援したのは、日本国民や日本政府ではなく、ユダヤ人や黒人などの人権団体と一般米国人でした。(在日韓国人を強力に支援している韓国政府や、ユダヤ系米国人の権利保護に躍起となるイスラエル政府とは対照的な「日本政府の日和見」は、私にとっては苦々しいものでした。)

1944年に米国最高裁で6:3の多数決で却下された後も、コレマツ氏は闘争を諦めず、米国連邦地裁のパテル判事が遂に逆転判決を言い渡したのは、闘争を始めてから実に40年以上も経った1984年の事でした。(この判決を聞いたコレマツ氏は、「この事件で、誰かを許さなければならないとすれば、私が米国政府の不当行為を許したい」と述べ、全米を感動させたという後日談があります。)

差別問題を語る時には、「差別した者と差別された者では、記憶に大きな差がある」という事を忘れてはなりません。私自身には、60年代にニューヨークの飛行場で、70年代初めにスウエーデンのヨッテボーリ市の街角で、あからさまな差別を受けた経験がありますが、これは、差別された経験のある者にしか理解出来ない衝撃で、一生忘れる事は出来ません。ところが、どこかで犯したに違いない私自身の差別的言動は、全く記憶に残っていません。私も「在日」と呼ばれる人々に一時期強い偏見を持っていた恥ずかしい過去がありますから、そのような言動がなかったとは言い切れないのに、今それを反省してみようと思っても、何も思い出せないのです。

「大蔵省入省間もなく赴任した会津の税務署長時代、自分が長州藩出身だと知った途端、協力的だった町民に冷たくされたショックは忘れられない」と語った現萩市長の野村氏の経験談も、差別者と被差別者の記憶の差を物語っています。維新当時の会津人を除いては、深刻な被差別経験を持つことが少なかった日本人が、心すべきエピソードだと思います。日韓の関係は、或る意味で長州藩と会津藩の関係に似ていると言えましょうから、日本の指導者が靖国参拝などを決める時には,是非ともこの話を想い起こして欲しいものです。

日韓関係の論議でいつも気になるのが、「感情論の根の深さ」です。そんな時、朝日新聞で読んだ権五埼氏(韓国一流のジャーナリストで、元東亜日報社長、元副首相)の発言を思い出しました。

「東アジアの歴史では、アメリカと中国の存在が大きい。そこに日本の成功と失敗が絡むという構図だ。日韓や日中関係を一方の当事者の目から「対(つい)」で見るよりも、第三者の目で並べて見れば、お互いがもっとよく分かる。韓国から日本を見れば悪魔に見え、日本から韓国を見れば、遅れて野蛮に見えるかもしれない。だが、それでは、まともな説明にならない。一国史を超え、歴史を並べる観点で見よう。そして隣人への配慮も必要だ。日本の勇ましい歴史を語るとき、勇ましさの犠牲になったのは何かを考えて欲しい。」

“ Nation's culture resides in the hearts and in the soul of its people.” これはインド建国の父、マハトマ・ガンジーの言葉です。

半世紀に亘る法廷闘争の後「米国政府の蛮行を許したい」と言う勝利の一声を発したコレマツ氏と、戦後60年たった今でも、相手を糾弾し続ける韓国の対応を比べると、「国の文化は、国民の心と精神に宿す」と言うガンジーの言葉の意味の深さを感じます。

「恨みを永遠に忘れない」韓国民の感情は理解出来るにしても、日韓両国の将来を考える時「このような感情論を卒業し、過去を乗り越える時期に来た」と考えるのは安直に過ぎるでしょうか?

斉藤健氏が自著で引用した「重要な問題を論ずる時には、何が物事の本質かを議論し、突き詰める事が大切だ」と説いた野中郁次郎教授の教訓を思い起こすにつけても、「在日韓国人の差別」という重要な問題が、「本質的論議」を棚上げして、「政党間の取引」で決定されている現状は、悲しい限りです。又、「日本人と同じ権利、義務を与え、在住証明の携行を廃止しない限り」差別の廃止は実現しないといったような、「偏見の裏返し」としか思えない「卑下した論議」もいただけません。

先に、「私自身にも、在日韓国人に対する偏見を抱いた時期があった」と告白しましたが、このような私自身の偏見は、米国に住むようになってから、跡形もなく消えてしまいました。偏見がなくなると、遠慮なく批判出来るのが収穫です。従って、今回の投稿では、何の遠慮もなく、私自身が「おかしい」と思うことを、そのまま「おかしい」と書いているのです。しかし、これを読まれた方の中には、「お前はこういう点を勘違いしている」「お前はこういう点を見落としている」と考える人もいるでしょう。

アゴラを読んでいると、考えの違う人達が、真っ向から議論を闘わせているケースが時々あり、私にはそれがとても魅力的です。従って、今回の投稿に対しても、異論・反論が色々出てくることを期待しています。その中から、「根の深い感情論」を克服出来るような、「本質的で建設的な解決策」が出てくれば、更に嬉しいことです。勿論、私の考えに誤りがあれば、いつでも訂正することは吝かではありません。

ニューヨークにて  北村隆司