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きょうのコラム「時鐘」 2009年6月18日
過ちを自ら認めても謝るのは難しいものだ。メンツや誇りが壁になり、素直に「ごめん」と言えないのが人の常である
交渉ごとでも賠償や回復処置で合意しながら「謝罪」条項で決裂し、積み上げた和解案が崩壊する例がある。謝罪は人格や組織の全面否定にもなり、相手に謝罪を要求するのは、逆に人格権を侵すことにならないかと、もっともらしい理屈を持ち出す人までいる 足利事件で、えん罪が明らかになった菅家さんに栃木県警本部長が直接謝罪した。検察側も謝罪会見をしている。過去の例からいえば異例の措置だ。背景に裁判員制度があるという。市民裁判員に硬直した司法の姿は見せられないのだろう 2年前、富山のえん罪事件で男性に謝罪したのは検察、県警、弁護士だった。最終関門である裁判官の責任も重いとの声もあったが、裁判では判決後に「お気の毒に思っております」と語りかけて終わった 富山のえん罪事件と同じ課題が整理されないまま残っている。菅家さんの場合も、これからの裁判所の姿勢を注視したい。裁判員裁判では事情はもっと複雑になると思うからだ。 |