フルベッキ写真は一部合成です。
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<引用資料> 「フルベッキ写真」に関する調査結果 慶應義塾大学 高橋信一 最近数年間に渡って世情を騒がせている所謂「フルベッキ写真」は明治28年7月雑誌「太陽」に戸川残花によって初めて一般に紹介された。文中に「フルベッ キが佐賀藩の学生と共に撮影した写真」と記されている。明治40年大隈重信が編纂した「開国五十年史」や大正3年江藤新平の伝記「江藤南白」にも掲載され た。戦後、昭和32年に石黒敬七の「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介された。本格的に世に知られる ようになったのは自称肖像画家の島田隆資が昭和49年と51年の二度に渡り、雑誌「日本歴史」に論文を発表して「フルベッキ写真」の撮影時期と20数名の 人物の比定を試み、「西郷隆盛が写っている」としてからである。しかし、その人物比定の方法や撮影時期の推定に甚だ疑問があるにも関わらず、この論文の再 評価は未だ全くなされていない。以後様々な文献に「フルベッキ写真」は取上げられているが、写っている人物について確定的なことは分かっていない。今回の 騒動は、佐賀の陶業者(彩生陶器)が、学界で議論が進んでいないにもかかわらず、勝手に「慶應元年2月に撮影された幕末維新の志士たち」として全員の名前 を入れた陶板額を発売したことに始まると考えられる。フルベッキが教え子たちと写っている写真はいくつかあり、長崎奉行所の済美館(広運館)の関係者と 写っているものもあるが、ここでは46名が一同に会して撮影されたものを「フルベッキ写真」と呼ぶ。島田氏及び陶業者山口氏の主張は当時長崎で、薩摩・長 州の藩士を中心に日本の将来を語る集会が開かれたのを機会に集合して写真が撮影されたとするもので、幕末から明治にかけて活躍した多数の名士が写っている というものである。その論理の矛盾点を取上げ、真相を究明しようとした結果を以下にまとめた。 先ず、撮影場所と時期に関しては、昭和50年刊「写真の開祖上野彦馬 写真にみる幕末・明治」(産能短大)の中で上野一郎によって解明されている。撮影 者は上野彦馬であり、場所は彼の自宅に慶應4年から明治2年にかけて完成した新しい野外写場であることが、背景に配置されたものによって特定された。それ 以前にはこの「フルベッキ写真」を撮影出来るほど広い場所はなかった。それまで使われていた写場は横幅が半分以下で、例えば福岡博「佐賀 幕末明治500 人」の口絵や「大隈伯百話」に掲載されている長崎の佐賀藩士たち9名の写真が撮影された。この大隈重信や副島種臣が写っている写真は慶應2年から3年の始 め、小出千之助がパリ万博のために洋行する前に撮影されたものであることがわかっている。小出は慶應4年6月に帰国したが、そのころ長崎には大隈も副島も いなかった。小出は大隈が長崎に来る前の9月の始めに落馬により亡くなった。この写真は上野彦馬の写場の識別の重要な基準である。上野一郎氏の研究は30 年間無視されて来た。詳細を再確認する必要はあるが、反論の余地は無い。 また、島田氏が用いた人物同定の手法は根本的に間違っている。画像工学の立場からきちんと再評価する必要がある。人間だけでなく、生物の体の各部分は所 謂黄金分割のような比率で構成されており、顔の長い人物も丸い人物も各部の比率はほほ同じようなものである。島田氏のやり方では誰が見ても違うと思われる 写真同士をかなりの確率で同一人物のものと断定してしまう惧れが高い。このような場合はむしろ、警察が用いているモンタージュの手法が必要である。目・ 鼻・口・耳・あご・眉毛・ひげ・頭髪などの個々の部分がどのような形をしているか、どのような配置になっているかを慎重に検討した上で、全体のバランスを 検証して始めて同定が可能である。島田氏は西郷隆盛以外の人物に自分の手法を適用した証拠を示していない。これも大きな問題で、個々の人物に対する同定の 確からしさを定量的に確証すべきだった。現状で島田氏の手法を歴史上の人物の同定に用いるのは極めて危険である。これらの点について言及した歴史研究家は いない。 万が一、慶應元年(正しくは元治2年)の2月説が正しいとすると以下のような大きな矛盾を孕むことになる。この年、薩摩藩は20名近くの人間を秘密裏に 英国に送り込んだ事実がある。慶應2年4月に海外渡航が解禁になるまで、密航以外に外国に出る手段はなかった。薩摩藩は五代友厚や石河確太郎(大久保利謙 「幕末維新の洋学」)の提案により、慶應元年1月20日に留学生を偽名で琉球視察と称して鹿児島から送り出したが、行き先は長崎でなく、串木野の海岸の羽 島の船宿に2ヶ月間潜伏させるためである。長崎から回航してきた船に乗り込んで、人知れず乗り継ぐ蒸気帆船の待つ香港に出発したのが3月22日である(大 塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。この間長崎に出かけることは秘密を諸藩に公開することになり、密航の失敗に繋がったはずである。この時期に薩摩藩の主だっ た藩士が長崎に集合することは考えられない。諸藩集合の理由がない以上、長州藩も長崎には集結していない。その前年の暮れから年明けまで、長州は内乱状態 でもあった。因みに、高杉晋作と伊藤博文は3月に薩摩藩を手引きしたグラバーを尋ね、英国密航の相談をしているが、説得されて諦めた。もし、写真が撮影さ れた際に薩摩藩の密航を知っていれば、3月に長崎に出向く必要はなかった。尚、島田氏の説に従えば「フルベッキ写真」には密航薩摩藩士、寺島宗則、中村宗 見、鮫島誠蔵、五代友厚、森有礼の5名が写っていることになる。その内、五代友厚と見なされる人物は「江藤南白」によれば明らかに山中一郎であり、他の全 ても単なる当て嵌めと考えられる。 その他の関連人物の内、勝海舟は慶應元年の1年間は、前年軍艦奉行を罷免され、江戸赤坂永川邸に蟄居させられていた。横井小南の甥たち、横井大平・左平 太兄弟は当時神戸の海軍操練所にいたが、3月18日に廃止になってから陸奥宗光らと長崎に出てフルベッキの教えを受けることになる。陸奥宗光は何礼之の私 塾でフルベッキに学んだ記録が残っている。大隈重信らが後に致遠館となる佐賀藩校で英学の教育を始めるのは、これより後である(久米邦武「鍋島直正公 傳」)。岩倉具視の息子たちが長崎に出向いたのは参戦した戊辰戦争が終わった明治元年秋以降で、大隈重信や副島種臣の活躍に感銘を受けた岩倉具視が佐賀藩 の教育を受けさせたいと希望するようになったのは慶應4年5~6月である(同じ文献)。その岩倉具視自身は皇女和宮降嫁の強行で反感を買い、文久2年9月 から慶應3年11月まで京都から追放になって、京都北東の岩倉村に身辺危険を感じながら蟄居していた。各藩の藩士が来訪するようになるのは慶應元年春以降 である(大久保利謙「岩倉具視」)。江藤新平は脱藩の咎により文久2年に小城に永蟄居させられ、禁が解かれたのは大政奉還後の慶應3年12月である。慶應 元年12月7日に太宰府に潜行して三条実美に面会しているが。大村益次郎は下関にいて、慶應元年(元治2年)2月7日に但馬に潜伏中の木戸孝允に手紙で下 関および藩内の戦況を報告し、2月9日に銃器購入の目的で壬戊丸を処分しに上海に出かけた。12日に高杉晋作から木戸孝允の居所を尋ねられた(大村益次郎 先生伝記刊行会「大村益次郎」)。このころ木戸孝允は行方が秘された存在だったのである。大久保利通は当時、吉井友実と共に薩摩から博多経由で京都に出か けており、2月2日に博多出帆に当たって、2月24日に京都から夫々西郷隆盛に宛てた手紙を出している(「大久保利通文書」)。中岡慎太郎と坂本龍馬は2 月5日と12日に夫々京都と大阪で土方楠左衛門と会合を持っている。さらに中岡慎太郎と大久保利通は22日に京都で会っている。全体を見ると、陶業者山口 氏が写っていると主張する人物の内、20名ほどは、慶應元年2月に長崎に滞在出来る理由付けが困難なのである。 以上から、今後「フルベッキ写真」はフルベッキを中心とした佐賀藩の英学塾、致遠館関係者が写っているものとして究明を行う。先ず、撮影時期の特定のた めに、この写真に写っている可能性の最も高い人物を選び出し、それらの人物の行動を日を追って調べた。選んだ人物はフルベッキ、大隈重信、相良知安、岩倉 具定・具経兄弟である。フルベッキと大隈重信に関しては多数の写真が残っており、それを参考にした。しかし、大隈に関しては後に述べるように疑問がない訳 ではない。相良知安は画面一番左端に立っている人物である。鍵山栄の「相良知安」の口絵、福岡博「佐賀 幕末明治500人」、長崎大学の「出島の科学」に よって同定することが出来る。勝海舟には似ていない。岩倉兄弟の写真は「フルベッキ書簡集」に掲載されている。彼らの行動は「相良知安」および杉谷昭「鍋 島閑叟」、「久米邦武と佐賀藩」(久米邦武の研究(大久保利謙編))、並びに久米邦武「鍋島直正公伝」を参考に調べた。フルベッキに関しては上記以外に大 橋昭夫・平野日出雄「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」と村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」を参考にした。彼の事績については尾形裕康「近 代日本建設の父フルベッキ博士」が詳しい。 付表1に明治元年から2年にかけての関係者の行動をまとめた。大久保利通や岩倉具視、木戸孝允の動静も「大久保利通日記」、「木戸孝允日記」、「巌倉具 視公傳」などで調べた。「大隈侯八十五年史」、「日本のフルベッキ」、久米邦武「鍋島直正公傳」等を総合すると、慶應元年夏ごろ、大隈重信は長崎海軍伝習 所や弘道館の佐賀藩士に呼びかけ、長崎の佐賀藩校で副島種臣を学頭として英学の教授を始め、フルベッキは非公式に長崎奉行所の済美館と掛け持ちの授業を引 き受けた。この時から相良知安は慶應3年暮れに娘が生まれたのを機会に佐賀に帰るまで、致遠館で学んだ。慶應4年、年明けに鍋島閑叟の正式な侍医となり、 以降京都での行動を共にしている。「岩倉具定公伝」によると、岩倉具視は上の息子二人には漢学を、下の二人には洋学を学ばせたいと考えていたので、この表 から推測すると久米邦武は明治元年の10月に折田彦市・宇田栗園の二人の従者(「久米博士九十年回顧録」)と伴に鍋島閑叟を頼ってきた岩倉具定・具経兄弟 をフルベッキに預けることにして、石丸安世・相良知安らに長崎まで送らせたのではないか。フルベッキはこの時点で大阪に移籍する(東京に行くことになるの は、これより後である)ことが決まっていたが、致遠館は存続することになっていた。致遠館が廃止になったのは、版籍奉還があり、佐賀藩の内情が変化、生徒 の大部分が大学南校に留学する許可を得て東上し、教員が佐賀に戻って新しく学校が作られた明治2年8月以降である。致遠館では彼らを歓迎し、フルベッキが 長崎を離れることになっていることもあって、記念写真を撮った。同じころ、長崎奉行所の済美館(当時は明治政府の管轄となり、広運館となっている)の関係 者とも写真が同じ上野彦馬の写場で撮影された。こちらの写真の人物名はかなり分かっており、長崎歴史文化博物館に所蔵、長崎市立長崎商業高等学校の「長崎 商業百年史」に掲載されている。尚、これを産能大学の「写真の開祖 上野彦馬」や石黒敬章の「幕末・明治のおもしろ写真」中の上野彦馬が写っている写真と 比較すると、後列右から4人目の不明となっている人物は彦馬自身と思われる。前者の写真の左端には草履を置いた石囲いをした植え込みと木の枝が写っている が後者にはない。またフルベッキのネクタイの形の違い、敷物の位置のずれなどから、二つの写真には撮影時期に多少の差異があると推定される。フルベッキは 11月に佐賀に赴き、鍋島閑叟と二度目の面談を行っている。その後、11月末に鍋島閑叟は相良知安と京に出航し、12月に京に入った。知安は明治2年1月 に政府から医学校取調御用掛を命じられ、以後政府の仕事を始めたので、閑叟との関係は終わった。フルベッキは1月6日に山口尚芳の訪問を受け、東京に新し い大学を作るための招聘を受ける。この時点で大隈重信は東京におり、再婚して新居を構えているので、「フルベッキ写真」の明治2年撮影は不可能である。大 隈は明治元年の9月から11月23日ごろまで、英国水夫暗殺事件の取調べのため長崎にいたと考えられる(「大隈侯八十五年史」、東京大学編と早稲田大学編 の「大隈重信関係文書」)。以上より、「フルベッキ写真」の撮影は明治元年10月23日から11月19日までの一ヶ月足らずの間に行われたと推測される。 次に、「フルベッキ写真」に写っている人物の同定について、現時点で分かっていることをまとめる。 同定の方法は、間違って写っていると見なされる人物も含めて、関係者の写真を各種の文献から調査し、顔の各部を慎重に比較することで行い、付表1でまとめた人物の当時の行動と照らし合わせて推定した。 今後は画像解析による顔認証の技術を利用した検証が必要である。人物説明中に同定に用いた写真が掲載されている文献を示した。 フルベッキ 写真中央の外国人 (村瀬寿代訳編「日本のフルベッキ」。済美館の写真とは服装、胸元のネクタイ等の形が違うので同じ日に撮影されたものではない。グリフィスの原本にはフル ベッキの写る大学南校の大集合写真が掲載されている。グリフィスの撮影と思われる。東京大学図書館には同じ時に写されたグリフィスの写る同様の写真が現存 する) エマ フルベッキの左隣りの子供 (長男のウィリアムとも考えられているが、「立教女学院百年史資料集」や石黒敬章氏所蔵のフルベッキの家族写真から、エマと思われる) 大隈重信 中列中腰の人物中左から2人目 (「実業之日本-大隈侯哀悼号」、「大隈伯百話」。大隈の顔は広く大きな額、鋭い眼、への字の唇、長い顎が特徴だが、この写真にはそれが見られない。耳の 形が違う。また、頭髪の中央部が盛り上がった形は他の大隈の写真に類似のものを見出せていない点が問題である。撮影時期に長崎に居たことは立証出来るが、 「江藤南白」や大隈自身が編纂した「開国五十年史」に掲載されている「フルベッキ写真」には多くの人物の氏名を入れたキャプションがついているのに、極め て重要なはずの大隈の名はない。さらに大隈自身が「フルベッキ写真」に言及した記録は残っていない。これらの点は今後慎重な検討を要する課題である) (HP記:高橋先生ご指摘通り 左明治5年10月大隈重信トリミングや右大隈重信記念館展示大隈重信トリミングと比較して 中大隈重信?は 耳の形や鼻の形が全く異なる。) 相良知安 左端の立ち居の人物 (鍵山栄の「相良知安」、長崎大学「出島の科学」他。「相良知安」掲載の知安が正装した写真は明治2年以降に内田九一の東京・浅草の写場で撮影されたことが、後方の欄干の形で確認された(森重和雄氏より)) 中野健明 知安の右隣り (福岡博「佐賀 幕末明治500人」の口絵) 倉永猪一郎 中野健明の右 (「江藤南白」中の写真) 鍋島平五郎 倉永猪一郎の右隣り (毎日新聞社「日本の肖像 第8巻 旧皇族・華族秘蔵アルバム」) 村地才一郎 鍋島平五郎の右隣り (「江藤南白」中の写真、村地慮山「蝉蛻物語」、昭和45年10月号「佐賀史談」、札幌地方裁判所長) 丹羽龍之助 大隈重信の左隣り (「江藤南白」の口絵) 江副廉蔵 大隈重信の前の二人のうち右 (「佐賀幕末明治500人」、「在京佐賀の代表的人物」) 岩倉具経 大隈重信の右隣り (「写真集日本近代を支えた人々井関盛艮旧蔵コレクション」中にある岩倉兄弟が明治3年初め、服部一三・折田彦市・山本重輔と米国留学前に撮影した写真。「フルベッキ書簡集」にある岩倉具定と写っているのは具経でなく、小姓である) 鍋島直彬 岩倉具経の右隣り (「鍋島直彬公伝(昭和45年版)」。家紋が杏葉である。鹿島藩主。慶應4年2月戊辰戦争で徳川慶喜追討に出陣したが、長崎防備の命を受ける。岩倉兄弟を致遠館に迎えるにあたり、佐賀藩側の代表として列席したと考えられる) 石井範忠 鍋島直彬の左後方 (「江藤南白」、幼名範次郎) 丹羽雄九郎 石井範忠の左二人目 (「佐賀藩海軍史」、三重津海軍学校教諭) 山中一郎 後列右から6人目 (「江藤南白」、村瀬之直「維新名誉詩文」) 香月経五郎 山中一郎の右隣り (「江藤南白」、「佐賀 幕末明治500人」) 副島要作 香月経五郎の右隣り (「佐賀 幕末明治500人」の口絵) 中島永元 後列右から2人目 (「佐賀 幕末明治500人」の口絵) 石橋重朝 副島要作の前 (「佐賀 幕末明治500人」) 石丸安世 石橋重朝の前 (「佐賀 幕末明治500人」。岩倉兄弟を佐賀から長崎まで送った) 岩倉具定 フルベッキの右隣り (「フルベッキ書簡集」、「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」、岩倉具定公伝)。尚、岩倉具綱・南岩倉具儀兄弟は遅れて佐賀に到着し、漢学を学ぶため弘道館に入ったので、長崎に来ていない) 折田彦市 岩倉具定の前方、前列右から4人目 (板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」。岩倉兄弟の下僕として長崎遊学に随行、岩 倉兄弟と伴に米国留学、ニュージャージー大学に入学。後の第三高等中学校長。尚、折田以外の下僕は当時岩倉具視の側近だった宇田栗園(「岩倉具定公伝」) で、兄弟の警護のために長崎まで随行したと考えられる。「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」には佐賀への道中や致遠館での兄弟の様子が述べられている) 宇田栗園 前列相良知安の右隣 (宇田栗園「静観亭遺稿」、明治2年留守判官となる) 大塚綏次郎 フルベッキの右前 (板倉創造「一枚の肖像画-折田彦市先生の研究」、「専修大学120年 1888-2000」。明治4年ラトガース大学留学) 香月経五郎、丹羽龍之助、江副廉蔵は慶應3年12月に、山中一郎は慶應4年9月に致遠館に入学している(岩松要輔「幕末維新における佐賀藩の英学研究と 英学校」(九州史学))。その他の佐賀藩士として、江藤新平、大木喬任、副島種臣の可能性が上げられているが、根拠はなく、当時長崎にはいなかった。当時 副島は40歳に近く、月代を剃っていた。また、明治元年当時あご髭を生やしていた(「蒼海遺稿」)。若い時の写真が似ているというだけで、人物を振り当て るのは学問的でない。伊藤博文は当事、兵庫県知事の職にあり、9月3日に起こった神戸での米国水夫暴行事件の処理に10月16日まであたっていた。また、 11月の初めに版籍奉還の建言を政府にしている(「伊藤博文傳」)。長崎に出向いた形跡はない。慶應元年、福井藩の命令で長崎遊学した日下部太郎、熊本藩 の横井大平、横井左平太は済美館で学び、当時米国留学中であることが判明している(「明治維新とあるお雇い外国人 フルベッキの生涯」)。慶應年間、薩 摩・長州・土佐から何人もが長崎に遊学し、済美館や何礼之の私塾に通っっていたが、致遠館に在籍したものの氏名は明らかになっていない。付表1に見るよう に大久保利通・岩倉具実・木戸孝允はこの時期天皇とともに東京にいた。大村益次郎も東京で内乱平定の総指揮をとっていた。副島種臣・後藤象二郎・小松帯刀 は京都におり、上京の準備をしていた。当時既に死亡していた坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作について言及する必要はない。薩摩・長州藩士の大部分は写真を 収集して比較したが、西郷兄弟を始め該当する人物は認められなかった。大村益次郎、陸奥宗光(「陸奥宗光」は数冊出されている)は面長であったことが各種 肖像画及び写真で知られているが、「フルベッキ写真」に該当者はいない。 慶應3年以降に致遠館に在籍した佐賀藩士の名前は上記の岩松要輔の「幕末維新における佐賀藩の英学研究と英学校」(九州史学)とそれを転載した杉本勲編 「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」に詳しく記載されているが、上記にまとめたもの以外に特定出来る人物を把握出来ていない。特に「日本の フルベッキ」や「江藤南白」などに「フルベッキ写真」に写っているとされる柳谷謙太郎、中山信彬、古賀護太郎、鶴田揆一、山口健五郎、山口俊太郎などを特 定出来ていない。サンフランシスコ赴任前に税関長を務めた柳谷謙太郎の写真は横浜税関に所蔵されるが、比較しても該当者は認められない。ただし、岩松要輔 氏のリストにある辻小伝太や大塚綏次郎の他、鶴田揆一、副島要作の名は創立当初の佐賀県立中学校(分離前の佐賀高等学校)の教員記録(「佐賀県教育五十年 史」)にあり、郷土の教育に尽力し、佐賀の地に骨を埋めたことから、彼らの子孫が現存する可能性は高い。 その他の「フルベッキ写真」解明の手懸かりとして、人物像中の家紋が考えられ、島田氏や一説にはNHK北海道テレビのプロデューサが写真を大幅に拡大し て家紋の判読を行って、人物を特定したと伝えられている。しかし、例えば「フルベッキ写真」の最も右端と左端の人物の家紋は正面から写っているにも拘ら ず、露光オーバーで細部が完全に潰れており、写真の解像度の問題でなく、拡大しても判読は不可能である。その他の極限られた可能性についてみると、以下の ようになる。最もよく判定出来ているのはフルベッキの右隣りの人物で、極めてめずらしい「二重輪」の紋であり、別府晋介の「三つ扇」ではない。フルベッキ の後ろの西郷隆盛と誤解された人物の左隣りの人物は大久保利通の「三つ藤巴」の紋ではない。さらに、その左隣りの人物は「鍋島杏葉」の紋の鍋島直彬であ り、小松帯刀の「抱き梶の葉」ではない。井上馨は当時長崎奉行所にあって、奉行所の英学校「広運館」を監督していたのでフルベッキとの繋がりはあった。し かし「丸に三つ星」の井上家の次男として生まれ、安政2年志道家の養子(家紋は「蛇の目」)となって一女をもうけていたが、文久3年洋行前に離別し、井上 姓に戻った。元治元年以降の写真には新しく創作した「桜菱」の紋が写っており、井上馨の墓石でも確認出来る。江副廉蔵は家紋から特定することは出来ない。 その他の人物には家紋は写っていない。 「フルベッキ写真」には相当数の人物が写っているので、鶏卵紙に焼き増しされたものが多数配布されたと考えられるにも係わらず、実際は極少数しか残って いない。確実に分かっているのは、産業能率大学にあるパリでの競売に掛かったものと江副廉蔵の子孫の家に伝わるものだけである。前者はオリジナルに極めて 近いもので、フルベッキから米国のオランダ改革派教会本部に早期に送られたものと考えられる。グリフィスの「日本のフルベッキ」執筆時にはアメリカにはな かった。後者は島田氏が同定に用いたものだが、前者と違い鶏卵紙に焼き付けられたものではなく、後年小沢健志氏が取得し、「勝海舟」などに掲載された名刺 判の元写真を明治年間に複写したものであることが、表面に写し込まれたキズ等で判明した。同じ元写真からの複写が東京大学史料編纂所に「中野健明氏関係史 料」として保管されている。元写真の所在であるが、長崎大学の武藤文庫にも同様に複写された写真が残されており、その由来は上野彦馬写真館が顧客の見本用 に作った写真アルバムだと考えられる。この写真アルバムは現在長崎の「江崎べっ甲店」が所蔵している。明治40年エマより提供されて「開国五十年史」に掲 載されたものの所在は不明である。大正3年「江藤南白」掲載の写真とも同一かどうか確認出来ない。 近年陶板額等、フルベッキの子孫に伝わるものと云うのが流布しているが、真偽は不明である。フルベッキの子孫が戦後まで、日本に在籍した証拠はない。フ ルベッキの子供たちの消息については村瀬寿代「日本のフルベッキ」に詳しいが、早世した最初の子供長女のエマ・ジャポニカを除く全員がアメリカに渡り、彼 の地で生を終えた。最も長く日本に在住した次女のエマは夫の東京大学英国法教師ヘンリー・テリー(和田啓子ICCLP Annual Report 2004「明治お雇い外国人から、2004年夏法科大学院サマースクールへ」)が停年退職した明治45年にアメリカに渡った(宮内庁書陵部所蔵「明治大正 年間雇外国人教師人名録」)。彼女は明治32年フルベッキの死後に結婚しており、家族がいたとしても日本に残せる年齢ではない。 こうした状況に至っているのは撮影の目的が岩倉兄弟の歓迎のためだったことにより、極少数の関係者にのみ配布されたものだからと推察される。全員に配布 されたら莫大な費用が掛かったはずである。今回の調査で、岩倉家には「フルベッキ写真」のオリジナルが残されていたことを昭和の始めまでは確認出来た。岩 倉家及び「岩倉公旧蹟保存会 対岳文庫」には現存していないようだ。致遠館の生徒・教師とフルベッキの送別のためではなかった。また、佐賀藩の多数の出身 者は鍋島藩主の意向を受けて、弘道館や長崎海軍伝習所、致遠館、済美館などで海外の情報を積極的に学び、留学生も多数に及んだ。致遠館の生徒も膨大なもの だったとされているが、記録が曖昧なままである。おそらく在籍者は数十名に留まるだろう。それらの子孫が記念のために名刺判に複写したものを所持している 可能性は十分考えられる。その内の一枚は最初に述べたように石黒敬七「写された幕末」にかって掲載されたが、森有礼所蔵のアルバム中にあったもので、キャ プションは「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘を囲む44人の各藩生徒」となっていた。 明治31年フルベッキが亡くなった年に墓碑を建立するための募金活動が行われた。その報告書「故フルベッキ先生紀念金募集顛末報告」には216名の賛同 者の名前が記されているが、致遠館関係者は大隈重信を含めても10名に満たない。明治政府の中核として名を残したものは、山口尚芳・副島種臣・大隈重信他 数人であり、薩摩・長州出身者に比べると極めて少ない。明治初期の各種官員録に「フルベッキ写真」に写っている可能性のある人物として鍋島直彬、中山信 彬、中野健明、鶴田揆一、江副廉蔵、石橋重朝、堤 董信、中島永元、大塚綏次郎などを見つけることが出来る(川副 博「明治維新政府の佐賀閥」(昭和42 年4、6月「佐賀人」))。しかし、維新以後の功績を称えられて華族に任ぜられたものの数は400人を超えるにも拘らず、佐賀出身者は20名余りと薩摩・ 長州の数分の一である。各種明治の肖像写真を調べたが、ほとんど成果がなかった。この原因は江藤新平・香月経五郎等が断罪された佐賀の乱を引き金とする明 治14年の政変によるものとされているが、誠にもって残念なことである。フルベッキの薫陶を受けた多数の人材がところを得ずして消費されてしまったのが、 明治後半の日本の政治の姿だったのか。それが軍国主義へ、果ては太平洋戦争の敗北に繋がって行ったのだとしたら、慙愧に耐えない。 偽説を主張する人たちには、常識的なものの見方が欠落していると言わざるを得ない。根拠もなく当て嵌められた人物の内、刑死・戦死・暗殺など異常な死に 方をした人物は森有礼、香月経五郎、別府晋介、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、江藤新平、大村益次郎、中岡晋太郎、広沢真臣、坂本龍馬、横井小南と 1/4に及ぶ。大隈重信もテロに遭って死ぬところだった。本当は写っているはずの山中一郎は佐賀の乱で処刑された。あの時代は和気藹々で未来を語る希望に 満ちた時代と云うよりは、命懸けで生き方を模索した時代だった。慶應元年にこれだけの大規模な秘密の会合をするだけの意思の疎通が出来ていれば、薩長同盟 は愚か大政奉還も版籍奉還ももっと早く行われ、戊辰戦争・西南戦争そして佐賀の人たちにとって諸悪の根源であった大久保・伊藤路線による佐賀出身の人材排 除の切っ掛けを作った佐賀の乱も不要だったのではないか。そういう歴史認識が根本的に欠如している。香月経五郎、そして五代友厚ではなく山中一郎は留学か ら帰ったばかりで乱に巻き込まれて命を落とした。優秀な生徒を亡くしたフルベッキの無念さを痛切に感じる。フルベッキが晩年大隈たちと疎遠になり、布教活 動に専念した一因だったかもしれない。 「フルベッキ写真」ではフルベッキをカメラの中心に置いて数人が椅子に坐っているが、その両隣に坐る岩倉具定と具経がこの写真の中で最も重要な、位の高い 人物である。岩倉具経の前に岩倉具視あるいは具慶がいるとの主張があるが、何処の世界に親を跪かせて写真を撮る人間がいるのか。この写真はお公家の子息で ある岩倉兄弟が一介の藩校に入学したことを記念するため撮影された、彼らを迎えた致遠館の教師と生徒による集合写真である。何処かへ消えて行った致遠館の 生徒たちの消息を解明するために、おそらくは佐賀を中心とした何処かにいるであろうその子孫たちの記憶を掘り起こして行くのが、今後に残された課題であ る。 (平成18年4月30日) 人間の顔で、成長するにつれて変化する所と全く変わらないところがあります。変わらないところの筆頭は耳です。現在でも、北朝鮮の指導者や、フセインやキムヒョンヒについて、全くウソ報道がまかり通っていますが、耳についてあなたが目にした写真を見比べれば一目瞭然となるのです。歴史的に決められてしまっていることに異議を唱えると学会からはつまはじきされてしまうようですから、本当のことが判っていても何も言わないということでご自身の安定をはかるということなでしょう。 |
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