「知のオープン化」と「勝つこと」を完璧に両立させた天才
河野 さて、本の内容についてお聞きしたいのですが、書名が内容をこれ以上なく的確に言い表しています。つまり、シリコンバレーと日本の将棋界という、およそ交わることも重なることもなさそうな隔絶した世界で、実はある地殻変動がパラレルに進行していました。シリコンバレーを中心にして起こった「情報革命」の進展と、現代将棋の真理を究め尽くそうとした天才棋士・羽生善治の挑戦です。このふたつの流れを複合的に捉えながら、同時代の知的なドラマとして描き出したところがこの本の醍醐味だと思います。そのうってつけの媒介者が梅田さんでした。
梅田 将棋の世界では、10年から15年にひとり、必ず天才が生まれてきています。戦後で言えば、大山康晴、升田幸三、加藤一二三、中原誠、米長邦雄、谷川浩司といった系譜です。いずれも非常に頭のいい、超一流の才能と際立った個性の持ち主です。羽生さんはその次に現れた天才です。
ただ、彼がそれまでの人たちと一線を画すのは、将棋というものを突き詰めていく中で、同時代における、ある種の普遍的な思想というか哲学にまで到達したと思われる点です。「羽生以前」の将棋の世界というのは、いい意味で日本の古い文化、伝統を受け継いだ世界でした。徒弟制度がはっきりとあり、年功序列的であり、いちばん象徴的なのは、将棋が強くなるためには人生の経験が不可欠であるという観念が支配的だったことです。極論すれば、将棋が強くなるためには、酒を飲んで人間を磨かなくてはいけないのだといった論理がまかり通るような世界でした。だから、将棋の観戦記にしても将棋評論にしても、「盤上」というより「盤外」の面白さを表現するところに重点が置かれていました。
ところが、羽生さんは10代の時に「将棋とは頭脳のゲームだ」と明言しました。「人生とか経験といったこととはまったく関係がない」と言い放った、ある意味では織田信長みたいな人でした。おそらく羽生さんはこの時すでに、やがて将棋界全体が向かうであろう大きな流れの予兆を別のところに見ていたと思います。そして、すぐれて「頭脳のゲーム」である将棋の可能性を、自分の知力を振り絞ってとことん探求しようと考えました。孤独な改革の始まりでした。
ところで僕は、ずっとひとつの疑問を抱いていました。なぜ羽生さんはある時期から自分の将棋研究の成果を公開し始めたのだろうか、と。1992年から2年半かけて刊行された『羽生の頭脳』という全10巻の著作があります。彼の20代前半の大仕事です。あるいは、雑誌「将棋世界」に1997年7月号から3年半にわたって書き継がれた「変わりゆく現代将棋」という連載があります。いずれも「勝つこと」を最優先にするプロ棋士であれば、当然秘匿しておくべき手の内を、惜しげもなくオープンにした著作です。驚きました。その理由について、羽生さんから明確な説明を聞いたことはないのですが、彼の書いたものを読み、彼との親交を深めていく中で確信したことがあります。ひと言で言えば、「将棋は2人で指すものだ」ということです。羽生さんは、将棋とは「他力本願的なところがある」「1人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして他者に委ねる。そういうものだ」という言い方をします。つまり、相手が自分と同じ価値観なり、同じビジョンを共有してくれないことには、いくら1人で「未開の荒野」を切り開いていったとしても、盤上に革命はいつまでも経っても起こりようがありません。盤上がより自由になり、そこに「もっとすごいもの」が現出するためには、対局する相手も自分と同じ志向性を持った仲間(当然勝ち負けを競うライバルですが)である必要がある。そうでなければ、「もっとすごいもの」を実現する機会は失われるばかりである、という心境に至ったのではないかと想像するわけです。つまり、2人で創造するゲーム、2人で真理を追究する将棋においては、仲間の存在を抜きにして「もっとすごいもの」は絶対に1人では作れないと悟ったのではないか。それが「知のオープン化」を実践した彼の内的動機ではなかったか、というのが僕の解釈です。
しかし、羽生さんが本当に凄いのは、大著『羽生の頭脳』を完成させて間もなく、彼が7冠を制覇したということです。つまり、その時点での「自分の知識をすべて投入し」、最新の研究成果や将棋のあらゆる局面についての考え方を洗いざらい公開した一方で、勝負の世界においても勝ち続けたという事実です。「知のオープン化」と「勝つこと」を完璧に両立させたことです。こうして彼は将棋界に革新の嵐を巻き起こし、現代将棋の扉を開きました。若手プロ棋士たちによって、質の高い将棋の体系的な研究書が次々と出版されるのは、それから間もなくのことでした。
「イノベーションはなぜ起きたか(下)」は明日19日に公開します。引き続きご覧ください。
対談写真──撮影・岩橋昇
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