2009年06月18日
唐突ですが『機巧奇傅ヒヲウ戦記』の原稿です
■最近の仕事の告知とかしなくちゃいけないんですが、〆切の合間の気分転換に、その前に古い原稿をアップしておきます。『機巧奇傅ヒヲウ戦記』の原稿です。例のごとく、「グレートメカニック」に掲載したものです(このブログにのせているのは、たいがい「グレメカ」掲載原稿です)。頭に『天保異聞 妖奇士』の話題があるのは、編集部から「『ヒヲウ』は放送から時間が経っているので、フックだけはつけてくれ」といわれたからなんですが、まさかその後、本当に若き日のマスラヲが『妖奇士』に登場するとは思わなかったです。まあ、こうしてみると、自分はつくづく「変わった作品」にひっかかることが多いなぁと思いますね。
■放送終了後、アニメージュに企画を持ちかけて、會川昇さんインタビューを行い、もし全体が4クールだったらどんな内容になっていたかをうかがったり、詳細ヒヲウ年表を作ったりしたのも懐かしい。そういえば掲載する原稿では触れられませんでしたが、コミカライズ版(画は神宮寺一)は、ラストが現在になっていて、エンディングでちょっとだけ描かれていたシーンにつながっているので、興味がある方はそちらも手にとられるといいんじゃないでしょうか。
『機巧奇傅ヒヲウ戦記』
MBS・TBS系列で土曜6時からスタートした『天保異聞 妖奇士』。江戸時代の天保14年を舞台に、妖と呼ばれる化け物と戦う奇士を描いた内容は時代劇としても異色だが、そもそもアニメで、多数の資料に拠らなければならない時代劇を扱うこと自体が異色ともいえる企画だ。制作会社はBONS、原作・脚本は會川昇。実はBONSと會川昇という組み合わせは、過去にもやはり異色ともいえる時代劇アニメを送り出している。2000年からNHK BS-2で放送された『機巧奇傅ヒヲウ戦記』がそれだ。
『妖奇士』と『ヒヲウ戦記』を並べると、表面上は傾向の違う作品に見えていても、その根本の姿勢には共通点も多いことに気付かされる。
『ヒヲウ戦記』の舞台は1861年(文久元年)。機巧を操る三河の国にある「機の民」の村から物語は始まる。戦いに機巧を使わないことをモットーとする「機の民」。ヒヲウはその村の中でもやんちゃで、機巧の才能に溢れた8歳の少年だ。ヒヲウには兄姉それに弟二人がいる。
ある日、その村を「風陣」が襲う。「風陣」とは、機巧を戦いに使うもうひとつの「機の民」だった。ヒヲウたちは、巨大な人型に変形する山車「炎」とともに村を逃げ出し、旅に出ているヒヲウの父、マスラヲに出会おうとする。その旅は結果的に、ヒヲウたちを幕末の波乱のただ中に放り込むことになる。
『ヒヲウ戦記』のストーリーの軸は二つある。ひとつはヒヲウとその父マスラヲの物語。そしてもうひとつは舞台となる幕末の歴史。後者は基本的に前面に出ることは少ない。だが、要所要所でヒヲウのドラマに絡んでくる。そして、シリーズ全体を見渡すと、この二つの要素が巧みに組み合わされていることがわかる。アニメにおける時代劇は、「目先の変わったファンタジー」として企画される場合も少なくないが、『ヒヲウ戦記』は「歴史」と「キャラクターのドラマ」がはっきりと絡み合うことで、「時代劇=歴史劇」である意味がはっきりと生まれているのが特徴だ。
シリーズ前半は、父マスラヲを求める旅の様子が描かれる。マスラヲがどのような人物か、アヴァンタイトルなどで断片的描かれることはあっても、ヒヲウたちとマスラヲが顔を合わせるシーンは基本的にない。。
前半1クールは、ヒヲウたちは故郷を旅立ち、父がかつていたという飛騨高山を経て、京都へ至るまでを中心に描く。基本的に1話完結で進行し、各所で風陣が絡んでくることでエピソードを盛り上げている。
第12話から第14話は中盤の転機となる「京都編」。天誅という名のテロをはじめ、それまで断片的に描写された幕末の政治的な情勢が積極的に描かれ始め「歴史劇」の要素が強調される。また歴史上の実在の人物、獅子王(正式な名前は久邇宮朝彦親王。昭和天皇の皇后、香淳皇后の祖父にあたる)が登場し、ヒヲウたちを「『機の民』がかつてそうであったように、宮廷のもののふとして働かないか」と誘ったりもする。戦いに機巧は使わないと誓っていたヒヲウたちだが、歴史のうねりとは無関係ではいられないのだ。
だが、この時点でヒヲウたちは迷いながらも「機巧は祭りのために用うべし」という「機の民」に伝わってきた教えを守ろうとする。この凛とした姿勢は、そのままそれを教えてくれた親マスラヲへの尊敬と信頼につながっている。
このようなヒヲウたちの姿を描いた上で、第1のクライマックス「新月藩編」が第17話から第20話まで続く。
新月藩は現在の福井県あたりにあるという設定だ。ヒヲウたちは旅の途中で雪、華という“姉妹”に出会うが、実は彼女たちが新月藩の前藩主の子供。家督を奪った叔父から狙われているため、兄の雪也は女装して追っての目をくらましていたのである。
実はこの新月藩にマスラヲも、そして風陣の頭クロガネもいるのだった。ヒヲウたちは、新月藩のお家騒動に巻き込まれながら、マスラヲと予想外の再会を果たすことになる。
しかし、ヒヲウとマスラヲの再会はある種の苦みを伴うものだった。
まず衝撃的なのは、マスラヲが新月藩の風陣の下で働いていた、という事実だ。さらに、マスラヲはヒヲウたちの語る「風陣が故郷を焼いた」という事実すらすぐには信じてくれない。これもヒヲウたちの不満を大きくする。
「風陣が故郷を焼いた」という事実は、その後すぐにマスラヲが風陣から欺かれていたことがわかり落着するが、ポイントは実はさらにその先にある。
第十八話「嘘!父の見た夢」には、マスラヲが、ヒヲウたちを陰に日向に支えてきた才谷(実は脱藩直前の坂本龍馬)と会話をする場面がある。大人同士の会話の中で、マスラヲは自分の本音を漏らす。
自分は機巧の民の末裔として、「まつりごとのための最高の機巧を作りたい」と考えていること。そのための環境は、風陣にしかないこと。才谷が、つくれさえすればいいのか、と問いかけると、マスラヲは、自分にはそれしかないと答える。
そして、その後、ヒヲウと向かい合ったマスラヲは冷たいほどきっぱりと息子を遠ざける。
囚われの身である華と雪を助けて、新月藩を脱出しようというヒヲウ。それに対し、マスラヲは、新月藩からははやく出たほうがいいが、自分は出ていかないと告げる。自分にはやりかけていることがあるから、ここに残るのだという。
「自分も手伝う」というヒヲウ。そこでマスラヲは「それは俺の夢だ。お前はお前の夢を見ろ」と言い放つ。
何を言われたのか一瞬意味がわからないヒヲウ。それまで雰囲気を盛り上げていたBGMもマスラヲのセリフの瞬間にブツッと切れてヒヲウの衝撃を表現する。やがて「わかんないよ、なに言っているか」と言いながら雪と華を助けるために飛び出していくヒヲウ。
『ヒヲウ戦記』は全編を通じ、大人と子供の差を明確に描いている。『ヒヲウ戦記』のような「子供が大活躍するアニメ」では、子供が大人よりも正しいことを語り。大人が大きな影響を受けるという展開がしばしばある。そこでは子供の持つイノセンスがそのまま肯定されている。
しかし『ヒヲウ戦記』ではそのようなことは起きない。子供のイノセンスを信じながらも、それと現実や大人故の欲との距離も描き込んでいるのが『ヒヲウ戦記』なのだ。中でも、このヒヲウとマスラヲのやりとりはその白眉といえる。
大人と子供の超えられない距離。それは風陣の頭クロガネとその息子アラシとの関係にもしっかり描写されている。アラシはヒヲウと対になるキャラクターで、ヒヲウよりもリアリストであり、人からの愛情に飢えている存在でもある。その点でも親子関係はアラシのドラマに欠かせない要素として盛り込まれ、折に触れて描写されている。
アラシは第1話で登場以来、機巧師としての豊かな才能を持つ存在として描かれている。そのため、自分よりも年上の風塵幹部のアカを明らかに見下している。ところがクロガネが登場すると、その視点から見たアラシは、才覚はあれどわがままな息子に過ぎない存在として描かれるのだ。そしてクロガネは、自分の野望の邪魔になりそうだったアラシを、アカを使って殺そうとさえする。
ここで描かれた親子関係の構図を「家族より仕事が大事な父親」と読めば、実は極めて現代的な父親像を描いているともいえる。
では、子供との間に埋めがたい差があるとして、そこに父としての愛情はあるのだろうか。実はあるのである。
たとえば悪役のクロガネですら、屋形狼(蒸気機関で動く風陣の兵器)がアラシのほうへ倒れそうになった時、その体を守るようにグッと抱きしめるのだ。
マスラヲも同様だ。屋形狼から守るため身を挺してヒヲウを守り、最終的に絶命する。いまわの際にマスラヲがヒヲウに語ったのは、ヒヲウの名前の由来。「ヒヲウ」とは「火逐」。戦を意味する「火」を「逐=追い払う、遠ざける」という意味だという。それは一旦、無責任にも「自分の夢を探せ」と放り出し息子に対し、そのヒントを改めて示すことになった。
愛情はある。しかし、生き方は重なることはない。この肉親ならではの微妙な関係が『ヒヲウ戦記』のドラマを絵空事でなくしている。またそのまま描くとシビア過ぎてしまうこの関係が、逢阪浩司の丸みを帯びた暖かいキャラクターでホットに描かれているからこそ、エンターテインメントとして成立しているのも『ヒヲウ戦記』の魅力となっている。
かくしてヒヲウは、父という目標を失い、歴史のただ中へと放り出され、第二のクライマックスが始まる。
第二のクライマックスは第二十一話から始まり第二十五話まで続く「長州編」だ。
「長州編」は、それまでより1年2カ月が経過した1863年(文久3年)よりストーリーが始まる。長州とアメリカ合衆国など4カ国が戦った馬関戦争。そこにも見え隠れする風陣の存在。彼らは攘夷のために力を使おうとしていた。初めて歴史の表舞台で起きた大きな事件とヒヲウたちが初めて絡み合うエピソードでもある。
激しい戦いの中で、ヒヲウは自分の中にも戦いを望む心が潜んでいるのではないかと悩む。「炎」の力が戦いを招くのならば、「炎」を使わないほうがいいのではないか、とまで考える。そこで救いとなったのは拳骨和尚の「力が戦いを起こすのではない。心が起こすのだ」という言葉だった。ヒヲウは、攘夷に使われている、父が新月藩で開発した潜水艦「海鬼」を破壊することをついに決意する。
第一のクライマックスで投げ出された「自分の夢は何か」という問いかけが、歴史に残る戦いの中で解かれていく。「海鬼」を壊すという決意は、「政のための機巧を作ろうとした」父とは違う道を歩むという意志の表明でもある。そして第二十五話でヒヲウは、改めて自分の存在意義を「機巧は祭りのために用うべし」という言葉に求めたのだった。実際に戦われた“戦争”のただ中で、ヒヲウが「政」ではなく、あくまでも「祭り」を選ぶという構造が、第二のクライマックスのもっとも重要な要素なのである。
このような視線によって、ヒヲウとマスラヲのドラマが、史実の中に昇華されていくところが『ヒヲウ戦記』のもっとも魅力的なところである。
ここで強調したいのは、先ほど指摘した通り子供と親の間にひとつのラインがあったように、『ヒヲウ戦記』は、歴史とドラマの間にも超えがたい明確なラインを引いているという点だ。ヒヲウたちがどんなに破天荒な行動をしても、歴史は変わらないのだ。
それはエンディングでヒヲウが機巧杖を、現代の少年に手渡すカットがあることからわかるように、『ヒヲウ戦記』が、我々の暮らしている世界と地続きの世界であるということだ。我々が知っている歴史のどこかに、ヒヲウたちの足跡も残っている。ヒヲウたちの悩みや決断は、アニメで描かれたけれど絵空事ではなく、今の我々の現実の悩みと決断とどこか地続きのものなのだ。
この時代劇をファンタジーとせず、現実と地続きのものとして描き出そうとする姿勢こそ『ヒヲウ戦記』と『妖奇士』の間に共通する部分なのである。
第二十六話。第二十五話から4年が経過した1867年(慶応3年)。江戸が戦いに包まれるかもしれないと聞いて、ヒヲウは封印していた炎を再び動かし江戸を目指す。これはその後の第二部を想定した壮大な予告のつもりで作られたエピソードだったという。当時、視聴者が投げっぱなしのラストとして受け止められ批判の声もあったという。
だが、今改めて見直すと、ヒヲウたちが歴史の雑踏の中に溶け込むように消えていくこのラストは非常に魅力的だ。ヒヲウたちの人生は終わってはいないし、年表を読めばその行間に、そこにヒヲウたちの活躍を夢想することだってできる。このラストを見る度、翌年の江戸城の無血開城の時、そこに炎が立っている姿を勝手に想像してしまう。
そんな夢想を許してくれるのも『ヒヲウ戦記』の魅力だと思う。
■放送終了後、アニメージュに企画を持ちかけて、會川昇さんインタビューを行い、もし全体が4クールだったらどんな内容になっていたかをうかがったり、詳細ヒヲウ年表を作ったりしたのも懐かしい。そういえば掲載する原稿では触れられませんでしたが、コミカライズ版(画は神宮寺一)は、ラストが現在になっていて、エンディングでちょっとだけ描かれていたシーンにつながっているので、興味がある方はそちらも手にとられるといいんじゃないでしょうか。
『機巧奇傅ヒヲウ戦記』
MBS・TBS系列で土曜6時からスタートした『天保異聞 妖奇士』。江戸時代の天保14年を舞台に、妖と呼ばれる化け物と戦う奇士を描いた内容は時代劇としても異色だが、そもそもアニメで、多数の資料に拠らなければならない時代劇を扱うこと自体が異色ともいえる企画だ。制作会社はBONS、原作・脚本は會川昇。実はBONSと會川昇という組み合わせは、過去にもやはり異色ともいえる時代劇アニメを送り出している。2000年からNHK BS-2で放送された『機巧奇傅ヒヲウ戦記』がそれだ。
『妖奇士』と『ヒヲウ戦記』を並べると、表面上は傾向の違う作品に見えていても、その根本の姿勢には共通点も多いことに気付かされる。
『ヒヲウ戦記』の舞台は1861年(文久元年)。機巧を操る三河の国にある「機の民」の村から物語は始まる。戦いに機巧を使わないことをモットーとする「機の民」。ヒヲウはその村の中でもやんちゃで、機巧の才能に溢れた8歳の少年だ。ヒヲウには兄姉それに弟二人がいる。
ある日、その村を「風陣」が襲う。「風陣」とは、機巧を戦いに使うもうひとつの「機の民」だった。ヒヲウたちは、巨大な人型に変形する山車「炎」とともに村を逃げ出し、旅に出ているヒヲウの父、マスラヲに出会おうとする。その旅は結果的に、ヒヲウたちを幕末の波乱のただ中に放り込むことになる。
『ヒヲウ戦記』のストーリーの軸は二つある。ひとつはヒヲウとその父マスラヲの物語。そしてもうひとつは舞台となる幕末の歴史。後者は基本的に前面に出ることは少ない。だが、要所要所でヒヲウのドラマに絡んでくる。そして、シリーズ全体を見渡すと、この二つの要素が巧みに組み合わされていることがわかる。アニメにおける時代劇は、「目先の変わったファンタジー」として企画される場合も少なくないが、『ヒヲウ戦記』は「歴史」と「キャラクターのドラマ」がはっきりと絡み合うことで、「時代劇=歴史劇」である意味がはっきりと生まれているのが特徴だ。
シリーズ前半は、父マスラヲを求める旅の様子が描かれる。マスラヲがどのような人物か、アヴァンタイトルなどで断片的描かれることはあっても、ヒヲウたちとマスラヲが顔を合わせるシーンは基本的にない。。
前半1クールは、ヒヲウたちは故郷を旅立ち、父がかつていたという飛騨高山を経て、京都へ至るまでを中心に描く。基本的に1話完結で進行し、各所で風陣が絡んでくることでエピソードを盛り上げている。
第12話から第14話は中盤の転機となる「京都編」。天誅という名のテロをはじめ、それまで断片的に描写された幕末の政治的な情勢が積極的に描かれ始め「歴史劇」の要素が強調される。また歴史上の実在の人物、獅子王(正式な名前は久邇宮朝彦親王。昭和天皇の皇后、香淳皇后の祖父にあたる)が登場し、ヒヲウたちを「『機の民』がかつてそうであったように、宮廷のもののふとして働かないか」と誘ったりもする。戦いに機巧は使わないと誓っていたヒヲウたちだが、歴史のうねりとは無関係ではいられないのだ。
だが、この時点でヒヲウたちは迷いながらも「機巧は祭りのために用うべし」という「機の民」に伝わってきた教えを守ろうとする。この凛とした姿勢は、そのままそれを教えてくれた親マスラヲへの尊敬と信頼につながっている。
このようなヒヲウたちの姿を描いた上で、第1のクライマックス「新月藩編」が第17話から第20話まで続く。
新月藩は現在の福井県あたりにあるという設定だ。ヒヲウたちは旅の途中で雪、華という“姉妹”に出会うが、実は彼女たちが新月藩の前藩主の子供。家督を奪った叔父から狙われているため、兄の雪也は女装して追っての目をくらましていたのである。
実はこの新月藩にマスラヲも、そして風陣の頭クロガネもいるのだった。ヒヲウたちは、新月藩のお家騒動に巻き込まれながら、マスラヲと予想外の再会を果たすことになる。
しかし、ヒヲウとマスラヲの再会はある種の苦みを伴うものだった。
まず衝撃的なのは、マスラヲが新月藩の風陣の下で働いていた、という事実だ。さらに、マスラヲはヒヲウたちの語る「風陣が故郷を焼いた」という事実すらすぐには信じてくれない。これもヒヲウたちの不満を大きくする。
「風陣が故郷を焼いた」という事実は、その後すぐにマスラヲが風陣から欺かれていたことがわかり落着するが、ポイントは実はさらにその先にある。
第十八話「嘘!父の見た夢」には、マスラヲが、ヒヲウたちを陰に日向に支えてきた才谷(実は脱藩直前の坂本龍馬)と会話をする場面がある。大人同士の会話の中で、マスラヲは自分の本音を漏らす。
自分は機巧の民の末裔として、「まつりごとのための最高の機巧を作りたい」と考えていること。そのための環境は、風陣にしかないこと。才谷が、つくれさえすればいいのか、と問いかけると、マスラヲは、自分にはそれしかないと答える。
そして、その後、ヒヲウと向かい合ったマスラヲは冷たいほどきっぱりと息子を遠ざける。
囚われの身である華と雪を助けて、新月藩を脱出しようというヒヲウ。それに対し、マスラヲは、新月藩からははやく出たほうがいいが、自分は出ていかないと告げる。自分にはやりかけていることがあるから、ここに残るのだという。
「自分も手伝う」というヒヲウ。そこでマスラヲは「それは俺の夢だ。お前はお前の夢を見ろ」と言い放つ。
何を言われたのか一瞬意味がわからないヒヲウ。それまで雰囲気を盛り上げていたBGMもマスラヲのセリフの瞬間にブツッと切れてヒヲウの衝撃を表現する。やがて「わかんないよ、なに言っているか」と言いながら雪と華を助けるために飛び出していくヒヲウ。
『ヒヲウ戦記』は全編を通じ、大人と子供の差を明確に描いている。『ヒヲウ戦記』のような「子供が大活躍するアニメ」では、子供が大人よりも正しいことを語り。大人が大きな影響を受けるという展開がしばしばある。そこでは子供の持つイノセンスがそのまま肯定されている。
しかし『ヒヲウ戦記』ではそのようなことは起きない。子供のイノセンスを信じながらも、それと現実や大人故の欲との距離も描き込んでいるのが『ヒヲウ戦記』なのだ。中でも、このヒヲウとマスラヲのやりとりはその白眉といえる。
大人と子供の超えられない距離。それは風陣の頭クロガネとその息子アラシとの関係にもしっかり描写されている。アラシはヒヲウと対になるキャラクターで、ヒヲウよりもリアリストであり、人からの愛情に飢えている存在でもある。その点でも親子関係はアラシのドラマに欠かせない要素として盛り込まれ、折に触れて描写されている。
アラシは第1話で登場以来、機巧師としての豊かな才能を持つ存在として描かれている。そのため、自分よりも年上の風塵幹部のアカを明らかに見下している。ところがクロガネが登場すると、その視点から見たアラシは、才覚はあれどわがままな息子に過ぎない存在として描かれるのだ。そしてクロガネは、自分の野望の邪魔になりそうだったアラシを、アカを使って殺そうとさえする。
ここで描かれた親子関係の構図を「家族より仕事が大事な父親」と読めば、実は極めて現代的な父親像を描いているともいえる。
では、子供との間に埋めがたい差があるとして、そこに父としての愛情はあるのだろうか。実はあるのである。
たとえば悪役のクロガネですら、屋形狼(蒸気機関で動く風陣の兵器)がアラシのほうへ倒れそうになった時、その体を守るようにグッと抱きしめるのだ。
マスラヲも同様だ。屋形狼から守るため身を挺してヒヲウを守り、最終的に絶命する。いまわの際にマスラヲがヒヲウに語ったのは、ヒヲウの名前の由来。「ヒヲウ」とは「火逐」。戦を意味する「火」を「逐=追い払う、遠ざける」という意味だという。それは一旦、無責任にも「自分の夢を探せ」と放り出し息子に対し、そのヒントを改めて示すことになった。
愛情はある。しかし、生き方は重なることはない。この肉親ならではの微妙な関係が『ヒヲウ戦記』のドラマを絵空事でなくしている。またそのまま描くとシビア過ぎてしまうこの関係が、逢阪浩司の丸みを帯びた暖かいキャラクターでホットに描かれているからこそ、エンターテインメントとして成立しているのも『ヒヲウ戦記』の魅力となっている。
かくしてヒヲウは、父という目標を失い、歴史のただ中へと放り出され、第二のクライマックスが始まる。
第二のクライマックスは第二十一話から始まり第二十五話まで続く「長州編」だ。
「長州編」は、それまでより1年2カ月が経過した1863年(文久3年)よりストーリーが始まる。長州とアメリカ合衆国など4カ国が戦った馬関戦争。そこにも見え隠れする風陣の存在。彼らは攘夷のために力を使おうとしていた。初めて歴史の表舞台で起きた大きな事件とヒヲウたちが初めて絡み合うエピソードでもある。
激しい戦いの中で、ヒヲウは自分の中にも戦いを望む心が潜んでいるのではないかと悩む。「炎」の力が戦いを招くのならば、「炎」を使わないほうがいいのではないか、とまで考える。そこで救いとなったのは拳骨和尚の「力が戦いを起こすのではない。心が起こすのだ」という言葉だった。ヒヲウは、攘夷に使われている、父が新月藩で開発した潜水艦「海鬼」を破壊することをついに決意する。
第一のクライマックスで投げ出された「自分の夢は何か」という問いかけが、歴史に残る戦いの中で解かれていく。「海鬼」を壊すという決意は、「政のための機巧を作ろうとした」父とは違う道を歩むという意志の表明でもある。そして第二十五話でヒヲウは、改めて自分の存在意義を「機巧は祭りのために用うべし」という言葉に求めたのだった。実際に戦われた“戦争”のただ中で、ヒヲウが「政」ではなく、あくまでも「祭り」を選ぶという構造が、第二のクライマックスのもっとも重要な要素なのである。
このような視線によって、ヒヲウとマスラヲのドラマが、史実の中に昇華されていくところが『ヒヲウ戦記』のもっとも魅力的なところである。
ここで強調したいのは、先ほど指摘した通り子供と親の間にひとつのラインがあったように、『ヒヲウ戦記』は、歴史とドラマの間にも超えがたい明確なラインを引いているという点だ。ヒヲウたちがどんなに破天荒な行動をしても、歴史は変わらないのだ。
それはエンディングでヒヲウが機巧杖を、現代の少年に手渡すカットがあることからわかるように、『ヒヲウ戦記』が、我々の暮らしている世界と地続きの世界であるということだ。我々が知っている歴史のどこかに、ヒヲウたちの足跡も残っている。ヒヲウたちの悩みや決断は、アニメで描かれたけれど絵空事ではなく、今の我々の現実の悩みと決断とどこか地続きのものなのだ。
この時代劇をファンタジーとせず、現実と地続きのものとして描き出そうとする姿勢こそ『ヒヲウ戦記』と『妖奇士』の間に共通する部分なのである。
第二十六話。第二十五話から4年が経過した1867年(慶応3年)。江戸が戦いに包まれるかもしれないと聞いて、ヒヲウは封印していた炎を再び動かし江戸を目指す。これはその後の第二部を想定した壮大な予告のつもりで作られたエピソードだったという。当時、視聴者が投げっぱなしのラストとして受け止められ批判の声もあったという。
だが、今改めて見直すと、ヒヲウたちが歴史の雑踏の中に溶け込むように消えていくこのラストは非常に魅力的だ。ヒヲウたちの人生は終わってはいないし、年表を読めばその行間に、そこにヒヲウたちの活躍を夢想することだってできる。このラストを見る度、翌年の江戸城の無血開城の時、そこに炎が立っている姿を勝手に想像してしまう。
そんな夢想を許してくれるのも『ヒヲウ戦記』の魅力だと思う。
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