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- 2月21日 (土)
- Jリーグ元年
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平成5年5月、日本初のプロサッカーリーグ、Jリーグが誕生しました。一気に盛り上がったJリーグ人気はプロ野球をしのぐほどでした。名古屋を拠点に発足した名古屋グランパスエイトは、元イングランド代表のリネカー選手を獲得。開幕戦が行われたホームの瑞穂球技場は、雨の中にもかかわらず、大勢のサポーターで埋まりました。グランパスでカリスマ的な人気を博したのは森山選手。スーパーサブと呼ばれ、途中出場ながらいくつもの劇的なゴールを決め、観客を沸かせたのでした。
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- 2月14日 (土)
- マドンナの闘い
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平成2年の衆議院選挙。岐阜1区の闘いが全国の注目を集めました。岐阜県議の議席を蹴って出馬した野田聖子氏と、共産党の蓑輪幸代氏。マドンナ同士の対決です。この選挙は、消費税の導入、リクルート疑惑など多くの政治課題が争点となりました。岐阜1区では、定数5に対し9人が立候補。保守乱立、保革混戦の激戦区になりました。自民党の公認が得られなかった野田氏は無所属となり、婦人層、若者を中心に票を取りまとめようと岐阜の市内を駆け巡りました。マドンナ同士の闘いということでマスコミも殺到。逆にアイドル議員と揶揄され、批判されることも。結果的にマドンナ対決は共倒れに終わりましたが、野田氏はこの敗戦をバネに、3年後の衆議院選挙で当選を果たしました。
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- 2月7日 (土)
- 飛鳥初飛行
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短い滑走路で離着陸が出来る低騒音のジェット旅客機、STOL実験機「飛鳥」。科学技術庁が航空自衛隊のC1型輸送機をベースに研究開発を進め、昭和60年、初飛行に成功しました。最大の特徴は4基のエンジンを翼の上に搭載し、排気流を利用して高い揚力を得るシステムです。これにより、それまでの半分程度の距離で離着陸ができるようになりました。ただ、実験には成功したものの、開発に多額の費用がかかることなどから実用化は見送られてしまいました。しかし、その最新の技術は日本の航空機製造の歴史に大きな足跡を残したのでした。
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- 1月31日 (土)
- 盲導犬サーブ
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昭和57年1月、岐阜県内の国道で、目の見えない主人をかばって交通事故にあい、自らの脚を失った勇敢な盲導犬がいました。その名はサーブ。左前脚を失ったサーブの活躍は、瞬く間に世間に知れ渡り、中部盲導犬協会には、サーブの功績をたたえる手紙が全国から寄せられました。そして、総理大臣功労賞を受賞。盲導犬の先進国アメリカからも表彰を受けました。名古屋駅前には銅像も建てられ(現在は栄駅に移設)、全国の人々に愛されたサーブのおかげもあり、当時、全国で300頭足らずだった盲導犬は、今、1000頭に増えました。
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- 1月17日 (土)
- 名古屋駅今昔
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昭和12年に今の位置に建てられた名古屋駅。名古屋市の玄関として、時代を映す鏡のように大きく様変わりしてきました。鉄筋コンクリート5階建ての駅舎は、当時「東洋一」と謳われました。戦後の高度経済成長期を迎えた昭和30年代は、「金の卵」ともてはやされた集団就職の学生たちを迎え、改札は通勤客で溢れました。一方、西口側は区画整理もままならず、終戦直後からの闇市の名残が長く残りました。しかし、それも、39年の新幹線開通に向け、大きく変化していったのです。
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- 1月10日 (土)
- 共通一次試験
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昭和54年、戦後最大の入試改革と呼ばれる「国公立大学共通一次試験」がスタート。全教科・全科目でマークシート方式を採用。それまで受験生を悩ませてきた難問・奇問をなくし、基礎学力を図るものとして導入されました。しかし、5教科7科目という試験科目の多さ、願書は出しても結果次第で二次試験が受けられなくなるなど、受験生の負担は決して軽いものではありませんでした。
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- 12月27日 (土)
- 石油ショック
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昭和48年、石油価格の大幅な高等から物不足になるという噂が飛び交い、トイレットペーパーや洗剤などの買い溜め騒ぎが全国で起きました。いわゆる「オイルショック」です。石油の価格が一挙に4倍となり、安くて豊富な石油で高度経済成長をつづけてきた日本は大きな打撃を受けました。マイカーによる外出の自粛や、テレビの深夜放送の中止、省エネによるネオンの消灯で繁華街からは文字通り火が消えました。狂乱物価と呼ばれる造語まで生まれ、ここに日本の高度経済成長は終焉を迎えたのでした。
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- 12月20日 (土)
- 長良川決壊
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昭和51年9月、台風17号にともなう大雨で岐阜県安八町の長良川堤防が決壊。濁流は、墨俣町、佐織町など周辺の町も飲み込んで、およそ4千戸余りの住居が浸水被害を受けました。伊勢湾台風以来の大災害に、数週間の間、町の機能は完全に麻痺。多くの人が食料や水を求め、自衛隊や消防団などが救援に当たりました。
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- 12月13日 (土)
- 名古屋でも学生運動
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昭和44年、日大、東大での紛争を契機に、全共闘と呼ばれる学生運動が全国に広がりました。その運動の火は東海地方にも飛び火。名古屋大学でも、大学改革や反戦を主張。豊田講堂を占拠して大学当事者を軟禁し、長時間に及ぶ団交を行いました。そして、抗議集会やデモ行進、大学のバリケード封鎖へとエスカレートし、校舎に立てこもる学生とそれに反対する学生同士が衝突しました。年末には学生同士の内部抗争、いわゆる内ゲバに発展。数十人の負傷者を出すに及び、機動隊が大学構内に突入し事態の収拾に当たりました。
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- 12月6日 (土)
- 親謁の儀
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平成2年秋、天皇皇后両陛下が皇位継承を奉告される「親謁(しんえつ)の儀」が行われました。11月26日、伊勢市に入られた両陛下は地元市民の熱烈な歓迎の中、伊勢神宮へと向かわれました。ご親謁では、正殿までの参道を二頭立ての馬車で進むのが明治天皇以来の習わし。その馬車は、昭和34年の御成婚パレードで両陛下が乗られた思い出深い馬車でした。昭和から平成へ、新しい時代の新しい天皇の誕生に、伊勢の町は祝賀ムード一色に包まれました。
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- 11月29日 (土)
- スト権スト
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昭和50年11月26日、全国の鉄道網が8日間に渡りストップするという、戦後例のない長期のストライキがありました。公労協が労働者のストライキ権を奪還しようとして行った、いわゆる「スト権スト」です。一部のローカル線を除き、始発から新幹線、在来線ともにストップ。バスやタクシーに人々が殺到。ラッシュ時間の主要道路はどこも大渋滞で、会社まで歩く人の列が延々と街中につづきました。多くの会社では職場に布団を持ち込み、泊り込みの体制でストに対応するところもありました。世論の反発を重く見た公労協は8日目にスト回避を宣言。192時間に及ぶストライキがようやく幕を閉じたのでした。
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- 11月22日 (土)
- 中華航空機事故
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平成6年4月26日午後8時16分、中華航空140便が名古屋空港着陸の際に失速。滑走路に墜落し炎上しました。機体は粉々に砕け散り、乗員乗客271人のうち、264人が犠牲となりました。空港近くの病院には負傷者が次々と運び込まれ、小さな子どもを含む7人の命が奇跡的に救われました。現場の近くには慰霊碑が建てられ、今も被害者の霊を弔っています。
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- 11月15日 (土)
- 気球で太平洋横断
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昭和57年、気球による太平洋横断に成功した冒険かがいました。アメリカンドリームを実現させた実業家ロッキー青木さんです。仲間3人と乗り込んだ気球はダブル・イーグル号。7畳くらいの広さのゴンドラ内には最新鋭の通信機器や高度記録計などを搭載。10日分の食料も積んで、万全の準備をしての離陸。それでも風任せの飛行は、常に生と死が背中合わせの冒険でした。そして、出発から4日目、84時間を経て、4人の力は太平洋を越え、サンフランシスコまで約9600キロの空の旅を成功させたのでした。
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- 11月8日 (土)
- 飛騨川バス事故
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昭和43年、記録的な豪雨が東海地方を襲いました。この雨の影響で岐阜県白川町では土石流が発生。乗鞍に向かっていた観光バス2台が巻き込まれ、飛騨川に転落しました。乗員乗客は107人。大増水していた激流に飲み込まれ、一台は事故の翌日、もう一台は4日後、現場から900メートル下流で発見されました。奇跡的に助かったのはわずか3人。104人の犠牲者を出し、日本のバス事故史上最悪の惨事となりました。事故の翌年、現場の近くには慰霊碑「天心白菊の塔」が建てられ、毎年、慰霊祭が行われています。
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- 11月1日 (土)
- 自衛隊PKO派遣
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平成4年、国連平和維持活動・PKO協力法が可決され、自衛隊がカンボジアへ派遣されることになりました。航空自衛隊小牧基地では、編成完結式が行われ、第一陣として先遣隊30名が出発することに。車輌や物資が積み込まれ、C130輸送機6機が編成されました。一方で、自衛隊のあり方をめぐって多くの論議が巻き起こり、派遣反対を訴えるデモ隊が連日基地を囲みました。そんな賛否両論の渦巻く中、自衛隊員を乗せた輸送機はカンボジアへと飛び立って行ったのでした。
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- 10月25日 (土)
- 御岳山の大噴火
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昭和54年、岐阜県と長野県にまたがる木曽御岳が有史以来初めて噴火しました。山頂からは、轟音とともに千メートルにまで達する噴煙が舞い上がりました。麓の村々には火山灰が降り注ぎ、農作物に大きな被害をもたらしました。また谷川を濁流に変え、マスやイワナの養魚場も対策に追われました。頂上付近にあった山荘は、閉山時期でお客がいなかったのが幸いし、人的な被害はありませんでしたが、降り積もった火山灰が20~30センチにもなり、まるでセメントのようだったといいます。
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- 10月18日 (土)
- 20年ぶり悲願V
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昭和49年10月12日、中日球場でダブルヘッダーで戦った中日ドラゴンズ対大洋ホエールズの第2回戦。中日球場での最終戦でもあったこの試合、与那嶺監督の指揮の下、エース星野が力投し、ドラゴンズは20年ぶりのリーグ優勝を果たしました。宿敵読売巨人軍の10連覇を阻止しての優勝に、ファンの喜びもひとしお。優勝の瞬間、興奮したファンがグラウンドになだれ込み、大変な大騒ぎとなりました。この翌日には長嶋選手が引退を表明するなど、プロ野球史に大きな足跡を残す優勝でした。
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- 10月11日 (土)
- 岐阜国体
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昭和40年、第20回国民体育大会が岐阜県で開かれました。東海地方では、第5回の愛知県に続く2度目の開催。前年の東京オリンピックで活躍した選手も多く参加し、全国から注目を集めました。参加者は1万6千人。熱戦の結果、開催地である岐阜県が天皇杯・皇后杯を手にする圧勝を果たしました。大会のシンボルとなった炬火台に炎を点火した最終ランナーは、当時高校3年生だった現在の岐阜県知事・古田肇さんでした。その古田知事は、今、4年後に開かれるおよそ50年ぶりの岐阜国体「ぎふ清流国体」の準備を進めています。
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- 10月4日 (土)
- 式年遷宮
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昭和48年に行われた伊勢神宮の第60回式年遷宮。20年に一度、社殿を作り替え、神様にお遷りを願う伝統行事は、およそ1300年の歴史を持つとされていますが、その長い歴史の中で初めて、テレビカメラがその儀式の模様を伝えました。かがり火が消され、すべてが闇に溶け込む中、この日のために東海テレビが独自で導入した超高感度カメラが、御神体の運ばれる様子を見事に撮影することに成功しました。
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- 9月27日 (土)
- 夢の超特急
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昭和39年、夢の超特急・東海道新幹線の開業は、東京オリンピック開催に向けて始まった国家プロジェクトでした。踏み切りのない全線立体交差、国際標準を採用した広い軌道という、これまでの日本にない画期的な路線は、工期5年をかけて完成しました。また時速200キロ以上という鉄道技術にとって未知の領域に挑むこともあり、テスト運転では失敗や故障の連続でした。しかし、オリンピックの開幕を10日後に控えた開業の日、多くの人の努力が実を結び、東京大阪間を見事4時間で走り抜けたのでした。
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- 9月20日 (土)
- 伊勢湾台風
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およそ50年前の昭和34年9月、超大型台風が紀伊半島潮岬西方に上陸しました。瞬間最大風速60メートル、958.7ヘクトパスカル。伊勢湾から名古屋市を直撃し、愛知・岐阜・三重の東海地方3県の人口密集地帯をたどるように通過して行きました。死者5千人、負傷者4万人、観測史上最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。台風の上陸が満潮時と重なったことで高潮も発生し、貯木場から流出した材木が被害を拡大しました。
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- 9月13日 (土)
- きんさんぎんさん
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平成3年、名古屋市に住む双子の姉妹が、名古屋市長と愛知県知事にご長寿のお祝いを受けました。成田きんさんと蟹江ぎんさん。これをきっかけに二人は瞬く間に知れ渡り、国民的なアイドル「きんさんぎんさん」として全国の人々に親しまれました。歯に衣着せぬ名古屋弁のトークと愛嬌のある笑顔は、毎日のようにテレビや新聞の話題となり、日本全国に幸せと元気を与えてくれたのです。各地のイベントに引っ張りだこになり、カレンダーや写真集を出版したほか、CDデビューまで果たしました。
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- 9月6日 (土)
- まぼろしの超音速
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昭和34年、新幹線が開通する以前に、東京~大阪間をわずか14分でつなぐ新交通システムの研究が進められていました。名城大学の小沢久之丞教授をリーダーとするチームの実験です。空気抵抗をなくすため真空にした管の中をロケットのように通り抜ける交通システムの実験は、試行錯誤を繰り返し、18年の歳月を経て遂に時速2500キロを突破しました。研究の成果を実用に生かしたかったのですが、それには莫大な費用がかかることから、やむなく断念。今では幻の超音速滑走体実験として、研究者の間で語り継がれています。
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- 8月30日 (土)
- 子宝カバ夫婦
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平成12年、東山動物園のカバの夫婦重吉と福子に子どもが産まれました。昭和32年に最初の子どもが産まれて以来19頭目で、日本一の子だくさんです。2頭は子宝カバとして人気を集め、福子は47歳まで、重吉は53歳まで長生きしました。子どもたちは全国の動物園に引き取られ、当時、日本にいるカバ67頭のうち6割が2頭の子孫という状況でした。今も、姫路の動物園には、2頭の玄孫(ひ孫の子)に当たる2頭のカバがいます。その証拠は脚に現れる白い斑点。重吉と福子の子孫には、脚のどこかに不思議とその印が現れるのです。
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- 8月16日 (土)
- 愛知用水通水
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昭和36年9月、愛知用水が完成。取水口のある岐阜県八百津町で通水式が行われ、木曽川の水が濃尾平野を経て遠く知多半島の先端までを潤しました。河川の少ない知多半島では井戸やため池で渇水に備え、日照りが続くとすぐに農作物に被害が出ていました。そんな知多半島にとって、愛知用水の建設は長年の悲願。世界銀行からの借款も含め、政府はおよそ420億円の事業費をかけて建設に着手。およそ112キロの幹線水路・愛知用水は、まさしく国家プロジェクトとして3年の月日をかけて完成されたのでした。
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- 8月9日 (土)
- 海部総理誕生
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平成元年8月、愛知県出身の海部俊樹氏が第76代歴代48人目の内閣総理大臣に就任しました。58歳という若さ、初めて誕生した昭和生まれの総理大臣。そして、戦後初めて東海地方から誕生した総理大臣に、地元一宮の市民は大いに沸きあがりました。海部総理のトレードマークだった水玉模様が流行し、海部せんべいも登場。リクルート問題や消費税問題で参議院は自民党がはじめて過半数を割るという、現在と似たねじれ状態の逆風の中でしたが、海部内閣は高い支持率を維持し、政治改革に取り組んだのでした。
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- 8月2日 (土)
- 幻の名古屋五輪
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1988年の夏季オリンピックは韓国ソウルで開かれました。その開催地誘致に名古屋も名乗りを上げていたことは、名古屋っ子で知らない人はいません。誘致を呼びかけるイベントやパレードが各地で開かれ、平和公園にメインスタジアムが作られる計画も発表されました。記念Tシャツやバッジなどのグッズも町のあちこちで見られました。そして、昭和56年9月、西ドイツ郊外のバーデンバーデンで開かれたIOC総会には、仲谷愛知県知事をはじめとする東海3県の招致委員会のメンバーが集結。最後まで招致活動を続けましたが、開催地を決める投票の結果を告げるサマランチ会長の言葉は「ソウル」。この失敗が痛い教訓となり、その後のデザイン博や愛・地球博の成功へと結びついたのでした。
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- 7月26日 (土)
- 兄弟船漂着
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三重県津市の人気の海水浴場、御殿場海岸。平成6年9月、台風26号が通り過ぎたあとのこの海岸に、とても巨大な忘れ物が流れ着きました。長さ270メートル、高さ23メートル、総重量15万トン。近くの造船所で建造中だったタンカーが2隻、頭を並べ寄り添うようにして砂浜に乗り上げたのでした。一夜にして現れた巨大なビルのようなタンカーをひと目見ようと、週末には9万人もの見物客が押し寄せ、周辺は大混雑。誰が言い出したものか、巨大タンカーの「兄弟船」は観光名所となってしまいました。
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- 7月19日 (土)
- ハイウエー時代
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東京オリンピックの開催を目前に控えた昭和39年9月、日本初の高速道路が開通しました。愛知県小牧市と兵庫県西宮市を結ぶ名神高速道路です。9月5日、開通祝賀パレードは岐阜・関が原インターチェンジなどで行われ、オープンカーで走りながらお払いをする神主さんの風景も見られました。一般への供用開始は翌日6日の午前0時。一番乗りを目指し、深夜から行列を作って待ちわびていた人たちが、いっせいに夢の道路へと乗り出して行きました。当時の自家用車の普及は58人に1台の割合でしたが、高速道路の開通や大衆車の発売でその割合を増してゆき、昭和44年の東名高速道路の全線開通を経て本格的なマイカー時代に入っていったのでした。
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- 7月12日 (土)
- コアラに大行列
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昭和59年11月、名古屋お披露目となったコアラ。名古屋の新しいアイドルとして、オーストラリアからの譲渡が決定して以降、市民こぞって大歓迎の熱気で盛り上がりました。コアラを受け入れるため、平和公園などにコアラの主食となるユーカリの森も作られました。公募で名前を決めた「コロコロ」と「モクモク」、2匹のコアラが名古屋空港に到着すると、動物園までパトカーで先導。公開初日には泊まり組も出るほどで、最初の休日には4万人近くが動物園を訪れました。以来24年間、コアラは東山動物園で人気NO1にいます。
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- 7月5日 (土)
- 名古屋でもホコ天
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自家用車が庶民の夢ではなくなり、交通事故が多発して交通戦争という言葉も生まれた昭和45年。東京の銀座などにつづき、名古屋でも歩行者天国が行われるようになりました。栄のど真ん中、三越から松坂屋にかけての南大津通りおよそ700メートル。初日は午後1時のバトンガールのパレードから夕方6時までに40万人の人出でにぎわいました。普段は激しく車が行きかうアスファルトの道路が、叱られることなく楽しそうに落書きする子どもたちや、今で言うコスプレ姿の芸術家たちの笑顔であふれました。
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- 6月28日 (土)
- 猛暑で水不足
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連日記録的な猛暑がつづいた平成6年(1994年)の夏。空梅雨などで木曽川水系の水源が枯渇、牧尾ダムは底が見えるまでになりました。その影響で、愛知用水に依存する知多半島を中心とした愛知県内の20市町村で、8月中旬から断水したり、時間給水になりました。スーパーではペットボトルの水が売り切れ。飲食店では臨時休業のお店が続出。営業時間を短縮する風呂屋や、やかんの水で洗髪する床屋も珍しくありませんでした。
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- 6月21日 (土)
- 笑顔のエリザベス女王
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昭和50年5月、イギリスのエリザベス女王が来日しました。元首の訪問は長い日英関係の歴史の中でも初めてのこと。5日間の滞在中、最後に訪ねられたのが伊勢志摩の地でした。5月11日、伊勢神宮に参拝した後、世界初の真珠養殖で知られるミキモト真珠島を訪問。真珠の加工場を興味深く見学されたほか、地元の海女40人によるアワビ採りの実演も熱心にご覧になりました。気がつけば滞在時間の予定を40分もオーバーする訪問となり、そのさわやかなロイヤルスマイルを人々の心に残していったのでした。
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- 6月14日 (土)
- 夢の海外旅行
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中部国際空港「セントレア」ができる前の中部圏の空の玄関は、小牧市にあった名古屋空港。ここに初めて国際線のジェット機が乗り入れたのは昭和41年4月のこと。海外への第一便は、日本航空の台北・香港線でした。今でこそ海外旅行は庶民にも手の届く楽しみですが、当時はまだ高嶺の花。高度経済成長期に入り、円高や旅行費用の低下が進み、割安なパッケージツアーが販売されるようになるまで、まだしばらくの時間がかかるのでした。
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- 6月7日 (土)
- 新生トヨタ
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昭和57年7月、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、新生「トヨタ自動車」が発足しました。製造業としては日本で初めて年間売り上げが4兆円を超すマンモス企業の誕生でしたが、実は、これより遡ること32年前の昭和25年、戦後の混乱期に分離して以来の再合併でした。分離している間、それぞれが順調に業績を伸ばし、「超」優良企業と呼ばれるまでに成長。世界のビッグメーカーが小型車の製造に力を入れ始めた80年代、その時代の変化に対応するため、兄弟会社が再び力を合わせ、最強の企業体質を構築して、世界一を目指し始めたのでした。
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- 5月31日 (土)
- ピンポン外交
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昭和46年(1971年)、『世界卓球選手権大会』が愛知県体育館で開催されました。参加した世界58カ国の中でも、特に注目を集めたのは中国チームでした。当時、中国は文化大革命で国際的に孤立状態だったからです。中国チームの参加を実現させたのは、名古屋電気学園の理事長で日本卓球協会の会長だった後藤鉀二さん。「横綱の中国が参加しないのでは世界選手権とは言えない」その思いから、当時国交のなかった中国に単身乗り込み、周恩来首相に直談判したのです。この大会をきっかけに中国とアメリカ、そして日本の関係が急接近。「ピンポン外交」として世界中の注目を集めたのでした。
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- 5月24日 (土)
- マンモス団地
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昭和30年代の初め、高度経済成長に沸く日本では、都市への人口集中という問題が発生し、極度の住宅難を招きました。その解決策として、全国の大都市の近郊に巨大な団地が次々と建てられました。春日井市の東部4キロ四方にわたって広がる高蔵寺ニュータウンはその先駆け的な存在。昭和43年に入居が始まり、およそ2万世帯5万人が暮らす中部圏最大のマンモス団地です。水洗トイレや内風呂を備えた2LDK。卓袱台を片づけ布団で川の字になって寝ていた家族がテーブルと椅子で食事をし、食事とは別の部屋で寝るようになりました。電化製品もそろえ、洋風の生活を送るようになり、日本人のライフスタイルに革命的な変化をもたらしたのでした。
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- 5月17日 (土)
- YS-11初飛行
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戦後、日本での航空機の研究や製造は、GHQにより禁じられていました。しかし、昭和32年に製造禁止が解除されると、政府は国産旅客機製造の計画を発表。航空機産業が盛んだった名古屋を中心に、機体メーカー6社が集まり、その完成を目指しました。そして、昭和37年、数々の苦難を乗り越え、その試作機が出来上がりました。全長26.3メートル、幅32メートル、定員60人の中型旅客機は、8月30日、小牧の名古屋空港を離陸。伊勢湾をめぐるおよそ1時間のフライトに成功したのでした。
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- 5月10日 (土)
- 昭和の岩窟王
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昭和38年。名古屋高等裁判所(現名古屋市市政資料館)で、歴史的な判決が下されました。強盗殺人事件の主犯として起訴され、一審で死刑宣告を受けながら、50年間も無実を訴え続けてきた吉田石松さん。その姿は、「昭和の岩窟王」と呼ばれました。その吉田さんに無罪判決が下されたのです。その時、吉田さんは83歳になっていました。判決から9ヵ月後、吉田石松さんは老衰のため永眠しました。
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- 5月3日 (土)
- ゴリラショー
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昭和38年。東山動物園で世界で初めてゴリラが芸をするショーが始まりました。ゴン太、プッピー、そしてオキ。3頭のゴリラは20以上もの芸を披露して、日本中の人気者になりました。調教をしたのは飼育員の浅井力三さん。繊細で病気になりやすいゴリラを朝から晩まで辛抱強世話をしたのでした。3頭の中でオキだけが今も動物園で生きています。国内最高齢の推定52歳。孫のような子ゴリラに寄り添って日向ぼっこをしています。
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- 4月26日 (土)
- ミニスカート流行
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昭和42年。イギリス生まれの一人の少女が名古屋にやってきました。愛称「ツイッギー」。ミニスカートの世界的流行を生んだ元祖スーパーモデルです。名古屋でもファッションショーが開かれ、会場となるデパートは十重二十重に取り囲むファンの女の子たちの熱気で満たされました。高度経済成長期の真っただ中に流行したミニスカート。景気がいいとミニスカートが流行る。そんな言葉まで、生みだされました。
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- 4月19日 (土)
- 地下鉄開通
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昭和32年。東京、大阪に次いで、日本で3番目の地下鉄が開通。名古屋・栄町間の2.4キロ。大人15円。栄ではアドバルーンが上がり、町中で開通を祝いました。開通の日、一日だけで、当時の名古屋の人口の1割に当たる13万人が乗車しました。当時の車両、鮮やかな黄色の車体は、今、愛知県日進市のレトロでんしゃ館で会うことができます。
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- 4月12日 (土)
- 名古屋城再建
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天下普請で造られた天下の名城名古屋城は昭和20年の空襲で全焼しました。戦後、その再建を願う市民の機運が高まり、昭和30年から本格的な再建事業が始まりました。お城のシンボルともいえる金シャチは大蔵省大阪造幣局に依頼して製作。その雌雄二体が相次いで名古屋入りした際、市民は総出で出迎えました。そして昭和34年8月、多くの市民に見守られながら、金シャチは天守の屋根に戻り、14年ぶりの雄姿を再び名古屋の街に現したのです。
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- 4月5日 (土)
- 東海テレビ開局
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開局から50周年を迎えた東海テレビ。昭和33年12月の開局当時は、地上3階、地下2階で、スタジオは2つでした。現在のVTRと違いフィルムによる取材。多くの番組が生放送でした。テレビの普及率がまだ低かった当時、PRカーがパレードし、新しいメディアの登場を人々に告げました。
以来、半世紀、本格的なデジタル時代を迎えた今日に至るまで、一日も休まずにこの地方の『今』を伝え続けています。