高橋賢先生新著作について
合気錬体会
初代総師範 吉丸慶雪
平成20年4月4日(金) 書店で作家の津本陽氏著「孤塁の名人」が単行本化されて発売されたのを見つけ買ってきました。 読んでみると、以前「オール読物」で吉丸先生の名前のあったところは、「先輩」と置き換えられていました。 つまり作家の津本陽氏は我々の主張を一部認められたようです。やましい所が無ければそのままにしたはずですが、津本陽氏は自分の文章を検討されて不適切であると感じたのでしょう。 もっとも高橋賢先生からの情報が一方的な嘘ですから、本来は吉丸先生からも正確な取材をして書くべきでした。 故佐川幸義先生を神格化するあまり、嘘を『真実』として発表するのはいかがなものでしょう。これらが全て嘘であるとわかった時には、故佐川幸義先生の名声までも失墜させる行為であります。 『真実』は、いずれハッキリすると思います。 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司 |
平成20年3月15日(土) 本日で高橋賢先生の『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』が出版されてちょうど6ヶ月になります。 私が本を読んだのが平成19年9月17日で、その翌々日には吉丸初代総師範の許可をいただいて高橋賢先生に電話を入れさせていただきました。まったく月日の経つのは早いものです。 実は昨年末に文書にて高橋賢先生に誠実な対応をお願いしてあったのですが、残念ながらこちらの期待した答えはありませんでした。 それでまた次の行動に移ることにします。 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司 |
平成19年12月22日(土) 高橋賢先生は吉丸初代総師範の佐川道場時代の後輩ということもあり、今まで気長に謝罪を待っていましたが、何ら連絡等は有りませんでした。 気の長い私もさすがにこのまま待っていても何ら進展が無いことに気がつきましたので、次の行動に移ることにします。 高橋賢先生が『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』とタイトルに『真実』という言葉を入れながら、吉丸先生をモデルに嘘の稽古風景を小説風につづり『日常茶飯事であった。』と嘘を重ねるのは、吉丸先生及び合気錬体会の名誉を毀損し、更にはこれらが全て嘘であるとわかった時には故佐川幸義先生の名声までも失墜させる行為であります。 なお吉丸先生は『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』において、実名の使用及び写真の掲載に一切同意しておりません。 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司 |
04.◆巨漢の突き・蹴り瞬時につぶす◆という小説???
【『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』高橋賢先生 162−163頁】より抜粋
「◆巨漢の突き・蹴り瞬時につぶす◆
吉丸氏は空手の師範だっただけに、突き・蹴りに関しては自信を持っていた。しかし、いかに突き・蹴りが速く威力があろうと、先生の前では赤子同然だった。
空手の巻藁突きで鍛えた同氏の大きな拳が、唸りを上げて先生の顔面めがけて突き出される。たが、先生の顔に当たったと思われた刹那、先生の拳が一瞬早く同氏の顔面に突き込まれ、その瞬間には、スパッと蹴り倒されている。
何度突いても同じことだ。突き腕を払われたり打ち落とされただけで、仰向けに投げ倒されたり、押さえられる。そうかと思えば、突き腕の手首や肘、肩、首などをいろんな方法で逆に取り、極めてしまうのだ。目にも止まらぬ拳を、先生は片手でふわりと受け止めることもある。さながら「拳のキャッチボール」のようだ。拳が先生の片手に吸い込まれたと思いきや、吉丸氏は数メートル後方に投げ飛ばされていた。
「プロ野球では、ピッチャーが投げる140キロものスピードポールをキャッチャーはいとも簡単に受けるでしょう。それを考えれば、どんなに速い突きがかわせるものだよ」と、先生は突き技に対する対処法を解説されていた。
これだけではない。拳が顔面に当たる瞬間に、先生は顔をわずかに平行移動し、吉丸氏の突き腕を肩にふわりと担ぎ上げてしまう。先生が肩をわずかに上げた途端、同氏は両足を刈り払われたような格好で前方に跳ね上がり、大の字に倒れるのだ。
蹴りでも同様だ。同氏が素速く蹴り出した前蹴り、横蹴り、回し蹴りを、先生の手はほんの少し触れる程度である。蹴り足を軽く払ったと見るや、同氏はバランスを崩して倒れる。あるいは、蹴り足を払った次の瞬間には、その両腕はいつの間にか背後に極め上げられ、後方に倒される。蹴り足をすくい上げて後方に倒し、両手両足をがんじがらめにして身動きできなくすることもできる。
当時の佐川道場では、こんな光景は日常茶飯事であった。」
耐震強度の偽装が問題になっている。建築偽装につづき雪印牛肉偽装、日本ハム(株)の100%子会社である「日本フード」の牛肉偽装事件、さらに不二家問題、牛肉ミンチの「ミートホープ」やチョコレート菓子の「白い恋人」の偽装などに続く創業300年の老舗「赤福餅」の偽装が問題となり、さらに食肉加工・製造会社「比内鶏」は特産の「比内地鶏」を偽装した。
では「合気」はどうか。
松田隆智先生の『謎の拳法を求めて』で我々は初めて「発勁」ということを知った。松田隆智先生の『謎の拳法を求めて』は、その後の日本における中国武術の普及に際して多大なる影響を与えた。特に「発勁」という言葉は松田隆智先生によって広められたといっても過言ではないだろう。この中で松田隆智先生が佐川先生の「合気」を取り上げてくれたので、私も会員が増えることを期待したのであっったが、当時佐川道場に入会したのは1人だけであった。
まだ「合気」とか佐川先生とかに関心がなかった時代であった。
だから発勁とか合気という技術を、ある程度の虚飾をまじえ神秘的な技として取り上げることは必要であったと考える。
しかし時代が変わり、今、発勁も合気も科学的に研究される時代になっている。
それにもかかわらず荒唐無稽な作り話を「あたかも真実であるかのように」偽って発表するのは、いくら佐川先生を持ち上げていても、結局はウソと分かったときに「贔屓の引き倒し」になり、それによって佐川先生の実力まで疑われることになるのである。
作り話を『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』とするのは偽装である。
これは完全に小説である。
私が生きて来た昭和36年より昭和51年の間、佐川道場において、小説のようなことは絶対に一度でも無かった! ということを断言できる。上記のような話について、これはウソである。これは非道い。
なぜ本当のことを書かないのか。私が看過すれば、私までも読者を欺く同犯者になってしまう。
先生が不世出の武術家であるということは、私の体が一番知っていることである。しかしこの作り話がウソであることがが分かった時、先生が不世出の武術家であるという事実までも否定することになるのを危惧するのである。
平成19年10月28日 つづく
★高橋賢先生著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」についての経緯
◎総本部雑感記から一部転載 (一切の責は、合気錬体会総本部 有満庄司にあることを明言いたします)
高橋賢先生著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」について、高橋賢先生への私(有満)の抗議 著書で『この機会に訂正しておきたいことがある。』と強調しておられたのですが、高橋賢先生に直接電話して尋ねてみると、実際には「吉丸さんがそう聞いたんでしたら、そう書けばいいじゃないですか」という程度のことで、私が拍子抜けするような話でした。本当につまらないこと、どうでもいいようなことを著書で殊更に強調して吉丸先生の信用を失墜させようとする行為に納得いきません。また本のタイトルには「真実」とあるにもかかわらず、実際には無かった稽古風景を吉丸先生をモデルに小説風に書き綴ってあるのも納得いきません。吉丸先生を都合よく宣伝に使ったとしか思えないのです。 電話での会話には他にも「エッ」と思わざるおえないことがありましたが、それはあえて書きません。 平成19年9月19日(水) 私は、平成17年6月1日に木村先生を仲介して、佐川幸義先生のご子息の合気司家佐川敬行様から吉丸先生を気遣うお言葉があり、また吉丸先生が離門に至った経緯を説明する資料を平成18年10月に佐川敬行様並びに木村達雄先生に送ったことによりすべての決着がついたものと考えておりました。 しかし、最近、吉丸先生の佐川道場時代の後輩である高橋賢現師範が「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」を出版されました。 私も勉強させていただこうと購入したのですが、読ませていただくと合気錬体会として納得のいかない内容が数ページにわたって書かれているではありませんか。 それで私は高橋先生の「その真意と責任」を尋ねる為に直接会って直談判することに決めました。それで準備を整えた上で吉丸先生に連絡しましたところ、駄目だと言われるのです。どうも私がカッとして事件になるのを心配されているようなのです。 以前、木村先生の件の際に筑波大学に乗り込もうと考えているのを見透かされてしまい勝手な行動をきつく禁じられてしまったことがありました。結果から言えば、木村先生と友好関係を築くことができて吉丸先生の判断の方が正しかったのですが、今回ばかりは私も簡単に引き下がるわけにはいきません。 なぜなら木村先生の時は吉丸先生への私信であったのですが、今回は書籍として一般に販売されており反論や抗議をしなければ事実として後世に残ってしまうことになります。特に「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」で初めて大東流を知った方は真実だと受け取る心配があります。 「透明な力」は主に佐川先生の言葉を木村先生が記録して出版されたもので、吉丸先生としては恩義ある先生に反論することは難しかったと思います。 しかし高橋先生は吉丸先生の後輩であり、別に恩義があるわけでもありません。これは絶対に抗議するべきですと譲らず、冷静に交渉すること条件に電話することを許可していただきました。しかし内心では電話でこじれたらやはり直談判するつもりで決心していましたが、実際は拍子抜けするものでした。 30分ほど話したのですが、以下はその概要です。(★ )内は私の胸の内です。 受付の女性に取り次いでもらい高橋先生に電話に出ていただきました。 高橋先生 「高橋です。」 私(有満) 「合気錬体会の有満と申します。本の出版、おめでとうございます。佐川先生の写真が多数あり、大東流や合気道を学ぶ人にとっては勉強になります。」 高橋先生 「ありがとうございます。」 私(有満) 「ただ合気錬体会としましては納得いかない記述があり、その点をご質問させていただきたいのです。まずP.143に『この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしていたように記されているが、これはおかしい。まず、先生は時宗師範のことを幼名の「宗三郎さん」と呼び、「時宗さん」と呼ぶことはほとんどなかった。』とありますが、この中のある本とは吉丸先生の著書のことですか?」 高橋先生 「そうです。」 私(有満) 「続いて『また同書によると、佐川先生は御自身のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反する。 (中略) ところが、私が記録する限りにおいて、佐川先生は、いつも「わたし」を使っていた。まれに「わし」を使う時もあったが、多くは往時や故郷を懐かしんで語る時であったように思われる。』とありますが、これらは吉丸先生を批判し、著書の信頼性を失わせる行為ではありませんか?」 (★ つまらないことを指摘して吉丸先生の信用を失わせようとしていることが納得いかないのです。) 高橋先生 「私はそう聞いていたから、そう書いただけです。」 私(有満) 「しかし私は吉丸先生より、日記の記述は佐川先生より聞いた内容を忘れないその日のうちに佐川先生の言葉のままに書き写したものと聞いています。佐川先生は吉丸先生の前では時宗師範のことを「時宗」と言い、唯一、近藤氏を伴って来訪された時は本人が目の前でもあり「時宗さん」と言われたそうです。大人を幼名の「宗三郎さん」と呼ぶ方が無理がありませんか。」 (★ この時、そういえば「透明な力」にも「時宗」または「時宗さん」と書いてあったな、と思い出したのですが、このときは自信がなく言い出せずに帰宅してから確認したところ、「透明な力」P.114に時宗さんと書いてありました。そのほかの箇所にも普通に書いてありますね。) 高橋先生 「・・・・・・・・・・・・、吉丸さんがそう聞いたんでしたら、そう書けばいいじゃないですか」 私(有満) 「エッ、高橋先生は『この機会に訂正しておきたいことがある。』と強く書かれて、いかにも吉丸先生が間違っていると批判されているじゃないですか。」 高橋先生 「・・・・・・・・・、私は佐川先生から聞いていたことを書いただけです。」 (★ 高橋先生、自分が書いたことに信念を持ってください。その程度でしたら、本に書く必要はないでしょう。) 私(有満) 「では、佐川先生は御自身のことを「わたし」と呼んでいて「わし」とは使っていなかったという点ですが、私が吉丸先生から聞いた話では家族や吉丸先生の前では普通に「わし」「わし」と言われていたそうですが?」 高橋先生 「私は聞いたことがないね。」「・・・・・・・・・、ただ佐川先生の「た」と言うのは小さかったから「わし」と聞こえた人もいるかもしれないね。」 私(有満) 「エッ?・・・・」絶句! (★ では佐川先生は、自分のことを「わたし」と言われていたということですか?あまりの発言にこれを聞いた途端、私はあきれ返ってしまい自分の体から怒りがシュルシュルとしぼんで、冷めてしまいました。そして頭の中で「わたし」「わたし」「わたし」という言葉が駆け巡るのです。) 私(有満) 「ではP.163の件ですが、離門の経緯はホームページに書いてあるのですが・・・」 高橋先生 「見たことあります。」 (★じゃ、木村先生との件で、離門の経緯を知っていて、ワザと本には中傷するような事を書いたわけですね。) 私(有満) 「では吉丸先生が佐川先生に手紙を書いたとき、佐川先生は受け入れるつもりでしたが、古い門人が吉丸先生が佐川先生に会うのに猛反対をして、佐川先生も結局断念されました。という話があるのですが、その古い門人と言うのは高橋先生ですか?」 高橋先生 「私じゃないよ。私は内野さんと一緒に佐川先生から「こんな手紙を持ってくるな」と怒られただけだよ。」 私(有満) 「エッ、じゃ木村先生が嘘をついているということですか?」 高橋先生 「木村さんはそう聞いたんでしょう。佐川先生も人によって言うことを変えていたのかもしれない。とにかく私は佐川先生から聞いたことを書いただけですから。」 私(有満) 「エッ、それなら佐川先生から聞いたと言えば、何でも書けてしまうじゃないですか?」 (★ あまりにも無責任じゃないですか) 高橋先生 「・・・・・・・・・・・・」 私(有満) 「では、その前のページにいかにも吉丸先生が佐川先生に組手で挑んだようなことが書かれていますが?」 高橋先生 「組手?組手なんてどこにも書いてないよ。」 私(有満) 「その前のページです。大東流の稽古は型稽古ですから、「顔を突いて来い」とか「右手を掴んでみろ」とかいったことはやりますけど、・・・」 高橋先生 「当たり前じゃない、大東流は佐川道場だけじゃなく、どこでもそうだよ。あなたのところでも吉丸さんが教える時はそうでしょ?」 私(有満) 「・・・・・・・、でもこれじゃ、まるで小説ですよ。吉丸先生が佐川先生に本気で挑むわけないじゃないですか。佐川先生が名人だったというのには同意しますけど。」 高橋先生 「とにかく私は佐川先生から聞いたことを書いただけです。」 私(有満) 「ではうちがホームページで反論しても良いということですね。」 高橋先生 「いいですよ。」 私(有満) 「ではまた質問がありましたら、お電話させていただきます。」 (終了) メモをとりながらのやり取りでしたから、大体、正確に再現できたと思います。 高橋先生、許可を頂いたので再現させていただきました。ホームページを御覧頂いておられるそうですので、もし反論等がありましたらメールaiki-rentai@777.nifty.jpか電話03-3378-6926で御連絡下さい。もし留守でしたら伝言を残していただければ、翌日にこちらからご連絡いたします。 よろしくお願い致します。 合気錬体会総本部 有満庄司 |
03.「これも事実に反する。」
「また同書によると、佐川先生は御自分のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反する。」高橋賢
「これも事実に反する。」といわれても、たまたま『合気道の奥義』では私の日記を出したもので、人に見せるための「日記」ではないのであるから、「事実に反する」と言われても困るのである。
多分、津本陽先生が記者を伴って佐川道場に来た以後、先生は「私」に統一していると考えるのが自然である。先生は兵法家なので、「私」は計算済みである。
昭和39.11.15 【三元講習 第九回】田口 吉丸 大東流の中でもどうして崩れるのか合気の理が判っていて技を掛けている者は居ない。理は判るものではない。技は人間の骨格、力学から割り出した理に合ったものである。合気は必ず理で説明出来るものでなければならない。神秘的なものなど無い。 鍛えれば必ずそれが形になって現れるものだ。わしの手など鍛えてこの様になったものだ。 昭和二十七年頃×芝を訪ねた時、さすがに上げてご馳走してくれたが、その時でもわしのこの小指位の親指で、丁度小川君(宏、手が小さい)の様な手をしていたが、あれでは掴み手など出来るものではない。わしの父は×芝の先輩になるが、いつも×芝の大×螺吹きが×螺を吹き当てた、と言っていた。 遠軽の×芝の土地は小さなものだったが家と小屋があった。それを武田先生は×芝がくれたものだと言っていた。×芝を訪ねた時、×芝に言わせると、×芝が父の病気で内地に帰るとき、印と委任状を置いてゆけと先生に言われ、そのまま取られてしまったのだと言っていた。 |
『透明の力』P.112には次のように書いてある。
それは新宿の若松町の、、、、、植芝としゃべった。そして合気上げやってくれと言った。植芝は最初いやがったがしつこく言って手をつかんだ。、、、、、、動くことができなかった。、、、、、そのあと天丼をごちそうになった。
昭和41年6月15日(水)小野、長田、沓沢、千葉 1.武田時宗は宗三郎と呼ばれていた。惣角先生と時宗(当時二十一、二才)わし(当時三十二、三才)が北より柔道道場を巡り歩いたとき、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。まずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四か条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流仕合だと思う。 1.佐川先生がクッチャンで高橋という柔道六段を投げたのを先日十数年ぶりで上京した氏が当時を想い語っていったそうである。氏は以前室蘭製鉄所で柔道を教えていたとき柔術家という者と二三度仕合をしたが話にならなかったそうで、その後クッチャンに帰り道場を開くため寄付をつのった。当時時計屋の富木という人が佐川先生に勝てば千円寄付するからと進めて仕合をさせた。佐川先生は三十数度続け様に叩きつけたそうである。 昭和41年4月14日(木) 松田昌幸 人間的にはおとなしいのもよいが、武術では困る。技が優れていても勝負になると結局どこかでごまかされてしまう。師の技を盗むくらいの気構えでなければ覚えられるものではない。教わろうとしている間はものにならない。 (人間的にはおとなしいのもよいが、、、、というのは、吉丸について注意している。) 武田惣角先生は手を取らせることは絶対にしなかった。それでわしも武田先生の前ではこちらから掛けるだけの教え方をした。武田先生は「武士が手をとらせることがあるか」と言われていた。 武田先生の教え方は一日に十五手くらい、打ってこさせてはこれはこうする、こちらかに来ればこうすると、二度づつ掛けるだけで説明などしたことは無い。そこで今教えている技の理も、わしがこうであろうと考えたものである。 若い頃、両肘に弟子を乗せて鍛えたりしたが、後で考えると肘の強さが問題ではないことが判った。 昭和42年1月11日 (水)長田、高杉、古川、千葉 1.合気の練習に留意しなければ上達しない。特に引く合気が重要である。しっかり持たせて合気で崩す。速くするのは勝負のときは結構だが、イツも速くやっていては合気を覚えることはできない。 1.わしがやれば出ても引いてもどう動いても掛かるが、それを真似て迷っていては結局分からなくなってしまう。引く合気で足を踏み出しているがこれは足を引くと教えているのであるから、効かなくてもその様にやっている内に分かってくるものである。それでなければそれだけやっても結局分からなくなってしまう。 1.力を入れ技に段があるが力のある者に掛かってはその段のところで立ち直られて技が効かない。また身体が大きいのであるから力で抑えつけたように見えて感心させることが出来ないので、特に力を入れないで倒すようにしなければならない。 (吉丸について注意している。) わしの言うとおりに技を使っていればその意味も解ってくる。たとえば巻き捕りで片手より諸手の方が初心者でも掛かりやすい。これは敵の上の手を横から肘で上げ崩しているから効くのであって、この点がポイントである。 こういうようによく考えてみればどこが技のポイントか考えつくことが出来るものである。言われた通りに行うこと。 昭和45年1月9日 年頭のご挨拶に伺う。 田口、井上、若林 1.わしは幼少のころ非常に身体が弱く、四歳(満三歳)のときに肋膜になり、札幌に船で三日三晩かかって行った。都庁留萌に停泊したらしく、そのときの沢庵の匂い、丸い弁当箱など今でもまざまざと覚えている。 1.武田先生は柳津温泉に昭和十六年に行き、あまり温泉に浸かりすぎたために中気で倒れ、わしに直ぐ来いと電報が来た。 そのとき会津の長男と時宗が来た。静は最初から付き添いで来ていた。 寝ている武田先生は人が来れば宿屋の主人であっても誰でも手を掴め手を掴めと言うので、上からのしかかる様に持つと体が浮き上がってしまう。先生はこれでせめて上げ手のコツだけでも伝えようとされたのではないか。 しかし他の人は結局判らず、わしはなぜ上がるのか熱心に考え、遂に会得した。 |
『透明の力』P.41には次のように書いてある。
佐川は十七歳ですでに合気の原理が分かっていたから、どうやっているか理解できたが、、、、、、、結局何もわからなかった。
1.武田惣角先生がうちの道場に来られたのは先生が五十五才父が五十才の時で、そこで武田先生は遠縁に当たる札幌女学校を出た十八才の娘と結婚し、長男がそこで生まれた。しかしこの子は引きつけを起こし、田舎の医者では何もできずここで亡くなった。 1.昔の人はあぐらなどかかなかった。わしの父もあぐらをかいているのは一度も見たことがなかった。武田先生もあぐらを書かれたのは一度も見たことがない。あぐらは横から膝を上げて喉を抑えれば簡単にひっくり返る。また横に押してもすぐ倒れる。 昭和46年1月10日(日) 道場開き 二十名 1.師九才の頃の剣の師は小野派一刀流の佐々木亮吉である。 そのころ神社の奉納仕合があり佐々木先生が優勝した。仕合終了後佐川家の道場で惣角先生が「ニシャ小野派一刀流だな」「はい」「小野派一刀流は良いが引き小手は悪いから止めれ」と言われ、佐々木先生が「いや私の引き小手はなかなか打たれたことが無いから」と言うのに「では立て」と籠手を付けさせて対面するなり変更の足で竹刀を左片手で打ち込んだ。佐々木先生は青くなり「参りました」と言って坐ってしまったが、その内小手に十円銅貨くらいの青あざが付いていた。 |
『透明の力』P.13には次のように書いてある。
その途端に武田の顔色が変わり「ではコテだけつけてみろ」とコテだけをつけさせた。有無を言わさぬ迫力で、そして立ち合ったがあっといる間に連続してビシビシ打ってはめ板に追い込んでしまった。、、、、、、何度も打ち込まれ全く防ぐことができなかった。
惣角先生の剣は青眼に対しても太刀の横から切るのではなく真っ直ぐ太刀の上から来る。内小手も防具の当たって無い所を打ったのであって手首で効かせている。 宗範も一寸真似の出来ない技であるとおっしゃられた。 片手では人は切れないなどという者が居るが、鍛練者は片手で充分である。 1.新橋で乱闘したのは大正十一年のことである。 わしが酔って友人に寄りかかって歩いていると、金春館の横でブルドッグを連れて歩いていた車夫がぶっつかって来た。その車夫が掛かってきたので倒すと「待っていろ」と言って逃げた。それをそのまま待っていると車夫が三十人くらいやってきて、最初のが柳刃を手ぬぐいで巻いたもので付いてきたが、素人なので突くのも遅く、受けてもぎとり倒した。そのときこれを持っていると人を殺すということがハッと頭に浮かび、とっさに投げ捨てた。あとは突きと蹴りで七八人倒すと皆逃げていった。友人は最初から逃げてしまっていた。 1.昭和三十一年に武田時宗に宗家をゆずった。そのとき念書を取ってある。 昭和46年5月10日 1.敵を崩すこと。 崩していなければ、わしでも敵を抑えることはできない。 昭和46年5月12日 1.私は頑張られるとカッとしてどこまでも掛けるという性質で、若い頃は失敗することもあったが、失敗した時は悔しくて夜も寝ずに考えた。その積み重ねで合気が出来るようになった。習って上達しようというような考えでは使えるようにならない。出来るか出来ないかは習う人による。 上達するのはその人である。この方法でやれば精神力が強くなるとか、気が強くなるとか、方法に頼っても駄目ですべて自分でやるのである。自分でそうするのである。 1.精神力が最も重要である。初めての者を相手にする時は手の内が分からないので、どのような弱そうな者に対しても真剣にやらなければならぬ。わしの場合どのような者を相手にしても、掛けるときは常に真剣である。 1.武田惣角先生はどのような者を相手にしても全力で技を使われ、わしもそれを学んだのである。相手をあしらおうという考えでは掛けることはできない。最後まで抑えるという気迫が必要である。 昭和46年5月14日 1.武術では相手を恐れさせておくことが必要である。武田先生は稽古の時も平常も相手をにらみつけるようにしていて、その周囲には殺気というようなものがただよっていた。あのような雰囲気を持った人はやはり名人である。弟子は恐ろしくて力を入れようと考えることもなかった。 わしも人の稽古をしてやるようなことはしたことがない。皆自分が上達するための方法をやってきた。 |
平成19年10月21日 つづく
02.先生の呼び方について
「さらには、門人に対しても先生は呼び捨てにすることはなく、必ず「○○君」と呼んでいた。中には「○○さん」付けで呼ばれた門人もいる。」高橋賢
実は私は、【指導者の心得】について、佐川幸義先生にコンコンと教えてもらったものである。
「吉丸君、先生になるときは威厳を保つことが大事だよ。そのためには、『君』なら全部『君』で統一する、しかし君はまだ若いから、『さん』が良いと思う。『さん』なら、高校生でも中学生でも全部『さん』付けにするのが良い。」
しかし私は、武術家として教えるつもりはなく、若いものには内田君で、少し上なら有満さんと呼んでいる。だから私は威厳がないと、当時の先生の言葉を思い出し、反省している。
先生は兵法者なので、道場では意識的に○○君を統一したものである。それでも論外はあるもので、井上さんは高校の校長、内野さんは国分寺の有力者で社長であるから、最初から井上さん、内野さん、そして札幌の支部長の川人さん、というように、つまり先生でも、少し遠慮をしているのである。
別に佐川幸義先生が人格家であるから○○君と呼んだ、というわけではなく、泉川寛喜先生、佐藤金兵衛先生、岡本正剛先生など皆「君、さん」で呼んでいる。
まだ体育部出身の先生は、全部「呼び捨てする」のは当たり前のことである。体育部では、先輩は後輩を呼び捨て、後輩は先輩を○○さん、改めて書くのが奇妙である。
平成19年10月8日 つづく
高橋賢先生新著作について 19.9.26
高橋賢先生の新著【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】が出版されたということで目出度いことである。
2.3名の方が私にその本を持ってきたが、私の人生が残り少なく、まだやっておきたい仕事が多々あるので、これらの本は読む時間もないと思い、皆持って帰ってもらった。
しかしその後、有満さんが問題があると【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】の143頁と163頁の2枚をFAXして送ってきたので、一応そこだけ読むことにした。
私としてはどうでも良いのであるが、読むと【佐川幸義先生伝】も【大東流合気の真実】も余りにも問題が多く、全部本当のことと信じて読むであろう読者にとって、これは読者への裏切りになることを憂慮する。マスコミも商売であるから、ある程度の虚構は許すことはできる。しかしあまりにも、これは神格化が行き過ぎではないか。
神格化が行き過ぎれば、却って、先生の写真でも虚構ではないか、などという不要な憶測を生ずることを危惧するのである。
01.「この機会に訂正しておきたいことがある。」について
高橋賢先生は「これはおかしい」とか「これも事実に反する」と鬼の首を取るように書いているが、これでは高橋先生は佐川幸義先生の表面のことしか知らないということであり、これは意外なことであった。しかし本当のことを知っているが、読者には意図的に隠している、ということもあるかも知れない。
【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実 143頁】
この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしたように記されているが、これはおかしい。まず、先生は時宗師範のことを幼名「宗三郎さん」と呼び、「時宗さん」と呼ぶことはほとんどなかった。
吉丸の日記より抜粋 昭和40.10.28(木)長田、小野 吉田幸太郎はそれ程やっていない。というのは講習で教えたので十日間で十円取った。吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。当時吉田は四十才くらいだったが、宗三郎を背負ってオムツの洗濯など良く尽くしていた。しかしその様な講習会では決して上の手は見せず、せいぜい三ヶ条までの繰り返しであった。 昭和40.3.20(土)内藤、細谷 札幌川人氏見学 合気の手は山吹の花のように開く。 武田時宗先生が全国の大東流道場を尋ねて廻ったとき、惣角先生が言われていた様に手を開いていたのは佐川先生一人だけであったと、札幌で語っていた。(川人氏談) わしはその時、形はそうするのだが何故そうするのか判らないだろうと言い、時宗もそれを知りたがったが、それは秘密で教えられぬと断った。時宗が習ったのは惣角先生の晩年のことで、そのころ先生もコツを教えようという気にはなっていたらしい。先生は日常生活すべて真剣で、家族だからといって手加減することはなかった。 1.札幌では40人くらい会員がいるとのこと。 41.6.15(水)小野、長田、沓沢、千葉 1.武田時宗は宗三郎と呼ばれていた。惣角先生と時宗(当時二十一、二才)わし(当時三十二、三才)が北より柔道道場を巡り歩いたとき、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。まずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四か条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流仕合だと思う。 1.佐川先生がクッチャンで高橋という柔道六段を投げたのを先日十数年ぶりで上京した氏が当時を想い語っていったそうである。氏は以前室蘭製鉄所で柔道を教えていたとき柔術家という者と二三度仕合をしたが話にならなかったそうで、その後クッチャンに帰り道場を開くため寄付をつのった。当時時計屋の富木という人が佐川先生に勝てば千円寄付するからと進めて仕合をさせた。佐川先生は三十数度続け様に叩きつけたそうである。 昭和49年10月21日 武田時宗先生門人近藤氏伴い来訪。当方の立ち会いは吉丸。 大東流合気武道総本部総本部長を依嘱のため。以前の約束により総本部長は空席にしてあるとのこと。総本部長即宗範と名乗ってよい。師は断る。 【佐川幸義先生談】 剣道が古流から精髄を集め、これについては本当に良いものは隠したのではないかとの疑問も大いにあるが、型制定の時に各先生方は匕首をのんで会議に臨んだという。大東流もそのようにすれば正しく後世に伝えることができるのではないだろうか、という私案を持っている。また各先生方の研究は独自に継承してゆけばよいのではないか。 【時宗先生談】 浦和の警察に行ったとき、あそこは高野佐三郎の土地で皆自信を持っていた。そこに指導に行った時お前が行って来いと先に一人でやられた。20歳のときであった。詰め襟を着て童顔だったので16才くらいにしか見えず、青白かったので向こうで馬鹿にされ、お前では駄目だと言われさんざん武道の自慢話を聞かされた。そのあと四ヶ条で掴んでねじり上げたところ向こうは驚いて平伏して謝った。その次の日佐川先生が来て講習をした。 そのとき惣角先生は柔道×段の大男を三ヶ条で掴んで、「さぁ動け」道場を一周されたが、その時あの小さい先生が実に大きく見え、佐川先生と二人で実に不思議だと話し合ったものであった。 これに対し佐川先生もあの時は本当に先生が大きく見えたものだと懐かしがっておられた。 (★吉丸注、昭和49年10月21日、大東流合気武道総本部総本部長を依嘱のために、武田時宗先生は門人の近藤先生を伴って佐川家に来訪した。会談のために吉丸は、先生の命令で記録掛りを勤めた。なおこの10年くらい前、近藤先生は大学生のとき佐川道場に来訪している。 会談の骨子 @堀川幸道先生は總本部長を希望したが、時宗先生は北海道總本部長に止めた。 A鶴山の『合気杖道』について時宗先生は、この本は3万部出て、大東流の宣伝になるので、まあ良いではないでしょうか。弟子と言っても名だけですから。 |
なおこの時、『透明の力』には次のようにある。
「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。」 113頁
「合気なんてそう簡単にできるものではないのだ。合気は武術ではないなんていいかげん事を書くから時宗さんと近藤昌之というのが来た時に、なぜこんないいかげんな事を書かせるのだ、あんたの弟子だろう、と言った所、弟子でもいちいち文句を言うわけはいかないしそれに大東流の名が出ているからと言っていた。」 114頁
B『合気杖道』には、宗範などという称するものが居るという文章があり、これで先生は怒っていた。
鶴山氏は当時電電公社の労働組合の専従らしく、1日中電話は掛け放題で、だから鶴山氏は全国に電話を掛けて大東流の取材をして、その本を書いたということである。
その本の取材で鶴山氏から佐川先生のところにも電話が何度かあり、その電話は大東流のことをしつこく聞くので、先生は「鶴山という男は1時間も2時間も電話を掛けてきて五月蠅い奴だ」と怒っていた。(本に載ると言えば、普通の先生なら喜んで話すのであるが・・・)
そして本が出たら宗範の悪口を書いていた。なぜ先生のことを悪く書いたのかは、先生が鶴山氏に対してお世辞をしなかったため、と私は考えている。(なお現在『合気杖道』は改訂されて宗範の文章はない。)
だから『透明の力』には「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。」というのは事実に反するが、先生がそう言いたい気持ちは良く分かるのである。
なお鶴山氏は先生と会ったことはない、というのは、本が出たとき、私が詰問のためにある体育館で鶴山氏に会ったからである。小太りの体で、指の小さい人であった。
つまり本というものは、ある程度の修飾は許されるが、【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】は許す範囲を越しているではないか、と考えるわけである。
平成19年9月26日 つづく