162 続・私の遍歴


 2年半前に書いた「45私の遍歴」の続き。教会を変わった私は、心機一転させら れた。特に「教会のビジョンを実現するために信徒がいるのではなく、信徒の夢 を応援するために教会がある」「人がイエスさまを信じるのは、幸せになるため だ。『天国に行ってから幸せになれれば今は幸せでなくともよい』というのはお かしい。」という牧師(仮名A)の思想は、他の教会で聞かされたことのないも のだけに驚きつつも、教会の奉仕に疲れ切ってうつ状態になっていた私はいたく 感銘を受けた。行事や奉仕が最低限まで排除された教会運営は、私には本当に休 みといやしの場であった。また、A牧師は「弱者救済」に重荷を持ち、精神障害 者のような社会的弱者の保護・支援に取り組んでいたが、単なる「魂の救い」を 語るだけではなく実際的な助けを提供する彼の姿に、本物の信仰を感じていた。 こうして私はこの教会で「救い」を体験した。


 そんな中でこのホームページも始まったわけだ。ホームページ上ではやがて、後 に本として出版することになる『イェシュアの誕生』の連載も始めた。ところが この連載が思いのほかハードで、不眠気味になるなど結局また体調を崩してしま う。特に最後の2章を書く頃には力尽きていてもう適当に書いたのだが、そうい うのはやはりばれるようで、後に『ハーザー』の書評で「(エジプト滞在期のエ ピソードを)もうちょっと詳しく描いてほしかった」と書かれてしまった。しか し何はともあれ、この作品はそれまでの私の信仰生活の集大成と言えるだろう。


 そうして最終章を書いていた頃のことだ。かかりつけの精神科に行った私は、か つて入院していたときの同窓生と出会った。彼女もクリスチャンで、やはり教会 の奉仕に疲れ切ってうつ病になってしまった人だった。近況を聞きながら、私は 、人を救うはずのキリスト教会がかえって人々をうつ病にさせて苦しめているこ とに、改めて憤りを感じた。執筆で力尽きていたときだったから、余計ナーバス になっていたのかも知れない。だが当時私の周囲には、教会でうつ病になった人 々がほかにもたくさんいた。ある祈祷課題で「日本中でうつ病になる人が増えて います。彼らがイエスさまを信じて救われるように」というのがあったが、「う つ病の人=未信者」「クリスチャン=うつ病ではない」ということではなくて、 むしろ私が実際に見てきたのはクリスチャンになったためにうつ病になってしま った人たちである。いずれにせよ私は、一気に「キリスト教会不信」に陥ってし まった。このホームページでも、「97リバイバルなんかいらない」以降、すっか りネガティブなネタしか書けなくなってしまう。私にとって「リバイバル」は、 「奉仕や伝道、弟子訓練に駆り立てて信徒をうつ病にさせる、病気の因子」なのだ。しかし、自分をネガティブにさせている 真の要因がまだ別にあることを、そのときの私はまだ気付いていなかった。


 さて、教会ではA牧師が念願のNPO(特定非営利活動法人)を立ち上げ、障害 者自立支援のための小規模作業所を始めた。一方夏の終わりには、私は同じ教会 の女性と突然恋に落ち、交際を始めた(現在の妻)。それは祈りへの応えでもあ った(「158約束の救い」参照)。ところがその頃から、教会にどことなく重苦し い雰囲気が漂い始めた。作業所がオーバーワーク気味で活動に無理が生じるよう になり、またA牧師はどこかようすがおかしかった。秋には何の知己もないとこ ろから何故かやって来た副牧師(仮名B)が突然着任。しかし教会員とはまった く馬が合わず、険悪なムードになった。12月に入って、A牧師が突然休職した。 B副牧師からは「A牧師は燃え尽き症候群と診断され、しばらく休養する」との 発表があり、私は「ついにA牧師まで教会に疲れ切ってうつ病になったか」とシ ョックだった。だが古くからの教会員はみな「この話はおかしい」と言い、医師 の教会員も「燃え尽き症候群という診断は嘘だ」と指摘した。だが詳しい事情は 知らされず、真相のわからないまま中傷や噂話が飛び交い、教会は混乱に陥った 。―私と彼女も大きな不安に巻き込 まれ、辛い思いを体験した。だがそれをともに耐え忍んできたことで互いの信頼 が深まり、絆が強くされたのである。ふたりとも本格的な恋愛はこれが初めてだ ったが、既に結婚を前提とした交際をしていた。


 そんな状態が数か月続いたが、やがて複数の証言や役員らの面談を通じて明らか になった事実関係は次のようなものであった。A牧師は不倫をしていて、「NP Oの支援者を募る」という名目の出張先でその相手と密会していたのである。と ころが携帯の短縮ダイヤルが「偶然」押ささってしまい、夫人(仮名C)に会話 が筒抜けとなり、激怒したCに連れ戻されたのであった。もっとも、ACの夫婦 仲はもともとうまく行っていなかったらしい。また、Aは教会員らに自分の言う ことを聞かせ、支配することを目論んでいたのだ。「弱者救済」は助けた人たち に恩を着せ弱みを握り、従わせるためだった。だから、自立支援のための作業所 のはずなのに、通所者が本当に自立して社会復帰しそうになると、「きみにいな くなられたら困る」などと言って引き止めるという、本末転倒なことまでやらか していた。また、教会員同士が交わりを持つことをきらい、自分とだけ一対一の 関係を持つようにさせて、支配を強めていた。そのため、その場にいない人の悪 口を言い、教会員同士あるいは教会員とその家族や他教会との仲が分裂するよう 仕向けていたのである。―今になって見れば、私個人も心当たりがある。母教会で疲れ入院し、病院の近くにあったこの教会の門を 叩いたとき、Aは私に母教会との関係修復を執り成すどころか教会の悪口を言い 、二度と行くなと勧めたのだ。正に私が病気で弱っているところに付け込み、救 済と銘打ってまんまと丸め込んでしまったのである。見事にその手にひっかかっ た私は、結局母教会と絶縁してしまった。


 何より悪いことに、Aはこれらの行為を正当化するために聖書を自分に都合のい いように歪曲して信徒に教えていた。特に「神の救いは誰にも平等だ」と強調し 「人の行いに対する神の報い」を否定した。その結果、悪人に対する神の報いも 否定し、神への恐れを捨て平気で悪事を行うようになってしまったのだ。Aは、 人には盛んに「幸せ」を説いていたが、自らは不幸な人間であった。一方、悪か ったのはAばかりではない。夫の不倫に激怒した夫人Cもまた、実は副牧師Bと 不倫していたのである。当然ACは解任。Bは一足早く夜逃げしていた。AとC はまもなく離婚、しばらくネット上で互いの中傷合戦を繰り広げていた。更にC は善意の第三者を装い、「教会を応援すると」称しながら実際は揶揄する内容の ホームページを立ち上げ、今日に至っている。現在はBと結婚して沖縄にいるら しい。


 これらの事態を受けて私たち教会は深く傷ついた。私自身も教会不信・クリスチ ャン不信・何より牧師不信になった。それでもすべてが明らかになり膿を出し切 ったことで、私たちは心新たに、無牧ながら教会の再建に向けて動き始めた。私 と彼女も、教会が落ち着いたことを機に正式に婚約した。また、精神的症状より 内科的症状が強くなったことから、かかりつけ病院もそれまでの精神科から婚約 者が紹介してくれた診療内科に転院。心身ともに適切な治療を受け改善を見てい る。夏にはついに結婚。交際を始めてから一年と経っていなかったが、一連の試 練を通じて絆は確固たるものとなっていた。特に結婚の前後にいくつかの良書を 通じ、男性と女性の脳や身体の構造の違い、そこから生じるそれぞれの性格の特 徴について学ぶことができたのは、大きな助けとなっている。


 ―現在、教会の再建は大きな困難を極めている。いつの間にか多くのメンバーが 去っていた。単に教会を移った人たちだけではなく、キリストへの信仰自体を棄 てると公言した人たちもいた。辛うじて解散は免れ教会は当面存続することにな ったものの、この一、二週で主だった人々はほとんど去ることになった。そして 私たち夫婦は当初は最後まで教会に残るつもりでいたのだが、それも限界に達し 、今般、この教会を去ることを決めた。毎週教会に行く度にふたりのうちいずれ かが必ずひどく落ち込んで帰ってくるのである。私はすっかり信仰の意味を見失 った。なにゆえ人に「福音」を伝えることなどできよう。もし誰かがキリストを 信じれば、奉仕や伝道にこき使われてうつ病になった挙句、牧師にだまされ裏切 られるに違いない。そんな不幸な人々を増やしてなるものか…それが私の本音だ 。また妻はここの教会しか知らないため、Aから受けたトラウマが激しく教会に 来るとフラッシュバックしてしまうのである。どうか、私たち夫婦を始めとする 教会を去った人々を責めないでほしい。「信仰によって困難を乗り越えよう」な どと言うのは簡単だ。しかし、私たちが受けた傷は 大きすぎた。今話題のいじめや犯罪被害者の問題とも共通するものがあるが、当 事者にとって模範解答はあまりに酷である。私たちは、わずかに残って消えかか っている信仰の灯を絶やさないためにはこうするよりほかなかったのだ。どうか 、それぞれいろいろな教会に散って行った人たち、教会に残った人たち、信仰を 棄てざるを得なかった人たちが、慰められるようお祈りいただきたい。


 だが、私たち夫婦は決して後ろ向きになっているのではなく、むしろ新しい道に 期待している。私はやはりイスラエルに対する明確な召命を持っているが、今度 行くところは教会挙げてイスラエル問題に取り組んでいる教会である。またほか の教会を知らず今まできちんと聖書を学ぶ機会のなかった妻は、一から聖書を学 びたいと強く願っている。今般私が決断するに至ったみことばは、創世記12章の アブラハムへの召命の箇所だった。それは、かつて私が母教会から今の教会に移 った際も与えられたみことばである(「43あなたの父の家を出よ」参照)。
 




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