モジモジ君の日記。みたいな。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-15

行為への欲望を擁護する

 まぁ、無理だ無理だと言いなさんな。こここそ、擁護しておかねばならんことのはず。 


 陵辱表現であっても、必ずしも陵辱する側に感情移入してるわけではないとか、性に対する罪悪感と性的欲望の一つの結合のあり方であるとか、陵辱表現に対する欲望は(確かに)さまざまにありうる。その意味で、陵辱表現への欲望と陵辱行為への欲望は、必ずしも重ならず、表現を欲望する人たちの姿はずっと多様。それはそう。

 ただし、陵辱行為への欲望とほとんど区別つかない形で陵辱表現を欲望している人というのは、ホントにいる。そういう人はいて、じゃあ、そういう人は救いようがないのか。死んでもらうべきか。そんなことでもない。

 こういう人にとって陵辱表現はどのような意味を持つか。ガス抜きになるか。なる面もあるかもしれないが、むしろ、こういう欲望を強化するような面もあるかもしれず、私見では、後者の方が強い気がする。じゃあ、表現自体にアクセスできないように規制した方がいいか(クスリをやめさせるときみたいに)。それは効果があるかないか逆効果かどうかもわからない。

 ただ、それでも多分こうだろう、というところは想像がつく。こういう欲望を持つ人でも、それでもやっぱり実際に行為に及ぶということは、ホントにできない。ある意味、想像もつかない。それが相手にとってどれほど酷いことであるか想像できることは少なくない。だから、そんなことをしたくない、ということも同時に思っている。相反する欲望が同時に存在するような感じだ。

 こういう人は、本当に陵辱行為への欲望を持っているか定かではない、と言えるかもしれない。しかし、少なくとも本人の主観においては、その区別はつかないだろう。実際の行為には及んでいないが、行為に及びたいとも思わないが、行為に及びたいという欲望が自分の中にあるのではないか、そういう疑念がずっとある。だから、自分の欲望の中に、擁護しようのない邪なものがあるのではないか、という不安。それが切り離せない。

 あるいは。さすがに行為に及ぶことはないことくらいは強い自信が持てたとしても、それでも、自分の中にハッキリとある陵辱表現への欲望に対して、他ならぬ自分自身が後ろめたさや嫌悪感を感じる。自己否定感情に傷つけられることと隣り合わせのしんどさがある。


 もちろん、こういうところから、一切の後ろめたさを欺瞞の奥深くに追いやってしまうところまでは、ホンの半歩くらいでありうる。危うい奴は、メチャクチャ危うい。危ういが、それでも、その人の中には、自らの欲望の危うさとちゃんと向き合って、他者を大事にしながら生きていくこともできる、一線を越えることは死ぬまで一度たりともなく、そんな風に生きていくことだってできる。そういう可能性は、その人の中にもちゃんとある。欲望から自由になれなくても、欲望の下でどう生きるかにおいて、徹頭徹尾、人間は自由だ。

 陵辱表現を鑑賞しつつ、そういうゲームもやりつつ、他方で、性暴力の現実についてもよく知り、反対側に生きる人たちの苦しみについて真摯に学べ。そちらの方は、幸いにして、たくさんの人がそれぞれに言語化している。

 その上で、陵辱表現を愛好し、陵辱行為への欲望が自らの中にあることを否定しきれない存在として、反対側の苦しみを生きる人たちのことを知って、どう感じたか、どう生きたいと思うか、そういうことを少しずつでも形にしていってはどうか。そう簡単に語れることではないけれど、そこで考え抜かれたことは語る価値があることだ。

 で、「陵辱表現を愛好する自分の実態なんて、世間で語ったら迫害されるだけだ」とか言うよね。まったくそのとおり。そりゃあ、他者に暴力を加えるようなシチュエーションを欲望するような人間が、ただそういう欲望を認めてくれ、とだけ言うなら、やっぱりそれは気持ち悪いし不気味だ。そうじゃない。そういう人間でありながらも、反対側の苦しみを生きる人たちのことについて考えてみてどうなのか、そこを切り開いていくしかないじゃないか。必ず認めてくれる人もいる。

 もちろん、そうやってふりしぼった言葉でも叩く奴はいるだろうから、表現する場所や相手は選んだ方がいいし、慎重であるべきだ。今こそ話すチャンスだと思うまでは、話さなくていい。そのチャンスは一生こないかもしれないけどな。それでも、チャンスに備えて、考え続けておくべきだ。


 ただ、一つだけ注意しておく。そうやって自分の欲望とその反対側で苦しむ人のことを同時に考えていくと、まるで自分が生まれながらの罪人みたいに思えてくるはずだ。なければ、むしろ、おかしい、と言ってもいいかもしれない。けれど、断言しておくけど、そういう欲望を持つ身体に生まれてきたこと自体は、罪でもなんでもない。少なくとも現状においては、誰のどんな生であれ、誰かの犠牲の上にしか成り立ちようがない。ただ、その事実から目を反らさずにやれることをやっていく以外にない、ということ。どんな欲望を抱えて生まれてきたのであれ、それを抱えたまま他者とともに生きようと努めることはできるし、それに賭けるしかないよ。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/06/15 23:06 最初のエントリから言ってることが変わりすぎてて何が言いたいのかわからない。

mojimojimojimoji 2009/06/15 23:19 >k-1_msmrさん
わざわざどうも。最初のエントリでは触れていないことについて書いていますが、全体として主張が「変わって」いるのではありませんので。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/06/15 23:24 全体として主張が変わってないのはそこそこ分かってます。ただ最初のエントリに書かれていることはかなりの部分がその後のコメントやエントリでmojimojiさん自身が覆しています。どの部分を取り下げてどこを残したいのかは明確にしておいた方が良いと思いました。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/06/15 23:32 下記にその後のコメントやエントリでmojimojiさん自身がその意見を覆していると私が思う具体例をいくつか挙げておきます。どの部分が今もmojimojiさんの意見として変わらず残っているか明らかにしていただくと分かりやすいです。

■陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、(中略) 「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ

■それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。

■愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。*「この程度」は愛好家がゲームの有用性を説明できないことと読める

■愛好家も擁護者も、話の通じないバカorカマトトであり続けてきた。

■助長していないとしても、ガス抜きにもなっていないならば、規制したって別にいいわけだよな。

■それが不可能だというならば、脅迫か暴力のどちらかなしでは生きていけない自分が人と人の間に安住できるなどと思うな。*「それ」は「暴力と脅迫もやめろ」であり、かつ「脅迫」は「性暴力を肯定する表現が野放しになっていること自体」と解釈するのが妥当と思われる

■しばらく陵辱ゲームを断ってみろ。(中略)人と人の間に暮らすことを諦めないのならば、そのくらいのことはやってみろ。

k-1_msmrk-1_msmr 2009/06/15 23:36 議論の途中で意見が一部変化するのは、よくあることだし、というよりむしろ変化しないなら議論をする必要がないわけでそれを咎める意図は毛頭ありません。ただ何が変わって何が変わらないのかという部分の説明は必要かと思います。

mojimojimojimoji 2009/06/16 00:11 わかりました。それらの部分に対して、僕自身が答えてみせればいいわけですよね。

■陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、(中略) 「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ

愛好家・擁護者は、さまざまに異なる仕方でこの表現に関わっていて、それぞれに意義があります。かつ、本記事に書いたような一番正当化しがたい存在においてさえ、その欲望のありようについて自覚、可視化するという意味があります。

■それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。
■愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。*「この程度」は愛好家がゲームの有用性を説明できないことと読める
■愛好家も擁護者も、話の通じないバカorカマトトであり続けてきた。
■助長していないとしても、ガス抜きにもなっていないならば、規制したって別にいいわけだよな。

以上の部分は、「それを説明できるし、どうしてしないのか」と思って書いていることです。

■それが不可能だというならば、脅迫か暴力のどちらかなしでは生きていけない自分が人と人の間に安住できるなどと思うな。*「それ」は「暴力と脅迫もやめろ」であり、かつ「脅迫」は「性暴力を肯定する表現が野放しになっていること自体」と解釈するのが妥当と思われる
■しばらく陵辱ゲームを断ってみろ。(中略)人と人の間に暮らすことを諦めないのならば、そのくらいのことはやってみろ。

そこは、話の前提として「ガス抜き論」を言う人間に対して述べていることです。

僕自身は、(生得的にであれ、社会的にであれ)人間がそのように生まれてくるなら、それをまずは肯定したところから出発しろ、と思っています。ポイントは二つ、「出発点を肯定する」ことと「そこから出発しろ」です。

ただし、最初からそう表明してはいません。他の人が、どんなフレームワークで考えているのかを知りたかったからです。案の定、その表明されていない部分を、みんな好きなように補っていろいろ言っていました(だから、誤読珍読怪読全部歓迎なわけです。)。総じて言えることは、ただ肯定するだけか、そもそも肯定できないを前提にするかのどちらかでした。……少なくとも「出発する」に当たることを書いていたのは、知る限りではy_arimさんの「虚構のみならず現実をも深く深く知らねばならないのではないか」と述べているところくらいだったと思います。

bbb_Shrinebbb_Shrine 2009/06/16 00:46 ははぁ〜
皆さんmojimojiさんの上で踊らされた訳なんですね。
人が悪いですな。
しかし端からざっと眺めてなんですが、
mojimojiさんのワザと人を怒らせるよーな書き方が気に入りませんでした。

y_arimy_arim 2009/06/16 00:48 まあなんつーか、罪ではない、ないんだけれども、これしんどいなあ、ということはある。ぼくに対しても「もっと楽に生きよう」「もう少し自分を許そう」という声はあるし、ぼくだってこんなふうに思いつめることを他人に要求したくはない。
そういう「しんどいなあ」が、どっかで報われるといいし、せめて掬い上げられてほしいと思っている。茫漠としたコメントになってしまって恐縮だけど、個人的にはこの記事で少しだけ報われた思い。

md2takmd2tak 2009/06/16 03:27 ・ブコメに対して
すでに欲望を表現することを通して、「肯定」していると思います。
自分の存在を肯定するためには「おれはここにいるぞ」と言えば十分であって、「なぜ生まれてきたか」と言うことを説明する必要はない。
論理にした瞬間、土俵にあげられるのはmojimojiさんが一番ご存知だと思います。

tano13tano13 2009/06/16 03:55 >他の人が、どんなフレームワークで考えているのかを知りたかったからです。案の定、その表明されていない部分を、みんな好きなように補っていろいろ言っていました(だから、誤読珍読怪読全部歓迎なわけです。)

はあ、力が抜けました。
相互理解というんで、mojimojiさんの主張をがんばって理解してみようと思いましたが、はなから理解を望んでなかったということですか


では望み通り珍読してみましょう

>女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。

そう、あなたは笑いたかった。

性的マイノリティを救いたいのでもなく
性被害者を救いたいのでもなく

ただ笑いたかっただけ


この問題にこれだけの文字数を使い、問題をいろんな角度から語ってはみたが
問題は依然としてそこに転がったままだ

レイプレイを販売するべきか、しないべきか
そんなことはどうでもいい

あなたは笑いたかっただけだ


自分の知り合いに性被害者がいた

自分はそれを知って、助けを申し出たが丁重に断られた
何度かそれは繰り返されたが、結果としては変わらなかった
「ごめんね。」
彼女は本当に申し訳なさそうに謝った。でも助けを求めているのは痛いほど分かった

「君があやまる必要なんて何一つない!君を脅かすものすべてこの世から排除するから!」
そう言いたかったが出来なかった

彼女が助けを求める気持ち以上に彼女の深層心理が叫びつづけていた
「この人もあの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」
「あの男と同じ」


結局、彼女を脅かしてたのは自分の股間にぶら下がってるものだったんだ
彼女を救うためには、自分のチンコを切り落としてみせればよかった
でも出来なかった。

これが私のフレームワーク。

mojimojiさんなら性被害者のためにチンコ切り落とす?
その4で言っていた道は一人の性被害者を救うより遙かに困難だと思うけど
それが出来るならチンコ切り落とす覚悟ある?

ないよね。笑いたかっただけなんだから。

このコメントは数日中に消しますので返答はいりません
自分が身内ばれしたとき、その性被害者が誰かという詮索が始まるから

では、今後も正しさを隠れ蓑にして人を笑い続けてください

y_arimy_arim 2009/06/16 06:55 再度コメント。
md2tak氏の言う「個人的な信条に近づいてきてよかった」には同じ思い。そこをわれわれ(敢えてそう言う)は語ってきたわけだから。ぼくは直接に呼びかけに応じた面もある。
だからこそ、mojimoji氏にもパーソナルな領域で語ってほしかった。ようやく私的な顔が覗けて、少し安心している。ぼくは、だけど。あなたを許さないひとは多いだろうし、そりゃそうだよなあ、としか言いようがないけど。

「ソープ嬢に事が済んでから説教を始めるオヤジ」という言い回しがある。実際そういうやつがいる。
あなたがまさにそのような態度をとっていて、そのために失望や怒りを招いていることを、日ごろ少なからぬ敬意を抱いているがゆえに、はっきり指摘しておきたい。

y_arimy_arim 2009/06/16 07:29 たびたび申し訳ない。
パーソナルな領域について考えたのだけど、もしかしてこのエントリを含む一連の記事は、あなた自身の葛藤や苦悩を投射したものだったのではないか? 己の裡なる悪しき欲望を肯定しようともがいているのは、ほかならぬmojimoji氏なのではないか。昔読んだ野上弥生子の小説『森』に出てくるキリスト者の青年を思い出した。
あなたは小説をほとんど読まないと以前おっしゃっていた。しかし、あなたにこそ文学が必要なのではないかと思われてならない。この手の思いを掬い上げるのは、まさにフィクションであるからだ。ひとによってはそれこそ「凌辱エロゲー」であるかもしれないけれど(自分の関心事であるがゆえにBL小説にも触れてきたけれど、先頃亡くなった栗本薫の作品群に救われた読者はとても多いと聞く。おそらくは実存の肯定という意味で)。
そして逆の意味で、倫理は逃げ場ではないのだ。

ぼくもまた説教オヤジじみてしまった。改めて申し訳ない。ただどうも、あなたは自分の「同類」に見えるのだ。

mojimojimojimoji 2009/06/16 08:44 >コメントを消す予定の人
僕の中にね、他人を嘲笑しようとする欲望が絶対なかった、と保障するつもりはありません。今回に限らず、誰かの見解に反対する意見を書こうとするときには、いつだって考えることです。もちろん、絶対あった、とも言いません。だから、それがあろうとなかろうと、最終的にテキストの中身で越えられればいい(越えられるとは限らない)、と思い切って、最後は表現するんです。

ですから、少なくとも、笑いたかった「だけ」ということはありません。

>y_arimさん
性的なことではあまり葛藤していませんが、ある意味で、あまり葛藤していないことに問題がありうるとは考えています。たとえば、「すべてのセックスはレイプである」というテーゼがあります。この狂った世界では、ということです。バカ、の一言で済ませる人はいるでしょうが、僕はそう考えていません。

少なくとも言えることは、持てる者と持たざる者の問題について、今あるような世の中で少なくとも当面は経済的な不安なく暮らせているという事実についてはずっと考えています。その面で葛藤した、苦悩した、とは言いたくありませんが、少なくとも適応してきました。ドラマ「銭ゲバ」が喝破したように、狂った世界で平凡な幸福を求めること自体狂っています。ここでは、欲望自体が悪であるというよりは、その欲望がおかれる世界が問題であると言いやすいですから、その面は違うでしょうけどね。

で、その問題において、たとえば赤木智宏に対してどんな応答するのか、という話です。僕の応答で満点と言うつもりはありませんが、狂った世界においても欲望が否定できないなら、狂った世界をどうにかする他ありません、と考えていることは随分前に書いたことです(狂った世界をどうにかすれば、欲望が「正当化される」と述べたわけではありませんけどね)。

パーソナルな領域については、僕は語りたくもないし、語らせたくもないし、できるだけ語られない方がいい、と思っています。けど、パーソナルな領域にちゃんと根を持つ言葉は語るし、語られればいいし、どんどん語られなければならない。だから、パーソナルな領域がハッキリと書かれていない場合でも、そこにちゃんと根を持っているのだ、という前提で人の書いたものを読む。村上春樹についてもそうしたように。それが、読み手としての倫理です。一応の。

実存の肯定によって救われる、というのは、それはいいでしょう。僕が気にしているのは、実存の肯定に必然的に伴うはずの倫理です。狂った世界で実存だけ肯定して終わり、なんてあまりにも都合が良すぎる。別の言葉で言えば「落とし前」です。で、その「落とし前」から目を反らしている限り、実存の肯定は砂上の楼閣ですよ。フィクションの中で肯定しても、現実に戻ってきたらすぐさま動揺する。

だから、僕にとっては、文学に加えて、というか、文学以上に、たとえば社会科学が必要。最近はマンガは読みますが。

「同類」かどうかは、僕にはよくわからないけどね。

僕を許さない人については、それぞれ好きにしたらいいと思います。ブコメにイラッと来ることはもちろんありますが、あまり悪い感情は抱きません。僕自身、友人から、自分自身の大事なものを脅かすような真理を突くようなことを言われて、激しく反発したことがあります。落とし前の問題と考える以前の、自己防衛の問題としてしか考えられなかった時代が、自分にもあるということです。その友人が「もっと楽に生きよう」「もう少し自分を許そう」とは違うことを言ってくれたことは、僕にとって重要な転機の一つでした。あとは、相手次第でしょう。

ちなみに、説教オヤジの比喩は意味わからん。

>md2takさん
ブコメでは舌足らずですが、本文を踏まえて言えば、肯定するだけだから文句を言っています。肯定して、そこから出発しなさい、と本文では書いているんです。

>bbb_Shrineさん
わざと怒らせようとしてるんじゃないですよ。別に。怒るのはしょうがないし、もっと言うと、そもそもまともに読みもしない人が大勢いるのもしょうがないと思っています。自分の実存を脅かすような文章であっても冷静に読み抜く姿勢を維持しつづけられる方が、普通ではありません。

>再び、コメント消す予定の人へ
あなたの知り合いの話について。切り落としたって意味ないでしょう。その人の側にいられないという解を受け入れるなら、その上で、背景にある狂った世界の狂いぶりについて考えることが「落とし前」につながるだろうと、僕ならば考えますが。

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