化学音痴が化学を論じる危険

こけおどかしの議論が目立つこの本の記事の中で, とりわけうんざりさせられるのが化学や基本的な科学的常識 のところでの誤りである。 素人相手なら何を書いても構わないだろうとでもいいたげな, 傍若無人な間違いぶりだ。 とくに目立つのは,大した毒性もないものを, さも恐ろしいものであるかのように書き立てるという, 誤りというにはあまりにも意図的な記述である。 また毒性を急性と慢性にわけて考えることも, この種の議論ではとても大切なことなのだが, そういうきっちりした議論は見当たらない。 いわゆる「味噌も糞も一緒」というやつである。 科学的な観点なしに,「毒だ!なくせ!」と叫んでばかりでは, どうにもならない。

われわれの身の回りにある物質は, ごくありふれたものであっても多かれ少なかれ毒性や危険性を持つ物が 大半なのだ。たとえば灯油,エタノール,石けん,洗剤,漂白剤, さらには食塩であってさえ, 限度をこえて摂取すれば生命の危険をもたらす。 我々が呼吸している酸素でさえ, 生体内で化学結合を切ってしまう猛毒なのであり, 生命の進化の過程は,酸素の毒性を克服しながら, そのエネルギーをうまく利用する方法を開発する歴史でもあったということを考えよう。

以下,いくつか目に付いた例を挙げて批判する。細かなことを言い出すと きりがないのだが,単純に学問的に無知であるだけのものから, レトリックのためにでたらめなことを書いてしまっているものまで, 目立つ例を取り上げる。それでも膨大な文章になってしまい, 予定した項目のすべては取り上げきれなかった。

塩化アンモニウムは毒性が強く, イヌに6〜8g 投与すると1時間以内に死んでしまう。 人間が大量に摂取すると,吐き気や嘔吐,さらには昏睡を起こすことがある。 熱で容易に分解されるが,有毒なアンモニアと塩化水素が発生する。 (渡辺「“パンの王様”がつくる添加物の塊 --- ヤマザキクリームパン」, P6--7)
塩化アンモニウムは急性の毒性を持っている。 ただし動物は体内の代謝の老廃物であるアンモニアやその類縁物質を捨てて 生きているのであるから, 塩化アンモニウムの毒性も少量なら耐えられる性質のものであり,まして 慢性の毒性を持つものではない。 「大量に摂取すると」という仮定を置いて議論するのは,少量の 塩化アンモニウムしか含んでいないものの有害性をわざと過大に見せるための 非現実的な話しである。

また,塩化アンモニウムが熱で容易に分解されるというが,体内のどこに その分解を引き起こすような高い温度の部位があるというのか。 アンモニアと塩化水素は 常温ではきわめて容易に反応して塩化アンモニウムになってしまうものであり, 上の議論はありもしないことを書いて脅しているだけのことである。

もっとも私は山崎パンをお勧めするつもりは毛頭ない。地方の良質なパン屋を 金で追い出しながら, 画一的なまずいパンを店頭に広げていったこの製パン産業のやり方はひどい ものだと思っているからだ。が,それとこれとは別である。

カラギーナンは,現在使用が認められている約500種類の天然添加物のなかで, もっとも危険性が高いものだ。これは,ある種の海藻から抽出した粘性を持つ 多糖類で,タンパク質と反応してゲル化するという特徴がある。 しかし化学結合の中に硫黄(S)を含んでおり, その安全性を疑問視する研究者が多く,数々の毒性試験が行なわれている。 (渡辺「天然添加物という名の嗜好品」,p.40)
この文章によると,ある化合物がイオウを含むことが毒性の原因になっている らしい。イオウを含む化合物をふつうの食品に探すなら,あらゆる肉や魚,卵, タマネギ,ニンニク等々,あまねく存在するのである。論を補強するために まったく本筋に関係なくどうでもよい事実を挙げているというのは, いかにも無知な大衆を騙すためのレトリックとしか見えないではないか。

歯をみがいた後,食べ物の味が違うことをトーゼンだと思っているみなさん。 ちょっと待ってほしい。合成洗剤の歯みがき剤こそが,タンパク質と結合し, 味覚神経や口腔の粘膜まで変性させてしまうのだ。 (山中「芸能人の歯があぶない --- アパガードM」,p.77)

歯を磨いたあとで食べ物の味が変わるのは,歯磨きに含まれている香料と甘味料に よるものである。ためしに甘味料や香料のほとんど使われていない歯磨きを 使ってみればわかる。私は朝起きて歯を磨く習慣があり, 朝食の味が変わるのが嫌なので,なるべく味と匂いのしない歯磨きを昔から 使っている。合成洗剤はどれにも使われているが,他の何億もの人と同様に, 何十年たっても味覚神経は問題なく機能している。 本当に歯磨きの中の界面活性剤のせいで味覚が狂ったという人がいるのなら, 根拠となる研究の内容を紹介すべきである。

口腔粘膜の変性ということで言えば, 歯磨き中の界面活性剤が口中の皮膚との接触することで, 問題になる程度のタンパクの変性が引き起こされるようであれば, かなりの苦痛やびらんなどが伴うはずである。 熱いもので口の中に火傷をして皮膚がはがれるという経験はだれでも持っているだろう。あれはまさに熱によるタンパクの変性をともなう火傷である。
 実は,確かに界面活性剤はある種のタンパクの変性を引き起こす。 タンパクの構造は水分子の性質と密接にかかわっており, 水の性質を変えるような変化は,多かれ少なかれタンパクの変性, つまり構造の変化を引き起こす。 高濃度の塩分や糖分,アルコール,熱,界面活性剤,いずれも変性の原因になるのだ。 だからといって,塩のかかったおにぎりを,アルコール度数40%のブランデーを, あつあつの味噌汁を,あなたは止めますか? これらはいずれも歯磨きの界面活性剤に劣らず「有害」なのだ。その程度が 人間の体組織の回復力に比べてずっと小さくて, 影響を抑え込めるようになっているから, 私たちはそれと付き合っていけるのである。

人間の消化管や口腔の粘膜は,つねに変性される環境に置かれている。だから いつでも活発に組織が更新されて新しい粘膜が下から出てくるのだ。 ストレスが消化器の異常や口内炎に結びつきやすいのは,組織の再生能力が ストレスによって左右されることから来る。 歯磨きの界面活性剤を気にしたり, すっきりしない口で不愉快な思いをするくらいなら, 適量の歯磨きで正しく歯を磨いて快適に生活するほうがずっとストレスを作らない。

この陽イオン系界面活性剤は, 花王「アタック」などの主成分LAS(直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム) と化合して下水に排出されると, “LASコンプレックス(複合)”という猛毒物に変化し,水汚染物質となる。 (山中「吸水力が弱まるふわふわの柔軟剤」,p.95)
高校程度の化学を勉強すると錯体とか錯イオンという言葉を学ぶ。たとえば 硫酸銅にアンモニア水を加えると鮮やかな青紫に変化する,あれである。 その錯体のことを英語で complex という。 錯体というのは, もともとべつべつに振る舞えるような分子やイオン同士が, 何個かくっついてできるものである。 それを“複合”と訳したのでは何のことか分からない。 ごく常識的な化学用語も知らないでいい加減な知識を公共に振りまくのは有害である。 理化学辞典でも引けば主な物理化学用語の英和,和英の対照表は載っているのだ。

さらにこれに続く記述を引用する。

陽イオン系界面活性剤とLASとで,実験動物(通常,ラット)の半数が死に, 半数が生き残る統計的数値「LD50(半数致死量)」を比べたところ, 経口投与の場合5〜7倍も陽イオン系界面活性剤の方が値が大きかった。 陽イオン系界面活性剤は,界面活性剤の中でも急性毒性が強いと言われているのである。 (山中「吸水力が弱まるふわふわの柔軟剤」,p.95)
前の引用と続けて読んでほしい。 LASコンプレックスの有害さを論じていたはずなのに, 話しがすりかわっている。 二つのものが結合して「猛毒物に変化」するということを論じて, その根拠を説明するような流れが続くと思いきや, 二つの物質の毒性の比較になっているのだ。 支離滅裂ではないか。

なぜ,これほど落ちないのか? これら洗剤は「洗濯物をただ洗剤液につけておくだけ」。 落ちないのもあたりまえ。正体は 「水洗いつけおき合成洗剤」なのに, その正体は「ドライクリーニング溶剤」(ニューハイペックS), 「プロが使う溶剤」(ニューマリーゴールドS)などなど, 不当表示のオンパレードだった。 (船瀬「いろいろ洗えない家庭用ドライ合成洗剤 --- ドライアップ」p.98-99)
「つけおきでは汚れは落ちないのがあたりまえ」というのは, 化学反応の進み方を知らないことを暴露しているのである。 高校の化学の教科書を読んでほしい。 化学反応などの変化は時間にしたがって進んでいくのであるから, たとえば汚れが洗剤で分解したり溶解したりするような過程も 時間をかければ進むのが原則である。 「落ちないのがあたりまえ」などとは言えないのだ。 たとえば触媒を使って汚れを分解するような洗剤であれば, 時間の効果はきわめて大きい。こういう文章を著者が何気なく書いてしまえるということは, 化学をまじめに勉強して得られるはずの「勘」がまったくついていないということなのだ。(もっとも,当然のことながら, だからといってドライアップなる商品がよいものであると私は主張しているのではない。 この著者がまったくとんちんかんなことでいちゃもんを付けているということだ。 文句をいうならもっとまともな議論をするべきなのである)

ところでドライクリーニングは危険な洗濯方法である。「ドライ」の意味は 水を使わない,すなわち有機溶剤で汚れの油分を溶かし出すということである。 現在日本中で問題になっている工場廃棄物のトリクレン(トリクロロエチレン)などが, かつては全国のクリーニング屋さんで使われていて, そのための職業病ともいうべき肝機能障害やガンが多発した。 (余談だが,私の教え子の父親がかつてクリーニング業を営んでいて, 50代で口腔ガンのために亡くなった。肝機能障害もすでに起こしていた。 「父は溶剤を口に含んで服のしみに吹きかけたりしてました」という, 教え子の話しを聞いて,私は言葉を失った。)トリクレンはオゾン層破壊も引き起こす。
 そのためいろいろとより安全な溶剤の選択を試みてきてはいるが, 結局のところ脂肪を溶かすような有機溶剤はどれも健康と環境にとって 有害であると推定されることから, クリーニング業界は水と洗剤を使って洗う方向に切り替えてきている。 ドライクリーニングという洗濯方法は過去のものになるつつあるのだ。 クリーニング屋さんは, 「環境を汚さずに上手に洗濯をしてくれる専門家」というふうに脱皮しつつある。 どうせ啓蒙記事を書くのなら,そういうことを広く伝えて, 好ましい動きを支援してほしい。