4 「サヨク」または「ウヨク」の思想②――山口二郎
「ウヨク」の福田に登場してもらったので、今度は、「サヨク」の山口二郎に登場してもらおう。 山口は、ある講演(山口二郎「岐路に立つ戦後日本」山口編『政治を語る言葉、2008年7月、七つ森書館)の中で、60年安保以降、本格的な「戦後レジーム」が完成したのであり、その「戦後レジーム」は、「内における経済的な繁栄と平等、外におけるそれなりの平和国家路線、この二つの柱をもっていた」と述べている。その上で山口は、この「戦後レジーム」を継承すべきであると主張し、「平和国家路線における解釈改憲は護憲である」としている。 そして、この講演の中で山口は、以下のようにも述べている。 「戦後日本は基本的には、平和と豊かさを達成し、かなり平等な社会を築いたという意味では成功したという評価があるわけです。そのなかでもちろん、そのような平和や豊かさは日本人だけで、そこからはじかれたマイノリティー、少数派がいたという問題があります。」(同書、58頁) あまり物事がわかっていない人からすれば、この発言は、「良心的」に見えるだろう(山口も、自分でそう思っていると思う)。現に、同書には別の講演者として辛淑玉が登場しており、辛は司会の山口にエールを送っている(注1)。 だがこれは、誇張抜きに、恐るべき発言である。その意味が分からなければ、例えば、山口とは反対に、「日本社会には「在日」に対する差別なんてない」と言い張るネット右翼の例を考えてみればよい。こうしたネット右翼にとっては、日本社会の健全さを示す上で、在日朝鮮人に対する差別が存在している、ということであってはならないのである。その意味では、このネット右翼の場合、在日朝鮮人は、それなりの大きさがあるものとして捉えられているのであって、在日朝鮮人の処遇が、日本社会全体への評価を左右し得るものと見なされている。 ところが、山口の場合は、このネット右翼とは逆で、日本社会の健全さを示す上で在日朝鮮人への差別があるかないかは関係ないのである。つまり、山口においては、上のネット右翼とは異なり、在日朝鮮人の存在の大きさが極小化されているのだ。在日朝鮮人の処遇は、日本社会全体への評価とは基本的に無関係なのである。 山口は、「マイノリティー、少数派」について言及するだけマシではないか、という人もいるだろう。マシではないのである。例えば、ネット右翼ではない保守派が、戦後社会を肯定する際に、在日朝鮮人に言及しないということは大いにあり得るだろう。だがそれは大抵の場合、在日朝鮮人の処遇が、戦後社会の肯定という目的にとって都合が悪いからこそ、言及されないのである。山口の場合、都合が悪いという認識すら欠けているのである。それだけ、在日朝鮮人の存在の大きさが、山口にとっては極端に小さいのだ。だから、山口が、朝鮮総連弾圧の扇動者である佐藤優と極めて密接な関係にあるのは、不思議なことではないのである。 「ウヨク」の福田と「サヨク」の山口は、「平和」と「平等」の戦後社会を肯定しながら、同時に、排外主義とも親和的なのである。 (注1)それにしても、今のリベラル・左派ジャーナリズムに登場する在日朝鮮人の言論人は、こんなのばかりである。同書には、佐藤優も講演者として登場しているから、リベラル・左派からすれば、佐藤と辛で「バランス」がとれているわけである。これら在日朝鮮人の言論人連中は、リベラル・左派の「国益」中心主義への変質に気づいているからこそ、その「国益」を享受する層から在日朝鮮人を落とさないでほしいとして、もう少し言うと、リベラル・左派のアリバイ役、たいこもちの役割を果たすという形で、尻尾を振っているわけである。「大東亜戦争」の旗を振った朝鮮人みたいなものだ。 彼ら・彼女らは、日本社会批判の役割を演じつつも、「自分たちの日本社会批判は、外国人によるものではなく、沖縄の人々の日本社会批判と同じように、日本人「同胞」によるものとして受け止めてほしい」と思っているはずである。そこでは日本社会批判が同化の一形式になっている。 (つづく)
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