§古い同窓会誌から

同窓会報 19 思い出二つ三つ 村上 五郎(1961)

大正11年の金子校長排斥ストライキで折田先生の植え付けられた「自由」の校風はますます確固たるものとなったが、時代はやがて軍国化し三高もその埒外には置かれなかった。しかし根本的には昭和二十年の敗戦に至るまで「自由」の底流は伏流水となって流れ続け、再び地表に現れるのである。この暗い時代のはじめの頃の物語である。


在学中は三高自由の気の暢達した時期でもあったが一面すでに暗雲の萌した時期でもあった。自由寮の一室で始めてクロポトキンを知りマルクスを覚えたのだが、私たちの社会科学研究会はやがて解散させられ、進化会の名で維持した組織の名で山本宣治氏(先輩)を招いて座談会を持った。その日の話題は産児制限でユトリあるその話し振りは当時乳臭の私などにはもどかしかったが、後になってやはり偉かったなと思うようになった。

講演といえばi濱口雄幸が来校されて講堂で話をされたことがあった。長身魁偉な氏の風貌が今も瞳に残る。懐かしい印象である。
軍事教練なども配属将校が我が儘できぬ程の自由の気の伝統がまだあった。いつか寺内壽一将軍−−当時は大佐か−−が査閲に来て我々のサークルあたりが中心で反対的な意志表示をやった。定めしお偉い大佐には嫌なことだったろう。平日、岩倉あたりへの行軍ではいつも我々のクラスはだらしのない隊伍で、伊吹先生伝授の--J'ai de bon tabacなどのフランス唱歌を肩くみで連唱して騒いだもので教官も見て見ぬふりをしていた。

三木清先生の姿も思い出となった。代返を頼んで逃げた連中も先生のあの熱を含んだ講義はやはり忘れられぬものではなかったかと思う。ピュリダンの驢馬の話などをフランス語の時間に持ち出された河野與一先生とともに、哲学について何かを与えていただいた方であった。(後略)(昭2・文丙卒)

INDEX HOME

grenz

同窓会報 14 三高の軍事教練 大和田 正直(1958)

「神陵史」の904頁には、<配属将校殴打事件>というくだりがある。「昭和十七年一月二十三日、一人の三高生が、査閲に備えての教練中に、配属将校の横暴ぶりに激発して、これを殴打した事件は、時勢が時勢だけに、にわかには信じられないような希有な事件であったといえる。当時、外部に対してあくまで秘密に付されたこの事件は、云々」と書かれ、当事者の西田美穂本人の手記が記録に留められている。以下の文章に出てくる西田の“「三高生だ!!」「貴様ア!!それでも三高の教官か!!」”という叫びの中に「自由」の三高にはあってはならない野蛮な配属将校の行為への高らかな抗議が窺われる。もちろん何よりも純粋な正義感が彼を駆り立てたのであろうが、自由と人間尊重の校風が、生徒をしてこの様な思い切った行為に踏み切らせたのであろう。苦境に立ったであろう三高出身の前田鼎校長の冷静な、理解ある対応にも、戦時も生き続けていた三高の精神を読みとることができる。ここには同窓の大和田の思い出を紹介する。


僕が三高に入学した頃は、もう軍事教練が正科になっていた。僕は軍国主義的色彩の甚だ濃い中学を出ていたので、教練と云うものに、さほど痛痒を感じなかったが大部分の人は、教練に嫌悪の情をいだいていたのは確かであった。しかしながら当時の教練は、何といってもノンビリした所があって、僕のアルバムに、草鞋(わらじ)ばきで、銃を担いで教練を受けている写真が残っているくらいで、靴のない人は、草鞋でもよかったのである。(制服、制靴は、定められていたけれども、靴を持っていない人が相当あって、教練の時は、他の組の人の靴を借りに行ったものだ。)その教練に年に一度査閲といって、師団司令部か、どこからだか知らないけれども、金ベタの肩章をつけた少将閣下がやってきて、一年間の成果を見るという行事があった。僕等は査閲の時、市中行軍をやらされて、クラスの一人が行軍中に、タバコ屋へタバコを買いに入ったために、講評の時に手ひどい批評を受けたものだった。

この様に、比較的のんきであった教練も、配属将校が、支那歴戦の勇士と称する、ものすごい「ヒゲ」を顔の左右各一尺ばかりピンとのばした、何か云うたびに、大口をあいて、ふんぞりかえって「ワッハッハッ・・・・・・」と、カバの吼えるような声で笑う”ヒゲ大佐”に替わったとたん、随分変わったものとなってきた。「ワラジはいかん。」「頭は丸坊主にしろ。」等々と、次から次ぎへ、うるさいことを云うようになった。

      二年生の野外教練の時であった。深草練兵場まで行軍して、そこでパンパンと撃ち合いをして、そのあとで講評のあったときのことである。声が小さくて、後ろの方まで聞こえないので、僕が、

「聞こえんぞオー。モット大きな声を出せイ!!」
と、どなってやった。するとヒゲ大佐とたんに怒りだして、
「今どなった奴は出てこい。」
と、そこで大佐の前まで出て行くと、ヒゲ大佐は、軍人勅諭の文句を引っぱり出し、
「秩序を乱り・・・・・・・・は、国家にとりても許し難き罪人なるべし。」とか、何とか云うなり、サーベルで僕の顔をいやと云うほど、どやしつけて、そのあと曰く、「若いもんは、あれくらいドナル程の元気がないとアカン!!。」だと。おかげで僕は二日程あごが外れたような具合で食事ができなかった。

所が、その後このヒゲ大佐が、生徒に銃で殴られるという事件が起きた。たしか、太平洋戦争のはじまった前後のことであった。もうその頃は、教練は随分うるさく云われて、とても入学当時のようなのんきなことは許されなかった。この時は例の査閲の練習の時であった。毎年のことながら査閲は冬の寒い時に行われるのが例になっていて、この日も随分寒くて、村田銃を持つ手が凍えそうであった。全校生徒は、グラウンドに集まって、ヒゲ大佐の話を神妙に、心では馬鹿にしながら聞いていたのである。ヒゲ大佐は、合併教室の南の所の、一段高い所で、口ばかり鯉のように、パクパクといやに大きく動かして訓話をしていた。(これがヒゲ大佐の、ものをいう時のくせで、口がよく動く割合には、声がかすれたようで、聞き取りにくい声であった。)そのうちに、ヒゲ大佐は生徒の一人に向かって、
「オイコラ、お前、ちょっと前へ出ろ。」
と、呼びだした。
「お前は、何故下をむいとったか。」
「寒いからです。」
「ナニイ、寒い?」「寒かったら、裸になれ、裸になって運動場を走れ。」
と、乃木大将ばりのことを云った。
見るに見かねた僕のクラスの平井啓之君が飛び出していって、之をなだめにかかった。しかしヒゲは、云うことを聞かばこそ、服を引きむしるようにして脱がせ、裸にして、運動場を走らせた。すると一年生の列から一人が、銃を持ったまま、ツカツカと出てきて、ヒゲの前に立ちはだかって、
「オイ、止メロ」
「ナニイ、お前は誰だ!!」
「三高生だ!!」「貴様ア!!それでも三高の教官か!!」
「何だとオ。」
「止めなきゃァ、ブン殴ってやるぞォ。」
と、いうなり手に持った村田銃を逆さに振り上げた。
「殴るなら、殴って見ろ!!」
と、まさか本当に殴るまいと、高をくくった言い方である。
「ヨオーシ。」
と、いうが早いか振り上げた銃で、ヒゲのドテッ腹をボインと殴りつけた。怒り心頭に発したヒゲは、顔面を紅潮させ、殴った生徒に掴みかかろうとしたが、掴まってなるものかと、今殴った銃をヒゲの足元へ、ガラリと投げ捨てるが速いか、雲を霞と逃げ出した。ヒゲはそのあとを追っかけて、共済会の事務室のあった建物の方へと走ってしまい、結局査閲の練習は無茶苦茶になってしまった。

所が、そのあとが大変である。軍国主義華やかなりし頃に、かりそめにも現役の大佐を銃で殴ったというのであるから、関係者は次から次へと憲兵隊に呼び出されるし、殴った人は遂に退学処分になるし(ただし翌年四月に復学の処置が取られた。)大変なことになった。ヒゲはこのことがあってから左遷されてしまった。しかしこの事があって、陸軍は三高生を目の仇にするようになって、円山の音楽堂で時局講演会が行われた時にも、陸軍の報道部長が、京都市民の前で三高生のことを、ボロクソに云ったことがある。けれどもこの事件は、遂に新聞にも報道されず、知る人はその場に居合わせた人の他、少数しかいないことだろうと思う。

先日も僕の職場で、京大の桑垣煥氏(昭和15・理甲卒)と、ヒゲ大佐殴らるの話をしていたら、同氏は、「当時僕は海軍にいたのだけれども、海軍の連中がこの話を聞いて痛快がっていたよ。特に一高出身の見習士官らは口を揃えて、『三高生はどえらいことをやりやがるなァ。』『一高生ではとてもこの真似はできない』といって感心していたよ。」と、いうことである。(昭17年9月・文甲卒)

西田美穂の話を"その頃の思い出"で読むことができる。西田は除名処分を受けるが、北寮2番の寮生で事件後の相原信作教授との対話、室長 村林保彦らの事件沈静化への努力なども語られている。村林保彦の人柄が伝わってくる。

INDEX HOME

grenz

同窓会報 14 最後の自由 梅田 義孝(1958)

大和田 正直の「三高の軍事教練」の事件があったのは、 昭和17年のことであった。大和田の記事では当事者の西田美穂は翌年復学したと書かれているのだが、ここに掲げる梅田の記事のように、実際は復学は叶わなかった。(注:西田は昭和18年10月東北帝国大学法文学部哲学科に聴講生入学、翌年本科生となる。応召し、戦後復学、23年3月に卒業した)太平洋戦争下一人の三高生の見た、生きた、狂った時代と三高の相克の記録である。


(前略)
昭和十六年
京洛に桜咲き乱れる春、名もない伊豆の中学より、昭和時代を通じて唯一人、私は文科丙類に入学した。新徳館での入学式では病臥中の森校長に代わって阪倉先生より「本校は生徒の生活に干渉せず、自律を尊重する」云々の訓辞を受け、先ず自由と人格尊重の校風に魅了せられた。私も伊吹先生の前で宣誓の毛筆をくねらせ、先生を囲んで堅田で卒業コンパをやるまでの三高生活が始まった。藤田元春先生の珍重すべき地理に度肝を抜かれ、後福岡高校長に転じられた、折竹錫先生のノートだけのフランス語に面喰らった。 俊才市村恵吾先生も間もなく亡くなられ、ご焼香に伺った。一頃は京大を凌いだという、伝統ある三高文丙も急に淋しくなった。津田穣先生が赴任されたが、病気で二年間位で辞められた。旧寮の古い建物が一年の教室で、芝生に落ちる桜花吹雪が、三高入学の喜びを象徴していた。

自由寮では、藤音晃祐生徒総代が一年生に「紅もゆる」を北中寮間の夕方の芝生で教えてくれたが、ここに我が自由と青春の歴史は展開された。寮では大食堂での全寮大会で「紅もゆる」を何十辺歌ったことか。寮には全国からはもとより、三高の自由を憧れて、満州、中国、北米在住等から人材が集まっていた。海外の留学生も、一高と異なり、実力本位で平等に遇していた点、やはり三高の自由の表れであった。入寮式の夜は深津数男寮総代の演説に始まり、故林 茂久先輩の明治二十年代の懐古談、ジンジロゲ踊り等あり、有志演説は深更二時過ぎに亘った。それから全寮生吉田山のあの見晴らしのよい高台に登り、うるんで瞬くような春の夜明けの京の灯の海を見下ろしながら、「行春哀歌」「琵琶湖周航歌」等を静かに誦した陶酔感を忘れられない。

前年より寮内禁酒と朝の体操が申し合わされており、前者は守られたが後者は駄目だった。寒中でも赤褌一本と高歯で、ベッドの上を暴れ、渡り廊下で水を受ける計画的ストームは全国でも偉観であったろう。私も入寮返礼ストームで階段を上るとき、上から手桶の水を浴びせられたのには跳び上がった。春の夜の裸には冷めた過ぎた。全寮を廻り、南グランドで「紅もゆる」を月の夜空に歌いあげる爽快さは、夜半寮の二階の窓より吉田山に傾く月を眺めながら放つ寮雨(注:放尿)と共に、けだし天下一品の醍醐味であった。三高と月と桜と吉田山は切っても切れぬ縁だった。桜を訪ねての全寮清遊は、御室、大澤池を巡り、嵐山渡月橋にさしかかると、数人の武専(注:武道専門学校)の連中と衝突し、赤旗(注:三高応援団が使う校章入りの赤旗)が橋より舞い落ちる不祥事件が生じた。
毎夜街で飲んできては「紀念祭歌」が歌われ、寮のデコレーションに知恵を集めているうちに紀念祭当日となり、全寮名物裸踊りに蛮勇を振るい、都の子女に寮が公開された。若葉香る頃は、吉野に大挙清遊し、赤い大旆が幾条も深山になびくさまは誠に清々しかった。夏休みまではまだ自由と奔放があり、酒食も豊富であった。しかし、一方では憂愁と沈消の生活があり、前年には放水路で投身し、校庭で縊死する三高生があり、私が入学して間もなく、三年生が吉田山で縊死し、南禅寺内の坊での淋しい葬式に参加した思い出がある。

夏の一高戦もインターハイも、間際になり中止させられた。秋が深まる頃は、治外法権的自由寮にも、漸く時代の波が迫って来、門限などの規約問題が不可避となってきた。自由の精神と平和の生活はジワジワ圧迫されて行った。それやこれやで私は、常に変わらぬ叡山の灯に名残を惜しんで退寮し、吉田中大路のアパートに下宿した。十二月八日、重大放送があるというので、寮に寄ったら太平洋戦争勃発の放送中だった。私も、二年後には軍服に着替える運命とは露知らず、人ごとのように聞いた。戦果とは別に世は住みにくくなると複雑な暗い気持ちだった。少なくとも時代は三高的感情を以てしては相容れない社会環境になりつつあった。私は政治や国策を考えるよりも自我の生活に精一杯で、ますます孤独になり、冬休みも帰省せず、大晦日は祇園のオケラ火で火鉢を暖め、下宿の心づくしの餅を焼きながら、デカルトの「方法序説」を読み終えて一人正月を迎えた。雪の平等院や、男山八幡宮に詣で、正月気分の都人の群に、満たされない身をさまよわせた。

昭和十七年
戦果酣である。最後の自由を捨て難く、畑弘君と紀州旅行を終えて、春休みに前後して入寮した。二年生の時は私は新しい意欲に燃え、極めて積極的実践的生活を送った。また三高的頑張り生活のできる最後の機会ではなかったかと思う。数少ない長髪の一人となり、着物と袴で壮士然として得意であった。タイムの上がらぬ水泳部を辞し、共済部の委員長をつぎ、これに力を注いだ。

寮では北寮二番に入った。嵐山に代えてこの年は醍醐三宝院、宇治に全寮清遊した。紀念祭では、正木毅君が筆で皆の腹に墨書し、私も「自由」と大書してもらって御輿を担いだが、重いものだった。リレーでは共済部として『三高生を家庭教師に』云々のビラを背腹に掲げて走り、人気を博した。デコレーションでは軍国主義、全体主義への抵抗、自由主義への愛惜、青春の苦悩に溢れた作品が急増していた。

全校体操や鍛錬、教練等と称して全校生がグランドに集められる回数が頓に増えたある日、ヒゲと称する桁外れの規格の配属将校が無謀にも一人の生徒を上半身裸にし、サーベルで殴り倒したことから、ある生徒が堪忍袋を切らし、逆に銃床で殴りつけてしまった。あのときは誰しも義憤を覚えぬものはなかったと思う。彼は左遷され、後、戦病死したとか。生徒は放校になり、何度か復校署名がなされたが叶わなかったのは気の毒であった。こんな時代であったから、「カレドニヤ」や「パレス」、「シャンクレール」でコーヒーを啜ったり、「萬両」で赤ガエルで酒を飲んだり、ディヴィヴィエやクレールの映画に酔ったりした。抵抗に限界がある以上、悲しい耽美と逃避の生活であったのかもしれない。

夏、戦前最後の一高戦とインターハイが行われ、東征した陸上部のみ勝ち、西京で野球戦が最後に一点差で敗れたときは本当に涙で「紅もゆる」を歌った。

恐れていた学年短縮が実現し、三年生は九月に卒業することになり、自治関係のもろもろの役が二年生に譲られた。(中略)

      秋が深まり、数々の長編名作を読み耽り、友達と寮歌を歌ったり、語り合った寮の芝生にも、全体主義の増大と物資の欠乏は容赦なく迫り、急速に味気ないようになってきた。私は花木正和君に室長を譲って再び退寮した。

昭和十八年
戦局は傾き、ミリタリズムは凶暴化さえ加えて三高にも吹き込んできた。一高ではすでに勤労動員態勢に入ったとかで、三高も最も遅れて戦時体制に順応した。もはや『自由』は 、第三者のいる前では口にせず、観念的にしか死守し得なかった。本館の地下を掘ったり、長池に射撃合宿したり、京阪街道を駆け足して道に迷ったりした。大文字山にも何遍かマラソンし、何遍かエスケープもした。新しい配属将校は前任者の轍に懲りてか、柔和手法と微笑政策を以て、いつの間にか、腰手拭いをとらせ、喫煙所を定め、マントを着るシーズンを定め、挙手の礼をさせ、たしか下駄も脱がせることにも成功した。教授の中には、三高を潰されぬため、積極的に協力せざるを得ぬ立場の方もあったし、他方、「内容の自由が大切で、外見は言われるなりにして拘るな」と慰めてくれる方もあった。時局はもはや何の抵抗も許さず、一般的に言って三高生も暗い諦めの気持ちで屈従せざるを得なかったと思う。

私のクラス文丙も四十人入学したのに、十一名も休学その他で卒業を延ばすことになった。懐疑と絶望の時代の一つの表れであろう。昔の三高の面影はなくとも何といってもどの社会よりも、三高はよいところだ。私も、二年半に短縮された揚げ句、大学卒業後待っているのは兵役だから、逆にもう一年三高にいてやろうと決め込んだ訳である。偶々小病したので卒業試験を受けないことにした。しかしながら、時代は急転直下、十二月文科系学徒動員となり、私も京都駅から香川護君を始め共済部の「紅もゆる」に送られて海軍に入隊し、戦中、軍令部に在り、戦後大学に戻ったのである。

これを要するに、一年の時(昭和十六年)最後の自由を享有し終えて、その失われ行くを悲しみ、二年の時はミリタリズムとファッシズムに対する虚しい無言の抵抗に疲れ果て、三年の時は、心ならずも諦めの生活に甘んじ、やがて戦線にかりたてられる悲劇に終わったのである。学業途上で出征した者は社会経歴上明らかに不利になっているが、復員できただけでもまだましで、戦没した学徒こそ悼んでも余りある。

今、静かに三高時代を顧みると、何よりも人間の自由と尊厳を教えてこれを尊重する伝統の校風と、日本一優れた「紅もゆる」の名歌ととに感謝せずにはいられない。正直なところ、戦後世は個人よ、自由よと叫ばれたが、三高は遠い昔より実践してきたのだと嘯きたい位だった。京都という青春を育てるのに最適の土地で、京都の人々に可愛がられたことも、全国から集まった秀才を幾人か生涯の友とすることが出来たことと共に感謝したい。私個人としても、人間性の探求はもとより、演劇や古仏像への開眼を得、フランス語(もう忘れたが)や文学の良さを知り、京都や大和を心の故里とすることが出来、旅情を味わうことを覚えたこと等は皆三高時代に得た生涯の財宝である。

私は不思議に思う。戦後十有余年、教育制度でも長所短所もろもろのことが大部分復活したにも拘わらず、日本で成功した唯一の優れた教育の場である高等学校制度が、(少しばかりの末節の欠点があるにしても)実質的内容的に復活しないということを。
人口の多い國で競争試験は当然である。六三制でどれだけの長所が得られたか。東大、京大の期間に変わりはない。なれば旧制の長所も失っただけである。自由を教え人間を造る高等学校の実体が、再現することを私は望む。そして三高が復活するを待つや切。そのためには一高、三高の卒業生がノロシを上げ実現に努力するべきである。「紅もゆる」が名歌であるが故に、世上に歌われ、果ては私大の応援歌並に普及し、団体の替え歌に成り下がることを私は憂うる。日本に希有の尊い伝統の三高精神が絶えぬ間に、新しい世代の人材に伝えられ、彼等によって「紅もゆる丘の花」と歌われることを念じて已まない。(昭和19年9月・文丙卒)


(注)
筆者 梅田 は「戦後十有余年」と記したが、もはや半世紀が過ぎた。もはや復活は望むべくもない現状だが、三高の卒業生の一人として私が書いておきたいのは、特にヨーロッパでは、いまも一部の学校では現代日本人の嫌うエリート教育が行われ、物事を深く哲学的に思索するのに必要な人文・教養教育がきちんと行われていると思われる。そういう教育を受けた連中の中から国家の指導者が各界に育っているように思われてならない。そういう教育が日本でも、三高では行われていたことは否定できない。理科の生徒にもきちんとそういうことが植え付けられ、例外が皆無とは言わないが、立派な広い見識を持って学界や実業界で指導者として活躍して来たことは否定できない。三高のような教育を受けてきた層の最後の人たちが、今引退の時期を迎え、或いはすでに鬼籍に入りつつある。日本の現状を見渡すとそういう教育が行われているところは皆無と見受けられる。国際的に見て我が国の指導者の質がこれでは低下して、とても外国の指導者と対等、さらに哲学的思索に置いて彼等をリードするくらいの教養と思慮を備えた指導者の欠乏に、遠からず日本国の各界は直面してしまうのではないだろうか。

日本の至るところに優れた素質を持った若人は、今もワンサといるにちがいない。数校、旧制高校のような学校を創り、そういう人達にみっちり人間の基礎を鍛えるような本当の人文教養主義教育(徹底した外国語教育を含む)の機会を与えることを考えてみてはどうだろう。その上で理科方面を志す人には少なくとも物理(量子論を含む)・化学(物理化学、無機化学、有機化学)・生物(細胞、遺伝子を含む)をすべて必修履修させる。自然の姿を物理だけ、化学だけ、生物だけの知識で把握することは不可能である。選択履修というのでは役に立たない。

はじめのうちは希望者が多くて、やはり激しい競争を伴う入試をせざるを得ないであろうが、在学生には十分自由な時間を与え、好きにさせ、反面、学業には厳しい試験を課して容易に卒業させないことにすれば、そのうちには志望者は本当に自分を造ろうとする者以外は敬遠するようになるであろう。極端な場合募集数に満たないことも出るようになろう。やがては希望する者は全員入学させられる。その代わり学業でできない者は厳しく落として進級させない姿勢は貫く。私学ではとても経営的に成り立たない話である。フランスのエコール・ノルマール・シュペリエールという例もある。国家が思い切って無駄の効用に目覚め、この学校では授業料は免除し、優れた一流の先生方を揃え、予算をすべて國から投入して、しかも干渉せず、ということにしてはどうだろう。ある政治体制の下での常識は永遠不変のものではない。しかし、『自由』の理念は、歴史的に観て常に政治的に被害者であった人たちの理想であったことは否定できないし、人間の持っている個々の可能性をフルに発揮させるために必要であった。三高の歴史を繙くとき教育は、政治から独立して常に人間の原点を見つめ直し、未来と変化に多面的に柔軟に対応していける基礎を、自由に造ることを保証しなければならない。この事を三高の歴史は教えている。だからこそ時の政治の干渉を排除しなければならないのである。神陵史525ペ−ジに阪倉篤太郎先生のエピソードを記している。『戦争酣の頃、入学試験の合否判定について、そのころ羽振りのよかった配属将校が、時局柄体力の優劣を重視せよ、と居丈高に横車を押したことがある。そのとき先生は「三高は士官学校じゃない。学力だけが合否を決めるのだ」と、一歩もゆずらなかった。』と。この日本で数校こういう学校が維持できないことはあるまい。日本国憲法も教育は誰も一律平等にとは言っていないのである。「能力に応じて」!!。その能力に応える教育の機会を我々は用意しなくてはならないのではないだろうか。経済危機を経験した韓国は英才教育法を制定して、エリート生徒の特別理科教育を開始しているが、私の見るところでは人間教育の点で三高に見られたような理念は見られない。わが国にもやがては英才教育を取り入れる時期が来るであろうが、今からよく考えて計画される必要がある。総ての国民、裕福か貧しいかに関わらず平等に機会と能力の発揮を保証するために学費を取らず、経済的採算を離れて、ただ能力にだけ応じて若人に最高のチャンスを平等に開くというのが私の主旨である。人間教育の抜けたいかなる試みも成果を期待は出来ない。暴言かもしれないが、一言書きたくなった。

HOME
grenz
 
INDEX HOME