アプリオリ、タブララサ、そして、裂開についてである。犬にそだてられたら犬のようになる。カタツムリに育てられたらカタツムリのようなしぐさをするようになる。
学習とか、教育というのは大切である。親の顔をみてみたいというが、ケツをみてみたいとはいわない。かつおくんだっておやじそっくりではないか。しかも、日本で育てばこどもは
日本語ぺらぺら。アメリカ人の小学生はなんとふつうに
英語しゃべれる。どこで駅前留学したのだろうか。
子供は天才であり、飲みこみが速い。なにゆえわれわれは人間になり、日本語がしゃべれるようになったのかをホログラム理論から解明したい。
アプリオリという哲学用語がある。アプリオリとは先天的ということ。おぎゃっとうまれてからすでに知っているもの。おまえはもうすでに知っている、とケンシロウ。これに対して、アポステリオリというカタカナの羅列がある。これは後天的ということ。ねじり鉢巻でがんばって学習。うまれてから、経験的に学んだことだ。
さて,アプリオリといっても、微妙に意味合いがいろいろある。時間的に先立っている、時間的にむかしから知っているという意味。これはとりわけ、生物学でつかっちゃう。あしのかかとの皮をむいて、遺伝子を双眼鏡でみてみる。この遺伝子はうまれたときにすでにあった。親からロハでもらった遺伝子だ。哲学ではむしろ論理的に先立つものといった意味で使われる。理屈のうえでぜんぜんがんばって目をみひらいて認識することはないもの。すべてのうんこは臭い。これはアポステリオリであり、残念ながら匂ってたしかめるしかない。ところが、すべてのうんこは臭いか、臭くないかのどっちかだ、とつぶやいてみる。これこそ論理的に先立っているアプリオリなものだ。なにもせずに目隠し状態で、その通りあたっております、と即答できる。
哲学者カントはたしかに目でみて鼻でにおって感覚情報を得る、つまりはアポステリオリに後天的にデータ吸収をおすすめ。このデータをまとめるだんとなって、はじめから用意されていた枠組につめこむ。これがカテゴリーであり、カテゴリーはアプリオリだという。
一方、アプリオリなんてクソ食らえ風な哲学もあった。哲学者
ロックの経験主義である。もともとうまれたときはこころは白紙、そこに学んでいろいろと書きこまれていくという。
現代においてはウィトゲンシュタイン。いつもおもうが、名前にカタカナ多すぎ。アプリオリな分析はあるけど、アプリオリな総合なんてないという。じいさんは歳よりである、と科学者が発表。当たり前であるが、主語のじいさんにすでに歳よりという性質がふくまれているから、分析的に
取り出しただけ。じいさんはばあさんを飛び越える。これはじいさんという主語には内蔵されていない新機能。よって、外から付け加わった総合である。
ク
ワインはアプリオリなんてないし、しかも、分析も総合もそんな律儀な分け方なんていらないと考える。じいさんは歳より、というのは分析ともいえるが、何歳以上がじいさんなのかは、別途、宇宙のどこかで説明してほしい。要するに、一見、分析かなというものであっても、総合だったりする。
哲学者ロックのタブララサについてである。タブララサとは、うまれたてほやほやの赤ん坊のこころ。こころにはなにも書かれていないし、
デフォルトでなにかあるわけでもない。単なる白紙であり、そこにこれからさまざまな経験が書きこみされる。そんな白紙のことだ。
最後に哲学者メルロポンティの裂開についてである。いわゆる亀裂であり、空手家がぽにょっという気合で瓦をわるときに生じるあの亀裂。宇宙のすべては肉だという。豚肉、鶏肉とたくさんあるが、ただの肉。つまりかたまり。かたまりに一筋の亀裂発生。亀裂より左右にわけられ、左右は入れ替え可能。どこからどこまでというほんとうに細い亀裂。見ている私と見られているスイカ。ここにも、見る見られるの亀裂あり。触っている手、触られているお尻。お尻が手をさわっているともいえちゃう。ひとのケツをさわるときもこの逆転がおこるというが、なんだか犯罪の匂いがするのでよい子は真似をなるべくしないほうがよい。
まとめ
存在の科学 ホロムーブメント理論 無知の知 全てを知らないことは全てを知っている 狼少女の話
狼に育てられた少女、救出されたとき、狼のような鋭い目つき、俊敏な動きをしたという。最近、ロシアで犬とネコに育てられた少女が捕獲されたという。やはり、犬、ネコ特有のしぐさをするという。
育った環境によって、その動物になる。また、アメリカで育ったひとはその分化、しぐさ、言葉を得とくする。子供は飲みこみが速く、わずかな単語で他の膨大な単語、文法を
マスターするという。
なにゆえ、吸収速度がこれほど速く、ひとが動物にもなりえるか。一なる宇宙のフィルム。ここにある特定周波数のビームを照射してホログラムを作る。自分のホログラムもここで選択される。すでにアプリオリ、先天的にすべてを知っている。犬、ネコ、人間、鳥、その生態、しぐさ、などなどすべてをはじめから知っている。同時に全部知っているから知らないことにも等しい。アプリオリにすべてを知っているということはアプリオリにすべてを知らないこyとに等しい。タブララサという白紙。この白紙はすべての可能性がつまった状態。宇宙のすべての可能性を描くと白紙になる。
脳とは他の臓器にくらべてカタマリ度が激しい。空隙が少ない。東洋医学では泥丸という。脳は固まり、肉の最たるものでそこにはなにも描かれていない。コンパクト化された
携帯宇宙である。この肉に仮想の亀裂をいれる。仮想の亀裂は無数にあるのだが、これっと亀裂を定める。こうやって、見る、みられる、ふれるふれられるの違いなどがうまれ、はては宇宙フィルムへの特定周波数のビーム放射をする。こうやって、特定のホログラムがつくらる。しかも、身体ホログラムである。すでにデータ無しだったのだが、無限データありであった脳はネコのホログラムをつくりだし、ネコになったりする。自分の身体ホログラムはこうやって、つくらるし、言語もまたすべてしっていて、その一部を周波数域でホログラム化しているだけだけだ。旧来からのアプリオリとアポステリオリの区別、先天的と後天的のちがい。じつにアプリオリはアポステリオリ、総合は分析であり、無知とは知であった。