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2009年06月09日

存在の科学  ホロムーブメント理論 すべては存在者 究極的な盲点である他人をホログラム化  営みとは何か

存在の科学  ホロムーブメント理論 すべては存在者 究極的な盲点である他人をホログラム化  営みとは何か

  純粋な有とか、純粋な無というのが果たしてあるだろうか。形があり、色があるもの。これらの存在者は有と無が入り混じっているものだ。存在者はとことん存在者であり、形状がかわるだけで純粋有、純粋無にならないのではないだろうか。いま生存する人間だってその存在者だって、無からでてきたわけでも、無に帰するわけでもない。

  私はなぜ営んでいるのか。そもそも、営みとはなにか。私は洋服を選ぶ。このとき裏地がしっかりしているかどうか、手におって裏返したり、自分自身のからだをうごかして周りこむ。見えないから動き、実践するのである。洋服はがんばれば見えないものを見えるようにできる。ところがとことん見えないものがある。どんなに周りこんでも他人の心は見えない。だから、ここで私の実践は強烈に加速し、ついには飛躍して他人の心にワープする。他人の視点にたって、気遣うのだ。私は実践し、からだうごかし、表情をつくり、しゃべる。これらは他人から見た私を意識しているのだ。実践とは、超越かもしれないが、それがこころの奥底からわきあがる与えられた感情かもしれない。それでも、この感情のでどころは他人だといいたい。私は他人によって自発的に実践しているのだ。他者の欲望をみたすため、ことばで説明。しゃべるというのも、他人から見た私を意識しているではないか。


  人間には盲点がある。一点を片目でみつめると、他の点がみえなくなる。眼球と脳の接続点があるからだ。ところが、小さな羊がその盲点周辺にならんでいる絵をみたとき、なんと、見えないはずの盲点に羊がみえてくる。これは私自身の意識がつくりだしたものだ。それだけでなく,散歩中にみている光景だって、そのほとんどが想像の産物。うっかりスペルのちがいにきがつかなかったり、異変を見逃すのもこのため。私がみているもの、感じているものの50パーセント以上は私自身がつくりだしたホログラムである。

  この盲点はたしかにみえないが、視点をずらせばみえる。それで絶対にみえない究極的な盲点が他人の心なのだ。ここで私は他者の心を強烈にホログラム化するのだが、自分の身体以上のホログラムをつくり、ついには他者のこころと重なる。こうやって他人のまなざしと私は一致して、私は実践し、営むのだ。

 
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仙人養成講座 哲風呂 レヴィナス著、存在するとは別なことでまたは存在の彼方へ、について

レヴィナス著、存在するとは別なことでまたは存在の彼方へ、とアンリの顕現の本質についてである。極端はよくないよ。野球拳でまけたからといって、いきなりパンツ脱ぐのは極端。すいかの皮まで食べてしまう友達、鈴虫の取り分も残しておこう、が彼の今月の目標だ。あるかないか。存在なのか無なのか。そうではなく、じつにそんな白黒はっきり線引きできるものではない。微妙なものなのだ。まゆげのうえあたりを指先で掻く微妙さ加減。その実、中途半端で存在と無が混在。すべては存在者であって、とことん存在者でしかない。

  まずはレヴィナス著、存在することとは別なことでまたは存在の彼方へ、について考える。哲学者フッサールのいう意識の志向性はちょっとジャイアンのような傲慢さだと考える。おれはジャイアンガキ大将というフレーズはこころに染みるが、意識は必ずどこかをむいていてしかも、さまざまな感覚データを強引にまとめる力がある。人参とは色、味、肌触りのすべてをまとめて人参というイメージつくる。こんなことをやっている私は帝国主義的な私だ。正用哲学はそもそも、存在とか無について首ひねって考えてきた。存在そのものってなにか、存在について論じちゃうから存在論。存在とひとことでいっても、ハエ取り紙から地対空ミサイルにいたるまでじつに多様だ。存在者がたくさんいる。それを存在でひとくくりするのもジャイアン風だ。そんな特権をもっている人間。そうではなくて、存在している、無だ、なんていうことのず〜っと手前、またはず〜っと向こうにちがった次元がある。たわしがあり、サンダルがあり、ふたりはついに紆余曲折のカーブをくねくねとまがって結婚。やまちゃんがいて、さいとうさんがいる。ふたりはたしかに存在しているグループにひとくくりにするが、そんな次元はやめようよ。これが存在論ではなく、倫理の次元だという。もはや、さいとうくんとやまちゃんは釣り得意とボクシング趣味というように個性がちがう。ふたりを同じ土俵で戦わせたり、どっちがえらいかを比較できない。釣りとボクシングの異種格闘技戦も無理だ。比較できないなのだから、存在としてひとくくりにできない。こうやって、存在ではなく別のやりかたにすることにした。倫理である。

  ところが、ひとがたくさんいるのだから、ときにひとくくりにしたがる。これが政治である。やまちゃんとさいとうくんはどっちが悪いか天秤にかけちゃう。同じ存在グループにして、裁きをうけちゃうのだ。

 哲学者アンリ著、顕現の本質、ついてである。かって、哲学者ハイデガーは考えた。世の中にはたしかにいろんな存在者がいると。わきの下から発見されたミイラ化したラグビーボール。高校の部活からず〜っとかかえていたのを忘れていた。ラグビーボールに、バレーボール。いろんなミートボールをおまけにつけて、これらは存在者である。存在者は存在しているというのは当たり前。まずは、存在そのものというベース、土台があってこそこのうえに存在者がのっかる。どうやったら、この存在そのものという土台が出現するのか。踏み台ならばホームセンターにありそうだが、存在そのものという土台は私自身が積極的に超越することで出現するという。超越とは飛び出すこと。飛び出せ青春ではなく、飛び出せキンタマでもない。私が私自身から飛び出すのだ。意識している私はもはや意識されている私ではない。こうやって、私は自己分裂をおこして、私自身の存在をかすかに見る。これが存在をなんとなく知っているという存在了解。あくまで、みえそうでみえない存在のかすかな地平線。このうえに存在者が転がっている。


  さて、こんな超越はどこからきたのか。たしかに積極的で自発的な超越攻撃。この超越は超越によってうまれるのだろうか。ここでアンリは考えた。もはや自発的に超越ではなく、全面的にもらい物だという。100パーセントもらった受動性。受身の極地である。こみあがる感情は私が自発的につくったのでなく、どこからかもらったもの。この感情が力となって、ぴょ〜んっという飛び出す赤ひげの原動力になる。これは超越ではなく内在と呼ばれる。


   まとめ

  存在の科学  ホロムーブメント理論 すべては存在者 究極的な盲点である他人をホログラム化  営みとは何か

  純粋な有とか、純粋な無というのが果たしてあるだろうか。形があり、色があるもの。これらの存在者は有と無が入り混じっているものだ。存在者はとことん存在者であり、形状がかわるだけで純粋有、純粋無にならないのではないだろうか。いま生存する人間だってその存在者だって、無からでてきたわけでも、無に帰するわけでもない。

  私はなぜ営んでいるのか。そもそも、営みとはなにか。私は洋服を選ぶ。このとき裏地がしっかりしているかどうか、手におって裏返したり、自分自身のからだをうごかして周りこむ。見えないから動き、実践するのである。洋服はがんばれば見えないものを見えるようにできる。ところがとことん見えないものがある。どんなに周りこんでも他人の心は見えない。だから、ここで私の実践は強烈に加速し、ついには飛躍して他人の心にワープする。他人の視点にたって、気遣うのだ。私は実践し、からだうごかし、表情をつくり、しゃべる。これらは他人から見た私を意識しているのだ。実践とは、超越かもしれないが、それがこころの奥底からわきあがる与えられた感情かもしれない。それでも、この感情のでどころは他人だといいたい。私は他人によって自発的に実践しているのだ。他者の欲望をみたすため、ことばで説明。しゃべるというのも、他人から見た私を意識しているではないか。


  人間には盲点がある。一点を片目でみつめると、他の点がみえなくなる。眼球と脳の接続点があるからだ。ところが、小さな羊がその盲点周辺にならんでいる絵をみたとき、なんと、見えないはずの盲点に羊がみえてくる。これは私自身の意識がつくりだしたものだ。それだけでなく,散歩中にみている光景だって、そのほとんどが想像の産物。うっかりスペルのちがいにきがつかなかったり、異変を見逃すのもこのため。私がみているもの、感じているものの50パーセント以上は私自身がつくりだしたホログラムである。

  この盲点はたしかにみえないが、視点をずらせばみえる。それで絶対にみえない究極的な盲点が他人の心なのだ。ここで私は他者の心を強烈にホログラム化するのだが、自分の身体以上のホログラムをつくり、ついには他者のこころと重なる。こうやって他人のまなざしと私は一致して、私は実践し、営むのだ。

 
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今日の哲学漫談(あさ) 179011654-ja

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宇宙人の哲学漫談(20090115)

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存在の科学   ホロムーブメント理論  無知の知 全てを知らないことは全てを知っている 狼少女の話

存在の科学   ホロムーブメント理論  無知の知 全てを知らないことは全てを知っている 狼少女の話  

  狼に育てられた少女、救出されたとき、狼のような鋭い目つき、俊敏な動きをしたという。最近、ロシアで犬とネコに育てられた少女が捕獲されたという。やはり、犬、ネコ特有のしぐさをするという。
 
  育った環境によって、その動物になる。また、アメリカで育ったひとはその分化、しぐさ、言葉を得とくする。子供は飲みこみが速く、わずかな単語で他の膨大な単語、文法をマスターするという。


  なにゆえ、吸収速度がこれほど速く、ひとが動物にもなりえるか。一なる宇宙のフィルム。ここにある特定周波数のビームを照射してホログラムを作る。自分のホログラムもここで選択される。すでにアプリオリ、先天的にすべてを知っている。犬、ネコ、人間、鳥、その生態、しぐさ、などなどすべてをはじめから知っている。同時に全部知っているから知らないことにも等しい。アプリオリにすべてを知っているということはアプリオリにすべてを知らないこyとに等しい。タブララサという白紙。この白紙はすべての可能性がつまった状態。宇宙のすべての可能性を描くと白紙になる。

  脳とは他の臓器にくらべてカタマリ度が激しい。空隙が少ない。東洋医学では泥丸という。脳は固まり、肉の最たるものでそこにはなにも描かれていない。コンパクト化された携帯宇宙である。この肉に仮想の亀裂をいれる。仮想の亀裂は無数にあるのだが、これっと亀裂を定める。こうやって、見る、みられる、ふれるふれられるの違いなどがうまれ、はては宇宙フィルムへの特定周波数のビーム放射をする。こうやって、特定のホログラムがつくらる。しかも、身体ホログラムである。すでにデータ無しだったのだが、無限データありであった脳はネコのホログラムをつくりだし、ネコになったりする。自分の身体ホログラムはこうやって、つくらるし、言語もまたすべてしっていて、その一部を周波数域でホログラム化しているだけだけだ。旧来からのアプリオリとアポステリオリの区別、先天的と後天的のちがい。じつにアプリオリはアポステリオリ、総合は分析であり、無知とは知であった。


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仙人養成講座 哲風呂 アプリオリ、タブララサ、そして、裂開について

アプリオリ、タブララサ、そして、裂開についてである。犬にそだてられたら犬のようになる。カタツムリに育てられたらカタツムリのようなしぐさをするようになる。学習とか、教育というのは大切である。親の顔をみてみたいというが、ケツをみてみたいとはいわない。かつおくんだっておやじそっくりではないか。しかも、日本で育てばこどもは日本語ぺらぺら。アメリカ人の小学生はなんとふつうに英語しゃべれる。どこで駅前留学したのだろうか。子供は天才であり、飲みこみが速い。なにゆえわれわれは人間になり、日本語がしゃべれるようになったのかをホログラム理論から解明したい。

  アプリオリという哲学用語がある。アプリオリとは先天的ということ。おぎゃっとうまれてからすでに知っているもの。おまえはもうすでに知っている、とケンシロウ。これに対して、アポステリオリというカタカナの羅列がある。これは後天的ということ。ねじり鉢巻でがんばって学習。うまれてから、経験的に学んだことだ。

  さて,アプリオリといっても、微妙に意味合いがいろいろある。時間的に先立っている、時間的にむかしから知っているという意味。これはとりわけ、生物学でつかっちゃう。あしのかかとの皮をむいて、遺伝子を双眼鏡でみてみる。この遺伝子はうまれたときにすでにあった。親からロハでもらった遺伝子だ。哲学ではむしろ論理的に先立つものといった意味で使われる。理屈のうえでぜんぜんがんばって目をみひらいて認識することはないもの。すべてのうんこは臭い。これはアポステリオリであり、残念ながら匂ってたしかめるしかない。ところが、すべてのうんこは臭いか、臭くないかのどっちかだ、とつぶやいてみる。これこそ論理的に先立っているアプリオリなものだ。なにもせずに目隠し状態で、その通りあたっております、と即答できる。


  哲学者カントはたしかに目でみて鼻でにおって感覚情報を得る、つまりはアポステリオリに後天的にデータ吸収をおすすめ。このデータをまとめるだんとなって、はじめから用意されていた枠組につめこむ。これがカテゴリーであり、カテゴリーはアプリオリだという。


   一方、アプリオリなんてクソ食らえ風な哲学もあった。哲学者ロックの経験主義である。もともとうまれたときはこころは白紙、そこに学んでいろいろと書きこまれていくという。

  現代においてはウィトゲンシュタイン。いつもおもうが、名前にカタカナ多すぎ。アプリオリな分析はあるけど、アプリオリな総合なんてないという。じいさんは歳よりである、と科学者が発表。当たり前であるが、主語のじいさんにすでに歳よりという性質がふくまれているから、分析的に取り出しただけ。じいさんはばあさんを飛び越える。これはじいさんという主語には内蔵されていない新機能。よって、外から付け加わった総合である。

  クワインはアプリオリなんてないし、しかも、分析も総合もそんな律儀な分け方なんていらないと考える。じいさんは歳より、というのは分析ともいえるが、何歳以上がじいさんなのかは、別途、宇宙のどこかで説明してほしい。要するに、一見、分析かなというものであっても、総合だったりする。

  哲学者ロックのタブララサについてである。タブララサとは、うまれたてほやほやの赤ん坊のこころ。こころにはなにも書かれていないし、デフォルトでなにかあるわけでもない。単なる白紙であり、そこにこれからさまざまな経験が書きこみされる。そんな白紙のことだ。

  最後に哲学者メルロポンティの裂開についてである。いわゆる亀裂であり、空手家がぽにょっという気合で瓦をわるときに生じるあの亀裂。宇宙のすべては肉だという。豚肉、鶏肉とたくさんあるが、ただの肉。つまりかたまり。かたまりに一筋の亀裂発生。亀裂より左右にわけられ、左右は入れ替え可能。どこからどこまでというほんとうに細い亀裂。見ている私と見られているスイカ。ここにも、見る見られるの亀裂あり。触っている手、触られているお尻。お尻が手をさわっているともいえちゃう。ひとのケツをさわるときもこの逆転がおこるというが、なんだか犯罪の匂いがするのでよい子は真似をなるべくしないほうがよい。

  まとめ

 存在の科学   ホロムーブメント理論  無知の知 全てを知らないことは全てを知っている 狼少女の話  

  狼に育てられた少女、救出されたとき、狼のような鋭い目つき、俊敏な動きをしたという。最近、ロシアで犬とネコに育てられた少女が捕獲されたという。やはり、犬、ネコ特有のしぐさをするという。
 
  育った環境によって、その動物になる。また、アメリカで育ったひとはその分化、しぐさ、言葉を得とくする。子供は飲みこみが速く、わずかな単語で他の膨大な単語、文法をマスターするという。


  なにゆえ、吸収速度がこれほど速く、ひとが動物にもなりえるか。一なる宇宙のフィルム。ここにある特定周波数のビームを照射してホログラムを作る。自分のホログラムもここで選択される。すでにアプリオリ、先天的にすべてを知っている。犬、ネコ、人間、鳥、その生態、しぐさ、などなどすべてをはじめから知っている。同時に全部知っているから知らないことにも等しい。アプリオリにすべてを知っているということはアプリオリにすべてを知らないこyとに等しい。タブララサという白紙。この白紙はすべての可能性がつまった状態。宇宙のすべての可能性を描くと白紙になる。

  脳とは他の臓器にくらべてカタマリ度が激しい。空隙が少ない。東洋医学では泥丸という。脳は固まり、肉の最たるものでそこにはなにも描かれていない。コンパクト化された携帯宇宙である。この肉に仮想の亀裂をいれる。仮想の亀裂は無数にあるのだが、これっと亀裂を定める。こうやって、見る、みられる、ふれるふれられるの違いなどがうまれ、はては宇宙フィルムへの特定周波数のビーム放射をする。こうやって、特定のホログラムがつくらる。しかも、身体ホログラムである。すでにデータ無しだったのだが、無限データありであった脳はネコのホログラムをつくりだし、ネコになったりする。自分の身体ホログラムはこうやって、つくらるし、言語もまたすべてしっていて、その一部を周波数域でホログラム化しているだけだけだ。旧来からのアプリオリとアポステリオリの区別、先天的と後天的のちがい。じつにアプリオリはアポステリオリ、総合は分析であり、無知とは知であった。


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