2008-03-15 プラットフォーム論、ね
■プラットフォームと宗教
だいたい最初からプラットフォームとか意識し過ぎている戦略って、まず失敗する。Netscapeもブラウザをつくっていた頃は堅実な商売をしていたのに、Netcasterでデスクトップを乗っ取るとか、プラットフォームになろうとし始めた辺りからおかしくなった。NGNは何かのプラットフォームになろうとしていたっぽいが、高価で最新のルータを買い揃えた割に既存のBフレッツと比べて何が違うか分からないし。プラットフォーム戦略が成功したといわれる某社でさえ、頭でっかちに最初から何とかプラットフォームとか呼ばれた諸々は概ね失敗しているから検索してみるといい。
いやいや、おたくの会社の初期の成功製品、MS-DOSがまさに最初からプラットフォーム商品じゃないの、という定番のツッコミはともかく、ふむ、プラットフォームって最初から言うな、とな。
僕はもうこの話にはまるで反対。どちらかというと、プラットフォームとしてきちんと設計されていなかったものをあとからプラットフォーム化しようとするときに論理的・技術的な"ひずみ"が出てくる。
そもそも大成功した製品は全てプラットフォームを意識して設計されている。
ゲーム業界の歴史でいえば、Atariがしかり、ファミリーコンピュータしかり、PlayStationが然りだ。こういう大成功の例をまるきり無視して、最近のお役所的、官僚的なガッカリプラットフォームの話だけを取り出して「プラットフォームって言うの禁止」というのは少々短絡的に感じる。
たとえばi-modeが最初から課金プラットフォームとして設計されていなかったら、今のコンテンツの隆盛はないし、ドコモがマイクロソフトに匹敵する売上高を誇るのは、i-modeプラットフォームの成功と無関係ではない。その証拠に、親会社であるNTT東西は惨憺たる結果だ。
プラットフォームと言う言葉が空洞化して使われているのではないかという危惧は理解できる。
しかし、単純にいえば、プラットフォーム製品は、そうでない製品よりも、圧倒的に失敗確率が高いのだ。
なぜなら生き残るプラットフォームは常にひとつかふたつしかないからである。
VHSとベータ、DVDとVideoCD、ブルーレイとHD-DVD、熾烈な競争を勝ち残ってきたものだけが真のプラットフォームとなれる資格を有するのである。
MS-DOSとWindowsで盤石な地位を築いているかのように見えるマイクロソフトですら、いくつかのプラットフォーム製品で失敗している。
DVDでイニシアチブを握った東芝も、ブルーレイに敗北を喫している。
95年当時にまさかソニーが任天堂よりもメジャーになると思っている人はいなかっただろうし、00年当時にソニーが再び任天堂に後れを取り、Xbox360に苦戦するなどと想像する業界人は皆無に等しい状態だった。
プラットフォーム製品は単に最も難しい製品というだけである。
そして、範囲を広げれば広げるほど、それは万能プラットフォームという、ベイパーウェアに近づいていく。特にid:mkusunokが参加しているようなコンソーシアムが作ろうとするプラットフォームであればなおさらのことだ。
成功したプラットフォームの多くがプロプライエタリな作られ方をしている。
プラットフォームとは、最新の宗教である。
「こうすれば良くなるはずだ」という共通認識を信じて、世界観が作られていくはずのものである。
合議制の宗教がにわかに成功しない*1のと同じように、カリスマのいないオープンプラットフォームは進行が遅い。
ANSIやISOで標準化されているCにしろLispにしろ、Rubyにしろ、発明者が誰なのかは明らかだ。彼*2が、ひとつの宇宙観を作り上げ、宇宙における価値観を語り、それを信奉する信者の数々が導かれるのである。求めよ、されば与えられん。
実際のところ、プラットフォーム論争は宗教論争とも言われる。
ある宗教を信奉している人から見れば、他方の宗教は異教徒、異端者に見える。
異端に寛容な宗教もあれば、異端者を殲滅しようとする宗教もある。そういうあたりが、実に"らしい"のだ。
成功する宗教を作るのが難しいのと同様、成功するプラットフォームを作るのは容易なことではない。
ただ幸いにしてプラットフォームは技術進化の影響を受ける。プラットフォームをさしずめ宗教にたとえるとすれば、巨大な現代科学教における小さな宗派の小競り合いに過ぎない。
どちらにせよ、プラットフォームとはそれを信奉する者に幸福を与えるという意味で、本質的に宗教であると思う。
私がまつもとから学びたかったのは、オープンソース開発に参加する人々の動機についてだった。まつもとはクリスチャンでもあるので、信仰とオープンソースの関係、利他的な気質や奉仕の精神がオープンソース世界でどれだけの意味を持っているのか、といった問いを通して、参加者の動機の本質を探りたかったのである。
(中略)
信仰とオープンソースの関係についての彼の考えは次の三点に集約された。(1)「Ruby」が欧米で受け入れられる段階において自らのキリスト教文化への理解が一助となったことは確かである (2) クリスチャンとして恥ずかしくない言動をと常に意識していることは、不特定多数を相手とするコミュニティ運営において好影響を及ぼしている (3) しかしリーナスは無神論者だし、信仰のオープンソースへの影響は副次的である。
奇しくも、Rubyのまつもとゆきひろ氏が敬虔なクリスチャンであることがキリスト教文化への理解ということにつながり、それが欧米での成功に繋がったという認識があるということが示された。
宗教は、そこで立ち止まってしまったら終わりだ。
プラットフォームは、その果たすべき目的が、信者の利益に供するものであるということを認識して作らなければならないと思う。
合議制にすると、参加者、参加企業それぞれの思惑で綱引きになり、結局のところ信者の利益よりも幹部の利益を優先しがちになるのである。
そういうにおいを感じ取ると、信者は付かない。インチキな宗教だとすぐにばれてしまう。
たった一人でいい。熱烈にそのプラットフォームに命を捧げる覚悟で情熱を注ぎ込み、本気でその思想の優位性を信じ、実現に尽力する。
その思想が真に優れたものであれば、その一人の熱意ある信仰が他者に伝搬し、それがグループとなり、勢力となり、デファクトスタンダードとなって広がっていくはずだ。
プラットフォームをつくるときに、自分の都合を優先して考えてはいけない。
ただそれだけのことだと思う。
*1:"科学"はある意味で最も成功した合議制の宗教と言える
*2:彼または彼女、と続けようとしたが、コンピュータ言語の歴史には残念ながらぱっと思いつく限り男性ばかりが登場するのである。例外はオーガスタ・エイダ・ラブレスだけだが彼女の考案した言語は実用化には至らず、名前のみが残っている
- 272 http://ariel.s8.xrea.com/
- 183 http://ariel.s8.xrea.com/index.htm
- 125 http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080315/ms70s
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