| 竹島メモ > 日本側の文献 > | |
| 長久保赤水の「日本輿地路程全図」と、それ以後の同系列の地図 |
|
長久保赤水日本輿地路程全図 安永4年1775年の簡略版 |
|
|
1779年(安永八年)に作成された長久保赤水の「日本輿地路程全図」 堀和生氏や崔書勉氏の説では、「日本輿地路程全図」では、 「日本本土とその付属地には全て彩色を施しているが、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島(独島))は、朝鮮半島とともに彩色していない」ので、「日本輿地路程全図」では鬱陵島と竹島を朝鮮領と見なして描かれたのだ、と言う。 ところが、実際に「日本輿地路程全図」を見ると、崔書勉氏の主張には根拠がない事が解る。 日本の付属地で彩色がなされていないのは、鬱陵島や竹島だけではない。 鬱陵島や竹島と同様に、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色が施されていない。 しかも沖永良部島には「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久保赤水が沖永良部島を日本領としている事が解る。 これから言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたかどうかは、彩色の有無だけでは判断が出来ないという事である。 そのことは、1852年(嘉永五年)、鈴木驥園が長久保赤水の「日本輿地路程全図」を改訂して刊行した「増訂大日本国郡輿地路程全図」からも裏付けられる。 そこでは、竹島、松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色が施されているからである。 また、もう一つ重要な事実がある。 長久保赤水が日本輿地路程全図等の作成過程で最も参考にしたのは、森幸安の「日本分野図(1754年)」だと考えられている。 そして、この日本分野図には竹島(鬱陵島のこと)が描かれている。 しかも隠岐から鬱稜島までの航路入りである。 森はおそらく竹島を日本領として描いたのだろう。 (松島が載っているかどうかは未確認)。 長久保はこの「日本分野図」に「隠州視聴合記」の記述を加えて地図を作成した。 それは長久保赤水の「日本輿地路程全図」に描かれた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に「見高麗猶雲州望隠州(高麗を見る事、猶雲州より隠州を望むが如し)」という付記がある事からも解る。 この付記は齋藤豊仙の「隠州視聴合記」からの引用である。 隠州視聴合記は鬱陵島が日本領と考えられていた時代の記録である。 それから、竹島一件後も鬱陵島が依然として日本領であるという認識もあった。 この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していた事は明らかである。 崔書勉氏や堀和生氏は、「日本輿地路程全図」に付記した長久保赤水の見識を無視して、彩色の有無だけを問題にしていたのである。 |
|
| 長久保赤水の日本興地路程全図(安永4年−1775年)に依拠している系列としては、 1811年(文化 8年) 浅野弥平衛の 「日本国図」 1864年(文久 4年) 恵比寿屋庄七梓の 「大日本海陸全図」 1869年(明治 2年) 葎■貞雅の 「大日本海陸全図」 1872年(明治 5年) 中島彭の 「日本興地全図」 1882年(明治15年) 木村文造の 「銅板朝鮮国全図」 等のこれら地図は、隠岐寄りに松島、朝鮮寄りに竹島を描いているが、その形や配置から見て、江戸時代中期以降の日本図の系統を踏襲している。 葎■貞雅の 「大日本海陸全図」では、高麗其余雲州隠州ヲ望見ル 或磯竹島と注記して 中島彭の 「日本興地全図」は見高麗猶雲州望隠州一二磯竹島と注記し、長久保赤水の日本興地路程全図によっている事が解る。 また、欧米の地理的知見が入っても、相当後世まで残っている。 1894年(明治27年) 宗孟寛の 「日清韓三国興地全図」 1900年(明治33年) 青木恒三郎編の 「日清韓三国大地図」 などがある。 また、欧米の地理的知見を元にした地図としては、 1861年(文久元年) 佐藤政養が、オランダの地図(1857年のセ・フ・ステムレルs.f.stemmlerから出版)を基礎として制作したメルカトール図式による「新刊興地全図」がある。 ここでは、ダジュレー島(鬱陵島)に該当する日本海の島にタケ島という名を与えている。 1867年(慶応3年) 勝海舟識 「大日本国沿海略図」 これは、「観英国所刻東洋測量図」と注記されてあるように、当時の新しいヨーロッパの地理的知見を取り入れている。 |
|
|
竹島は日韓どちらのものか 下條正男著を基に改編 2004年11月20日 |
|