人間の尊厳を取り戻す時 

 その2                              
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  現地調査で知った意外な事実

 一九九五年夏、ぼくは渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「恩納ガーラ」に向かった。だが、金城さんは、ここは恩納ガーラではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。ぼくは『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回つた。渡嘉敷村落の西側の避難場所恩納ガーラには古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。

 ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側のウァーラヌフールモーに集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。ウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死'ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我もと手榴弾のピンを抜いたが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。

 村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の爆弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵土らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下きい」と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らほスゴスゴと二手に分かれて退散した"だが、午後八時過ぎ。ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、"玉砕"はなかったからだ。陣中日誌は記す。三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者。棒で頭を打ち合った者。刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」

 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」
 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」
 ぼくほこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えほ突然やってきた。

 パンドラの箱を開げた宮城晴美さん
 一九九五年六月下旬、沖縄夕イムスの文化欄に座間味出身の宮城晴美さんが「母の遺書――切り取られた"自決命令"を発表した。凄まじい衝撃波が走った。座間味村女子青年団長であった晴美さんの母初枝さんは、戦後、『家の光』誌で「住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人、予供は村の忠魂碑前に集合して玉砕すべし、との命令が梅澤裕隊長から出された」と記していたが、その部分は"嘘"だった、というのだ。「母はどうして座間味の"集囲自決"が隊長命令だと書かねばならなかったのか」晴美さんは説明している。

 一九四五年三月二十五日。その夜、初枝さんに「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いた。初枝さんはその伝令を含め、島の有力者四人と共に梅澤隊長に面会した。意味もわからぬまま、四人に従っていったのだ。有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「最後の時がきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」というものだった。初枝さんは息も詰まらんばかりのショックを受けていた。隊長に"玉砕"の申し入れを断られた五人ほそのまま引き返した。初枝さんを除いて四人はその後自決した。
 梅澤さんはこの場面について大城将保さんへの手紙(一九八六年三月の沖縄資料編集所紀要の中で次のように記している。「二十五日夜十時頃、戦備に亡殺されていた本部壕へ村の幹部が来訪してきた。助役宮城盛秀氏。収入役宮平正次郎氏。校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏および女子青年団長宮平(現宮城)初枝さんの五名。その要件は次の通りであった。一、いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。ニ、老幼婦女子はかねての決心の通り、軍の足手まといにならぬよう、また食料を残すため自決します。三、つきましては一思いに死ねるよう、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。私は愕然とした。私は答えた。一、決して自決するでない。軍は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食料を運んであるではないか。生き延びて下さい。共にがんばりましょう。ニ、弾薬は渡せない。しかし。彼らは三十分ほども動かず、懇願を続け、私はホトホ卜困った。折しも艦胞射撃が展鬨されたので、彼らは急いで婦って行った。」

 晴美さんのコラムは梅澤さんの手記が正しかったことを裏付けたのだ。戦後、沖縄に援護法が適用されることになったが援護法は本来。軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。そこで村当局は「隊長の命令で自決が行われており、亡くなった人みは戦争協力者として遺族に年金を支払うべきだ」と主張したと初枝さんほ晴美さんに残した手記で記していたのだ。
 そうか、そうだったのか。ぼくの自の前で霧が晴れ、全てがはっきり見えてきた。厚生省は一般往民の戦死者でも戦闘に協力した者定は「年金」を支給するという条件を出してきたため、・・・
 
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