人間の尊厳を取り戻す時――誰も語れない”集団自決 の真実――(『うらそえ文藝』14号2009.5月)
その1 上 原 正 稔 ホームへ
はじめに ―― ぼくはこの二十数年、戦争を「人間が試される究極の舞台」として物語を書き、読者に伝えてきた。だから、反戦作家ではない。それどころか、ぼくは戦争の物語から「人間とは何か、そして自分とは何かを知ろうとしてきた。そして人間について多くのことを学んだ。
人はよく戦争とは醜いものだと言う。だが、ぼくは最も醜いはずの戦争の中に最も美しい人間の物語を発見し、それを読者に紹介してきた。暗黒の世堺に一条の光が差し込むと、その希望の光は真夏の太陽よりも眩しいものだ。米須清一、グレン・ネルソン、グレン・スロータの三人組が洞窟に隠れている住民数千人を救出した話、轟の壕で玉城朝子さんという美しい女性が数百人の住民と兵土を説得し、投降させた話など例を挙げればキリがない。ぼくは数々の戦争の物語を伝えてきたが、まだ伝えていない大切な物語がある"それは慶良間の"集団自殺"の話だ。そこには誰も語らない、語れない物語がある。そこには、"希望の光"が残されているのだろうか。
慶良間の"集団自決"をめぐる論争
今、沖縄でほ沖縄夕イムスと琉球新報が「慶良間の集団自決は軍命令によるものだ」というキャンペーンを張り、ほとんどの読者は「赤松と梅澤が自決を命令した」と思い込んで「安心」している。この問題は、渡嘉敷の海上挺進第三戦隊長であった故赤松嘉次さんの弟、秀一さんと座間味の海上挺進第一戦隊長であった梅澤裕さんが「自決命令を出していない」として、その名誉を傷つげたとする「沖縄ノー卜」の著者大江健三郎さんと出版社の岩波書点を訴えたことに起因する。だが。その真の原因は五十年間のロングセラーを続けている沖縄タイムスの『鉄の暴風』に在ることは誰の目にも明らかだ。
一九五〇年沖縄タイムス、後に朝日新聞は『鉄の暴風』を発刊した。この本によって「赤松大尉と梅澤少佐は集団自決を命令した極悪人」であることが「暴露」され、そのイメージが定着した。一九七〇年、曽野綾子さんが赤松さんら第三戦隊の隊員らに取村し、現地調査を行い、『ある神話の背景』を著(あらわ)し、「赤松嘉次さんは集団自決を命令していない」と発表した。だが、沖縄の人々が曽野綾予さんの真実の言葉に耳を傾けることはなかった。ぼくもその一人だった。ちょうど、孵化したばかりの雁の雛が、最初に自にした動物を母親だと思って、ついて行くように、若い頃植え付けられた先入観を払拭することは困難なのだ。
神もおののく集団自殺
ぼくほ一九八五年・タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2情報部のG2サマリーを中心にした「沖縄戦日誌」を連載し、その中で二ューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷住民の"集団自殺"を発表した。その要旨は次のようなものだった。
――神もおののく集団自殺――三月二十九日発。昨夜我々第七十七師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。手瑠弾が七、八発爆発した,偵察に出ようとすると闇の中から狙い撃ちにされ、一人は傷を負った。我々は朝まで待つことにした。その間、人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。ようやく朝方になり小川に近い狭い谷間に入った。何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の予供たちの泣き声だけだった。そこには二百人ほどの人がいた。(注:第七十七師団G2リポートは二百五十人と記録している。)そのうちおよそ百五十人が死に、死亡者の中に六人の日本兵(*)がいた。死体は三つの小山の上に束になって転がっていた。およそ四十人は手瑠弾で死んだと思われる。周囲には不発弾が散乱していた。木の根元にほ、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる三十五歳ほどの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、前かがみになって死んでいた。自分で自分の首を絞め殺すことは全く信じられない。小さな少年が後頭部をX字型にざっくりと割れたまま歩いていた。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを注射し、痛みを和らげてやった。全部で七十人の生存者がいたが、みんな負傷していた。残った人々はアメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると、驚きの目で感謝を示し、何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今、気づいたのだろう。自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(*)が割り込んできた時、彼らは日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵が保護してやった。なんとも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から、泣き崩れた。
――以上が一九四五年四月二日のニューヨーク・タイムズが報じた渡嘉敷住民の集団自殺の要旨だ。だが、ぼくはこの記事を公表した時点で気付かなかったが、※印を附した日本兵とは実は防衛隊員であったことを知ったのは一九九五年春と夏に渡嘉敷島に渡つて現場調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。その前年の一九九四年、ぼくは戦後五十周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるため「おきなわプラス五〇市民の会」を組織し、その活動の中でデイブ・ダーベンポートさんから渡嘉敷の「集団自殺」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それは衝撃的なものだった。一九九六年六月、ぼくはそれを「沖縄戦ショウダウン」と題して琉球新報紙上で発表した。その一部を次に紹介しよう。
―― 一九四五年四月二七日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で三人の日本兵を射殺し、目的地に塔くと着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。そのこ出くわした。川は干上がり、広さ十メートル、深さ三メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや住民の中で手榴弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。年配の男たちが小っちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だつた。狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。医療班がかけつけ、全力を尽くして生き残った者を手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。――
この阿波連のウフガー上流の集団自殺については、今進行中の「集団自決裁判」でも表に出たことがなく、タイムスも新報も全く触れていない。だが、第三戦隊陣中日誌は記す。「三月二十九日―悪夢のごとき様相が白日眼前に晒された。昨夜より自決したる者約二百名(阿波連においても百数十名自決、後判明)」。グレン・シアレスさんの手記を見事に裏付けている。
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