Hatena::Diary

思索の海 このページをアンテナに追加 RSSフィード


2008-05-19

[][]「「予言成就」コメント欄の続き」コメント欄の続き

 というわけで第三弾です。

  1. 予言成就 - 思索の海
  2. 「予言成就」コメント欄の続き - 思索の海

 なんでこうやって新しいエントリを立てなければいけないのか、という説明は2の方に書いてあるので、そちらをどうぞ。

 あと、僕が最後にコメントした後のやりとりはあまりフォローできていませんので、本当は僕が反応した方が良いやりとりもすでに出てきているかもしれないのですが、もうしばらくお待ちください。

 とりあえず、投稿後反映されていなかった黒猫亭さんのコメントを最初にこちらのコメント欄に転載しておきます。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/19 12:11 参考
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080417/1208428856
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20080418/1208523239

解釈の振れ幅が大きいものは省きましたが、それほど多いものではないでしょう。確認してみると、kojitaken さんのところにたんぽぽさんがコメントされた例は、取り立てて言うほど頻繁だったとは言えないようですね。前掲URL以外だと、二、三例しかありませんでした。

とりあえず、前掲の一連のエントリーにおいて、そちらが引用しておられるような性格の会話が交わされたものとオレは考えています。多い少ないというのは相対基準ですから異論もおありになろうかと存じますが、オレの感覚では、普通これは多くの人から視て「多い」部類であろうと考えます。

そういうわけで実例を示しましたので、少なくとも「虚偽の記述を行った」というご批判についてはご容赦戴けるものと期待します。あとは「その記述内容が妥当であるか否か」という問題になりますね。この部分に関しては、何故そのような記述が為されたのかという文脈に沿ってお考え戴きたいと思います。つまり、そちらが引用された記述の要件それ自体が悪いとか悪くないという話ではないということです。

誤解のないように申し添えておきますと、政治というのは少数の代表者に権限が委任されて執行されるものである以上、主に人を指向するアートですから、政治的言説における批判で人格の部分(思想・信条や身辺の不正などがその代表ですね)に言及することが不可避な場合があることは理解しておりますし、何処までが人格批判で何処までが言説批判か単純に割り切れない部分もあるでしょう。かく言うオレ自身が「誰某はこれこれこういう人物である」というふうに、他者を批判する場面で相手の人格の部分に及ぶ言明を行うことは何度もあります。

一応ズレのないように事前に用語の意味を確認させて戴きますと、「人格批判」「人格攻撃」という場合に共有されるべき意味としては、「論争相手という人格」に対する批判・攻撃という意味に用いるのが一般的であるかと思います。つまり、論争相手の性格や思想、個性、品格、外見、人間関係、主体としての当人自体というような定性的側面を批判・攻撃するのが人格批判・人格攻撃ということになります。

対するに、論争相手の個別の発言や行動を切り出して批判するのが言説批判ということになろうかと思いますし、言説それ自体には主体としての「人格」などありませんから「言説攻撃」という言葉は擬人化表現以外では一般的ではありませんね。

「攻撃」というのは、主体としての人格を想定するから成立する概念であろうかと思いますので、「人格攻撃」という言葉は「人格」と「攻撃」という二つの概念が不即不離で支え合って成立しているものだと考えます。

一通りざっくりネットを見回してみましたが、おおむねこういう意味で用いられているようで、オレの認識に一般的見解とのズレはないと思います。「法的人格」などという場合と同様のニュアンスで「人格」という語が機能しているわけですね。

このうち、「批判」というのは言説の具体的内容に依拠することですから、具体的に発言の内容を視ていくべき事柄で、「攻撃」というのは害敵行為一般ということですからその言説が論争相手に纏わる定性的要素に対する攻撃として機能しているかどうかを視ていく必要がある。つまり、人格批判一般は人格攻撃になるが、言説批判でも文脈次第では人格攻撃になる、という関係で括ることも可能です。

そして、人格批判と言説批判は定義上は別物ですが、具体的な発話を視ていく場面では単純に弁別することは出来ないと思います。その意味で人格批判だから、人格攻撃だから一概に良くないと断ずることは出来ないでしょう。

この場合に問題なのはその頻度と、罵倒に近い人格攻撃を専ら行う相手に対する同種の人格攻撃の応酬であること、また、騒動の第一当事者であるたんぽぽさんとの対話における発言であり、お二方の会話の基本的な性格を規定する要件であること、というふうに言えるかと思います。それを問題視する筋道については、一連のコメントにて語っておりますので、長たらしくてお手数ではありますが、ご参照戴ければ幸いです。

便宜上結論だけを手短に纏めると、それは「何故この騒動は政治ブログ領域の問題と見做し得るのか」および「何故いつまでもこの『私闘』は終わらないのか」という問題性の下に、その原因を探る論考の過程で出てきた要件です。

当初オレはそれを、前のエントリーのコメント欄で、

>>で、当のたんぽぽさんたちは、エントリーを挙げて語るような表向きの論においてはともかく、お仲間たちとの砕けたコメントの遣り取りにおいてはやっぱり揶揄的な調子で論敵の人格攻撃をしているわけで、誰もそういう人格攻撃の連環を止めようとしない。

というふうに論評しておりましたから、この記述ではたんぽぽさんを中心として広く批判派の方々全般の傾向というニュアンスが強かったのですが、詳しく皆さんのブログ上の対話を確認してみると、それはとくにkojitaken さんとたんぽぽさんの会話において顕著に発生する印象であると認識するようになりました。勿論これは、他の方のご発言にそのようなものが一切なかったという意味ではありません。

また、たんぽぽさんのブログで皆さんが指摘されていたように、現時点での批判派の主要な顔ぶれは事実上正月の時点と大半入れ替わっているので、「たんぽぽさんたち」というアバウトな括り方が誤解を招かないように、過去の記述を修正する必要を覚えたわけです。

さらに精査すると、たんぽぽさんご自身は全体の割合で視て剰り頻繁に人格批判を口にされていたわけではなく、たんぽぽさんとの会話に関係したkojitaken さんの発話に多くそのような性格のコメンタリーが含まれており、たんぽぽさんはそのような発言をそのまま受けてご意見を語られるから同調したような印象が発生すると視たわけで、その部分に関してはたんぽぽさんに申しあげたような形に記述を修整したという次第です。

「何故いつまでもこの『私闘』は終わらないのか」という部分の理路に関しては、たとえばNarrさんの語るコミュニケーション論なども参考になると思うのですが、或る特定の振る舞いが相手にどのような印象を与えるのかという論点も、この一件を考察する場面では十分在り得るのですね。

単に、たんぽぽさんの水伝批判を直接蒙った当事者(及びその利害を代弁する者)にはそれを論じ得る立場上の正当性がないというだけのことで、たとえて言えば、叱られている当人に叱り方に文句を附ける資格はないというだけの話です。水伝を巡る問題それ自体に関してはぶいっちゃんさんの側が主張を取り下げられたのですから、こういう比喩でもあながち的外れではないでしょう。

しかし、騒動における直接批判の非当事者的立場に立つ論者には、そのようなコミュニケーション論の視座に立つことに何ら問題はないと思います。或る意味では、現在の批判派の方々の多くはそのような立場に立つ論者だと言えますね。立場的な側面がクリアされた上で、敢えてたんぽぽさんの行為を支持しているという形になります。

で、いろいろな議論を拝見すると、何故かこの部分が不分明なまま論じられていると感じるのですが、「たんぽぽさんはkojitaken さんの意を受けてぶいっちゃんさんを攻撃した」という「疑惑それ自体」は別段不当なものではないのですね。

たんぽぽさんのほうは特段攻撃の動機を持っていないが、kojitaken さんは持っているわけで、それはご自身の証言で裏附けられています。そのkojitaken さんとたんぽぽさんが協力してぶいっちゃんさんを攻撃していれば、可能性としてkojitakenさん の教唆でたんぽぽさんがぶいっちゃんさんと論争されたと考えること自体は別段馬鹿げた発想ではないわけです。

表向きの言論の観点で重要なのは、お二方がそれを否定されている以上、そのような教唆関係が実証されない限りは、疑惑だけで事実として公言する権利など誰にもないということで、まあそれを実証することはお二方ご自身がそのように証言なさらない限り不可能でしょうから、表向きにそれを事実として踏まえて批判する行為は不当だということになります。例のニセメール問題のように、kojitaken さんがたんぽぽさんに直接依頼するメールでも出てくれば別ですが、それはそれで信書の扱いとして大きな問題がありますから、お二方の証言以外に立証不能な事柄だと断じてよいでしょう。

さらに言えば、それをどの程度信憑性のある疑惑であると判断するのかというのは、お二方の間にそのような関係が成立し得るか否かに関する「直観的な見込み」の問題であるということになります。

オレ個人は「直観的な見込み」として、たんぽぽさんがさほど親しいわけでもない人間の言う通りに行動するような方だとは思わないから、そのような教唆関係はまず在り得ないと考えますが、それは飽くまでオレ個人の人物観に過ぎませんから、そう考えない人がたくさんいてもそれが不当だとまでは思わない。

何故なら、教唆関係を想定することで辻褄の合う部分がかなりあることもまた事実だからで、当人たちの証言以外否定材料がないし、本当だったら当人がそれを認めるわけがないという言い方も出来るわけですから、一面ではこの疑惑は状況の合理的解釈として無矛盾であるとも言い得るわけです。

それ故にこの場合問題なのは、当人たちが否定していることを証拠もなく事実であるかのように表向きに言挙げすることのみであって、教唆関係を疑うことそれ自体の妥当性は個々人のお二方に対する見方のみに依拠する問題である、というわけです。

勿論、誰が何をどう疑おうが自由ですが、疑わしいからと言ってそれを事実だと公言していいというわけではない。しかし、逆に言うとそういう手続論の問題に過ぎないという言い方も出来るわけです。そうすると、ここに非常にややこしいコミュニケーション上の問題が発生するわけで、教唆関係を想定すればいろいろなことに説明が附く二人の人物が、表向きはそれを否定しながらも、正月から続くこの騒動に一貫して中心的に関与し続けている「唯二人の人物」でもある、ということになります。

これはもう、そのような関係は成立しないだろうという別の観点からの見込みを抱いていない人間の心証で言えば、「真っ黒」ということになります。さらに不都合なのは、お二方はそのような疑惑を抱かれている直接当事者ですから、証拠もなく事実であると言い張る行為のみならず、そのような疑惑を抱くこと自体も批判する立場にあるということで、何故ならこの件に関するお二方の真意を識り得るのは当事者であるお二方だけだからであって、ここまで来るとウロボロス的というかフェニキア人的な自己言及の関係性が重畳しすぎて大概の人が混乱します。

あらためて整理致します。お二方はおそらく事実において教唆関係にはないでしょうから、そのような疑惑を「事実ではない」と証言すべき当事者的な立場にありますよね。それと同時にらんきー派に対する批判者としては、「証拠もなく当人が否定していることを事実だと公言する行為」をもまた客観的に批判すべき立場にあるわけですよね。

しかし、そのような批判を行っている当のお二方は、仮に事実において教唆関係にあった場合にはそれを否定することで利益を受ける唯一の直接当事者でもあり、その証言以外に教唆関係を否定する材料もないわけで、原理的に言って真相がどうであれお二方の証言は同じものでしかないだろうと想定されるわけですから、客観的な弁別の基準としては採用出来ないわけです。

さらに付け加えるなら、kojitaken さんはご自身のご発言によれば、ぶいっちゃんさんや他の方々を攻撃されるのは、ぶいっちゃんさんが水伝を喧伝するようなコメントを書かれたこと自体が直接の動機ではないのだし、他の方についてもそれぞれ本件とは別の動機において敵視した上で、その目的性の下に攻撃されているということになります。これはつまり、敵対関係ありきの関係性なのですから、敵対する相手に有利なことやご自身に不都合なことは正直に証言されるとは限らないという「見込み」に繋がります。

それ故に問題の核心は「お二方の証言を信じるか否か」という点に一極化されるわけですが、疑っている人間が疑われている人間の証言など信じるわけがない。この複雑な当事者関係の錯綜においては、疑惑の出口がまったくないということになります。

らんきー派との論争が噛み合っているのは、彼らがお二方の教唆関係が事実であった場合に「陰謀論」的な批判の口実を得るという、別の観点の利害当事者でもあるからで、つまりらんきー派とお二方がその点を巡って押し問答を続ける限りにおいては、直接当事者同士の利害に基づく水掛け論として均衡しているというだけの話なのですね。

第三者視点で言えば、お二方に対する疑惑それ自体が不当であると見做し得る条件というのは、お二方がその疑惑を斥ける為に多くの人がそれと認め得るような妥当な配慮を払っておられたか否かである、ということになりますから、その意味ではお二方が正月から一貫して極近い協力関係にあるということは不利な要素となります。

つまり、らんきー派の視点に立つなら、疑われても仕方がない振る舞いをされているということです。

しかし、たとえばたんぽぽさんとkojitaken さんが教唆関係に「ない」ということを証明するのは有名な「悪魔の証明」ということになりますから原理的に不可能で、この場合の証明義務は教唆関係が「ある」と主張する側にあり、さらに上記のような不都合がありますから、その証明は事実上不可能であると結論せざるを得ない。そうすると、結論としては、教唆関係を疑ってその前提の下に状況を解釈して行動するのは差し支えないが、それを以て相手を批判する行為は不当であるということになります。

もしかしたら、それもらんきー派を追い込む為のkojitaken さんの計算のうちだったのでしょうか。いや、オレは証拠もなくそんなことは言えませんし、そうではないと思いたいです。何故なら、kojitaken さんの思惑はご本人に伺ってみないと何とも言えませんが、オレの「直観的見込み」としては、たんぽぽさんのほうには周囲の疑惑を煽りたいというような意識など確実になかったと思うからです。

だとすれば、kojitaken さんが承知の上でらんきー派の疑惑を煽っていたのだとするなら、それはたんぽぽさんに対する誠意に欠ける姿勢だということになりますし、そんなつもりもなく心底疑惑に怒り批判しておられたのだとすれば、それは疑惑を排除する為の配慮がまったく欠けていた為の当然の結果であると指摘せざるを得ません。

普通、たんぽぽさんを支持するにせよ、共にらんきー派を批判するにせよ、直接対話を避けるなり何なり、第三者視点で納得可能な配慮の方策はあったはずですし、疑惑を避ける為に言動に配慮を払うことは別段相手に屈したことにはならないはずで、それは下司の後知恵でなければ思い附かないほど突飛なことでもなかったはずです。

にも関わらず、kojitaken さんはらんきー派の話題が出ると積極的にたんぽぽさんのブログにコメントして、先方の罵倒に応える形で人格批判を含む発言を頻繁に繰り返されたわけで、これは客観的に視て疑惑を煽る振る舞いだったと指摘されても仕方がない。

トリビアルなことを申しますと、一般論として世の中には「証拠もなしに人を疑うのは良くない」という雑駁な言い方をなさる方もいますが、証拠があるのならそれはすでに「疑い」ではなく「事実」なのですから、この場合正確には「何の根拠もなしに人を疑うのは良くない」と言うべきでしょう。

この場合、前述の通りその疑いには筋道上の「根拠」はあるわけです。ただそれが「証拠」では在り得ない為に、それを事実として言明することは不当であるということになりますから、疑惑が抱かれること自体に関しては、積極的に疑惑を排するどころか却って疑惑を煽るような行動をとった当事者にも応分の責任はあるということになります。

そこでそれを論評する立場のオレとしては、「たんぽぽさんがkojitaken さんの意を受けてぶいっちゃんさんを攻撃したと批判するのは間違いだ」と註釈した上で「ただし、お二方がそのように疑われたのは疑わしいことをしたからで、疑惑を招いたことにはお二方も責任がある」と指摘するという筋道になります。

そして、そもそもkojitaken さんが引用された記述が何故為されたのかと言えば、オレはそもそもたんぽぽさんやkojitaken さんと直接議論していたわけではなく、この騒動を概観する過程において事実関係を叙述するのが目的で書いたわけですから、不正確な記述に対する指摘は歓迎致しますし、事実関係を確認の上遺漏があったことに納得出来れば喜んで訂正させて戴きます。

また、その論評に際して言及された当事者の方が不当な不利益を蒙るということであれば、その不当性に納得がいけば不利益を回避する為に最大限の努力を払うということをお約束致します。

このお返事に言及される場合は、上記のような文脈を踏まえてお返事を戴いたほうが無駄がないかと存じます。また、たんぽぽさんのブログ(http://taraxacum.seesaa.net/article/95765665.html#comment)で為された、

>>ただ、
>>http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080415/1208238600
>>のコメント欄での、
>>
>>> はっきり言って、あの論壇とはもう一切関わり合いたくありません。
>>
>>と書いていながら、その後もコメントを書き続けていることには苦笑させられました。それ自体自己矛盾ですからね。

というkojitaken さんのご意見に対しては、たんぽぽさんへのコメントにてこちらの意見を述べておりますのでご参照ください。kojitaken さんがそうお考えになったこと自体に関しては、とくにコメントすべきこともありません。

TAKATAKA 2008/05/19 17:09 たんぽぽさん、こんにちは。
>冗談が通じる?通じない?「サタデない?」は、じょんからボルタ?

実はお見かけした当初から、こう思っておりました。私の放言も、たんぽぽさんならば、軽く往なすことであろうと。その落ち着いた文章には、カフカに知的な余裕を感じていたのであります。

色々あってお忙しい事と思いますが、疲れた時はゆっくり新茶でも飲んで、のんびりして下さい。私も昨日からまったり家で、スタディしている所です(^^。

以下、午後の移ろいなのです。新茶のお供にでもどうぞ。
たんぽぽさん
>いろんな感覚のかたもいる

実況係「まさに『五期アニメ鬼太郎』で、伸びきったその長い首に対する先輩からの、せめてもの餞だ」
お歯黒「およし、人間の男と付き合うなんて。われら妖怪と人間との、その寿命の差は歴然。一人残され、一生泣いて暮らすつもりかい。それならばいっそ、地獄にでも落ちた方が、まだましさ。」
実況係「さすがは姉御、貫禄であります」
轆轤首「落ちてもかまわない!この恋実るのならば!」
実況係「乙女であります」

鬼太郎「ふうん。てゆうか、恋って厄介な病気なんだなあ。」
実況係「さっそく、KY少年の登場だ」
目玉父「なんか用かい?」
毛目玉「バーロー、宴会だ宴会!」
実況係「今度は、チョイ悪オヤジたちの登場だ」

ネズミ「フンッ。悪の美学ならば、このオレ様が本領よ。ビビビと決めるぜ。」
ねこ娘「確かに貴方の学歴詐称疑惑は、本物よね。」
ネズミ「ゲゲッ、ゲッ!?」
ネズミ「フッ、フン。出たとこ勝負がこのオレ様の、ライフワークよ。」
ねこ娘「やっぱり、デイプロマミルかい。覚悟しなさい。ニャー!」
ネズミ「うわっと。それが貴方のライフワークなのね。さいならっ!」
ねこ娘「待ちなさいっ、ニャー!」

鬼太郎「みんな、仲が良いなあ(^-^。」
実況係「まさに、空気の読めな」
鬼太郎「体内電気ーっ!!」
実況係「…ビビビと来たのでありますorz」
お歯黒「地獄に落ちた方がましさ。」

黒猫亭黒猫亭 2008/05/19 21:24 >kojitaken さん

どうやら例の不具合で、五番目のコメントが反映されなかったようで、行き違いになってしまったようです。新たに2008/05/18 23:31に戴いたご意見に対する説明は前以てそこで為されているのですが、残念な行き違いです。

で、言説批判と人格批判の違いをここでのkojitaken さんのご発言を例に挙げて説明するなら、「記述の実例を挙げられないなら、その記述は事実ではない(事実による裏附けがない)」というのが言説批判で、「記述の実例を挙げられないなら、その記述は虚偽である(黒猫亭は嘘を吐いている)」が人格批判ですね。

また、

>>こんな批判まで「人格の部分へ言及した批判」つまり、「他人を侮辱した物言い」と言われたのでは、誰を批判することもできなくなります。

というのが言説批判で、

>>私には、黒猫亭さんは「モヒカン」とは対極にある、情緒過剰の方のように思えてしかたがありません。

と附け足すのが人格批判ということになります。こういうふうに並べると、何故ネット言論で人格批判が忌避されるのかがおわかり戴けるでしょう。上記の例でオレが人格批判として挙げた結論は、論理的には引き出し得ない恣意的な臆断だからです。

前者の例では、「実例を挙げられない」ということは一義的に「嘘を吐いている」という結論に直結しているわけではありませんよね。寧ろあやふやな印象で物を言っているという可能性が高いわけで、それを「虚偽」と見做すのは論理的に飛躍があります。

後者の例では、「人格批判」の語義を「他人を侮辱した物言い」と解した場合、まあ少なくとも政治家を批判することは出来なくなるというのは論理的に引き出し得る結論ですね。しかし、それが「黒猫亭は情緒過剰な人物である」という結論と一義的に直結しないのは明らかで、その飛躍を橋渡ししているのはkojitaken さんの恣意的な臆断ということになります。

で、ここで疑問なのは、黒猫亭の言ったことに反論するのに、何故黒猫亭当人に関するコメンタリーが必要なのか、ということです。普通は黒猫亭の言ったことが間違っていると仰りたいのであれば、間違いを指摘すれば足りることです。

にも関わらず、kojitaken さんは二度に渉る黒猫亭への反論で二度とも「黒猫亭は嘘を吐いている」「黒猫亭は情緒過剰な人物である」というふうに、黒猫亭という人物それ自体に対する言及を添えられている。たしかにこの二度とも「とみなす」「ように思える」というふうに受けることで個人的見解であることは示しておられますが、個人的見解なら何を言っても好いということにはなりません。

kojitaken さんは、この場合まったくその必要もないのに、黒猫亭当人が嘘吐きだったり情緒過剰だったりという印象を読み手に与えるような一言で反論を結んでおられるわけで、これは多くの読み手から印象操作だと見做されても仕方ないですね。

個人的見解としてなら何を言っても好いということになりますと、早い話が言った者勝ちですからたくさん言ったほうが得ということになりますよね。kojitaken さんのこの種の論法に対して正面から対抗するなら、「kojitaken さんは○○○だと思う」という類の誹謗中傷を、出来るだけたくさん大きな声で語ったほうが戦略上得策だということになります。

つまり、個人の言説を根拠にしてその人格に言及することには、どうしたって論理的に飛躍があるのだから、個人的見解の臆断として語るか、意図的な断定として語るしかありません。そうなると、たくさん言ったほうがアピールするということになりますから原理的に「○○○は○○○な人物だ」という類の人格批判というのは、同種の人格批判の応酬に必然的に発展するわけです。

というか、正月の騒動はまさにこういう原理において現在に至っているというのがオレが一連のコメントで語っていることだし、その意味でらんきー派のkojitaken さんへの攻撃とkojitaken さんの人格批判の論法はダイナミズムの上で完全に釣り合っているということです。それを他ならぬこの場の議論において、kojitaken さんが実演してくださったということになろうかと思います。

ネットの世界はすでに十数年の歴史がありますから、経験則としてそのような原理が多くの人々に受け容れられていて、所詮一私人が言説を介して公と接続しているにすぎないネットの言論空間において、殆ど情報が与えられていない発話者個人の人格に言及する言説には論理的な根拠がないし、その結果「必然的」に罵倒合戦に発展するというダイナミズムが広く識られている。それ故にネット言論では、言説から論理的に引き出し得ることのみを語ることが推奨され、人格批判は忌避されているのですね。

おそらくkojitaken さんは政治批判の領域で言論を展開しておられるので、その延長上で解釈しておられるのだと思いますが、政治家というのは建前上は人々の前に人格のすべてをさらけ出して選挙民に信を問うものですから、全人格的に人々とコミットしています。

国政というものを例に採って考えるなら、国会議員は全国民に対して全人格的にコミットしていて、特定の国会議員を巡る情報は、幾分私生活に渉ることまで可能な限り詳細に国民の前に開示されていますし、そうあるべきものですよね。そういう意味では、政治家という特殊な公人の批判においては、その人格面の定性に纏わる批判を展開しても当然だし、そうあるべきものだと言えるでしょう。

しかし、ネットワーカーはそうではありません。ネットワーカーが公と接しているのはその言説を通してのみであり、全人格的にネットにコミットしているというわけではない。それが証拠に、オレはkojitaken さんという方の住所氏名年齢勤務先や勤続年数、総収入や生活状況、外見容貌などの個人情報を一切識らないし、kojitaken さんだってオレの個人情報をまったくご存じではないでしょう。それでも今このようにして対話しているのは、言説のみで両者が接続しているからです。

そもそも顔も名前も識らないし、現実に対面しているわけでもない相手の人格面の定性など、窮めて限定的にしかわかりません。ネットというのは一私人が言説を通じて公と接するだけのものなのですから、公の言論でそんなあやふやで中途半端なことを軽率に言うな、その結果としてつまらない喧嘩に発展したなら自業自得だ、ということが言われているわけです。

もしもkojitaken さんが論争相手の言説の誤りや矛盾のみを指摘しておられるだけなのに、相手がkojitaken さんの人格面の定性に言及して反論したのであれば、それはネット言論の常識に照らして相手の言論姿勢が間違っているということになります。

しかし、両者共に相手を批判するということは相手の人格に纏わる定性を含めて全人的に批判することであると解しているのであれば、ネット言論の常識から視れば、そもそも言論姿勢において「どっちもどっち」で間違っている、議論と口論の区別が附いていない、ということになって、論じている内容になど誰も一顧だに与えない。

要するに、こういう種類の議論を続けることで議論当事者以外の第三者の関心はどんどん冷淡なものになっていくのが当たり前だということなのですね。

勿論、前述の通り、言説批判と人格批判は厳密に峻別することが出来ない部分はありますし、不可避的に人格面への言及が避けられないような場合もあります。しかし、だからと言って配慮しなくて好いということではなく、可能な限り人格面への言及を避ける努力が求められるでしょう。

たとえば今回の例で謂えば、別に黒猫亭の人格に言及しなくても黒猫亭の論に対抗することは幾らでも可能だったはずですよね。その場合、黒猫亭の言説とkojitaken さんの言説が対立していたというだけの話ですが、ここで黒猫亭の人格面にまで言及することで、その対立の性格が黒猫亭対kojitaken さんにスライドする。

で、個人の発話が別の個人の発話と対立抵触することなど当たり前ですから、ネットの世界では今現在無数の議論が展開されていますが、そんな日常茶飯事を一々人対人の対立にスライドさせていたら、ネットという活発な言論空間では人と人の憎しみが溢れてしまう、それが主流的な作法となってしまえば、理性的な議論自体が不可能になってしまう、そういう目的で議論が為されているんじゃないだろう、だからその種の「人を指向するような議論の仕方」それ自体が忌み嫌われているわけですよ。

勿論オレはそんな対立を肯定しないから受け流すわけですが、kojitaken さんがオレという人格を敵視するのであれば、それはkojitaken さんのご自由です。オレのほうは決してそのような人を指向する対立にコミットしないというだけのことですから。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/19 21:48 一つ言い漏らしました。

人格批判が何故忌避されるのか、その大きな理由の一つとしてあるのが、「言説批判なら言説の対立が解消されれば対立関係自体が消滅するが、人格批判は言説の対立が解消されても人と人の間に根深い対立を残す」ということですね。

たんぽぽたんぽぽ 2008/05/19 22:33 これで、3エントリ目。

dlitさま、新規エントリを作ってくださって、ありがとうございます。



TAKAさま、コメントありがとうです。

>実はお見かけした当初から、こう思っておりました。

あら、おめがねにかなって、光栄です、はい。

>カフカに知的な余裕を感じていたのであります。

ごらんになってましたのね、あっちのほうとかも。
(いえ、知的な余裕は、たんぽぽにはないです...)

>以下、午後の移ろいなのです。新茶のお供にでもどうぞ。

どうもありがとうです。
(ええ、もう、最近(も)いそがしいです。)
お茶をいただきながら(日本茶じゃないけど)、拝読させていただきます。

たんぽぽたんぽぽ 2008/05/19 22:34 黒猫亭さま

名前を間違えて批判のコメントのことだけど...
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080510/1210376310#c1210553376

>まあ、「関心がない」云々をどのような意味にとるか、
>つまりこの方のご発言が引用された直接の問題性に対する
>反論はすでに済んでいますから省きますが

わたしが、当該コメントをご紹介したのは、
「関心がないと言いながら、いっぱいコメントしていることに、
矛盾を感じるかたがいない」と、あなたがおっしゃったので、
「いえ、いますよ」と例を挙げたんです。

(「関心がない」うんぬんを、どう思っているか、
わたしは、ここでは、なにも判断していないですので、
ねんのため、おことわりね...)


>失礼ながら玄倉川さんのところは、エントリーは拝読していましたが
>コメント欄まで読んでいなかったので気附きませんでした。
>しかし、これは凄く「ひどい」ですね。

お名前を間違えたのは、本当に失礼なことだと思います。
残念ながら、弁解はとてもむずかしいと思います。
ここでは、その間違いを楯に取って、「そのコメントは信用できない」と
決め付けるのは簡単だとだけ、もうしあげておきますね。

>何故この取り違えをどなたも指摘なさらなかったのでしょうか。

わたしが、指摘しましたよ。

apjapj 2008/05/19 23:04  とりあえず、
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655
で言及しました。poohさんのところに書いたら、黒猫亭さんに、こっちでもやってると言われたので置いておきます。

「書いてないことまで勝手に読む」というコミュニケーションのあり方が、水伝騒動を引き起こした原因なのだろうというのが要約です。
 ただ、黒猫亭さんのコメントを見て、
「論にだけ言及すればいいのに、相手の人格にまで推測で言及する」も原因に加えた方が良さそうだと思いました。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/20 00:05 >apjさん

>>「書いてないことまで勝手に読む」というコミュニケーションのあり方が、水伝騒動を引き起こした原因なのだろうというのが要約です。

これに、「書いてあることを読まない」というのも付け加えたほうがいいのかな、と今ちょっと思っているところです。

apjapj 2008/05/20 00:58 だいぶパターンが見えてきたような。

「書いてないことまで勝手に読む」
「書いてあることを読まない」
 (この2つをまとめて、「書いてあることを書いてある通りに読まない」)
「論についてだけ言及すれば済むのに、相手の人格にまで言及する」

これによって、議論の紛糾が発生しているということでは。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/20 11:11 >apjさん

>>だいぶパターンが見えてきたような。

貴重なお時間の浪費になるかとも思いますが、これまでの三つのエントリのコメント欄で交わされた議論をざっくり追っていくことで、そのパターンが明瞭に見えてくるのではないかと思います。オレ自身、ここで遣り取りを続けていると、正月から現在に至る騒動の機序がコンデンスされた形で顕れているな、と感じます。

apjapj 2008/05/21 02:07 kojitakenさん、前のエントリーからの議論です。

 私も、「あいつは保守(反動)」という言い方には不快感を覚えますね。

>これは、単なるぶいっちゃん氏の主義主張及びその傾向性への批判です。「あいつは保守(反動)だ」というのがなぜ「人格面への批判」なのでしょうか?

 なぜ不快感を覚えるかというと、主義主張への批判をするなら主義主張の内容についてのみ論じれば足りるというのが私の考えでして、「あいつは○○だ」というのは余分なものだからです。ですから、○○に何が入っても不快感を覚えます。

>こんな批判まで「人格の部分へ言及した批判」つまり、「他人を侮辱した物言い」と言われたのでは、誰を批判することもできなくなります。

 公人でもない相手に向かって、「誰を」批判する、という発想が間違ってるのでは。批判の対象は人ではなく、主義主張の内容じゃないんですか。

apjapj 2008/05/21 02:24  別の論点からさらに。

 人そのものに言及しないという議論の姿勢は、黒猫亭さんがおっしゃるように、ネット上の議論の質を自ら引き下げないというだけではなく、訴訟対策というもっと実用的な面があります。
 人に言及して感情的理由から罵倒合戦に発展すると、割と簡単に名誉毀損までいくというのが私の認識です。これが、論の内容にのみ言及して酷評するというのであれば、評価が変動するのは「論」そのものであり「人」ではないのですよ。
 公人かどうかということで批判の仕方が違う、というのは、名誉毀損の判定基準が公人と私人で異なるからなんです。実は名誉毀損については、刑事も民事も判定基準が大体同じなので、刑法を引用しておきます。

(名誉毀損)
第二百三十条  公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
2  死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。

(公共の利害に関する場合の特例)
第二百三十条の二  前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2  前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3  前条第一項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。

 表現した内容が人の社会的評価を変動させると、名誉毀損にひっかかるわけです。特例の3番目を見ると、公選にによる公務員つまり国会議員等では、事実を述べて社会的評価が変動しても、真実を言ったのならば免責されます。しかし、相手が私人ではそうはいきません。私人の場合は、事実を述べて社会的評価を変動させると、真実を証明しても免責されないんです。
 政治系blogのblog主で普段から政治に言及しているといっても、その人達は私人です。政治系blog政治家に言及するのに、政治家そのものの対する言及をするのは当たり前かもしれません(これも行きすぎるとまずいのですが、政治家はある程度は人物そのものに言及されることを許容すべしという相場ができあがっている)。しかし、単に政治的発言をしている私人に対して同じことをするのは、ちょっと危ういと思います。

比ヤング比ヤング 2008/05/21 02:58 みんな、仲良くしようよ♪

dlitdlit 2008/05/22 14:46 >皆様

お返事遅くなってすいません。
一応関連テキストには目を通しました。

とりあえず僕が口を出せそうなところだけ言及しておきます。もしかしたら漏れがあるかもしれないので、気になった方はお手数ですが指摘していただけると助かります。

>「私闘」の解釈について

本当はROMの皆さんのためにもできるだけここで交わされたやりとりによってのみ判断するのが良いのでしょうけれど、たんぽぽさんのエントリの以下のコメント欄に明言されていたのでそれをたんぽぽさんの使用された「私闘」という単語の(今回)意図されたところだと考えてよいかと思います。apjさんのところ(http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655)ではまだ議論が続きそうな感じもしましたけれど。
http://taraxacum.seesaa.net/article/96843794.html#comment
さらに参考だそうです↓
http://taraxacum.hp.infoseek.co.jp/teardrops/hinekure/publicity.html

この内容を表すだけであれば「私闘」という単語を使用するのは個人的には結構ミスリーディングだと思いますが(というより必要なかったのでは)。括弧でくくるのは「特別な意味を持たせる」以外にも「強調する」という形での用い方をする人もいますし。

ネット上の活動における社会への影響については考えるところもありますが、今回は省きます。

まあ僕としてはこの「私闘」という言葉を見て、たんぽぽさんの戦略の選択や、やりとりの仕方が色々腑に落ちたのでちょっとすっきりしていますけれど。

僕は怠惰であまり優しくない管理者なので、もし仮にやりとりの動機が本来の意味での私闘だったとしても、多分削除や議論の停止などといった措置は採りません。よっぽど反社会的な(法に明らかに触れるぐらいの)内容でもあった場合は別ですけれど、ここにおいでの皆さんについてはいくらなんでもそういう心配は無いでしょう。

このコメント欄は僕が皆さんの議論にあまりコミットしていないという点で、どの立場の方も発言しやすいのかな、とも思いますし(強調しておきますが、僕が皆さんのやりとりを他人事だと認識しているわけではありません)。
というわけで、もしここでの議論を継続したいのであればそのまま続けていただいて結構ですし、もしどこか別のところに議論を集中した方が良いのであればどこで止めていただいても結構です。そのような場合には、ここをお読みの皆さんのためにリンクなどは貼っておいていただけると助かります。

たた、僕個人としてはあまり皆さんの論に貢献できることが無さそうだな、という感じがしています。気になったことがあれば口を挟むことがあるかもしれませんが、僕のことはあまり気にせずやりとりしてください。もちろん、これは現時点での方針であって、これからの展開次第では方針転換する可能性もあります。それぐらいの権限は許されるかな、と思いますし。

dlitdlit 2008/05/22 15:14 >たんぽぽさん

>「仲間」あるいは「仲間割れ」について

僕はたんぽぽさんのエントリに僕(や黒猫亭さん)が「正月(+α)の水伝騒動に関わっている人たちは全員TBPのような何らかの形の上での結束を持った仲間であると認識している(と誤解している)」と書いてあるように思ったので、そういう意味で「仲間」だとは思っていないと書いただけです。黒猫亭さんもそういう意味では「仲間」という書き方はしてないと思っていたのですけれど、僕の認識違いですかね?
皆さんのやりとりから、誰と誰は以前からある程度やりとりをした経験があるんだな、ということぐらいは推測できましたが、(ある意味で部外者である)僕にとって重要なのは人間関係ではなくて、その場に出ている論とやりとりのみなので。ですので、ぶいっちゃんを擁護する立場の人たちがもともとらんきーブログの常連だったりファンだったりするかどうかという点さえ全然興味がありません(結構な人が自分で宣言しちゃってますけどね)。

そういう点(いわゆる「敵/味方」視点)で僕が違和感を持っていたのは、むしろ他のブログへの言及の仕方などでしょうか。正月の頃にpoohさんがご自分のエントリの紹介のされ方に意義を表明したことがあったと思いますが、僕もpoohさんとほぼ同方向の違和感を持ちました。
ただ、僕は批判の仕方が悪い、とか普通ではないなどとまでは結論付けられません。ただ、自分は採らない戦略だし、自分が普段よく接する人たちも採らない戦略だ、ということです。そういう意味で「文化」という単語を使ったのですけれど。もしかしたらこのような違和感を持つ方が少数派なのかもしれませんが。

PledgeCrewPledgeCrew 2008/05/22 15:23 dlitさん、こんにちは
apjさんに質問なのですが

「論」がたとえば、「〜〜主義」というような一般的なものであれば、特定の個人に言及する必要はむろんありません。しかし、それが特定の個人によるもっと具体的な「論」であれば、それを表明した者が誰であるかを明確にするため、その個人に言及することも当然必要ですよね。

学問の世界でも、ある理論なり主張なりについて批判するさいに、その主体について言及することは当然のようになされていますね。でなければ、第三者がその批判の正当性について検証することもできませんし。

たとえば個人の政治傾向や信仰について、隣近所、職場などで、必要もなしに言及すれば「プライバシー」との関連で問題になることはあります。しかし、ここで問題になっていることは、自分の政治的な主義主張を明確にしている「政治ブログ」同士の話ですから、そのことは無視していいと思います。

で、そのうえでたとえば誰かを「うそつき」とか「卑劣漢」と呼べば、これは当然「人格攻撃」になります。この点では、おおかたの意見は一致すると思います。しかし、「保守派」という言葉にはまったく道徳的な意味はありません。この言葉の意味は、明確に政治的な領域に関することにのみ限定されています「ファシスト」というようなレッテル貼りとして使われやすい言葉ならともかく、この程度の言葉を使うことが、なぜそれが「人格攻撃」にあたるのかは、kojitakenさんと同様、まったく理解できません。「うそつき」という言葉と「保守派」という言葉が、レベルとして同程度=等価だとは到底言えないと思います。

それから、もとのkojitakenさんの言葉は、「こういう言葉を好んで用いるのは保守と相場が決まっています。」というだけです。

これと、apjさんの「あいつは保守(反動)」という言い換えは等価ではありません。もとのkojitakenさんの言葉にはない、無用な「嘲り」のニュアンスを付け加えておられますから、これは別のものになっています。

なお、いささか当たり前すぎることを言いますが、民主主義国家における主権者である国民としての政治的な活動には、当然ながら自己の政治的な主義主張を明らかにし、そのうえで互いに議論しあうことも含まれていますね。

どうも、apjさんの議論を見ていると、そのへんの当然に認められるべき「政治的活動」の自由に無用な足かせをかけるもののように思えるのですが。(かつ)

dlitdlit 2008/05/22 15:42 >PledgeCrew(かつさん)

いらっしゃいませ。
IDを複数持っていたりするとこういう時に不便ですよね(いや、PledgeCrewさんは不便さを感じていないかもしれませんが)

コメント自体はapjさんへの問いかけのようですし、ざっと読んだところ現時点で僕が言及できそうなところはないので、コメントはしませんが、ここのコメント欄は(今までの流れからも分かるように)やりとり自由なので僕のことはお気になさらずに。

>皆様

上の僕のコメントを読むには次のエントリのコメント欄でのやり取りも合わせて読まれた方が理解が早いかもしれません。

poohさんのところ
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-05-16
apjさんのところ
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655

dlitdlit 2008/05/22 15:43 >PledgeCrewさん(かつさん)

上のアンカーではてなIDの後に敬称を付けるのを忘れました。大変失礼しました。

PledgeCrewPledgeCrew 2008/05/22 17:41 dlitさん

全然気にしてはおりません。
もともと、dlitさんのこのブログを見つけたのは、金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判がきっかけだったのです。
わたくし、翻訳業をしておりますが、この本や三上文法は、結構、翻訳業界に支持者が多かったりするもので(わたしは読んでませんが)
はてな登録のさいに、なぜか変な名前になってしまってお気遣いさせました。

apjapj 2008/05/22 18:24 PledgeCrewさん、

>それが特定の個人によるもっと具体的な「論」であれば、それを表明した者が誰であるかを明確にするため、その個人に言及することも当然必要ですよね。

 なぜ「当然必要」なのですか?具体的な論であってもなくても、論そのものを評価するには、誰が言ったかという情報は基本的には不要ではないですか。

>学問の世界でも、ある理論なり主張なりについて批判するさいに、その主体について言及することは当然のようになされていますね。でなければ、第三者がその批判の正当性について検証することもできませんし。

 分野によります。論の内容だけを判断するなら、誰が、というのは余分ですけど。まあ、論のダイジェスト版が発言されていて、長々書いてある方を知りたければ著書を読め、などという場合であれば、検索のために発言者を特定することは必要でしょうけど。

>(略)
>この程度の言葉を使うことが、なぜそれが「人格攻撃」にあたるのかは、kojitakenさんと同様、まったく理解できません。

 私は、「人格攻撃」とは言っていません(そう書いたのは黒猫亭さんです)。
 私は、「余分なもの」だと主張しています。特定の人の政治的論について議論したり判断したりするとき、別の人が発言者に対して「あいつは保守派」と評価した結果を提示されても、役立たないというかむしろ大きなお世話です。論の中身を個別具体的に考えるためんには邪魔になることはあっても役立たないですから。

 保守派かどうか、どの程度どういう保守派なのかは、論の内容から各自が判断すればいいことです。さらに、政治的主張の中身はそうそう単純ではないことが多いので、保守派の一言で括ろうとしたってはみ出したりずれたりする部分が出てくるでしょうし。

 何て言うか、そういう括り方で相手を評価するというのは、精度が悪いように思うのですよ。

>当然ながら自己の政治的な主義主張を明らかにし、そのうえで互いに議論しあうこと

 論者が自ら「私は保守派」と主張することについては、私は特に何も言うつもりはありませんので、PledgeCrewさんの主張と同じです。
 まあ、「私は保守派」と最初に宣言したって、続く論の内容がずれていたらそれなりのツッコミは入るでしょうから、そのような宣言にもあんまり意味は無いと思いますけど。

>どうも、apjさんの議論を見ていると、そのへんの当然に認められるべき「政治的活動」の自由に無用な足かせをかけるもののように思えるのですが。

 逆ですよ。政治的主張の細部まできちんと納得いくまで検討しやすくなる方向で考えているだけですから。

PledgeCrewPledgeCrew 2008/05/22 19:10 どうもご回答ありがとうございます。
単純な括り方に、「レッテル貼り」の弊害があることは承知しています。
そのレベルで問題を立てていたわけではないのですが。

> なぜ「当然必要」なのですか?具体的な論であってもなくても、論そのものを評価するには、誰が言ったかという情報は基本的には不要ではないですか。

そうでしょうか。
たとえば、一種の思考実験として、一つの「論」をたて、それについて検討するというならともかく、通常、誰も言っていないような「論」を批判しても意味はないわけですね。

で、今自分が論じている「論」がそのような架空のものではなく、実際に誰かが主張している、現実に存在する「論」であることを明確にし、また自分の批判がいわゆる「わら人形」たたきでもないということを担保するためには、「誰が言ったか」という情報は必要だと思いますが。それは、引用のさいに出典を明らかにしておくということと同じだと思います。

apjapj 2008/05/22 19:25 PledgeCrewさん、

 主張の前半部分について、誰の発言かを明らかにする=ソースを示す、という意味であることを了解しました。
 適正な引用という意味で出典を出すということであれば同意します。

kojitakenkojitaken 2008/05/22 22:42 黒猫亭さん、

> 「記述の実例を挙げられないなら、その記述は事実ではない(事実による裏附けがない)」というのが言説批判で、「記述の実例を挙げられないなら、その記述は虚偽である(黒猫亭は嘘を吐いている)」が人格批判ですね。

この意味が理解できません。
虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。
人が書いてもいないことを勝手に読み取らないでください。

もし仮に、「虚偽」という言葉に私が人格批判の意味を込めているに違いないと黒猫亭さんが主張されるのであれば、黒猫亭さんがそれ以前に書いた

> (kojitakenが)人格的な部分に言及して批判を行い

という記述に、私に対する人格批判の意味を込めているに違いない、と反論します。

kojitakenkojitaken 2008/05/22 22:50 それにしてもこのコメント欄を見ていて思うのは、人文・社会科学においては、議論が行われた文脈を無視して、数行ないし数十行に集約された「主義主張」だけを切り取って論じることなど無意味なのになあ、ということです。

大昔、ネットニュースで見た「差別用語」論議を思い出しましたよ。

そこでは、「差別用語なんて存在しません」というわけのわからない「合意」が得られたりしていました(1989年頃)。

その「合意」がなされてから、「コンテキストを無視した議論は無意味だ」というまっとうな反論が現れて、それが定着するまでに3、4年くらいかかりましたっけね。

私は小心者だったので長年ROMしていただけでしたけどね。

今回の「水伝」騒動は、最初から「擬似科学批判」の本筋を離れた論争だったのは確かですが、もともと「擬似科学批判」自体にも、人間的・社会的コンテキストを無視しては語れない要素が強いわけですから、「主義主張」だけを切り取って論じることには無理があると思います。

apjapj 2008/05/22 23:39 >虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。

 違います。

 岩波国語辞典第三版からですが、
「うそ偽り。事実でないことを、誤ってまたは故意に、真実だとすること」
です。
 「事実でない」と言うのは、言説それ自体の客観的評価ですが、「虚偽」というのは、故意過失を問わず「人の行為」が介在していることを意味します。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/24 11:28 >たんぽぽさん

かなり遅くなりましたが、ブログ主からのジャッジが出たこともあり、またたんぽぽさんご自身が当該発言に対する真意を説明されたので、改めてお返事を差し上げます。

2008/05/17 22:45のコメントには特段付け加えるべきこともないと思います。2008/05/18 22:31のコメントのほうでdlitさんに言及された部分に関しては、ご本人がお返事されていますが、オレに関係した部分にのみお返事を。

>>>他ならぬブログ主のpoohさんご自身が、誰が相手でも変なコメントには
>>>容赦なくツッコミを入れる方です。まあモヒカン度が窮めて高い論壇だということですね。
>>
>>dlitさまは、「関係者全員が『仲間』とは思ってない」とお考えで、
>>黒猫亭さまの意見(「政治批判ブログ」の内紛)に、
>>意義があったようなことを、わたしのブログで、おっしゃってくださりましたよ。
>>(でも、dlitさまは、黒猫亭さまに、反論はしなかったようだけど。)

そのことについては、すでにご説明を差し上げています。そのようなご理解がdlitさんのご発言とどのように整合するのかはdlitさんご自身のお返事を参照して戴くとして、そもそもこれはその事柄に関して情報を持っていないと何も言えないことですよね。仮にその意見に対して違う見解を持っていても、「違う」と言って矛盾を指摘する為には根拠を提示する必要があります。

一方、たんぽぽさんのブログのコメント欄の流れで言えば、dlitさんはオレの見解に対する意見を述べておられるだけですから、それは「自分はこのように受け取った」ということをそのまま仰れば好い話で、直接対話において矛盾を指摘することとは根本的に筋道が違います。

そして、そもそも「関心がないと言いながら言及する」という行為をどのように判断するのかというのは、何かに対する情報がなくても判断し得る事柄です。このことについては、すでに前回説明させて戴いています。

>>>まあ、「関心がない」云々をどのような意味にとるか、
>>>つまりこの方のご発言が引用された直接の問題性に対する
>>>反論はすでに済んでいますから省きますが
>>
>>わたしが、当該コメントをご紹介したのは、
>>「関心がないと言いながら、いっぱいコメントしていることに、
>>矛盾を感じるかたがいない」と、あなたがおっしゃったので、
>>「いえ、いますよ」と例を挙げたんです。

ええ、それはわかっていますからその前提でお返事を差し上げたわけです。それを踏まえて「相手の書いたことを読んでいるとは思えない方を挙げられても意味はない」ということと、その方が読んでいないと考え得る根拠、意味はないと思われる根拠をご説明差し上げたわけです。さらに、「これはまず、たとえばpoohさんのブログに活発に書き込んでおられるような方々の話です」という前提をご指摘をさせて戴いたわけです。

このお返事では、オレが書いた意見の大前提を確認されただけで、反論とは読めませんので、何故その引用箇所に対する言及という形で仰っているのか理解に苦しみますが、とりあえず、一応こちらも「それを踏まえてすでにこういうことを申しあげました」と確認するに留めましょう。

>>(「関心がない」うんぬんを、どう思っているか、
>>わたしは、ここでは、なにも判断していないですので、
>>ねんのため、おことわりね...)

承りました。

>>お名前を間違えたのは、本当に失礼なことだと思います。
>>残念ながら、弁解はとてもむずかしいと思います。
>>ここでは、その間違いを楯に取って、「そのコメントは信用できない」と
>>決め付けるのは簡単だとだけ、もうしあげておきますね。

その間違いを楯に取ってそう申しあげているわけではありません。相手の書いたものを誠実に読んでいるなら、そのような間違いを犯すことは普通考えられないということをさまざまな角度から説明させて戴いたわけですし、普通他人を「卑怯」という強い言葉で論評するのであれば、尚更大きな注意義務があるのではないかということを申しあげているわけです。

それを踏まえて先ほどの「相手の書いたことを読んでいるとは思えない方を挙げられても意味はない」という意見を差し上げたという関係になります。

>>>何故この取り違えをどなたも指摘なさらなかったのでしょうか。
>>
>>わたしが、指摘しましたよ。

どこのお話でしょうか。ここの2008/05/10 08:42のコメント中の記述であれば、それでは意味がないというお話もすでにさせて戴いています。特定の場所で為された取り違えは、その場所で訂正されるのでなければ意味がありません。

そのコメント欄をすでに読まれた方がもう一度そこを覗くとは限りませんが、少なくとも全然別の場所のコメント欄よりも同じ方が読まれる確率は高いでしょう。また、それが将来的にそのコメント欄を読まれる方に対する誠意でもあるでしょう。

不思議なのですが、たんぽぽさんから戴くコメントには、すでにご説明差し上げたことの繰り返しが多いと感じます。今回戴いたご意見など、すべて前回申しあげたことばかりなので、繰り返し以外の何ものでもありません。

新たに付け加えるべきこととしては、poohさんのブログのコメント欄、

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-05-16#comments

にて為された玄倉川さんのご発言を参考に考えると(玄倉川さんがそう仰ったという意味ではありませんが)、ももさんがそのままの意味で仰ったという可能性も否定出来ないですね。最終的にはこれはももさんご本人にご真意を確認してみないとわからないことですが、たしかに、

>>あとpoohさんのように「もう関心はないんだけどね」と逃げ場を用意して
>>長々と書き続ける人って何がしたいのかと疑問に思います。

という記述だけでは、オレとpoohさんを取り違えておられるからこのように仰ったとは断言出来ませんね。玄倉川さんの弁明にも一理あるかもしれません。そうするとそもそもオレが何かを言うべきことでもないですし、そもそもたんぽぽさんのご紹介自体がご主張の根拠として無意味だったということになります。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/24 11:29 >kojitakenさん

>>人が書いてもいないことを勝手に読み取らないでください。

apj さんがすでに根拠を指摘されていますが、kojitakenさんはハッキリそのように書いておられます。これはkojitaken さんの書かれた文章に対する事実の指摘です。

>>虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。

どのような客観的根拠があってそのように断言されるのでしょうか。根拠があれば提示して戴いて構わないですし、それに対してお返事を差し上げますが、なければ何も要求致しません。このお話はこれで終わりです。

栗原栗原 2008/05/26 16:29 ニセ科学批判派の声をお届けいたします

>疑似科学の主張する「成果」によって具体的な被害が発生するリスクは、すべての疑似科学な主張につきものです。
>疑似科学であることを強調して批判すべきです。なぜなら疑似科学は現代社会における根本的な欺瞞の温床だからです。
http://www.avgas-bb.com/wp/?p=86#comment49

apjapj 2008/05/27 01:24 dlitさん、黒猫亭さん、

 私のエントリー
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655
のコメント欄で、disraffさんという方が

>たんぽぽさんと玄倉川さん(+かつさんも少々)とで「甘ったれと甘やかし」の強固なセット

という実に的確かつ身も蓋もない指摘(←誉め言葉です、念のため)をなさいました。

 普段私が見ているのはモヒカン的世界の方でして、甘ったれと甘やかしのセットなどハナから存在しません。確かにこのように考えるならば、議論したときの違和感の理由がよくわかります。

TAKATAKA 2008/05/27 02:48 >普段私が見ているのはモヒカン的世界の方でして
>甘ったれと甘やかしのセットなどハナから存在しません

これで思い出すのはあの、偉大なジャッジメンの、その揺ぎ無い威厳です。

ある日のヤンキースとマリナーズの試合。ヤンキースの松井選手は三安打。打点も付きました。一方マリナーズのイチロー選手は、ゼロ安打でした。
途中、イチロー選手が審判に、「てゆうかそのジャージ、微妙。」と抗議しました。するとマリナーズの監督も、グラウンドに出てきて審判に、「確かにそのニュージャージーは、この場に合わんのう。」と抗議。

冷静にその監督の抗議を聞いていた審判。「言いたいことはそれだけか。」「ああそうだ。」「ならば帰るが良い。宴の時は過ぎた。その様な姿の貴方を、ここの主賓たちは、望んではいないのだ。」

ちなみにヤンキースの監督も、この日は出場停止中でした。結局お互いの監督が不在のまま、無事にその試合は進んだのでした。

…いやはや第三者の目というものは、実に厳しいものです。この私もアナザーマウンテンストーン、他山の石と致します。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/27 04:39 >apjさん

オレが何かコメンタリーすると、黒猫亭の言ったことを過剰に気にする方がおられるようですので、まあdisraff さんのご意見に関してはノーコメントとしておきます。

オレがこの件にコミットした動機は割合プラグマティックなものですが、すでに議論を通じて以下の点が明らかになったことで、積極的に関与する必要はかなり薄くなったかな、とは感じています。

・大本のたんぽぽさんの発言はニセ科学批判ではないこと(単に水伝を肯定するのは間違いだと言っただけ)
・正月から続く騒動はニセ科学批判と何の関係もないこと(たんぽぽさん個人の言動を巡る当事者的な問題)
・正月の騒動の当事者や支持者たちはニセ科学批判者ではないこと
・彼らとニセ科学批判言説は一切無関係でプロトコルも異なること

これらの事実を踏まえずに妙なニセ科学批判批判が行われた場合は、まあ最低限ここの三つのエントリーとapj さんのところエントリーのURLを貼って「違います」とだけ言えば済むかな、と。まあ、必要があれば何度でも言及しますが。

kojitakenkojitaken 2008/05/28 00:31 apjさん、

>>虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。

> 違います。

> 岩波国語辞典第三版からですが、
「うそ偽り。事実でないことを、誤ってまたは故意に、真実だとすること」
です。

違います。

岩波書店の「広辞苑」第五版からですが、

「真実でないこと。また、真実のように見せかけること。うそ。いつわり。そらごと」
です。

「また」は英語の ”or” ですから、「誤ってまたは故意に、真実だとすること」という意味に用いられることもありますが、「真実でないこと」という意味もあります。

したがって、apjさんの主張は誤りです。


黒猫亭さん、

上記の理由により、

> apj さんがすでに根拠を指摘されていますが、kojitakenさんはハッキリそのように書いておられます。これはkojitaken さんの書かれた文章に対する事実の指摘です。

という黒猫亭さんの主張も誤りです。事実の指摘なんかじゃありません。

> どのような客観的根拠があってそのように断言されるのでしょうか。根拠があれば提示して戴いて構わないですし

ということなので、根拠を示しました。

そもそも、国語辞典なんて辞書によって言葉の定義が異なるのに、そんなものをもって「客観的定義」だと主張する黒猫亭さんの態度って、およそ「客観性」とか「モヒカン性」からはかけ離れたものであるとしか、「私には」(笑)見えません。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/28 02:34 >kojitakenさん

また「解釈」論ですか。なんだか延々そんな話をしているような気がします。

>>上記の理由により、
>>
>>> apj さんがすでに根拠を指摘されていますが、kojitakenさんはハッキリそのように書いておられます。これはkojitaken さんの書かれた文章に対する事実の指摘です。
>>
>>という黒猫亭さんの主張も誤りです。事実の指摘なんかじゃありません。

しかし、kojitaken さんの挙げられた解説でも、kojitaken さんによれば「or」の関係だそうですから、等価で「真実のように見せかけること」という意味もまたあるんですよね。それならば、「『虚偽』とは『真実ではない』という意味だ」という断定は論理的に間違っているということになります。

それは、この条件においてそのように断定されると、「or」だろうが「and」だろうが「嘘を吐いている」という意味は「ない」という言明になるからです。kojitaken さんの言明が正しい為には、「嘘を吐いている」という意味が「ない」ことが条件になるのであって、「真実でないこと」という意味が「ある」ことを根拠に挙げられても意味がないのですよ。

たとえば、kojitaken さんの挙げられた解説でも、その後に補足的に挙げられている同義語として「うそ。いつわり。そらごと」が挙げられていますよね。ですから、少なくとも「うそ。いつわり。そらごと」という意味は「ある」ことになります。

で、オレが言ったのは、「『虚偽とみなす』という言い方をした場合『黒猫亭は嘘を吐いている』と言ったということになる」ということですから、これは命題として間違っていないのですね。この場合は「or」の関係でも成立するからです。

kojitaken さんのロジックに則って言えば、「それは虚偽だ」と言った場合、「それは真実ではない」という意味と「それは嘘だ」という意味が両様に表されていて、そのどちらをとっても間違いではないということになります。これはつまり、「黒猫亭は嘘を吐いている」という意味を表しているということはたしかなんですよ。

そもそもkojitakenさんがそれをどのような形で仰ったのかは覚えておられますよね。

>>> 「記述の実例を挙げられないなら、その記述は事実ではない(事実による裏附けがない)」というのが言説批判で、「記述の実例を挙げられないなら、その記述は虚偽である(黒猫亭は嘘を吐いている)」が人格批判ですね。
>>
>>この意味が理解できません。
>>虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。
>>人が書いてもいないことを勝手に読み取らないでください。

kojitaken さんが挙げられた広辞苑第五版に限って言っても、「or」の関係で「嘘を言っている」という意味を仰っているんですよ。その上でkojitaken さんは「虚偽というのは『真実でないこと』という意味である」と仰って、「黒猫亭は嘘を吐いている」ということなど「書いていない」と仰っているのですから、「嘘を吐いている」という意味が「ない」ことを根拠附けなければならないことになって、それ以外の意味を表す根拠があったという話をしても意味はありません。

オレの意見を否定する形で「『虚偽』とは『真実ではない』という意味だ」と断定されるのであれば、「虚偽」という言葉に「偽る」という意味性が一切付随しないことが条件になります。しかし、kojitaken さんが挙げておられる部分以外の大半の記述においては「偽る」という意味性が必ず付随するわけですし、その他の辞書ではもっと積極的に「偽る」という意味性を強調しているわけです。極端なことを言えば、kojitaken さんは「どんな辞書を探しても『偽る』という意味はない」ということを根拠附けなければご自身の主張が正しいとは言い得ないのです。

kojitaken さんが「虚偽」という言葉で「偽る」という意味性を示していなかったのであれば、その旨註釈してそれ以外の意味性を排除する必要があったということになります。そのようなことが仰りたかったなら、たとえば「その記述は事実ではない」という言い方をされていれば、その言明には「偽る」という意味性が一切含まれないのですから、何の問題もなかったのです。

ですから、もしもkojitaken さんが2008/05/22 22:42のコメントにおいて「自分が『虚偽』という言葉で言いたかったのは『真実ではない』という意味だ」と註釈されていたら、それはそこでオシマイの話だったんですよ。それなら命題として無矛盾で成立しますので。「そんなことは書いていない」とか「虚偽という言葉の意味はこれこれだ」と断定されるからさらに問題がややこしくなる。

apj さんのところの「解釈」論もそうなんですが、言葉というのはたしかに多義的な側面がありますが、普通に読んで受け取られる意味と違うことが言いたかったり、複数ある語義の中で特定の一つの意味を指示したかったのであれば、事前であれ事後であれそれはその旨註釈すればそこでオシマイの話なんですよ。「そんなことは言っていない」とか「そういう読み方は間違っている」と主張するから、話がこじれるんです。

kojitakenkojitaken 2008/05/28 23:36 黒猫亭さん、

この議論、なんか頭痛がしてきます。

> kojitaken さんが挙げられた広辞苑第五版に限って言っても、「or」の関係で「嘘を言っている」という意味を仰っているんですよ。その上でkojitaken さんは「虚偽というのは『真実でないこと』という意味である」と仰って、「黒猫亭は嘘を吐いている」ということなど「書いていない」と仰っているのですから、「嘘を吐いている」という意味が「ない」ことを根拠附けなければならないことになって、それ以外の意味を表す根拠があったという話をしても意味はありません。

これ、論理が破綻していますよ。めちゃくちゃです。
「AならBまたはC」というのは、「AかつC」と「Aかつ非C」の両方を許容しているんです。

黒猫亭さんの主張は、「『虚偽』という言葉に、『嘘つき』という意味なんか込めていないという」私の主張に対する反論には全然なってません。「Aかつ非C」だよ、という私の主張に対し、黒猫亭さんは「AかつC」という場合もあると仰っているわけです。「AならCだ」と主張しているわけではありませんよね。つまり、黒猫亭さんは私の主張を否定できていないわけです。その上で、黒猫亭さんの主張は、「AならばCではないことを示せ」と私に要求しているとも読めますが、そんなことは私は主張していませんから、黒猫亭さんに示す筋合いはありません。黒猫亭さんの要求は、理にかなっていないというか、論理というものを全く理解していない人の妄言だといわざるを得ません。

そんなレベルで、「モヒカン」の主張をしているつもりにならないでください。へそが茶を沸かします。

あと、老婆心ながら、自然言語の性質についてよく考察および理解されることを望みます。

apjapj 2008/05/29 00:08 >「また」は英語の ”or” ですから、「誤ってまたは故意に、真実だとすること」という意味に用いられることもありますが、「真実でないこと」という意味もあります。

>したがって、apjさんの主張は誤りです。
 
 この結論は間違っています。

 orの意味であるなら、「真実でないこと」(事実を述べただけ)、「真実のように見せかけること」(行為も含む)は、どちらを指摘しても正しいんですよ。

 実際に使われた文章の中でどちらの意味なのかは、書いた人が特定しない限りわかりません。

apjapj 2008/05/29 00:13 追加です。

>この意味が理解できません。
>虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。
>人が書いてもいないことを勝手に読み取らないでください。

 この部分ですが、

>虚偽というのは「真実でないこと」という意味です。

 をkojitakenさんが一般論として書いたように見えたので、辞書的な意味にまで立ち戻ることになりました。
 もし、この部分が、例えば、
「虚偽、は、真実でないことという意味のつもりで書きました」
などとなっていれば、一般論ではなく、kojitakenさんの意図を表したものであることがはっきりしていて、混乱はしなかったと思います。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/29 01:10 >kojitakenさん

>>黒猫亭さんの要求は、理にかなっていないというか、論理というものを全く理解していない人の妄言だといわざるを得ません。

kojitaken さんのご主張がこのようなものだということは理解しました。あとはまあ、これを読んでおられる方が当否を判断されることだし、それがこの場のリソースを無駄にしないことだと考えますが、如何ですか? 勿論、kojitaken さんがお望みでブログ主の方が許容されるなら、この先幾らでも議論を続けても結構ですが。

それから、一応補足しておきますが、オレは自分がモヒカンだと発言したことは一度もありませんし、そんなふうにも思っておりませんよ(笑)。

dlitdlit 2008/05/29 09:52 またまたコメント欄がいっぱいになったようなので新エントリです↓必要であればお使いください。
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080529/1212022242
今回はこの直前の三人の言葉の意味に関するやりとりについての僕のコメントをエントリ内に書いてあります。あくまで僕の見解ですが興味がある方はどうぞ。

ゲスト