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2008-04-15

[][]予言成就

※追記(2008/05/09)

 コメント欄がいっぱいになってしまいましたので、続きと事情解説のエントリを新しくたてました↓

 玄倉川さんの約三ヶ月ほど前の予想がどうやら最近的中したような気がしています。

あっさり揉め事が収束したようで私のような野次馬には物足りないのだが、「らんきー」一派や自称中立の人たちはたんぽぽさんの正論に納得したわけではないだろう。被害者意識を溜め込んで、やがてどこかに噴き出すはずだ。

そのエネルギーが外部の敵に向くのか、それとも内ゲバになるのか、あるいは明後日の方向でトンデモ陰謀論に結びつくのか。予想するのは難しい。

たんぽぽさんと斉藤さん - 玄倉川の岸辺

最近またちらほら聞こえてくるこの辺り関連のいくつかのやりとりを読むにつけ、なんと的確な洞察だったのだ、と思うので紹介。ちなみに、見事にというか陰謀論を呼び込んだりしているようですね。

 事情がよくわからない方は玄倉川さんのブクマなどから関連記事をたどれると思いますが、「水伝」の話も「ニセ科学」の話も驚くほど出てこない、ということには注意してください。あと場所によっては、はてブネガコメなんて可愛いもんだ、と思えるような表現にも突然出くわしたりすることがあるので、クリック前にその辺りの心の準備も忘れずに。

poohpooh 2008/04/15 19:01 この辺の最近の動向についてなんか言及しなきゃとか思ってたんですが、正直どう扱ったらいいのかよくわかりません。

dlitdlit 2008/04/15 20:07 >poohさん

僕から見るとニセ科学に直接関わる問題としては、あまり目新しい特徴は無い感じがしています。
なんかやりとりの中で言及される、あるいは関係してくるトピックや要因が多いせいか、自分でもうまく整理できていない気もするのですが。

強いて言えば、指摘や批判をした後の反応として「偉そうに!」「科学が全てと思うなよ!」「そんなのどっちでも良いじゃん!」という事態になってしまった場合にどうするか(あるいはどうなるか)のケーススタディ、というところでしょうか。

黒猫亭黒猫亭 2008/04/17 04:29 >poohさん、dlitさん

poohさんのところで出た「延焼」の話なんですけどね、結局あるマッスの人々にとってはニセ科学批判者=たんぽぽさんたち、という見え方になるんですよね。で、政治ブログの現状に批判的なわりとアタマの良い人たちまでがその前提で「ニセ科学批判者は」とか「ニセ科学批判の言説は」とか語り始めるわけで、そうするともっと広い範囲に誤解が広まるわけですね。

で、当のたんぽぽさんたちは、エントリーを挙げて語るような表向きの論においてはともかく、お仲間たちとの砕けたコメントの遣り取りにおいてはやっぱり揶揄的な調子で論敵の人格攻撃をしているわけで、誰もそういう人格攻撃の連環を止めようとしない。

ハタから視たら私的な口喧嘩にしか見えないわけです。それは勿論、彼らの論敵が彼らを人格攻撃しているからですが、それに同じ土俵で応じてしまったら、どちらの論が正しいという話にはならないんですね、最早論それ自体の妥当性の問題ではなくなってしまいますから。

オレがだんだん「どっちもどっち」的な判断に傾いてきたのは、人格攻撃に人格攻撃で応じることで、自身の言説の意義を貶めている、引いては名分として掲げたニセ科学批判自体の意義を貶めていると感じるからなんです。諄いようですが、あの騒動初期の水伝が中心的な課題だった時点では、たんぽぽさんたちが正しかったということは間違いないんですが、問題なのはそれが人格攻撃の応酬の私的闘争にスライドしていったことに対してあまりにも無自覚に応じたことだと思うんですよ。

問題の核心がニセ科学批判だったのは騒動のごく初期に留まり、後はその批判が投げ掛けた私的な感情や遺恨の応酬に堕しているわけですから、ニセ科学批判の意義を認めるのであれば、政治ブログローカルの「ニセ科学批判者」たちにはもう、あの騒動に言及したり論敵の言い懸かりに一々反応するのはやめてくれないかなとすら思います。

あの件の当事者たちとは別の価値観で考えたら、あの騒動ではトータルでニセ科学批判の側が負けているんですね。当事者たちがどう考えているかは存じませんが、一定範囲の人々に「水伝批判はどうでも好いことで論敵を攻撃する口実だ」という強い印象を与えてしまったわけですから、一度そういう先入観を覚えた人々に水伝の本質的な問題性を訴えることは難しくなるでしょう。

オレが正月の騒動に言及する際に不快感を露わにするのは、この話題が続くことや当事者が誰も止めようとしないことそれ自体に対して強い不快感を感じるからなんですよ。はっきり言って、あの論壇とはもう一切関わり合いたくありません。

dlitdlit 2008/04/17 12:52 >黒猫亭さん

詳しく解説していただきありがとうございます。

多分、僕がこの一連の「騒動」に関して考えていることと、黒猫亭さんの考えていることというのは方向性としてそんなに変わらないんだと思います。あえて言うなら受け取り方の強さが違う、というところかな、と。

>人格攻撃の応酬の私的闘争にスライド

これは僕も感じていて、なんでその部分にまで反応しちゃうかな、と思うことがよくあります。ただ、最近のやりとりを見ていると、「水伝」とか「(ニセ)科学」の話はおそらく双方にとってもはや主題ではないのかな、と。「水伝」なんかタイトルに掲げられてるだけだったりしますし。
もし彼らには彼らなりに何か引けないものがあるのであれば、それはもうお互い納得いくまでやってくれ、という感じです。もちろん公開でやられているわけですから、変なことをするたびに(その立場に関わらず)どんどんそれぞれの評価を落としていくことになるだろうとは思いますが。

>結局あるマッスの人々にとってはニセ科学批判者=たんぽぽさんたち、という見え方になるんですよね。で、政治ブログの現状に批判的なわりとアタマの良い人たちまでがその前提で「ニセ科学批判者は」とか「ニセ科学批判の言説は」とか語り始めるわけで、そうするともっと広い範囲に誤解が広まるわけですね。

こちらの方が僕の中ではなんというか唯一とも言っていい「問題」で、エントリを書こうかとも思ったぐらいです。
以前書いたこのエントリ↓
http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080130/1201670752
も、実はこの騒動も射程に入れていたりします。具体的には言及してないですけど。

ニセ科学批判のほんの一かけらから「ニセ科学批判というものは…」とすぐに全体に一般化する主張というのはこの騒動に限ったことではないですよね。僕は今のところ、こういう言説に対しては問題だと思ったら各個反論していくしかないのかな、と考えています。

僕から見ると、むしろ双方がニセ科学に関すること自体をあまり中心に据えてやりとりをしていないということと、その多くが個人攻撃や政治的なレッテル貼りだということが、むしろニセ科学問題に関心あるものとして言及することを躊躇させる要因になっているのですよね。

端的に言うと、まあ言及することによってこちらまで延焼しても良いのですが、延焼してなお何か得られるから良いか、と思えるだけの対価が思い浮かばないというか。

まあ「喧嘩/不毛な争いはやめようよ」と呼びかけるためにあれだけ強い罵倒表現を用いることができるというのは不快感を通り越して不思議だったりします。

TAKESANTAKESAN 2008/04/17 13:38 今日は。

ニセ科学論においても、「凄い人」とか「凄い論理展開」というのはありますが、件のやり取りは、何と言うか、ベクトルの方向が違うなあ、という感じですね。感情の渦巻き方が凄い、という。

私自身、相手の感情や人格を云々するのは、かなり嫌いなので、自分ではそういう事は書かないし、私のブログでは、そういうコメントは、遠慮して頂いています(その前に、そういう事を書く方はほとんどいらっしゃいませんが)。

私の方略としては、自分の人格性が云々されたり(論理的な批判が伴わない)、中身の見えないような事を言われたりすると、無視、もしくは遮断します。「何か言いたくなる」、という気持ちは解るんですけどね。それを表出してもしょうが無い事もあるのかな、と。

「あいつはバカだ」、と言われて、「どこがバカなの?」と問うたら、「バカだからバカなんだよ」とか、「ん? バカという言い方が気に入らないのか?」なんて返されたら、遮断するしかないよなあ、って。

っと、途中から、仄かに話題がずれちゃいましたね(笑)

dlitdlit 2008/04/17 18:38 >TAKESANさん

こんにちは。

なんかもうあそこまでいくと、ああいう風に対応するのが文化、というかマナーなのかな、という気も最近はしています。

文句の言い合いをすることによってお互いすっきり、わだかまりも解消、となるのなら良いのでしょうけど、どうもそういう方向に向かうことは無さそうですよねえ。
それこそリアルで恨み日記でも付けるとか、モニターに向かって叫ぶぐらいにしておけば良いのに、なんて無責任な外野としては思ってしまいます。

あと、ネットのこわいのはせっかく収まりかけてたのに誰がまた引っ掻き回しだすかわからないことですかね。

黒猫亭黒猫亭 2008/04/18 03:57 >dlitさん

ご意見を伺うと、多分考え方としてはほぼ同じなのではないかな、と思います。

まあ受け取り方の強度は若干違うかもしれませんね。過去にあの人たちにちょっとだけ関わったという当事者性もありますし、最近もウチのブログに当事者の方が書き込みにこられたことがあって、少し突っ込んで正月の件についてお話させて戴いたんですが、その方が今回の件について何を書いておられるのかなと思って見に行ったら、かなり暗澹とするようなことを書いておられて、ああいうのはかなり凹みますね。

騒動の当時によく言われたのが、「政治系ブロガー一般の煽られ耐性の低さ」みたいな話なんですが、dlitさんが仰るように、一番不可解なのはこの人たちのキレ方の素早さとか、つまんない難癖を無視出来ないところとか、ちょっとした行き違いで口を極めて罵倒し合う血の気の多さとか、自分の言葉に酔うような情緒的なところとか、とにかく感情の振幅が極端に激しいところです。なんというか、武侠ドラマを観ているような気分になることが屡々あります(笑)。

dlitさんが本文で、

>>あと場所によっては、はてブのネガコメなんて可愛いもんだ、と思えるような表現にも突然出くわしたりすることがあるので

と書いておられますけど、バトルだから口汚いんじゃなくて、政治ブログ一般、基本的に口汚いのが「仕様」なんですね。自分が批判する勢力は事ある毎に口実(政治活動から下世話な私生活から個人的な嗜癖や挿話に至るまでそれこそ何でも)を見繕っては口汚く罵り、支持する勢力は口を窮めて持ち上げるというロジックが一般的で、批判する政治家は呼び捨てかグロテスクな蔑称でタメ口、支持する政治家は敬称附けで敬語というふうに、敵味方で扱いの差がベタに激しい。

これはニセ科学批判のブログで「江本勝の糞野郎には脳みそが耳かき一杯ほどもない」的な口汚い罵り言葉を聞いたことがないのと対照的で、まるで政治家は公人だからどういうふうに罵っても好いんだと言わぬばかりの論調です。まあ、たしかに公人は実績次第でどういうふうに罵られてもしょうがない立場ですけど、その口汚さが論者自身の見識や程度というものを暴露するというのも事実ですね。

そういうのが一種冷静さを欠いて見えたり毒々しく感じて辟易するんですが、これはかなりマトモなことを言っているブロガーでもそうなんで、たしかに「文化」というふうに解釈するしかないですね。ただ、正月の件が幼稚な罵り合いに堕したのは、間違いなくこのような「文化」の基本仕様の然らしめるところだとオレは視ています。

あの論壇のそういう「人」を指向する特殊な言論体質というのは何処からくるんだろうと考えたことがあるんですが、おそらく、一般人の政治的な言説が一番わかりやすい形で実現するのが選挙の投票行動だからかもしれません。一般人が国政一般に対してどれだけ詳細に論じたところで、実際に政治を動かすのは選挙で選ばれた政治家で、国民一般は政治に対して選挙の投票行動を通じてしか参加出来ない。

そういう意味で政治的言説を通じた自己表現というのは、内容はどうあれ特定の人物を貶めることであったり、特定の人物を称揚することであったりというふうに、論壇固有の特質として「人」を指向しやすいという事情があるかもしれません。あの論壇が一番盛り上がったのが安倍下ろしキャンペーンだというのも、その辺りの事情を物語っていると思います。いろいろなブログを読んで廻っても、とにかく政治それ自体を客観的な考察を通じて論じた言説が驚くほど少ないんですね。

必ずと言っていいほど、特定の政治家なり政治評論家なりという「人」に引き寄せて罵倒したり持ち上げたりというロジックで言説を展開していて、内容については極端に合目的的という印象が強い。デマだとわかっていることでも平気で吹聴したり、不都合な事実に目を瞑ったり、苦しい理屈で擁護したり、とにかく人ありき政党ありきだったりするわけで、特定の人物にとって有利であるか不利であるかで言説の意義を判断する傾向が強い。これって正月の騒動を導き出した体質そのものなわけで、或る言説を巡る批判が簡単に人対人の問題にスライドしてしまうわけです。

陰謀論というのも、まあ、ホントに真に受けているのかどうか疑問なところはありますね。単にたんぽぽさんを攻撃するのに都合の好いストーリーだから攻撃したい人が採用しているというだけに見えます。

dlitdlit 2008/04/20 22:19 >黒猫亭さん

返信遅くなってすいません。

黒猫亭さんのところを読みに行って、該当コメント欄を確認しました。そこまで飛び火していたとは…かの方のブログの内容は僕にとっては「驚嘆」という感じです。そこまで行けてしまえるものなんだな、と。何より対応おつかれさまでした。

>武侠ドラマ

そうなんですよね。エントリ本文ではとても冷静な語り口だったのに、コメント欄ではちょっとしたやりとりからすぐに罵りあいのようになったり。なので、「文化」と書いたのはもしかしたら「むかついたら怒るのが人間」みたいな共通認識があるのかな、などと思ってのことなのですよね。

政治、というより政治活動においてロジックだけではなくレトリックも大きな役割や意味を持つ、というのはよくわかるのですが、レトリックというかパフォーマンスの部分て上手くやるのが結構難しいと思うのですよね。
その点で強烈な言葉や罵りあいというようなものは、かなりリスキーな選択肢ではないのかな、と個人的には思うのです。例えば、賛同のコメントが数個寄せられると同時に、何十、何百というROMの人々に言葉を届ける機会を失っているかもしれない、というようなことは考えないのかな、と。まあそういう同士ではない人、というのはどうでもいいのかもしれませんが。

合目的論的、というところと陰謀論に陥る、というところはつながっていそうですよね。poohさんも若干陰謀論に傾いてしまう必然性、について言及していましたけど、「本気にはしてないから良いじゃない、かたいこと言わなくても」とか、「ちょっと言い過ぎただけなのに、めくじら立てなくても」のような事後の対応自体が陰謀論や疑似(ニセ)科学と、それに関わる情報を媒介してしまうことの問題を認識できていない何よりの証拠なんじゃないかなあ、なんて思うのですけどね。

黒猫亭黒猫亭 2008/04/26 05:40 >dlitさん

どうもです。余所の騒動を煽るのは趣味じゃないので、どうしようかと思っていたんですが、そろそろこの動きもほとぼりが冷めた頃だと思いますので、ここでこっそり総括しちゃいましょうか(笑)。

政治ブログの「罵倒文化」は、学術系ブロガーのdlitさん辺りにはカルチャーショックだろうなぁとか思います。ウチのブログに来られた方に関しては、進んで話を聞いてくださる当事者の方に意見をぶつけてみたいという動機がありましたから、その意味では対応も苦になりませんでした。

おそらくこちらが政治ブログに乗り込んで何か意見を言っても、当事者性に絡め取られるだけで有効ではないだろうと考えていましたので、向こうからコメントしてくださる方と対話可能性を探るという意味では、無意味な対話ではなかったと思います。

多分あの方はオレが両陣営に対して批判的で、らんきー陣営に対する批判を前提としてはいるけれど、それにたんぽぽ陣営に対する批判を附け加えるコメンタリーをも発していたことに興味を持たれたのだと思いますけれど、あの対話においてはオレの意見を真面目に聞いてくださったのだろうし、真面目に意見を言われていたのだと思います。

問題は彼らの動機の部分にはなく、やはり敵味方的な関係観の強固さと、煽られ耐性の低さというか、攻撃に対しては必ず反撃せずにおられない所謂「強燃性」の部分ではないかと思います。やはり長いスパンの歴史性として、言論にも暴力闘争的なニュアンスを含むところがあるのかなというのがあって、言論闘争意識と敵・味方的関係観がセットで政治ブログ論壇の罵倒文化を形成しているように思います。

水葉さんのエントリーでも「銃は敵に向けろ」というフレーズが大きな文字で強調されていて、映画のセリフの引用なのかもしれませんが、それをわざわざ引いて強調しておられた以上、この方が政治的言説というのは敵の打倒を目的とした言論活動だと解しておられるのが視て取れます。

敵を打倒する為に味方が団結するのが政治的言論活動だというわけですね。そこにいろいろとアスペクトや階層性の混乱した雑多な認識が絡んでいて理解が難しくなっていますが。そして、こういう基本認識というのは、両陣営の間で大きく違うわけでもないというのがオレの理解です。

「銃は敵に向けろ」というのであれば、逆に謂えば「敵には銃を向けて好い」という考え方ですが、その場合、自分が誰を敵と認識するかは他人様に指図される謂われなんかないという話にもなるわけです。ここを単純に政治家=敵、一般市民=味方と割り切ることそれ自体が暴論ですし、具体性に欠ける観念論でしかありません。政治家というのは一般市民が選出するものなのですから、特定の政治家と戦うということはそれを支持する特定の一般市民と戦うということになるわけで、こんな単純な二極化が成立するものではないでしょう。

一方、玄倉川さんの一連のブコメで何度か「モヒカン」というタームを見掛けたんですが、正月の騒動を理解するのに「モヒカン対ムラビト」という構造モデルを導入すればわかりやすいというのは事実でも、たんぽぽサイドがモヒカンでらんきーサイドがムラビトだという意味で仰っているわけではないのでは、と思います。

批判派の方でも、ご自身の同志が過去に理不尽な攻撃を蒙ったことを理由に挙げて特定人物に宣戦布告されたりしていて、やはりメンタリティやロジックがムラビト的なんですね。むしろムラビト社会の中で一旦争いが起こると、特定個人間の根深い確執に発展するという恰好の事例なのではないかと思います。現実世界のムラビト社会でも、近所隣の境界線争いとか公共事業の誘致などの利害衝突が絡むと、特定個人間の解消不能な生々しい感情的確執に発展しますが、そういう種類の対立だろうと思うんですよ。

安倍下ろしキャンペーンでも、安倍晋三という敵を打倒する為に孤立している点的なブロガー同士が大同団結すべきだというテーゼがまずあって、本来考え方も具体的持論も性格も異なる大勢の個人が連帯・共闘の旗印の下にオルグされたわけで、まずここでムラ的な息苦しい縛りが生じたわけです。そもそも混ぜると危険な相性の人々がTBPという「狭い」囲いの中に押し込められたわけで、いずれは解消不能な確執が生じることはハナから予想の範疇だったわけですね。

水葉さんが仰っていた「リベラルという狭い世界」というのは、端的にこのTBPを中心とした人的集まりの話でしょう。それはたしかに狭い世界だろうけれど、玄倉川さんが仰るように、その特定集団が即リベラルではありませんよね(笑)。

現実世界で参院選の大敗を受けて安倍晋三が失脚したことにTBP的な活動がどの程度寄与したのかというのは、本来政権与党があれだけ大負けするには、数千万人レベルの人々の投票行動の全体的傾向が動かなければならないわけで、かなり多めに見積もっても一万人かそこらのパイの運動がどの程度の影響を与えたかというのは、冷静に分析すれば一目瞭然だと思うのですが、TBPの人々に「ブロガーが大同団結したことによって敵が打倒された」という窮めて美しいファンタジーを提供したわけです。

そのファンタジーというのは、正直言って「神風が吹いて蒙古船団が斥けられた」というのと大きく変わらない事実解釈の問題でしかないでしょう。この当時のオレは個人的に最もこの論壇と接近していましたので、安倍晋三の退陣を受けて「我々の活動が実を結びましたね!」とハイタッチせんばかりに喜んでおられたTBPの人たちの様子を目の当たりにしていたわけですが、率直に言って、これは単なる希望的観測というものでしょうし、ハッキリ言えば幻想でしょう。

あの論壇でも、それが幻想であると考えておられる方もおられると思いますが、その幻想は役に立つから大きな声では否定されないわけですね。そう思っていたほうが励みになるからそう思っているわけです。ここにもあの論壇の合目的的特質が顕れていることになりますが、現状認識に合目的性が織り込まれると、戦略の現実性の観点では大変危険なことになります。

水葉さん辺りは、おそらくそのファンタジーの美しさが忘れられなかった、大同団結し協力し合う人々の姿の美しさが忘れられなかったから、その束の間の幻想が費えたことをいつまでも情緒的な言葉で嘆き続けたのではないかと思うのですが、分裂の萌芽はいきなり生じたわけではなくて、最初の最初からすでに潜在していたわけで、謂わばその団結の美しさも幻想でしょう。ただ、大同団結による悪玉打倒のファンタジーに生きるような観念性というのは両陣営に共通していて、一種の敵味方対決の唐獅子牡丹的なセンチメンタリズムで動いている部分というのがどうしてもあるわけです。

一方、そもそもモヒカン的メンタリティというのは、敵味方的関係性や組織論・活動論という人についての規範でブログ言説を視ないし、関係性の文脈におけるセンチメンタリズムを解さないという殺伐議論のロジックなわけで、総論賛成各論反対なら各論まできっちり議論を詰めて線引きしないと気が済まないという、論に対する偏執的な固着性を謂うわけです。

しかし、総論賛成各論反対なら各論の齟齬には目を瞑るという連携の姿勢は両陣営に共通しているわけで、何故この分裂が起こったかというと、元々考え方や性格の合わない人々が窮めて大括りな錦旗の下に表面的な協力関係にあっただけなのだから、大同目的が消失してしまえば割れるべくして割れたというだけなんですね。

つまり、物凄く単純化して謂えば、附き合うことがなければ喧嘩することもないわけであって、そもそも点的に孤立していたブロガーをオルグする過程で、本来なら互いにシカトし合っていれば何の問題もなかったような人々が出会う機会が作られたのだし、そういう人々が共通の目的の実現を目指して互いに共闘すべきだという話になった、これは揉めるのが当たり前です。

そのような、非常に具体的な関係性を論点とした分裂ではないかというのがオレの意見で、批判派の方々も互いの間で論を重んじた殺伐系の厳格な議論を戦わせているわけではなく、従来通り総論の下に各論の齟齬を微調整していたりするわけです。

そして、たとえば玄倉川さんはTBを送り合うのはらんきーサイドの特徴のように書いておられるようにお見受けしますが、そもそもTBPのキャンペーンを主唱されたのは「カナダde日本語」の管理人さんであって、謂わば正月の騒動では批判派に当たる方です。その安倍下ろしを呼び掛ける最初のTBPに対抗する形で別のTBPを立ち上げた方がおられて、そこで意見衝突があって小競り合いに発展したことが正月の騒動の前哨戦となっていますので、そのことはよく覚えています。

このときはたしか、リベラル左派の論壇のリーダーシップ的な部分を巡ってかなり下世話な言い合いがあって、両陣営の言い分も大体このときに出揃っていて、すでにこのときに正月の騒動の萌芽が視られたわけですね。

このTBPに参加しておられないのは、当事者の中では政治ブログの局外者を宣言しておられるたんぽぽさんくらいではないですかね。ですので、ブロガー同士の連携の是非を巡って対立しているわけではなくて、連携対象が再編されただけだというのは否定出来ないんですね。TBを送り合うことでシナジー的に言説の勢力を拡大するという戦略については、元々双方で共有されている合意事項であるわけです。

それにはそもそも政治ブログ一般が、世論形成や投票行動への影響力を獲得することを目指しているわけですから、アクセス増大を一義的に指向する傾向があるということもあるし、その為にアクセスの多いブログがそうではないブログのアクセス率を引き揚げるという共闘の発想があるわけで、アクセスの多いブログのロールモデルとしては、たとえば「きっこの日記」などがあるわけですね。

こういう傾向には原理的に「人気ブログに採り上げて貰う」ことを合目的的に指向して発話するという副次的な傾向を生み出してしまうわけで、これは悪く謂えば人気ブログの言説に迎合する風潮に繋がりやすい。ここに論の独自な意義よりも大同目的を大きな声で主張することに拘るという体質が加味されると、人気ブログを中心とした一種の派閥形成に直結してしまうわけです。正月の騒動が派閥闘争的な性格を持っていて、特定ブログ勢力にコメンターが蝟集する形で発生したのは、このような原理に由来するのだとオレは視ています。

また、元々ぶいっちゃんさんは「政治ブログをやってるつもりはない、日記ブログだ」と明言しておられますので、コメンター同士の社交を重視されるのも自然なんですが、それが政治的な言論活動としては2ちゃん語的な意味で「なれ合い」的な側面を持ち、私的社交の領域と公論の領域が不分明になるという弊害があったことは否めないわけで、具体的にはこのメンタリティを巡って対立があるわけです。

連携となれ合いは違うというわけですね。連携それ自体を否定するなら、そもそも批判派の一人がTBPを主唱し批判派の方々の大半が現在も参加しているという事実の意義が問われなければなりません。TBPの意義がアクセス増大にないとすれば、シニカルな見方をすれば一種の署名活動的な示威行為という対外的意義しかなく、リストに連なる頭数が問題だという話になってしまうわけで、これはTBPに参加した賛同者の認識とは大分異なるものでしょう。

オレの個人的な認識としては、政治的言説に関しては批判派のkojitaken さんのご意見に近く、庶民にとって「わかりやすい政治」を説くことには意味はない、庶民が自身の庶民たる立場に甘んじることなく政治を正確に理解しようと努力すべきだという考え方で、これはニセ科学批判などにも通じる良識の問題だと思います。ブログで政治を語るほどの者なら率先してその努力を払うべきではないかと考えていますが、TBP的な連携の効果には疑問を感じています。というか、人と人との関係性に立脚する言説それ自体に意義を認めていません。

ブログ言説が現実に影響を与えるとするなら、たとえばニセ科学批判の論壇が考えているような間接的な波及のプロセスが現実的だろうと思いますし、その範囲ではブログ言説にも十分な力があると考えます。しかし、一方では国政選挙レベルのマクロな現実に対してはブログ言説が如何ばかりの力を持つだろうと疑問に思いますし、そこは到達距離の見積もりが妥当ではないところだろうし、引いては戦略の方向性の問題にも繋がってくるだろうと考えています。

たとえばかなり以前poohさんのところで伺った、イノベーターとアーリーアダプター的な伝播のプロセスというのが、おそらくブログ言説の影響力の在り様の根本原理なんではないかと思います。しかし、政治ブログの場合、言説の目指すべき到達目標が国政選挙の趨勢というハッキリしたわかりやすい形でもたらされる為に、どうしても悠長に筋論を詰めるという余裕が持てないのかもしれません。

現在のブロゴスフィアにおいて、「リベラル左派」というタームが端的に何を意味するかと謂えば、理念的にはアンチ新自由主義・アンチ新保守主義であり、それを具体的に謂えばアンチ自民小泉派・アンチ民主前原派という意味になります。この旗標は窮めてわかりやすく、そのわかりやすい目的が国政選挙において実現されることが最終目標とされているわけですから、細かい議論を詰めるまでもなくスローガンを叫んで合目的的に情報発信することで十分だという認識に繋がりやすい。

難しい政治を勉強して理解するまでもなく、悪玉の自民が負ければ何とかなるんだろ的な見方をする人も多いわけで、難しいことを考えるのは政治家の役回りで、庶民は信頼出来そうな政治家を応援し、ダメな政治家を撃つだけで好い、わざわざ「仲間内で」何を刺々しく議論することがある、という割り切りがあるのかもしれません。

apjapj 2008/04/27 01:49 玄倉川さんのところからたどって、どう言及しようかと思ったのですが、
こんなの
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9027
にしかならなかったですよ……。

dlitdlit 2008/04/29 08:53 >黒猫亭さん

解説ありがとうございます。
大分自分の中でも整理がつきました。

>「罵倒文化」

2ちゃんなんかにも結構顔を出しているので、罵倒そのものにはそこそこ免疫があると思うのですが、なんというか「平和主義」や「弱者に優しく」などと掲げている人たちが「喧嘩/誹謗中傷はやめて」というエントリでのやりとりであれだけの表現を使ってしまえるというところに違和感を感じたというか…

>おそらくこちらが政治ブログに乗り込んで何か意見を言っても、当事者性に絡め取られるだけで有効ではないだろう

これは僕も強く感じたところでした。それであまり具体的には言及しなかったのですが。ケーススタディとしては個人的には興味深かったのですが。

>敵味方的な関係観の強固さ

政治活動にそういうファクターが絡んでくることはわかるのですが、庶民派?なスタンスの人がそうだというところも不可解なんですよね。政治の影響を直接その生活に蒙る者として政治を判断するならもっとこう、個別の事例ごとに支持する政党や支持者が変わっていいような気がするのですが。

>たんぽぽサイドがモヒカンでらんきーサイドがムラビトだという意味で仰っているわけではないのでは、と思います。

これは僕もそう思います。私見ではあの騒動に積極的、継続的にコミットしていてモヒカンと言えるのはそれこそ玄倉川さんぐらいではないかと。その玄倉川さんですらおそらく「当事者」とは認識されていないような感じがしますが。

>庶民にとって「わかりやすい政治」を説くことには意味はない、庶民が自身の庶民たる立場に甘んじることなく政治を正確に理解しようと努力すべきだという考え方で、これはニセ科学批判などにも通じる良識の問題だと思います。

この方向性には大体僕も同意なのですが、一方でわかりやすく伝える人、というか翻訳者のような立場の人もいてもいいかな、というぐらいには考えています。ただ、そういう人にはそれと同時に「わかりやすさは正確さやディテールを犠牲にすることが多い」という認識ももっと広めてもらいたいな、と。

ふと思ったのですが、「いいから俺(あるいは誰か人気のある人)の言うとおりにしておけば間違いないって」ってある意味で民主主義の否定にもつながりかねないと思うのですけれど、それで良いんですかねえ。

あと、個人的には色々なスタンスや考え方を持った人たちが一つの目標を共有している(妥当自民党とか)というイメージを形成した方が多くの人に訴えかける戦略として有効な気もするのですが、黒猫亭さんの分析に沿って考えると、そのあたりのことはあまり重要ではないのかもしれませんね。

dlitdlit 2008/04/29 08:56 >apjさん

エントリ、拝見しました。
読む時何も口に含んでなくて良かったです。

なんか、この騒動だけでなくてある程度応用というか援用が利きそうなところがこれまた頭が痛いところというかなんというか。

poohさんと菊池先生poohさんと菊池先生 2008/04/29 19:54 天羽准教授はまず山形大学に内容証明つきのクレームをするべきだ
http://eventhorizon.seesaa.net/article/95046282.html
ブログにおいてやってはならないこと
http://eventhorizon.seesaa.net/article/95045024.html

kojitakenkojitaken 2008/05/06 09:28 はじめまして。kojitakenと申します。正月以来の「水からの伝言」騒動にかかわった1人です。

ちょっと本論から外れているかもしれないコメントをします。

このコメント欄で、政治ブロガーの血の気の多さとか、煽られ耐性の低さとかの話が出てきていて、学術系のブログでは考えられないとのことですが、私は「血の気の多さとか、煽られ耐性の低さ」というのは、むしろ技術系の人たちに顕著な傾向なのではないかと思っていました。

というのは、インターネットの利用者がまだ技術系の人たちが中心だった90年代の「fj」のニュースグループで起きた数々の論争を私は知っているからであって、そこでの議論における罵倒の激しさは、「水からの伝言」騒動の比ではなかったからです。それは、技術系の人たちは馴れ合いを好まない傾向が強いせいもあるのかもしれません。

そこでも、議論それ自体の正邪より、誰の発言になるものかということが優先するという現象も見られました。そういえば、学者の世界でも派閥があって、私の学生時代の経験から言えば、○○大学の××研究所と△△大学の□□研究所の意見が対立しているときなどに、××研に所属する研究者が、「□□研はあんなこと言ってるけど、信じられないよなあ」などと言うのを聞いたことがありますが、同じ研究者が□□研にいたとしたら、同じことを言えるかというと、それははなはだ疑問です。

だから、血の気の多さだの煽られ耐性だのというのは、政治ブログの仕様なんかじゃなくて、人間の仕様なんだろうと私なんかは思いますね。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/06 15:55 >kojitakenさん

オレが言うのも変な話ですが、こちらへお出まし戴きましてありがとうございます。上のほうで陳べたように、オレは基本的に騒動当事者の主宰する場に出向いて議論するのはあまり意義がないと思っていますので、別の場所で一度そちらとお話をしてみたいと思っていました。

ですので、kojitaken さんが何故このタイミングでコメントしてこられたのかは察しておりますが、あそこに出向いて何かを書き込むつもりは一切ありませんので、何かご意見があればこちらで承ります。

こう言えば通じると思いますが、オレが政治ブログ論壇に関して申しあげている事柄においては、「騒動の当事者性」ということが重要な条件附けになります。ですから、オレ自身に騒動についての直接当事者性が発生しないように、場所と論点を選んで発言しているわけですね。

「関心がない」「関わる気がない」というのも直接当事者性の観点の話で、非当事者的な観点において論じる分にはその限りではないということです。その文脈が多くの読み手の間で共有されているから、誰も「矛盾している」と批判する人がいなかったのだと解しているのですが、違うんですかね(笑)。

少なくともニセ科学批判にコミットしておられる論者の方なら、それが「ニセ科学と戦う仲間」である黒猫亭の発言だからと言って、矛盾を感じたら何ら斟酌せずにツッコミを入れると思いますので、その意味では読み手の見識を信頼しています。論壇に信頼性があるというのは、要するにそういうことなんですよ。

そういう次第で、ご本人があのように言及なさることで納得されるのであれば、とくにそれに直接反論する必要は感じていません。第三者の読み手が公平に相互の言説の妥当性を判断すれば好い話ではないかと思います。勿論、どういう批判を展開されようがそれは向こうの自由ですが、それに応じないのもこちらの自由ですので(笑)。

あと、かなり気になったのは、あのような記事が上がっているのだからさぞかし野次馬が殺到するだろうと予想したのですが、ビックリするくらいあそこから飛んでくる人が少なかったということあります。まあ、連休最後の日だからと思いたいところですが、それにしても桁外れに少ないのが気になりました。

>>だから、血の気の多さだの煽られ耐性だのというのは、政治ブログの仕様なんかじゃなくて、人間の仕様なんだろうと私なんかは思いますね。

このご意見にはちょっと同意しかねます。より正確に謂うと、罵倒が罵倒を呼んでどんどんドライブするのが人間の仕様だというだけであればその通りだと思いますが、ネット上の言説において、という付帯条件が附いて、さらに今現在の時代性を勘案すると、そのような原初的な人間の仕様が生の形で表出していることは、十分に個別の論壇の特徴として括り得るものだと考えます。

kojitaken さんが挙げておられる例は、十数年前のそれこそネット黎明期のお話で、一部の技術者やパソコン小僧が主にネットワーカーの中核だった時代の話だと思うのですが、そういう時代性において掴み合いに近いような無秩序な罵倒合戦が横行し個人間の確執に発展する事態が多発していたことは事実ですね。それはネット黎明期の混乱というか、こんにちのネットの諸問題が最も未整理な形で混沌として渦巻いていた時代性の故であるかと思います。

草創期にはどうしても経験知の積み重ねがありませんから、そのメディアが構造的に抱えている諸問題が何の手当も為されない儘に噴出してしまうことになります。ネットというのはアクセス手段さえ確保されていれば誰でも参加出来るので、マスメディアに比べてノイズが多いわけで、秩序を統制する強制力を持つ上位機構が存在しないので、一旦混乱すると収拾が附かなくなるという構造的な脆弱性があるわけですね。

あの当時と現在ではネットの状況も違いますし、原初的な段階で噴出した問題がドッグイヤーと呼ばれる窮めて早いサイクルでメタ的に論じられ、さらにネットワーカーの裾野がどんどん拡大するにしたがって問題の在り方も変容してきて、或る程度「ネット上ではこのように振る舞うことで初歩的な問題なら回避出来るのではないか」というような知恵も積み上げられてきているわけです。

たとえば2ちゃんの祭りやブログ炎上という数々の事件なども、ネットリテラシーを考察する上で恰好のテストケースとなったわけで、ネット論、バトル論などもブログ言説の主流的な考察の対象であったりするわけですね。

また、2ちゃんと一口に謂っても、良質な議論が展開されている場はたくさんあるわけで、単にマッスとしてはやはり低級な罵り合いが多いというのと、あそこまで巨大な言論空間においては、容易く群集心理で騒動がドライブされるというダイナミズムの問題というのが、外部から視ている人間には目立って感じられるということだと思います。

で、kojitaken さんが回顧しておられるような体質の場というのは、たしかに現在でもかなり多いことは事実ですね。ネット上では今日も何処かで原始的な罵り合いが繰り広げられているというのが現状でしょう。ただ、少なくともシリアスな社会問題を論じてブロゴスフィアで注目されるような場では、一定の自律のメカニズムが確立されているわけで、ニセ科学批判の論壇などもそのような場の一つでしょう。

シリアスな問題性というのは罵り合いで何かが解決するわけではないし、誰か特定の傍迷惑な論者がやり込められたり心理的にダメージを受けて敗退することで何かが成し遂げられるわけではないですよね。多くの人々がその問題性を考察する上で重要な意見や議論が数多く発信され有意義な知見が蓄積されることが重要なのであって、傍迷惑な莫迦が幾ら吠えたところでそれはノイズでしかありません。

ニセ科学批判の論壇にもその手の迷惑な人間がたくさんいますが、その手の莫迦が吠えたことでその論壇全体が罵り合いに巻き込まれたら、有益な議論を交わすどころの話ではなくなります。不特定多数の人間の間におけるコミュニケーションというのは、混乱するのは容易いが有益な議論を交わす為にはかなりコストを強いられます。たとえば、意見の異なる者同士が議論を交わす場合、互いに相手にとって受け容れ難い対立する主張を言い合っているわけですから、口喧嘩に堕落するのは簡単ですよね。

たとえば上の発言で謂う「煽り」というのは、本質的に議論とは関係ないノイズなんですね。口汚い罵倒をしつこく加えれば、議論参加者が感情的になって言い返してくるだろう、そうすれば論点が逸脱拡散し、論者の理性が混乱して議論が破綻するだろうという、要するに議論の進展を妨害する為の面白半分のちょっかいなんですね。こういうノイズというのはどれだけ腹立たしくても基本的に無視するしかないわけで、応じたら議論が毀れるというのは原理的に仕方のないことですし、度重なればブログ主が発言削除やアクセス禁止にするという事後対応しか出来ません。

つまり、「煽られ耐性が低い」ということはマトモな議論が深耕される可能性が低いということになるわけです。ネット上の有力な論壇というのは、そのような煽りに対して或る程度の耐性があるわけで、だから原理上煽りを排除出来ないネットの場において有意義な議論を展開出来るわけです。で、煽られるプロセスというのは、具体的に謂えば口汚い言葉に対して口汚く応じることが出発点になるわけで、口汚い表現や嘲弄というのはどうしても人間の感情をドライブしてしまうので、冷静な議論を継続しようと思ったらどんな口汚い表現に対しても口汚く応じたら負けなんですね。

一旦議論が口喧嘩に堕してしまえば、寄ってくるのは火事場見物の野次馬だけで、有益な情報や意見を得ようとするマトモな読み手はうんざりして立ち去ってしまいます。ですから、冷静な議論を交わす為には或る程度の感情の制御が必要ですし、相手の意見を全否定するのではなく、認めるべきは認めた上で自説の整合を図り、適宜修整し、相違点や合意点を探るという、怜悧な知性に基づいたエゴの抑制も必要です。

論壇の主立った論者の間で議論の場においてこのようなコストを払う文化が概ね共有されていれば、それはその論壇が敬意に値する場であり意見を拝聴する価値があるということで、場の持つ自浄力に信頼性が期待出来るということになります。

これに対して「人間の仕様だから」と言ってしまったら、ではどうしてそのような仕様に反した例外としての有意義な場が数多く存在するのか、という話になります。そちらの仰る「人間の仕様」が生の形で噴出している場を例に挙げて、それは別段特殊なことではないとボトムランナー方式で仰るのでは、政治ブログ論壇はネットにありふれた罵倒渦巻く雑談の場と何ら変わる所がないボトムランナーで、そこで有意義な議論を交わし得る可能性なんかないと仰るのと同じことになってしまいます。

重ねて申しあげますが、たしかにネット上にそんな場所がたくさんあることは事実ですが、そうでない場所もたくさんあるわけです。ブログ言説が現実社会に対して影響力があるかどうかには議論がありますが、影響力があると仮定するなら、最低限後者のような理性的な言説の場でなければならないだろうとオレは考えているわけで、前者のような場であれば、世間の受け取り方としては「ああ、何かネットでまたイナゴが騒いでるみたいだね」という以上のものではないでしょう。

勿論、どんな有意義な議論を交わしていても、世間の大勢としてのネット観なんかそんなものだとは思いますが、そう言ってしまったらネットで言説を発信する意味自体がなくなってしまいます。限定的な規模にもせよ、ネット上の言説が現実社会に対して届くことを期待するならば、現実社会における「またネットで騒いでるね」という雑駁な受け取り方に対して「いや、ちゃんとしたことも言ってるんだよ」「こんな為になることを言っているんだよ」と力説してくれるような読み手を、一人でも多く増やすという地道な努力が必要なのではないでしょうか。

そして、たとえば政治批判とニセ科学批判という問題を対置させてみると、そのいずれが重要かという軽重を問うことに意味はありませんが、ニセ科学批判というのは、社会全体の中の或る特定の領域の問題性を限局的に扱うという方法論に基づいた言論ですが政治というのは最高度に包括的な問題性だと言えますよね。部分としての社会の諸問題に包括的に対峙しているのが政治というもので、政治言論というのは「天下国家を論じる」という階層上最上位の公論としての性格を具えているはずです。

部分としての何を論じたとしても、それは回り回ってすべての国民の現実生活に直結しているわけであって、政治的発言というのは誰にとっても無関係では在り得ないという不可避的な公論としての性格を持っているわけです。「誰が迷惑するかしらんがオレはこう思う」と言うだけなら、単なる無責任な放言に過ぎません。

その意味で、表の公論の部分に関してはオレはkojitaken さんの立場を支持していますし、そのことはこの問題に触れる都度強調しています。難しいことはわからなくてもいいんだ、日常感覚で感じた儘のことを言えばいいんだなんてことが、少なくとも政治的な主張を行う言説に関しては許されるはずがないんですよ。日常感覚では厭なことでも全体的に考えたら甘受すべきことはたくさんあるわけで、その事実関係をきちんと把握した上で言うのでなければ、それで迷惑する人にとっては「勝手なことを言うなよ」という話にしかなりません。

日常感覚で不見識に発言したことが、回り回って誰かを不当に痍附けたり間違った世論として大勢を成し間違った政治を後押しする、そういうことがあったから今の世の中があるわけです。今の政治の在り方を批判するなら、庶民が庶民性に甘えて「わかりやすい政治」を求めたツケであるという反省とセットでなければならない。こういう考え方自体は、政治とニセ科学の両方の領域に跨る問題性です。

そういう意味で、政治問題に関して情報を提供したり有意義なご意見を発信して、人々に少しでも勉強して「難しい問題」を自分の頭で考えようよと訴えかける立場に関しては支持しているわけですが、その一方で政治ブログの現状を「人間の仕様」と仰るのであれば、この論壇ではマトモな議論が出来ないんだということになります。

どんな論壇だって、冷静な議論が成立するようなコミュニケーションスキルを最初から身に着けていたわけではなく、継続的にコミットしておられる論者の方々の粘り強い努力の末に、その言論領域全体の理性的なコンセンサスが醸成され、議論を攪乱しようと目論む面白半分の煽りという「テロ」に、論壇全体の趨勢として冷静に対処する健全性が培われたのだと思います。

この際だからハッキリ申しますが、オレは政治ブログ論壇において、そのような中核的な役割をkojitaken さんが担ってくださるのではないかと期待していたのですが、正月の騒動では当事者の中核的な役割を果たされたので、大変失望したわけです。さらに今回のご意見を伺うと、なんというか政治ブログという言論の場がブロゴスフィアにおいて敬意を以て視られるような有意義な場として成熟するという希望をまったくお持ちではないのかな、と感じてさらにガッカリしました。勿論、オレにそんな勝手な期待をされても迷惑でしょうが、誰もそのような役割を担う方がおられないとするなら、やはり政治ブログ論壇の将来は明るいものではないと思います。

たとえばぶいっちゃんさんやニケさん、SOBAさんが個人としてどんなに間違っていると感じたとしても、その間違いは公論として政治を論じる観点においては関係ないことですよね。あの方々が仰っている政治的主張が間違っていると思われるのであれば、そこを指摘して冷静に持論を展開されれば済む話です。あの方々とkojitaken さんの繋がりというのは、政治的言説を介した関係でしかないはずで、別段職場の同僚というわけでもないし、お舅さんだというわけでもない。

ならば、彼らが論じる価値もないくだらないことを言っているとお感じになるのであれば、無視して一向に差し支えないわけで、罵倒を返しても個人の気が済むというだけの話だと思いますし、それにさらに罵倒が返されるだけのことで、彼らの罵倒に反応することで罵倒合戦が続くというだけのことではないか、それは第三者から視たら何の意義もない火事場騒ぎでしかないのではないか、そういうことなんですよ。

政治的言説というのは、日本人全員に一人の例外もなく遍く直接的な関係を持つとびきりの公論なのだから、政治的言説を介した個人性の行き掛かりをブログで発信することはその公論としての意義に悖る、寧ろ論壇成熟の障碍にしかならないのではないかということなんですよ。政治という対象の広大な包括性と、個別の論者同士の個人性の卑小さの対照が剰りに際立ってしまいます。

そのような個人性の部分が強調されることによって、誰かの論に対して別の誰かが意見を述べる、その場合に、あいつはこいつが嫌いだから、好きだから、こう言っているんだという見え方になる。それでは論自体は口実でしかないという見え方になってしまいますし、個人性の動機を一旦許容してしまえば、その見え方には根拠があるということになります。

それは政治ブログという公論の場に関しては、自殺行為ではないかと思います。たとえば今現在、リベラル左派と呼ばれる論壇がブロゴスフィアの中でどのように視られているのか、それを検索してご確認戴いては如何でしょうか。すでに十分ご存じでしたら差し出たご意見ということになりますが、オレにはそのような周囲の目を意識した上でこのような現状があるとはちょっと思えないです。

たとえば、下記のような冷静で有意義な議論というのは、あんまり政治ブログでは視たことがないなぁと思うんですよ。

http://taizo3.net/hietaro/2008/04/post_275.php

それから、政治ブログの論者の方一般が不思議なのは、あんまり読み手の見識を信頼しておられないのかな、ということです。kojitaken さんは違いますけれど、多くの論者の方々はとにかく大きな声で主張を展開することに腐心しておられますが、ブログ言説というのは基本的に中身で判断されるもので、莫迦なことを大声で言えば莫迦だと感じる人のほうが多いと思います。どれだけ多くの人が叫んでも、その主張が莫迦ならば「ああ、莫迦が大勢いるな」と視られるだけのことです。

だから、「こいつは莫迦だ」「こいつはどう視ても間違っている」という自分の判断に或る程度の自信があるのなら、ほっといても当人が多くの人に対して莫迦を晒すだけなので、わざわざ莫迦だと指摘するまでもないというのがオレの姿勢です。そういう意味でネットの喧嘩というのは目の前の相手を言い負かせば勝ちというものではなく、平均的な読み手から視て莫迦なことを言ったほうが負け、というふうに考えていますので、口汚いとか感情的だというのは、その時点ですでにアタマが悪そうに見えて不利なんですよ。

で、原理的に言ってネットの喧嘩の勝敗は誰がジャッジするのかと言えば、第三者の読み手以外にはいないわけで、当事者はとにかく目の前の相手に負けを認めなければ負けないと思い込んでいる人も多いですが、出発点からすでに負けている言説というのもあるわけで、そういうのは抛っておくのが最も得策だということになります。対応して同一地平に立ってしまったら、手数が多ければどうしてもミスも増えるので、第三者視点でどちらが正しいのか判断不能になることも多いですので。

たとえばkojitaken さんが、政治的言説に交えて個人的に敵対関係にある方々の罵倒に一々反応して揶揄的に非難しておられるのを視てガッカリするという感じ方は、オレだけのものではないと思います。

正月の騒動に或る程度当事者的にコミットしておられる方々は、相手が仕掛けているのだから応じるのは当たり前だというふうに考えられる方もおられるだろうし、そういう方は書き込みをするモチベーションをお持ちですから、表面的にはkojitaken さんたちを支持しているご意見が多いという見え方になるかもしれませんが、まあ普通の感じ方では赤の他人の個人対個人の口喧嘩というのはノイズでしかありませんので、どんどん現実社会との媒介を果たしてくれそうな声なき読み手が離れてしまうということもあると思いますよ。

まあ、こういうふうに長々と書かせて戴いても、これもまた苦笑されるだけかもしれませんが、苦笑混じりにでもご一考戴けますと幸いです。

kojitakenkojitaken 2008/05/07 00:58 黒猫亭さん、

私が「水からの伝言」のバトルに参戦した時、建前論をふりかざしてぶいっちゃん氏やSOBA氏、ニケ氏、喜八氏らと戦うことだっていくらでも可能でした。

しかし、私はあえてそうしませんでした。たんぽぽさんに対するSOBA氏の対応にいちゃもんをつける形で参戦したのですが、あれを書いている時の私は、実は非常に冷静で、論戦を煽る目的で、実際以上に「感情的になっている」演技をして記事を書きました。ちょっと度が過ぎたかもしれないと自分でも思っています。

政治ブログはおろか、実際の政治の場においても「公論」はほとんど何の効力も持っていません。一面で冷静な観察者という側面を持つ渡邉恒雄(ナベツネ)の著書などを読むとよくわかりますが、政界の権力者を突き動かしているのは強烈な情念です。それこそ、それが人間の仕様です。

普段は公論を述べるべきだ。だが、いざバトルというときになれば、なりふり構わず戦うべきだ、というのが、私が政治ブログを運営するときの基本的な姿勢です。バトルの時に公論を論じていても勝てないのは、「公論」どころか支離滅裂なことしか言えない小泉純一郎が「郵政総選挙」で圧勝したことで証明済みです。

なんだかんだ言って、政治は多数を確保する戦いだと私は考えており、だから自己満足しているようにしか見えない一部「護憲派」の人たちを見ていると私はイライラします。戦いに勝利するためには、時にはバカなこともやらなければなりません。

dlitdlit 2008/05/07 07:27 >kojitakenさん

はじめまして。

黒猫亭さんが色々お答えしているので僕が口を出さなくても良いのかもしれませんが、最初のkojitakenさんのコメントに関してのみいくつか書いておきます。

>政治ブロガーの血の気の多さとか、煽られ耐性の低さとかの話が出てきていて、学術系のブログでは考えられないとのことですが、私は「血の気の多さとか、煽られ耐性の低さ」というのは、むしろ技術系の人たちに顕著な傾向なのではないかと思っていました。

学術系と技術系では結構違いがあると思うのですが、まあそれは別として。
学術系と呼ぶことができるようなブログを運営している人やそのコメント欄で議論する人でも、煽られ耐性の低い人もいれば罵倒表現を使用する人もいます。ただ、そういう人や議論は第三者から評価されないというだけだと思います。少なくとも僕がよく出入りするネット上の文化では。
そのデメリットが分かっている人は仮に煽られたりしても付き合わないということかと。分かっていながら確信犯的にやる人もいますけどね。

>学者の世界の派閥の話

これも、そういうことは実際にあるそうですが、そのような身内の事情によって研究の内容が学会内での評価を変える、ということは基本的にありません(たまに不正などもあるそうなので言い切れませんが)。どんなに派閥内で優遇されていても、内容がダメなら論文も通りませんし、評価もされません。研究の世界は有名な教授や研究者でも論文を落とされたり学会発表の募集に漏れたりということが普通に起こるところです。
あと、「□□研はあんなこと言ってるけど、信じられないよなあ」というような台詞は日常的にありますが、それは感想のようなものであって、信じられないから批判に応えなかったり、その内容を吟味しないということは許されません、というかそれを怠っていたらやはり外部から評価されません。むしろ対抗言説であるなら(なりうるレベルのものなら)それにどう対抗するかは真剣に考えられますよ。
ただ、僕も自分の所属する研究分野と自分の所属する大学についてしか経験がありませんし、あとは聞いた話ぐらいですから、他の研究分野が実際にどうなっているかはわからないのですが。

>血の気の多さだの煽られ耐性だのというのは、政治ブログの仕様なんかじゃなくて、人間の仕様なんだろうと私なんかは思いますね。

仮に学術系と呼ばれるような人たちもそうだったとしても、そこから「人間の仕様」とまで言うのは推測だとしても少し飛躍しすぎかと思いますが、個人的には個人差や文化の差が無視できないほどにあると思うので「仕様」とまでは思えません(これもまだ推測のレベルですが)。
あともしそれが人間の仕様だということが言えたとしても、それとどう付き合い、うまくコントロールするかということについて人間は多くの知恵を蓄積し色々な方法を模索し開発してきたと思います。
僕が上で「文化」と書いたのは、そういう知恵や他の選択肢を知っているのを前提にして、それでも煽りに付き合ったりするという選択肢、あるいは戦略を選択しているのかな、ということを考えてのことでした。そして、それは僕が普段僕の周りにある文化とはどうも違うようだ、ということです。

黒猫亭黒猫亭 2008/05/08 07:04 >kojitakenさん

仰ることについては理解しました。

しかし、それは要するにコイズミがポピュリズムで勝ったのだから、そのような政治の在り方にはポピュリズムで応じるしか勝ち目がない、という意味にしかならないのではないかと思います。そういうふうにkojitaken さんがお考えになるのはご自由ですが、そうだとしたら、kojitaken さんの政治的言説はコイズミと同様に合目的的なレトリックに過ぎないととられても仕方がないと思います。

また、それを前提として考えても大きな疑問が残ります。kojitaken さんが「多数を獲得する為の戦略」と仰る場合、その「多数」とは如何なるものを想定しておられるのかということと、その目的に対してぶいっちゃんさんやニケさん、SOBAさんにバトルを仕掛けることに戦略上何の意味があるのかということです。

まず「多数」が何を指示するかということですが、これが仮に投票行動に直結するような現実世界のマッスを指すのであれば、上で語ったように膨大なPVを獲得する必要があります。kojitaken さんが度々言及しておられる「きっこの日記」でも、政局を覆すレベルの投票行動への影響力という意味では苦しいでしょう。

一方、ブログ論壇における影響力を獲得する為のブロゴスフィアにおける支持者の人的マッスという意味で「多数」と仰っているのであれば、それはまずTBPに参加しておられる政治ブロガーたちの多数に対する影響力を獲得するという意味だととらえるのが一般的ですよね。。

さらに、前者を最終目標として睨んだ上でその為の過渡的プロセスとして後者をまず戦略的に目指すという考え方もありますね。また、既存の政治ブログの人脈を一旦棄ててもっと大きなパイに受容される言説を目指す、その意味での「多数」であるという受け取り方もあります。

いずれにせよ、この場合に「多数」として想定可能なのは、現実世界における多数という意味と、ネットにおける多数という意味であると思いますが、それ以外をお考えであればご指摘願いたいと思います。とりあえず、オレが想定可能なのはその二者だけですので、それを前提に論を進めます。

この場合、その両方とか、漠然と「多数」というのでは戦略の立てようがないということになりますよね、言説の到達プロセスやマッスの規模が全然違いますから、共通の戦略で対処することは出来ないので、そのどちらかであるというふうに考えられます。すると、次に考えるべきことは、「政治ブログにおける特定の論者とバトルする戦略的意味」ということになりますから、こういう順序で考えてみましょう。

まず、現実世界におけるマッスを「多数」と仰っていると想定した場合は、さらにそこに「そもそもその目的設定は現実的なのか」という論点が在り得るでしょう。多数派工作というのは筋論の部分を犠牲にしたプラグマティズムなのですから、飽くまで現実的な実効が存在することが正当性の根拠になります。要するに、成功することでのみ肯定され失敗したら非難される方法論だということですね。

しかし、オレのざっくりした見当ではkojitaken さんが公開しておられる現状の「きまぐれな日々」のPVでは、大変失礼な言い方ですが、二桁三桁は不足なのではないかと考えます。現実の投票行動に影響するブログ言説を想定した場合、一応実際に投票所に出向く程度に政治に関心のある人なら(ネット言説に対する関心や信頼度の程度によらず)大概名前くらいは識っている、どんな人なのか一通りは識っている、という程度の広範な知名度と影響力を獲得する必要があります。

その前提において、選挙の趨勢を握る人的階層に対する的確な説得力を具える言説を発信しなければ、現実的な戦略としてはまったく成算がありません。極端な例を言えば、選挙権のない未成年の階層に幾らアピールしても、選挙結果にまったく反映されませんよね。年間数億PVを誇るようなメガヒットブログでも、投票行動というシリアスな問題性における影響力は多寡が知れているのですから、限定されたリソースは的確に用いられなければならないでしょう。

そういう意味では、ブログ発の言論の影響力というのは、現実的に考えて多数派工作ではなく少数派の筋論を補強し発言力を強化していくという目的設定以外は、まったく現実的ではないということになるのではないかと思います。

たとえば、為政者とkojitaken さんの言説の現実世界に対する影響力は、これはもう比較になりません。向こうはメディアを握っていますし、人気者に擦り寄るという寝技も使えるわけですし、許認可事業という弱みを抱える放送局に対する有形無形の影響力もあります。現実社会の多数派に対する情報操作というのは、基本的に大衆一般の欲望にアピールすることで成立しているわけですから、ブログ一本しかチャネルのない無名人がそれに対して同じ原理で対抗しようとしても蟷螂の斧でしょう。

勿論、強者に対して蟷螂の斧にすぎない孤高の闘争を闘うことにも意義はあります。ただしそれは、強者が圧倒的な物量と権力に物を言わせてトップダウンで仕掛けてくる理不尽な情報戦に、筋論の言論活動で立ち向かうということでしょう。非力な人間にも強者に対抗可能な武器があるとすれば、それは大概の人間は大っぴらに筋論に逆らうことは難しいという約束事に基づくものであるはずです。逆に言えば、それしか武器はないと言っても過言ではなく、相手がポピュリズム戦略をとっているからこちらも対抗上同じ手段をとる、というのは、最初からリソース比やパワーバランスが破綻しているのですから戦略としては愚策でしょう。

たしかに物量と権力に物を言わせた情報戦は大変強力ですし、それが世の中の大半を動かしていることは事実です。しかし、為政者がそれを選ぶのは自身が権力者であるからであって、物量作戦の消耗戦を争えるリソースを持っているからです。権力者に対してブログ一本しか武器のない論者が多数派工作を仕掛けるというのは、非力なゲリラやレジスタンスが正面戦争の消耗戦を仕掛けるようなもので、到底現実的な戦略とは言えないでしょう。

そういう意味で、現実社会のマジョリティに影響力を行使する為に筋論を犠牲にするという考え方に対しては、オレは否定的な見解を持っています。それは一見現実的に見えても、ちっとも現実を把握していない考え方です。非力な人間が言論で強者に迫り得るとしたら、寧ろ過剰なくらい言論の筋目に気を遣う必要がある、それを踏み外してしまえば弱者に勝ち目などはない、これは理想論ではなく現実的な戦略論だと考えます。

副次的な問題を考察した後は、本題である「その目的設定においてバトルという手段は妥当なのか」という問題を考えてみましょう。正直言って、オレはkojitaken さんのお考えがまったく理解出来ません。たとえばぶいっちゃんさんやニケさんを煽ってバトルを展開することが、どうして現実社会の多数派に対する影響力に繋がるのか、その辺の理路がまったく想定出来ないわけです。

前述の通り、現実社会に対する影響力を獲得するのであれば、二桁三桁はアクセスを増大させる必要がある。とすれば、たとえば福田康夫や小泉純一郎、安倍晋三に対して、或いは後期高齢者医療制度や厚生年金の問題に対して、ネットではどんなことが言われているのかという関心においてネット検索してkojitaken さんのブログにアクセスする人間のパイが増大するように努める、つまり不特定多数からのアクセシビリティを確保するのがまず先決、その為にアクセスランキングやTBPに積極参加するということまでは理解の範囲内です。

つまり、政治ブロガーだとか活発なネットワーカーだとか、そういうマイノリティばかりではなく、普通にネットで必要な情報を得る人々の間で意味のある影響力を獲得するのが主要な目的ということになります。寧ろ、普段ネットにアクセスしない人間まで興味を持って見に来るくらいでなければ実効は薄いでしょう。

その上で重要なことは、そういう人々の大半はkojitaken さんが誰なのか最初は識らないのだし、当然ぶいっちゃんさんやニケさんやSOBAさんの存在なんか識らないし、況やこられの人々の間の関係性なんか識るはずがない人々であるということになります。そういう、「リベラル左派」「自民党TBP」的な狭い括りの範囲内で考えても、現実社会に対する影響力なんて期待出来ません。精々日本全国に分散する一万人足らずの人的なマッスの間の事柄で、それだっておそらくかなり贔屓目に見積もった規模の想定ということになるでしょう。

kojitaken さんが仰っているバトルというのは、所詮そのような狭い囲いの内にある現実社会とは遊離した人間関係の問題に過ぎません。kojitaken さんが仰るのが現実社会における多数派という意味であるのなら、そもそもぶいっちゃんさんやニケさんやSOBAさんという、政治ブログ論壇ローカルの存在は問題にすらならないはずでしょう。

その前提で解釈するなら、kojitaken さんが仰っていることは「きっこの日記」をも超えた社会的影響力を目指しているわけですから、ネットローカルな人間関係の問題が言説の前面に出て来ることは、その目的の障害になりこそすれ、何の益ももたらさないはずですよ。だから、つまらない個人的な関係性に基づく諍いなどは無視したほうが得策だと何度も申し上げているわけです。

では、さらにkojitaken さんの仰る「多数」が政治ブログ論壇におけるそれであった場合を考えてみましょう。まあオレ個人としてはそういう方法論に与しませんが、客観的に視てそれは考慮に値する戦略だという言い方は出来るでしょう。その範囲の人的拡がりの中では、kojitaken さんの言説が読まれているし、ネットローカルの論者の存在が周知されているということが概ね前提として期待出来るからですね。

最前挙げた「リベラル左派」「自民党TBP」的な特定の人的拡がりの中で多数派としての勢力を獲得するということは、一定のネット領域における発言力が拡大するわけですから、一概に無意味なこととは言えませんね。考え方は人それぞれですから、そういう方法論において自身の言説の影響力を強化するという方針を、無碍に批判することは出来ないでしょう。

kojitaken さんがそのような戦略においてブログ活動を展開しておられるというのであれば、赤の他人であるオレがその考え方自体をどうこう言うというのも、個人的な感想の域を出るものではないでしょう。ですから、それについては何も申しません。単に、kojitaken さんの言説を信頼して読んでおられる大多数の読み手は、そのような合目的的な戦略に基づいて言説を発信しておられると識ったら大変失望されるのではないか、と陳べるに留めましょう。

しかし、そのような戦略を前提にした場合も、ぶいっちゃんさんたちに対してバトルを挑むことに何の戦略的意味があるのか理解に苦しみます。たとえばたんぽぽさんは七日附けのエントリで、「批判派の中でTBPに参加しておられるのはkojitaken さんくらいではないか」と指摘しておられますし、かつさんも「批判派で明確に政治ブロガーと言えるのはkojitaken さんだけではないか」と指摘しておられます。

オレの記憶では、美爾衣さんや眠り猫さんもらんきーサイドの言い分が適切ではないという判断に基づいて批判的な意見をコメントされていたように思いますが、「批判派」というように党派性で括れるような固定的な立場にはなかったと見做されていることかもしれません。何にせよ、これまでの遣り取りの膨大なテクストをいちばん読み込んでいる直接当事者の方がそう仰っているのですから、オレの立場ではそれに異を唱える必要もないですので、そのままに受け取ることに致しますし、その部分に関する見解を訂正するに吝かではありません。

しかし、kojitaken さんが「意図的に演技をして論戦を煽った」と仰る以上、この問題を政治ブログ領域の観点において切り取る見方はやはり成立するわけです。批判派の主立ったメンバーは政治ブロガーと言うほど明確な立場ではなかったが、kojitaken さんだけは政治ブロガーと見做されているということで、ご自身で意図的に論戦を煽ったと仰る以上、kojitaken さん個人が批判派という局外者を巻き込んで政治ブログ論壇に仕掛けた多数派工作のバトルだったということになります。

つまり、正月の騒動が政治ブログの問題に見えたのは、kojitaken さんが水伝批判派に相乗りしてらんきーサイドにバトルを仕掛けたことが直接原因で、水伝批判という錦旗の正当性やらんきーサイドの応答の拙さから或る程度の政治ブロガーが批判派のサイドに立って議論に参入したことで、本来水伝も政治ブログも関係のなかった事柄が、政治ブログ全体の問題というような印象を外部に与えたということになります。この間の経緯に関しては若干複雑ですので、後ほどあらためてオレのほうでエントリを上げて解析しようと考えていますが、一旦その前提で話を進めます。

たんぽぽさんやかつさんのコメンタリーに基づくなら、正月の騒動における「政治ブログ」というのは、即ちらんきーブログを中心とした人的集まりということになり、その人的集まりの中から、kojitaken さんという少数者が本来外部の一般ブロガーによって構成される批判派という人的集まりの側に与したという形になります。

だとすればどうなるかというと、政治ブログ領域において多数を獲得するどころか、寧ろkojitaken さんは政治ブログという人的領域のほぼ全体に対して単身戦略的なバトルを仕掛けられたということになります。そちらのコメント欄の状況を視る限り、正月の騒動において何が得られたのかというと、kojitaken さんに近い立場をとる方々とらんきーさんに近い立場をとる方々の関係が絶望的に悪化したというだけで、新たに多数が獲得されたとは思えません。

らんきーさんたちを悪役にすることでkojitaken さんに近い立場の方々が善玉視されることを期待されたのであれば、まさにコイズミの手法を自ら実践されたことになるわけですが、全体のパイが増えたわけでもないしkojitaken さんに与する勢力が増大したわけでもなく、多数派の言説の信頼性が貶められただけですから、全体的なマッスとしては、政治ブログの影響力が低下しただけである、という見方も出来るわけです。

そもそも数の論理を重視するのであれば、誰もが視る通りアンチ安倍のTBPが最も盛り上がった頃が最大の影響力があったわけで、数の論理を根拠にしてそれを割るのであれば、それに優る多数が獲得出来なければ名分が立たないでしょう。

そういう意味で、筋論ではなく現実的な実効を目的としてバトルを仕掛けたと仰るのであれば、どのような実効が得られたかは窮めて疑問であると思います。寧ろ普通に考えるのであれば、政治ブログにおいて多数を獲得する為には、正月の騒動において批判派の攻撃の矢面に立ち擁護の論陣を張ったほうが、より多くの実効が得られたことでしょう。そこで大きな活躍があったなら、らんきーさんもkojitaken さんに頭が上がらなくなったはずですよ。勢い、kojitaken さんに一目置いて言及するような発言が増えればこの人的領域におけるkojitaken さんの勢力は飛躍的に拡大します。

公論ではなく手段を選ばす多数の獲得を目指すというのは、そういうことでしょう。政治ブログにおいて最大の影響力を確保するというのであれば、その言論領域において多くのマッスが最大限にkojitaken さんに協力すべきだという雰囲気を醸成する、その現実的な目的の為なら筋目の部分は犠牲にする、らんきーさんが正しくないとわかっていてもそれはこの際関係ない、そういうことではないですかね。

kojitaken さんがそこまで徹底してマキャベリズムを通しておられたら、オレは逆に何も言えなかったと思いますよ。政治においては多数を獲得することが重要だというのはたしかに一面の真理ですし、その為にどのような手段を採るかは当事者として働く個々人の自己責任に基づく信念によるものであり、筋論の観点における批判を甘受する覚悟があるのなら、それを採択したこと自体を一方的に責めることは出来ないと思います。

オレ個人としては、政治的言説が戦略的方法論を採択することを単純に否定することは出来ないと考えますので、筋論の正義に裏打ちされたプラグマティックな戦略を一方的にダブルスタンダードとして潔癖に批判する動機は持てないからです。

しかし、正直なことを申し上げるなら、日頃冷静なkojitaken さんにしては、この件に関してだけは、この程度の反論ですぐに底が割れるような稚拙な言い訳を重ねておられるとしか言い様がありません。プラグマティックな目的意識に基づく戦略と考えてもそれは破綻していますし、現に何の実効も得られていない、実際には無用の混乱を招いただけでしょう。残念ながらkojitaken さんのご意見は、バトルをしたいという動機がまずありきで、それを正当化しておられるだけだと感じられます。

これは何度も繰り返していますが、過去のこととはいえぶいっちゃんさんが水伝を肯定する発言を放置していたのはたしかに拙かったのだし、第三者にそれを指摘された際に片意地を張ったことも筋目としては間違っています。だから、それが間違っているから批判したというだけなら、誰かが何かを言うべきことでもないのです。

その結果、ぶいっちゃんさんが心底納得したわけではなくても「どうやら水伝を肯定するのは世間的に拙いらしい」と理解してくだされば、結局それ以上のことは望み得ないというのが現実なのですよ。ぶいっちゃんさんが何を信じるか、何を重要と考え何を軽視するかは彼の勝手で、それを強制的に変える権利など誰にもないですが、それを公に肯定的に語ることまで彼の勝手とは言えないわけで、表面的にでもそれを取り下げたのならそれで話は終わりです。

その後に延々と続く言い合いというのは、まあ当事者たちのご主張を勘案すると全然別の観点の、非常に当事者性の強い問題性ということになります。しかしkojitaken さんだけは、それとはお立場が違いますよね。他の当事者の方たちは「これは政治ブログの問題ではない」と明言しておられますが、kojitaken さんだけは政治ブログの問題としてこの件にコミットしておられるし、政治ブログ固有の関係性の文脈で批判を展開されている。戴いたコメントを拝見すると、そういうことになりますよね。

ぶいっちゃんさんやSOBAさんたちに対する批判が個人的な感情の伴うものだと一旦説明された上で、さらにそれもまた演技であって多数派工作の為の戦略であったと「嘘の上塗り」をされるのですから、それはおかしいのではないですか、これほど何度も「裏の真意」によってご自身の言動を正当化されるのでは、kojitaken さんの真意としては何を信じれば好いのですか、あなたのお話には常に読み手を操ろうとする裏の意図を勘繰る必要があるのですか、という話になるわけです。

さらに、今現在も罵倒合戦の継続を図っておられることを政治的言論活動上の戦略という名目で正当化されるから、戦略の妥当性の文脈における批判が成立します。つまり、他の方はどうあれkojitaken さんだけは、らんきーサイドの人たちを合目的的に攻撃する目的において彼らの発言に言及されている、寧ろ罵倒を煽っておられるということになりますが、それが政治的言論においてどのような実効を持つのか、これが問われるということになります。

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