2009-06-08 氷川神社と大地の真の目覚め

大宮の氷川神社の主祭神は、須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命ですが、どうも本来の氷川の神は、全く別の神様のような気がしていました。
10数年前の話です。
氷川神社は、武蔵国 (東京・埼玉) の一宮として、昔から人々の崇敬が篤かったわけですが、それほど大規模な神社ともなると、土地のパワーも強いはずだと思っていましたし、実際に訪れてみると、予想通りでした。
私が知っている須佐之男命の波動とは異なっていました。
実際、見沼の水神を祭ったことが、氷川神社のルーツだとする説があります。
縄文時代の海進に関係あるといわれる見沼 (御沼) との関連でしょうね。
しかし、それが龍神のエネルギーを封印する方向に向かっていたような感じです。
土地のパワーは強くても、その力が自由に動けない状態…。
第一期の解放ヒーリングの際に、それを感じていました。
しかし、解放ヒーリングの効果が十分ではなかった。
あまりにも様々な想念や、龍神を封印している呪力が重過ぎて、少ししか浄化できなかった。
私自身は、信仰や守護の面において、須佐之男命との御縁は深いのですが、氷川神社あたりはむしろ土地神が統括している土地だと感じます。
もっとも、スサノオ命のことを龍蛇族に分類する専門家もいるので、全く無関係とは言えないかもしれません。
ただ、神体としては、別柱の神のような気がしたのです。
ちなみに出雲系の大国主命は、須佐之男命の息子・または孫と言われているため、須佐之男命は、天津神と国津神の両方の系統の神様ということになります。
しかし、私の霊的洞察では、須佐之男命は決して天津神の出身ではありません。
むしろ国津神と言ってもよいでしょう。
須佐之男命の血を引いている大国主命の出雲王朝の民族は、別名・龍蛇族と言われています。
海神クナドのシンボル・および出雲神族の医療であった 「レイキ」 の第一シンボルとの関係を見ても、それは事実だと思います。
まあ、たとえ須佐之男命が、天津神の出身だったとしても、天孫の持つ狡猾なカルマは感じられません。
正義そのものの高潔な神です。
過去記事から引用します。
『スサノオの存在を挙げて、「天津神と国津神は、元は同じ種族だ」 と世間では言われていますが、歴史を都合よく捏造した神話に過ぎません。
出雲神族は日本の原住民であり、その後、シュメールに渡り、文明文化を吸収し、再び日本に戻った 「里帰り民族」 です。
その豊かで平和な国土を、全く別の種族である天孫族 (※混血していない時点での弥生人・天津神) が強奪したのです。』
かなり誤解を呼びやすい表現だったので、ここで補足説明をさせていただきます。
以前も一度、補足説明をしたことがあったのですが、不十分だったかもしれません。
便宜上 「天津神」 という一括りな表現を用いていますが、私は 「全員が悪人」 だと言いたいわけではありません。
また、人間はそれぞれに、直霊の大神が存在しています。
天孫・弥生人がいくら酷い悪業を犯したといっても、その魂のルーツである 「直霊の大神」 は決して悪神とは言えません。
私はそれ故に、天津神系の神社にも参拝しますし、信仰心を持っております。
…話を戻します。
最近になって、知識面での理解も深めようと思って、ネットで氷川神社について簡単に調べたのですが、やはり学説的にも見沼の龍神との関係があったようです。
割と有名な説のようですが、それを全く知らなかった自分の不勉強ぶりに冷汗をかきました。笑。
尚、氷川神社そのものは神気のパワーが強く、神池のパワーも強いのですが、参道の波動は良くないですね。
氷川の参道はかなり長いのですが、波動が悪い場所が多いです。
以前の記事で、「高級住宅街は、比較的、波動が良い」 と書きました。
氷川神社の周辺に位置する高鼻町は高級住宅地なのですが、参道はあまり良い雰囲気がしません。
でも、10数年前と比較すれば、かなり良くなっています。
昔は本当に酷い状態でした。
人間達の残留思念が溜まりに溜まっており、霊的な魔物が通る 「道」 が幾つも走っていました。
最近は多少は改善されてきた感じがします。
大地のヒーラーが頻繁にここを訪れているからだと思います。
一宮ということで、埼玉や東京の数多くの宗教家・神道家が参拝に来ますし、当然、大地の解放ヒーリングの能力者も含まれているはずです。
私が知っているだけでも20人以上の大地のヒーラーが訪れています。
尚、ここで言う 「20人以上」 とは、私が実際にリアルで会った経験がある人の数のことです。
会ったことも無い人 (お互いがお互いのことを知らない) のことも含めれば、更に数は増えると思います。
最近、ネットのみで交流がある某ヒーラーさんが、見沼と氷川神社に関係する重要・かつ大規模な 「霊的仕事」 を果たされたようです。
私は、生命波動的な面から観ても、かなり大きな意味がある…と直観しました。
ただし、私自身は、どうにも大宮の東側には苦手意識があります。
氷川神社には何度か参拝させて戴いた経験があるのですが、それよりも東側の区域に入ってしまうと、気分が暗くなってしまうのです。
私のカルマが関係しているのでしょうか?
そんなわけで、大宮駅の東口方面は、氷川神社までが限界でした。
それより先は、滅多に足が進まなかったですね。
しかし、前述のように、最近、大きな変化があったという直観に基づき、今後は訪問させて戴きたいと思います。
ただ…、なにか特別な神業を行なうという意味ではなく、また、観光客気分でもありません。
純粋に大地を感じ、そして、大地と人間との関係を見つめ、理解を深める気持ちで…。
私の場合、それがヒトとして生き抜く決意を深めることに繋がっているようです。
特に意図しなくても、自然にそういう流れになるようです。
それが結果的に、大地の解放ヒーリングの能力向上にも繋がっています。
あくまで 「結果的に」 です。
欲望が先行した状態では、能力は向上しなかったです。
2009-06-07 クズ以下の存在

私に対して様々な批判がありましたが、本当に的を射た批判は滅多にないですね。
プライベートモードの理由について賛否両論が生じるのは、仕方ないことかもしれませんが、私は自分なりの目的や理由について何回も説明してきました。
メールで問い合わせがあった時も、丁寧に説明させて戴いています。
しかし、「理由」 に対する反対意見のみならず、「理由そのもの」 さえも正しく解釈せず、無智な誤解や、邪心に満ちた曲解を持ち込む輩が絶えない。
『自分はネットで他人を批判するくせに、他人には自分の作ったルールを押し付けるってどうよ?
求道者というより社会人として失格だろう。』
私は、「自分の希望を伝える形で意思表示するしかないし、強制はできない」 と何度も述べてきましたし、プロフィール欄でも述べています。
何度も説明しているのに、私のメッセージを勝手に誤解・または捏造して、垂れ流す。
慎重に確認する姿勢さえ見せずに、簡単に社会人失格のレッテルを貼るような人こそ、社会人として問題があるでしょうね。
そういう人が多いから、私も厳しい口調のメッセージを発しているだけです。(過去記事で説明済み)
プライベートモードの利用は、管理者に与えられている権利です。
つまり、私が作ったルールを他人に押し付けているのではありません。
彼等が 「批判する自由」 を訴えるならば、私も管理者として与えられた権利を行使する自由があります。
しかし、彼等がどんなに 「批判する自由」 を訴えても、ノイズはノイズに過ぎません。
的外れの批判ばかりです。
情報ノイズのみならず、エネルギーのノイズも酷いことになっている。
「一般公開すれば、ノイズが増えるのは当然なのに、cosmic_heartは甘えている」 という意見も何度か聞きましたが、いちいち指摘されるまでもなく、ノイズが増えるのは簡単に予測できることです。
特に、人物検証の記事を集中的に書いていた時期もあったために、反発やノイズは避けられるはずが無い。
この説明も、一体、何回目でしょうね? 笑。
避けがたいノイズが生じるのは仕方ないとしても、そのノイズを送り込んでいる張本人が、「ノイズが増えるのは当然」 などと居直るならば、話が別です。
説教する泥棒と同質だからです。
私はその欺瞞を指摘し続けてきたのです。
私は原則的に、道に入っている人からの適確なアドバイスや説教は、喜んで受け入れるし、反省材料にしています。
しかし、クズ以下の連中からのクズ説教はブロックします。
邪気だらけのニセ説教を受け入れてしまうのは、霊障やハートを傷付ける原因になります。
無防備なまま、ノイズを受け入れるわけにはいかない。
反論する時はきちんと反論するし、プライベートモードで霊的防備を図る時もあります。
私のところに真剣な相談メールを送ってくる読者の中にも、そういう捏造情報の影響を受けていた人が少なからず存在しました。
私個人に対する誤解だけならまだしも、自己観察の実行における微妙でデリケートな要素に、その捏造情報が影響を与えていたため、霊障を余計に呼び込んでしまう隙が生じていたのです。
そのため、誤解を解くための記事を発表することがあります。
現在の私は、不必要な霊的情報まで透視するケースは滅多にありませんが、やはり普通の人と比べて、情報の受け取り量は多いようです。
その分だけ、人々の欺瞞にも敏感に気付く時もあります。
故に、私の話がオーバーだとか、神経質すぎると思う人が多いのかもしれませんが、本ブログは元々、霊的世界を扱っているブログだということをお忘れなく。
その次元に達した人だけが知り得る要素があるため、「自己観察を実践していない人は、読まない方が良いです」 と述べてきたわけです。
誤解が膨らむ一方になり、霊的リスクを呼び込む可能性があるのです。
霊的世界を甘く考えている人が多すぎる。
ちっぽけな頭だけを駆使しても、真実は理解できません。
他人の反応を強制的にコントロールすることは無理ですが、私にも私なりの希望があります。
粘着者たちが飛ばしてくる生霊や邪霊の影響を受けてしまう読者まで出てきたので、私はその事実を何度も伝えてきた。
昨年の晩秋は、伊勢白山道リーマンの巨大な想念霊界との心霊戦争まで勃発しました。
様々な障害が、現実的に被害を及ぼすレベルまで進行しているのです。
2009-02-11 もはや伊勢白山道の検証ブログは信用しない
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090211
本ブログの過去記事を読んでいない人でも、他の検証ブログや掲示板に寄せられた情報ぐらいは知っていたはずであり、もはや洒落にならない程の事態へと発展していることが理解できるはずです。
一つ一つのマイナスエネルギーの影響は弱いものであったとしても、それが蓄積されたり、集合化すれば、強力な影響があります。
人間としての最低限の思いやりがあるならば、超えてはならない線があることを理解できるはずです。
私に対して以前、「チン●マが小さい奴」 というレッテルを貼った人がいましたが、その後 「cosmic_heartはそのことで傷付いている」 などという誇大妄想に陥った人がいました。笑。
まさに、「馬鹿な奴には、話の本質が全く伝わらない」 の典型的な例です。
私はあくまで、今までに直面した膨大・かつ深刻な問題に関する記事を書いていたのです。
チン●マ云々の取るに足らない悪口一つだけの問題ならば、いちいち独立記事を書く必要はありません。 当たり前。
憶測による誇大妄想を繰り広げておきながら、その脳内妄想による結論を元にして、「cosmic_heartはグロテスクなアンバランスに気付くべきだ」 と説教するのだから、もはや末期症状です。
マトモな人間ならば、まず憶測先行の情報ゴミを垂れ流した御自分の失態に気付き、反省するはずです。
本ブログは、自己観察の道を説いているため、説教泥棒たちの 「心の欺瞞」 は当然の検証材料になります。
『真摯な求道者と悪意の読者という対極のレッテル貼りは君がやっている』
私が、安易なレッテル貼りをしたがる連中のことを批判してきた事実を捉え、「お前こそレッテル貼りをしている」 という返し方は、あまりにも稚拙というもの。
こんな突っ込みが成り立つなら、簡単に口封じができる。
私は過去の膨大な事例に直面し、一つ一つに対応してきており、その度に洞察し、エネルギー面も処理してきた。
即ち現実的に、「真摯な求道者と無智な読者」 が存在する事実を深く理解し、確認する作業がそこに存在したわけです。
私は、自分にとって都合の悪い現実に対して、何から何まで 「人のせい」 にしているのではありません。
いくら苦情を述べても、それで解決できるとも思っていません。
むしろ、火に油を注いでしまうケースも多いでしょう。
ただ、「分かる人には分かる」 という意味で、自分が出来ることに最善を尽くし、エネルギー被害を受けた人達に対しても、出来る限りのフォローをしてきました。
また私は、某掲示板の利用者達の 「全員が愚か者」 だと言ってるわけではありません。
真面目な利用者もいるはずです。
私は全員に画一的なレッテルを貼っているのではなく、「人の窮状を知りながら、確信犯で踏みにじる連中」 の卑劣さを指摘しているのです。
『自分を賛美して、他人のことを卑劣だと攻撃していたら2chからも批判が来るわよ。 種蒔いているのは自分なのにねー』
などと書いていた人は、もはや救いようが無いほどの卑怯者だと思います。
私は、自分のことを 「賛美」 しているのではなく、批判・検証における 「当たり前の洞察」 の必要性を訴えてきただけです。
本質を理解する姿勢が必要だと訴えているのです。
しかし、私に対して批判・誹謗中傷してくる者は、悪意・曲解、そして捏造情報すら平気で垂れ流す。
こんな愚行に身を落としている連中が、本ブログの記事のことを非難・批判する道理はありません。
私は元々、本質の洞察を重視しているため、彼らとは全く土俵が異なるのです。
批判は批判でも、ベースが全く異なる。
故に、「cosmic_heartは、私達から批判されるのは当然」 などという屁理屈は、単に自分達の悪業を正当化するための汚い言い訳に過ぎません。
真実を感じ取り、理解しようとする姿勢さえ見せない。
『ブログに付加価値を付けるために、プライベートモードを多用しているのだ』
『読者を焦らして、もったいぶっているだけだ。 注目を浴びたいだけだ』
…この様に、あまりにも情けない誤解や曲解が多すぎる。
自分が思い込んだ幻想の結論が、絶対的に正しいものになってしまい、全てになってしまう。
理解力が全く無い。
私にとって、こんな連中は、クズ以下の存在です。
私は、汚らしい大馬鹿者たちに注目されることを喜ぶような人間ではありません。
クズに注目されて、何が楽しいのか。
仮に、ブログに付加価値を付けようとしても、こんな連中たちが相手では、何の意味も無い。
真剣な読者が、プライベートモード期間中にメールを下さった場合、相手の希望に応じて、お役に立てられそうな記事をコピーして、贈呈することがあります。
そのことも過去記事で説明済みですし、プライベートモードの理由も、10回以上は説明してきました。
それにも関わらず、彼らは理解できないし、出鱈目な解釈をする癖を手放そうとしない。
それはそれで自由ですが、せめて自分の尻は自分で拭いてもらいたい。
「我々の注目を浴びた人は、名誉なことだよ」 などという妄言を吐いた大馬鹿者もいました。笑。
貴方達のようなクズ連中の悲惨な妄想ゲームのネタにされることが、何故に名誉なのか? と。
狭く限られた場所のみで通用する異様な感覚です。
外側の世界から見れば、「何が名誉なの?」 と失笑を買うほどの与太話です。
貴方達は、人に名誉をプレゼントできるほど立派な人なのかと。
貴方達にそんな価値があるのか…と。
御自分の価値を過大評価しては駄目ですよ。笑。
頭の悪い者に限って饒舌なのだから、本当に始末に終えない。
腐りきった、どうしようもないクズに限って、偉そうな態度を取りたがる。
某掲示板は特に、こういう勘違い人間が多いから、訴訟沙汰が多いわけです。
深刻な風評被害を受けて苦しむ一般大衆の事例が沢山あるわけです。
クズのくせに、プライドだけは立派なので、私のような人間に対して、すぐ逆恨みし、暗い憎悪や嘲笑の念を滾らせる者もいます。
勇気を出して、その情念の本当の正体を観察し、理解し、認めることができれば、やがて 「普通の人間」 へと脱皮できるでしょう。
でも、そのチャンスさえ捨ててしまい、どんな状況でも詭弁や屁理屈を弄してくるわけです。
「cosmic_heartだって、誹謗中傷の言葉を吐いているだろ」 とか…。
常に相手側の問題にすり替え、自分の汚いエゴを正当化しようとする。
免罪符のように利用する。
私のことを中傷する前に、自分達は掲示板でどんなレスを書いてきたのか、真剣に省みる姿勢がない。
小生が本ブログで、検証記事を書くときは、どんなに汚い言葉を用いたとしても、相応の過去の経緯があり、明確な根拠を示しています。
根拠薄弱な脳内妄想だけで誹謗中傷してくる連中とは全く異なる。
当たり前のことさえ誤魔化してしまう連中が、いつまで経っても本ブログをブックマークに保存し続け、何回もチェックをする。
ストーカーのような執念です。
貴重な時間とエネルギーを、無駄なことに使いたがる。
せめて御自分の顔を、鏡で見なさいよ、と。
暗くて気持ち悪い人から不気味な視線を向けられたら、誰でも嫌がりますよ。 「気色悪い」 と…。
真剣な人が読者になってくれるのは嬉しいですが、愚か者に注目されても気持ち悪く、はた迷惑なだけです。
既に誰かが指摘していましたが、彼らの妄想癖は、インチキ霊能者が放つインチキ霊視と同じ構造なのです。
また、インチキ霊視を信じてしまう狂信者たちにも酷似しています。
私が何度も真剣に説明しても、彼らは複数の角度から洞察しようとする姿勢さえない。
だから、勝手な思い込みの誤解・曲解・幻想世界が、いつまでも続いてしまう。
変化することが無い。
頭が硬直化しているわけです。
結局、下層の幽界で苦しんでいる霊たちと同じなのです。
自分の観念・先入観・偏見に固執しているため、周囲の環境もその通りになってしまい、激苦がいつまでも続く。
もちろん、物質界・人間界では、想念通りの環境になるとは限りませんが、魂は物凄い苦しみを味わっています。
幽界で苦しむ住民と同質のカルマなのです。
わざわざ自らの手で、「悲惨な死後の世界」 に行くための練習をしている。
妄想先行の思考癖を強化する訓練。
大切な現世で、延々とその訓練を繰り返している。
馬鹿か…と思います。
まあ、彼等がそんなに悪業を積むのがお好きならば、好きなだけ積めば良いですが、せめてその後始末は自分で行なうべきです。
それが 「自己責任」 ということです。
でも、彼らは相変わらず、自分の汚いエネルギーを、他人にも押し付けてくる。
成長が停止している。
自滅したければ、一人で勝手に自滅してくれ。 人様を巻き込もうとするな、と。
そして大馬鹿な連中は、こういう文章に対しても、「脅迫している」 などと穿った解釈をするかもしれません。
それならば、尚更、自分の尻は自分で拭くべきです。
「cosmic_heartの情報が知りたい。 知ってる人は教えて」 などと言う人がいましたが、その人物はその後、自分達の罵りレスを正当化し、責任転嫁していました。
こんな悪辣な連中に対して、本当に重要な情報は提供できないため、肝心な部分は暈した表現を用いたり、最初から公開を拒否することも多いです。
逆効果というわけです。
こんなことは、過去の数多くの例を見ても明らかなのに、彼らには学習能力というものが無い。笑。
本当は伊勢白山道リーマンに関しても、ほとんどの人が知らない重大情報があるのですが、馬鹿な読者たちに餌をやる気は毛頭無いため、公開を自制してきました。
本ブログは、真実を探究する道のためのブログですから、最初から目的が違う。
下らない目的を持つ者が、何らかの満足を得ようとしたり、誹謗中傷や嘲笑のためのネタを収集しようとしても、真の幸福には繋がらず、ますます魂を傷付け、観念地獄の深みに嵌まってしまう。
私はあまり優しい人間ではないため、飛んでくる邪気・生霊・邪霊に対しては、遠慮なく念動返しをします。
それはネットの雑音に限っていない。
リアルにおいても、真の幸福を諦め、「地獄の道連れ」 にしようとする邪悪な人間が沢山います。
ただし、現実的な嫌がらせをする人とは限らず、表面的には善人そのものの人も含まれています。
これは、私一人だけが知っていることではありません。
波動の深い部分を感知できる能力者の中には、同じような経験や理解をしている人が沢山います。
世の中は、それだけ腐り切っていると…。
私はそういう連中からのマイナスエネルギーを、念動返しする。
すると、悲鳴の様なものを感じ取る。
私は霊能者ではないため、「誰が飛ばしてきたのか」 について、いちいち詮索・透視するケースは少なく、単に念動返しを行なうだけで確実にターゲートに届く霊的システムを活用しています。
しかし、ある時、悲鳴の正体を探りました。
そうしたら、マイナスエネルギーを飛ばしてきた人の 「霊体」 の悲鳴だったのです。
でも、本人の 「頭」 は馬鹿だから、一向に気付かない。
自分が勝手に飛ばした邪気が、私の手で返されて、かえって深手を負ってしまったのに、何の自覚も無い。
まさに自業自得であり、自滅の道です。
でも彼らは無智すぎて、性懲りも無く、邪念や悪霊を飛ばし続ける。
そして再び念動返しを受け、ますます、己の霊体のダメージを深めてしまう。
無智な罵倒ゲームをすることが快感になっている人は、それが 「当たり前」 の習慣になっているため、本当は自分自身を傷付けていることに気付かない。
不幸でミジメだから、ネガティブな遊びに走りたがる。
ちなみに、私が使っている手法は、相手の肉体・現実レベルに直接的なダメージを与えるものではなく、あくまで邪気・邪霊の発生源である幽体や霊体に対して、その邪気を返すものです。
さて…、ここ10年ほどは、魂の叫び声さえも聞こえないケースが急増してきました。
その理由はすぐに分かりました。
魂から見捨てられ、魂が離れてしまった人が急増しているということです。
肉体や霊体は存在するのに、魂が無い。
「自分自身からも見捨てられる」
そんな人が、どんな屁理屈を駆使して自己正当化しても、全て大嘘になります。
宇宙と地球は全て見抜いているし、本人の魂も見抜いている。
自分で自分をいくら誤魔化しても、実は誤魔化すことは出来ない、という意味です。
冷静に考えただけでも分かることがあります。
悪意の曲解や、無智な罵倒に終始するような人達の魂・真我が、こんな悲惨な姿を喜ぶのかと。
他人の足を引っ張るような人間に対して、神が微笑むのか? と。
真剣な読者は、私が 「どの様に在るか」 を重視する理由がお分かり戴けたと思います。
※ 追記です(09 06 08)
『ではなんで頭の悪い連中をそこまで必死で気にするのか?
ほっとけばいいだけのことだろう?
人は変えられないんだよ。
馬鹿にもほどがある
お前の思う通りになんか人の価値観は変えられないんだよ。』
今回の記事で、これだけ説明しても、やはりこんな反応ですからね。笑。
私は今回、「頭の悪いものが勝手に放つ捏造情報の影響で、問題が発生するケースが生じている」 ということを説明しました。
また、ヒ○シ氏のことを検証した記事でも、捏造や出鱈目な情報の悪影響を説明しています。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090506
また、本ブログは、各自のハートの道を生きるためのヒントを説いており、「私の生き様や価値観をコピーするのは意味が無い。 貴方自身のハートの価値観を大切にしましょう」 と何度も主張してきました。
つまり、私の思い通りに他人の価値観を変える意思など無い。
まして今回の記事では、「頭が悪く、性悪な連中には、何を言っても通じない」 とも述べています。
貴方のような大馬鹿者の根性を叩き直そう…などという 「無駄な努力」 などしません。
私は単に、「私の真意はこうだ」 という明確な意志表明をすることを目的の一つとしている。
誤解を解くための努力や説明責任を果たしておけば、後は読者がどんな誤解をし、霊的リスクを背負うことになったとしても、読者の責任の範疇になる。
私は、馬鹿な連中の責任まで背負う道理など無い。
その一方で、真剣な読者が受けた影響には配慮する必要がある。
彼らは連日、私の問題点を探し、中傷しようとして躍起になっていますが、結局、私が過去に説明済みのことを無限ループさせるしか能が無い。
頭が悪すぎるので、私の意表を突くような斬新な切り込みが出来ない。
ま、これだけ説明したので、もう十分でしょう。 キリが無い。
何をどんなに説明しても、やはり馬鹿には何も伝わらないことが証明された…ということで。笑。
2009-02-13 その質問への返答
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090213
2009-03-04 未成熟な愛を守れ
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090304
2009-01-09 繊細な感受性の意味
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090109
2008-11-03 輪廻する欠陥脳
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20081103
2007-11-14 欠陥脳の迷妄世界
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071114
2009-02-12 血を吐く思い
2009-06-04 昔と今の祈り

以前、ネットカルト・伊勢白山道リーマン氏が提唱する 「感謝だけの祈り」 について、検証者の方々が様々な見解を出し、掲示板や検証ブログなどで議論が活発に交わされていました。
色々な祈りがあっても良いと思います。
人それぞれに、神との付き合い方は異なるのですから…。
難病の苦しみを味わっている人、生活で窮地に直面している人が、必死に救いを求めるのは当然のことです。
故に、そういう祈りを肯定する人は何名もいました。
しかし、生活や健康面で余裕のある人が行なう祈願については、賛否両論でした。
…人間の心は、昔も今もほとんど変わっていません。
だから、昔の人達の信仰形態と、現代人の信仰形態を比較する場合は、その本質面まで洞察する必要があります。
『 昔の人は、貧しい人が多かったので、神に対する祈りも命懸けだった。
だが、現代人は物質的に満たされているのに、クレクレ祈願をする者が多い』
こういう論法で、現代のスピリチュアルを批判する声がよく聞かれます。
しかし、人間の心の本質面がほとんど変わっていない以上、昔の人の祈りと、今の人の祈りの根本は、ほとんど変わっていません。
思考の癖、行動の癖、自己表現の癖は、カルマとなって残り、繰り返しのエネルギーとして、輪廻の旅で継承されてゆきます。
つまり、昔の庶民の 「必死の祈り」 と、現代人の 「余裕ある祈り」 は、同じ土俵から生まれているケースが多いです。
反動・リバウンドというエネルギーで、表面化することが多いです。
個々の願望の祈りは、願解きなどで区切りを付けることは可能ですが、一つのキッカケにすぎません。
まして、基本的な信仰形態は、心の癖となって、繰り返されるのです。
昔は、思い通りの結婚ができない時代がありました。
本当に惚れた相手と結婚するのではなく、一族の長や両親が決めた許嫁と結婚するのが当たり前の時代があった。
それは一般大衆のみならず、社会的地位の高い層も同じことで、いわゆる政略結婚が盛んだった時代もあります。
結婚する本人同士には自由が無く、好きでもない相手と結婚させられてしまうことも当たり前だった。
しかし、それが当たり前とはいえ、心の奥では疑問を感じたり、心が傷付いた人が多かったと思います。
だからこそ、駆け落ちが多発した時代もあります。
これらを、現代人の結婚スタイルに照らしてみると、まさにカルマの反動現象、リバウンドである可能性があります。
理想が高いとか、相手をじっくり選ぼうとか、
※ ただし、全てがリバウンドに該当するとは限りません。
スピリチュアル世界では、これに 「魂次元で最高に相性の良いカップル」 「ツインソウル」 という概念も加わります。
食物の話もしましょう。
貴方が貧しくて、極度に空腹な日々が続いた場合、
「味は不味くてもいい。 何でもいいから、とにかく食べたい。 食品添加物が多い食物でも良いから、とにかく空腹を満たしたい」
と必死に願うと思います。
しかし、ある程度の余裕がある時は、選択の幅が広がります。
また、選択肢が多いからこそ、余裕も生まれるのだと思います。
「より美味しい物を食べたい」 という人もいれば、「より安全で、良質なものを食べたい」 という人もいる。
また、「調理に手間暇がかからないものが良い。 楽をしたい」 という人もいるでしょう。
実際、楽をしたいという人が多いから、食品添加物の多い食品や、インスタント的な食品が氾濫しています。
でも、その一方で、安全性や自然な味覚を重視する人も増えてきています。
特にスピリチュアルの住民からは、そういう人達が多く輩出されつつあります。
要するに、死ぬか生きるかという極限状態のときには、細かく選択する余裕が無い。
自分のハートや肉体にとってマイナスのものであっても、生き延びるためには、それを選ばざるを得ないわけです。
私はこういう環境が決して良いものだという認識はありません。
余裕があり、選択肢のある環境こそが大切だと思います。
カルマの存在に気付く可能性が高くなりますし、そうすれば解消の道が開けます。
故に、物質的に満たされている人が、新しい願望を求めるのは自然なことですし、神々に祈願するのも自然な流れです。
その経験を積むことで、自分の本心に気付き、「足ることを知る道」 が開けるのです。
ただし、カルマの繰り返しを延々と続けるならば、意味が無い。
現代人は物質的には満たされている人が多くなりましたが、本当に満たされていると言えるでしょうか?
空気は汚れ、水も汚れ、食品も汚れている。
殺菌などの処理によって、表面的には安全性が向上しましたが、確実に汚染物質が蓄積されている。
自然分解される時を待つにしても、膨大な歳月を要するような物質まで作り上げてしまった。
結局、満たされていないんですよ。
毒に満たされているようなものです。
カルマも同じ。
カルマを繰り返すことで、カルマの総合量はますます増えます。
前世のカルマに加えて、現世でのカルマも加わる。
ただし、その様な悲惨な環境とはいえ、選択肢だけは増えている。
昔と比べれば、自分をじっくり見つめる時間もある。
後は何を選ぶか? が大切なのです。
クレクレ自体が問題なのではなく、何を選ぶかの問題です。
今の時代でも、比較的、安全な食物はありますし、作る努力の道を選択することもできるし、安全なものを入手する道を選ぶ自由もある。
でも、選ばない人が多い。
それもまた自由です。
私は基本的に、「欲しいものは素直に手に入れる」 というシンプルな生き方が大切だと思っています。
それを変に抑圧するから、腹に邪気が溜まってしまい、リバウンドの原因になるのです。
私が世間の人々を見ていると、幸せを諦めてしまっている人が実に多いです。
「世の中なんて、しょせん思い通りにならない。 上手くいかないのが当然」 などと、すっかり諦めてしまい、目先の簡単な欲望を満たすだけの人が多い。
これは誤魔化しです。
「欲しい」 → 「手に入れよう」
という素直なシンプル思考の生き方に入っている人は、エネルギーの循環がスムーズですし、過剰で不必要な欲望が徐々に消えてゆきます。
自然環境との付き合い方も同じことであり、過剰な開発・破壊が減少してゆきます。
過剰な破壊や汚染の原因の一つに、制圧された欲望やカルマの反動があります。
自分の中に不平不満や願望があるのに、「現実は甘くない」 とかいう一見もっともな理由を纏って、努力を放棄している人は、大量の邪気や生霊を生産しています。
でも完全に諦めているわけではない。
幸せな人を見る度に、嫉妬の生霊や邪霊を飛ばしているからです。
故に、精神世界で流行している 「引き寄せの法則」 「願望達成法」 は非常に価値があります。
神社で祈願するのも良いことです。
むしろ、真の願望を諦め、本音を誤魔化している人達の方が問題なのです。
もちろん、神にも色々なタイプが存在しますから、人間の祈願を拒否する存在もいます。
それは、下の記事でも書きました。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090505
純粋観照を深めてゆけば、神の心に気付くようになってゆきます。
神の心を理解することは大切です。
願望を真に活かすためには、ハートに信号を大切にし、カルマ的な欲望と区別する観察眼を磨いてゆく必要があります。
でも、最初の内は、カルマ的な欲望から出発しても良いのです。
それは腹の中に既に存在しているのだから、吐き出すことによって、浄化できるわけです。
「満たされていない思い」 のエネルギーを満了させ、満足感を味わうことによって、エネルギーを終了させるわけです。
赤ん坊や子供の頃に、十分に愛されなかった人や、十分に遊ぶことができなかった人は、大人になってもその 「満たされない思い」 に支配され、過去に拘束されるようになります。
深層意識に、燻った暗いエネルギーが巣食っており、人生に強い影響をもたらしています。
これもカルマの一形態です。
しかし、願望を叶えるのは結構ですが、いつまで経っても自己観察の道に入らない場合は、欲望が暴走し、歯止めが利かなくなる恐れがあります。
つまり、そういうケースでは、欲望を素直に吐き出しているのではなく、カルマの傷を深める方向に走っているわけです。
ただし、最初の内は、カルマから出発しても良いのです。
社会ルールに反することが無ければ…。
初めからハートの願望を理解するのは無理ですし、たとえ理解しても、その道に進むのは抵抗感が強いでしょう。
釈迦だって、出家する前は、この世の春を謳歌していた。
物質的に満たされ、本能的欲望も満たされた。
なにもかも満たされたからこそ、虚しさを自覚するようになり、出家し、禁欲・苦行の極限まで行き着いた。
両極を体験したからこそ、中道を悟り、解脱したわけです。
現代社会のように、欲望を満たすこそがそのまま大きな環境破壊に繋がってしまう可能性がある環境では、安易に 「両極を体験しよう。 贅沢三昧な人生を送ろう」 などと勧めることは出来ません。
しかし、ある程度の欲望を満たさなければ、次のステップに進むことさえ出来ない。
出家して、専門修行の道を選ぶ人はともかく、一般大衆には 「願望を満たす方法と選択」 が必要なのです。
現代人は物質的に満たされている人が多いとはいえ、本当は満たされていない。
私が昔、ある経済書を読んだところ、あらゆる職業・社会的地位の中で、最も発狂率が高いのは社長業らしいです。
雇われ社長とオーナー社長の違いはありますが、要するにその会社の中では最も給料が高い社長が、最も精神崩壊する事例が多いと。
ツインソウルを求めるのも良いと思います。
それが前世での結婚に関する心の傷・カルマの裏返しだったとしても、それをキッカケに、真に深い愛を磨いてゆく道を選ぶ人も出てくるかもしれない。
まして、ハートに立脚している人は、真にベストカップルと結ばれる可能性が高くなります。
真に魂次元での相性が良いカップルは、トラブルや諍いがゼロとは限りません。
むしろお互いによく似たカルマが浮上しやすい。
そしてトラブルが生じる。
自己観察の目を持つなら、そのトラブルを通じて、カルマに気付き、理解し、傷を癒し、魂の光明・愛を少しずつ回復させる道に入ることができます。
要するに、最初のキッカケは何でも良いのです。
そして、どれほど修行が進んでも、欲望がゼロになるわけでもない。
いくら満腹になっても、数時間後には空腹になり、次の食物が必要になる。
それが自然の摂理です。
腹の中に腐った欲望を大量に溜め込んでいるくせに、「私は満たされている」 などと勘違いしたり、「神様に願い事しないように」 と説く者が多いです。
それは、臭いものに蓋をしているだけ。
やがて正常な感覚が麻痺し、自分は清らかな境地に達したのだと勘違いしてしまうわけです。
関連記事
2009-05-27 静寂の感謝 無思考の祈り
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090527
2009-05-31 形に現れる真実
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090531
2009-06-01 天地の摂理
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090601
2009-05-28 神と大地の関係
2009-06-02 アセンション・エナジー

今はアセンションの真っ只中という感じで、宇宙の波動も変動に変動を続けています。
地球レベルに留まっていない。
霊界も大混乱という感じです。
地球の各次元を分ける壁のあちこちに亀裂が生じており、そこから飛び出した霊に憑依されてしまう人も増えています。
アセンションに関するメッセージを送り、教導している人の中には、この憑依霊の影響を受けている人が多いようです。
全てを調べたわけではありませんが、たまにアセンション関係のサイトやブログを覗いてみると、異様な波動を感じるものが多い。
鬼畜獣の唸り声が聞こえる時もあります。
耳に聞こえるのではなく、直観的に分かるのです。(精度の保障はしません)
しかし、アセンションを唱える全てのサイトや人物が異常というわけではなく、稀に天地に真っ直ぐに繋がっているケースもありました。
それは当たり前のことです。
アセンションはあくまで 「一つの現象」 に過ぎないからです。
つまり、その現象に対して、どの様に対応し、どのように活用するのか、はたまた無視するのか、各自の違いがあります。
「現象」 と 「対応」 は異なるわけです。
ある意味、このアセンションというものは、自然現象みたいなものです。
一部の霊的存在たちの思惑通りにコントロールすることは出来ません。
まして、今回のアセンションは、宇宙規模で起こっていることであり、地球に限っていない。
地球のごく一部の存在たちの力によって引き起こされたものではないし、引き起こせるものでもない。
人格や意思の無い、もっと根源的な 「法則」 がそれを引き起こしている…と。
アセンションを説いているサイトや指導者が、本物か偽者かを判定するヒントが、そこにあります。
ただし、「貴方」 にとって本物か偽者か…という意味です。
貴方にとって嘘の世界でも、他の人にとっては真実かもしれない。
その前提を踏まえた上で、ヒントを提供するなら…、特定の系統の霊団・星団が主導する形で、アセンションにおける救済を説いている指導者は、偽者の可能性が高いです。
地球規模・もしくは宇宙規模で起きている巨大な現象に対して、特定の狭い霊団のパワーだけで乗り越えられるほど甘くはない。
むしろ、その霊団だって、アセンションの 「振るい分け」 のエネルギーに引っ掛かり、堕ちてしまう可能性があるのです。
地球規模で天変地異が起きた場合も同様です。
そんな大規模な変動の場合、特定の霊団のパワーだけで全天変地異そのものも消滅させることは出来ない。
ただし、個人的には、神々からの守護を受けて、生き残れる可能性はあります。
大戦争が勃発したり、大地震が起こって、特定の地域の住民が全滅しても不思議でない状況でも、助かる人がいたりする。
ただし、それは、生まれ持った神縁が関わることです。
そして普段の生活で、その神縁を活かすことが出来るような生き方をしていたのかどうか。
最後は結局、自分自身の力が大切になるのです。
もちろん、「現実的な対処」 こそが最も重要であることは、言うまでもありません。
天災などの場合、不可抗力な面がありますが、自己防衛策が皆無というわけでもありません。
私の忠告は、あくまで 「各読者がリスクを避けるためのヒントを提供する」 という目的です。
世の中には例外というか、どれほど突飛なことを語っていても、真実を鋭く突いているケースも在り得ます。
故に、私が上で述べた判断基準は、絶対的なものではなく、あくまで参考として受け止めてください。
波動感覚や直観力に自信の無い人のための、便宜的なヒントです。
宇宙全体のことを知り尽くしている宇宙存在など、滅多にいない。
故に、彼等がもたらす情報は、宇宙の断片的な情報に過ぎない。
その意味では、貴方自身が内的宇宙を見つめ、貴方にとって本当に必要な情報・信号をキャッチすることが本道です。
外部の情報は、参考程度で良いのです。
主導権を渡さないことです。
某氏は、「精神世界の住民は、堕ちた存在の手先に過ぎない」 という画一的なレッテルを貼っていました。
個々の違いを無視した画一的なレッテルを貼りたがる思考こそ、堕ちた存在には好都合なエネルギーになります。
多くの宗教も、その罠に嵌まってしまった歴史があります。
他の宗教のことを 「外道」 などという画一的なレッテルを貼ってきた。
真実を観る目を自ら捨てているため、ダークな霊的存在がそういう連中を巧妙に騙しこむのはお手のもの。
現象は現象に過ぎないし、それに対する個々人の対応は異なる。
例えば、物理的な自然現象に対して、一人一人の反応が異なったり、対策が異なったりするわけです。
故に、この変動期において、危機を乗り越えるための生き方を選択したり、霊的進化のチャンスとして活かそうとするのは、非常に良いことです。
恐怖の未来予言・予測に基づいて、危機の回避策や克服方法を説いている指導者が多いです。
そういう指導者に対して、すぐに 「恐怖支配だ」 などと決め付ける連中がいますが、それは短絡的過ぎます。
まあ、某ネットカルトのように、巧妙で悪質な恐怖支配をしている外道もいますが、そういう指導者ばかりではない。
恐怖や不安は、人間が生まれ持っている防衛本能です。
アメリカだったか忘れましたが…、手術によって、脳の中の恐怖を司る部分を切除したところ、その患者は、自動車が激しく往来する道路に平気で足を進めるようになってしまったとか…。
台風予報、地震予測などで、未来の危機に備えるために、食料を備蓄したり、避難場所を確保するのは、当たり前です。
「今を生きる」 とは、未来を排除することではありません。
生命体は、特定の方向性を持って生きています。
仕事においても、事業計画というものがあるわけです。
刹那的な、その日暮らしも結構です。
しかし通常は、未来との関わりにおいて、エネルギーの方向性を定めて、「今」 の自分が出来ることに真剣にエネルギーを注ぐことこそ、この世的な務めです。
それが 「今・ここ・自分を生きる」 ことに繋がります。
私がアセンションのことについて初めて知ったのは、師匠の講義からです。
ただし、使っている言葉は別のものでした。
師匠は、最新の精神世界の情報をチェックしているわけではなく、インターネットもやっていない。
師匠はよく、「次元が変動する」 と表現していました。
そして昭和40年代から既に始まっている…と。
時代の変わり目は、霊的なエネルギーもよく動きます。
明治維新のときも、きっとそうだったと思います。
新しい時代を切り開くエネルギー。
そして、それに抵抗する旧体制のエネルギー。
両者の戦い。
師匠によれば、この地球で生きる資格にも直結するのが、次元変動の影響らしいです。
仮に地球を脱出することに成功しても、自分のカルマは付いて回る。
どこに行こうとも、自分自身からは逃げられない。
そういう意味で、「選別」 とも言えるこの流れは、非常に厳しいと。
人間としての輪廻の停止を意味すると。
しかし、人間として積んできたカルマは清算されていない。
故に、次の生も人間としてやり直す必要があるのに、そのチャンスがもう無い。
そういう人が激増している。
だから霊界の存在にとっても、非常事態になっている。
私は当初、師匠の話がとても荒唐無稽に聞こえました。
しかし、ある時期から、それが真実だということに気付いてしまった。
某ヒーリング教室の指導者が10数年前に、「これから先、獣の唸り声を発する人間が急増する」 と述べていました。
そしてその後、一年も経たないうちに、それが現実になった。
私の知人でもある霊能者達が、口を揃えたように 「人間たちの魂の叫びが不気味になってきている」 と言い始めました。
私にはそれが分からなかったのですが、ハートチャクラが完全に塞がれてしまっている人が増えてきたなぁ、という感覚はありました。
更に霊的洞察を深めてみると、やはり獣の絶叫のようなものを感じるのです。
今回の生が最後のチャンスといっても、それすら気付かず、相変わらず魂を傷付ける生き様を続けている。
自らチャンスを踏みにじってしまった。
しかし、こういう人間が多い中、本気で進もうとする人に与えられるチャンスが、物凄いことになってきた。
過去記事で何度も説明してきた超法規的措置ということです。
たった一つのカルマを解消するだけで、芋づる式に10個・20個と、複数のカルマまで解消される。
そういう時代に入ったと。
波動感覚が優れている人でも、アセンションの波に飲み込まれてしまっている人は、その事実を感知できない。
宇宙の波に乗ることは大切ですが、飲み込まれるならば話は別です。
完全にその波動と同化しており、事実が見えなくなる。
幽界に住んでいる霊的存在と同じであり、周囲の環境と自分が同化してしまっているため、必要な気付きを得ることができない。
感覚が鈍くても、自己観察をベースに生きている人は、必要な気付き・理解が得られるようになっています。
隠されてきたものがどんどん浮上しているため、自分でブロックしない限り、気付くのが容易になってきたわけです。
その意味で、悟りに至る者、覚醒に至る者がどんどん出やすい時代なのかもしれません。
以前なら、アストラル次元のカルマを癒すだけでも、現象化をストップ・ないし軽減することが出来た。
しかし、現在は、それを超えたスピリチュアル体のカルマまでダイレクトに浮上するようになっています。
現象化が早い早い。
宇宙の時間が加速しているのでしょう。
ただし、勘違いはしてほしくないです。
我々はカルマ解消のために生きているわけではありません。
人間は本来、ハートの求める体験を積むために生まれてきた。
その障害となるカルマを積んでしまったことが、悲劇の始まりだったのです。
故に、「ハートが求める体験」 と 「カルマ解消」 を両立させなければならない。
主体になるのは前者であり、その障害因子を浄化するために、カルマ解消をすれば良いのです。
アセンションに関する知識をいくら増やしても無駄です。
本ブログの記事も、知識欲を満たす目的ならば、何の役にも立ちません。
むしろ障害になるでしょう。
宇宙がどの様に変化しても、その世界で生きるのはあくまで貴方自身。
カルマを1個解消すれば、芋づる式に100個のカルマが解消されるかもしれませんが、そこには一つの前提があるわけです。
「最初に、その一個のカルマを解消しなければ、他のカルマも消えない」 ということです。
貴方自身が動かなければ意味がない。
貴方の今までの人生は、貴方自身が積み上げてきたものです。
故に、全ては貴方が貴方自身の生き様を選択するしかない。
知識や思想を選択するのではなく、「貴方自身を選択」 する必要があります。
そして、それこそが、真に役立つ知識を選択できるエネルギーになります。
矛盾した言い方ですが、この意味を理解していただきたいと思います。
2007-12-27 関係性と中心軸
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071227
2007-12-08 宇宙発 『最後のプレゼント』
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071208
2009-03-31 カルマに善悪はない
2009-06-01 天地の摂理

従来の精神世界の常識的な概念を解体し、斬新な視点を提供している人がいます。
宇宙からの廃棄物処理場として地球は設定されたとか。笑。
カルマというシステムは、地球という磁力場に閉じ込め続け、家畜化するために作られた監獄システムとか。笑。
故に、そこに何故、神が居るのかといえば、監獄・実験場・ゴミ捨て場など、地球の持つ色々な役割が 「神」 を作り出すと。
システムの運用にヘマをして星が崩壊し、、各個が脱出して出た先の地球の引力圏に囚われて、そこで鎮座して「カミ」となった、と。
地球に廃棄されたエネルギー体は、廃棄物処理場として設定された地球からは外に還ることが出来ないと。
宇宙から地球に堕とされた堕天使とかのエネルギー体も存在し、監獄としての地球から、外に還ることが出来ないと。
地球の引力圏に間違って引き込まれた存在も、監獄としての地球から、外に還ることが出来ない…と。
そして、それらの霊的存在は、地上の人からは隔絶した存在 (パワー) として認知され、それを祀る者は、神域を作り、崇め奉った…と。
地下に潜った霊的存在は、地脈水脈の龍とも言われたと。笑。
人格神として認知された存在は神話として祀られ、個々の小さなエネルギー体は、地域の神として祀られた…と。
…こういう世界観は、一見、真実を鋭く突いているようでも、実は、旧来の精神世界で繰り返されている迷妄ゲームの範疇に過ぎません。
自分自身の霊体が、堕天使と同じような状態になっているわけです。
「地球という星は、宇宙の中で最も波動が低い」 などと説きたがるチャネラーたちと何ら変わるところがない。
そういうタイプのチャネラーや霊能者って、意外に多いですね。
なにも 「地球は素晴らしい」 と説く人だけが全てではない。
人間という存在を、他の霊的存在と比較して、「レベルが低い」 と思い込みたがる人もいますが、まあ、土俵は同じです。
ただし、「言ってる内容が同じ」 という意味ではありません。
正反対の内容を説いている人もいる。
私が言いたいのは、「いずれも同じような無智・迷妄の思考が生み出している幻想の産物」 ということです。
何もそこまで自分の生命を虐待する必要はないと思いますね。
我々は、今こうして地球上に生きている。
生悟りを気取っている人だって、結局は 「人間」 として生まれてきたのだから、輪廻の循環法則を超えることが出来なかったわけです。
少なくとも、「今までは…」。
まあ、せめて、風水で地脈水脈のことを何故に 「龍」 と呼んでいるのか、少しは勉強してから物を言ってほしいですね。
宗教のことを徹底的に批判・揶揄・嘲笑してきた人物が、巷の宗教をはるかに超えた奇妙奇天烈な世界観を打ち出しているのだから、お話にならない。
まあ、小生が説いている霊的世界の話も十分に奇妙だと思う読者がいるかもしれませんが、それはそれで構いません。
私は宗教の全てを否定しているわけでもないし、表面的に奇妙であっても、そこに 「真」 を感じた時は、ちゃんと肯定してきたわけです。
ところが、旧来の世界観を嘲笑ってばかりの人が、ご自分の世界観の異様な臭いに無頓着とは…。
そもそも、あんな世界観では、神域も糞もないでしょ、と。
神社の祭神はダークな存在が大半かもしれないし、地球の磁場に閉じ込められて、脱出できない哀れな存在も多そうだ…という世界観ですから。
つまり、新興宗教やチャネラーたちの怪しい神様のみならず、マトモだとされる神様達も、情けない存在だと。
それが本当に事実ならば、「神域・神社は決して清浄ではない」 ということになるため、人間達がそこに欲望を持ち込んでも何ら問題はない、ということになる。
感謝ゴミを捧げる行法も、まったくOKということになる。
無思考で神社に参拝し、普段は水分を何度も補給し、健康法でも実践してれば、輪廻の鎖から解き放たれるとでも思ってるのでしょうか? 笑
地球は監獄ではない。
まあ、監獄の要素もあるのですが、それは他の宇宙も同じことです。
自己保存・自己保護・自己存続のエネルギー法則が働くからです。
それは 「個」 なのだから、個は個を存続させようとする。
故に、人間にも自己保存の動きが生じるし、宇宙の様々な星にも自己存続の法則は働いている。
そんな当たり前のことを曲解し、誤解し、地球が悲惨な世界であるかのように妄想してしまう。
霊界で生活していた頃に負ったトラウマが深そうです。
意識の奥で自己乖離しているからであり、それが妄想型エセスピの特徴です。
しかし、そんな愚かな連中の 「虚妄の実態」 を、外部の人間が何百回も指摘したところで、彼らの思考は変わることがない。
本人にその気がないからです。
幽界で苦しんでいる霊と同じです。
脳内に特定の宇宙観・世界観が強固に構築されている。
故に、様々な霊的存在から注がれる 「観念崩しの援助エネルギー」 を全て拒否してしまう。
まともな理解力が麻痺している。
もうそろそろ、ご自分の「魂 」に刻み込まれている根源的な恐怖のトラウマに気づいた方が良いと思います。
その恐怖を自覚していないから、必死に足掻こうとする。
「宇宙や地球は、貴方の真実を見抜いている」 と言われると、すぐ過敏に反応して、「脅しだ」 などと決め付ける。笑。
「宇宙は見ている」 の本当の意味は、
『人間は宇宙であり、自分自身を誤魔化すことは出来ない』
ということです。
でも、愚か者は、そこに気付かず、理解できず、見落としてしまう。
意識上で、人間と宇宙が乖離しているからです。
言葉尻に粘着したがるカルマを、どうしても手放すことが出来ない。 哀れ至極。
冒頭で引用した特異な世界観は、一人相撲の恐怖心の裏返しに過ぎません。
まあ最近は、「人間は、宇宙の餌である」 と説いた無明庵EO師の劣化コピーのような人、はたまたスケールダウン版のような人をちらほら見かけますね。
地球という霊的磁場から離れても、カルマの根源的な法則は変わらない。
地球から離れ、いろんな星や、いろんな宇宙を股にかけて、輪廻転生を繰り返している生命体も数多くいる。
無明庵EOは、「釈迦は偉大な人ではない。 宇宙から脱落した人に過ぎない」 と説きました。
ある意味、それは真実なのでしょう。
その世界観においては、神々に対する尊敬もないし、神々とは、哀れで身勝手な存在に過ぎない。
神々どころか、宇宙そのものが無慈悲な存在…ということになる。
宇宙は、延々と輪廻してくれる存在を求めている。
各生命体が提供してくれるエネルギーを吸収する。
人間が輪廻するように、宇宙もまた輪廻し、進化や退化などの循環法則を生きている。
ただ…、無明庵EOという人は、恐怖と絶望から出発している人ですよね。
宇宙の恐るべき正体を知ってしまったからです。
だから、EO師の説く道は、生ける死人の道でもあります。
いや、「完全なる消滅の道」と呼んでも良いでしょう。
宇宙に対して、一切のエネルギーを提供しない。
ちなみに、私が説いている道は単純です。
まず、地球人として生まれてきた…という当たり前の現実から出発します。
我々は、外側のエネルギーを食うことによって生きているのだから、自分もまた外側の世界にエネルギーを提供するのが筋です。
それを拒否する連中は、エネルギー泥棒…ということです。
地球のあらゆる存在に生かされている。
水を飲み、空気を吸い、様々な食物 (生命) を取り込むことで、自分の生命を維持している。
地球という大地を離れて、生きているわけではない。
故に、それらの精霊に対する感謝や慈しみを持つ。
奪った生命の分までしっかり自分自身を生きる責任を自覚する。
不食の道もある。
「食わない」 し、「食わせ」 もしない。
植物や動物のエネルギーのみならず、霞さえも食わない。
仙人は霞を食って生きると言われていますが、それさえも遮断するわけです。
ただし、その道は、恐ろしく失敗率が高いでしょうね。
ほとんどの人間は、この世に生まれてくる際に、魂の親に決意表明し、約束しているからです。
「今度こそは自分自身を真に生きます」 と…。
そして生まれてきた。
でも、約束を破ってしまう。
地獄行きを宣告される。
再び決意表明し、「今度こそは約束を守ります」 と必死に懇願する。
それを何度でも繰り返す。
しかし、そのような繰り返しは、もう終わり。
次のチャンスは、本当にない。
魂の道を少しでも取り戻した人間だけが、次のチャンスを得る。
魂の道を完全に生き抜いた人は、宇宙から卒業し、輪廻から超越する。
ただまあ…、地獄というのは、素晴らしい世界ですよ。
それは苦しみという 「経験」 が出来る世界なのだから…。
幸福の経験なのか、苦しみの経験なのかの違いはありますが、基本的に 「経験」 というものに基づいている。
ところが、裏宇宙には一切の経験がない。
隔絶された完全なる闇。
この世に生まれてくる際の 「約束」 を破るのは自由ですが、そういう道を選んだ人は、あくまで 「裏切り者」 として 「最後の生」 を細々と生きればよいと思います。
偉そうに振舞うのは筋違い。
宇宙に反逆しても意味がない。
本人は、反逆の自覚が無いのかもしれませんが、実際は立派に反逆している。笑。
そういう人は、何もする必要がない。
先祖供養も必要ない。笑。
むしろ、そういう行為こそが筋違いだということ。
感謝も先祖供養も、全て 「エネルギーを提供する行為」 なのだから…。
提供する対象が、神様だろうと先祖様だろうと、その違いは (ここでは) 重要ではない。
また、「普通の感謝」 と 「捧げる感謝」、
どちらも、外部にエネルギーを送っている、という点では何ら変わりは無い。
意識的に行なうか、無意識に行なうかの違いだけです。
まあ…、神社などの神域に願望を持ち込むな、とか、感謝を捧げるだけで良い、とか、はたまた、なんの想念も持ち込まない方が良いとか…。
大変ですね。笑。
軸を失った人間は、「あれが良い」 「これは駄目」 という、思考の迷妄ゲームに陥ってしまう。
どれほど論を考え、物語を作り、真実を語っているかのように見せかけても、内部のエネルギーの実態は誤魔化すことが出来ない。
先ほども述べたように、私が説いている道は、「食う・食われる」 の法則を大切にしています。
当たり前の現実から出発しています。
宇宙にエネルギーを提供し、循環法則に貢献する。
そして同時に、宇宙をも超越してゆく。
宇宙の進化を支えながら、宇宙を超えてゆく。
要するに、「特別なものは何もない」 ということです。
普通に飲み食いし、普通に仕事し、普通に生活し、普通に先祖供養し、普通に神社や仏閣に参詣する。
お陰信仰をしたい時は、素直に祈願する。
日本人が、日本人として、昔から当たり前の様にやっていたことを大切にする。
この視点に立てば、その手法が大衆的なものか、専門家的なものか、その違いは大した問題ではない。
宗教儀式を一切否定する人から見れば、神社で祈願するだけの簡単な行為だって、極めて異様で専門家的な世界に見えるかもしれない。
でも、祈願する人にとっては、それが当たり前だということです。
ピアノが苦手な人から見れば、ピアニストは極めて特殊で、超能力の世界に見えるかもしれない。
しかしピアニストにとっては、ピアノを弾くのは自然な世界です。
私は 「当たり前」 のことを大切にしているだけですが、その 「当たり前」 の基準は、あくまで 「自分自身にとって」 という意味です。
他の人から見て、難解で特殊なものに映るかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよい。
私にとって当たり前のことを行うだけ。
ほとんどの人は、当たり前のことをやっていない。
表面的には、ごく普通の生活をしていても、そのベースに自己観察が存在しないため、カルマを積み続けたり、カルマに流される。
「祈願は必要・不必要」 とか、「感謝は必要・不必要」 とか、そのような 「方法論」 に本質があるわけではない。
仮に、「何も祈らない方が良い」 という主張が正しいのであれば、非常に不気味な光景が展開されることになります。
その主張に沿う参拝者が、ごく少数派ならば良いのですが、仮にそんな狭っ苦しい世界観が、多くの国民に広がったとしたら、どうなるでしょうね?
日本全国の神社で、毎日、無想念の参拝をする人が過半数を占める。
不気味な光景です。
(最初にその主張をした人が、その持論が世間に普及することを期待しているかどうかは別の問題です)
何も祈らない人達ばかり神社にやって来る。
まるでゾンビ。
偏狭で、自由度の極めて低い 「閉ざされた世界観」。
そんなものに拘束されている姿に、異様なものを感じるのは、私だけでしょうか?
人間は個性があり、多種多様なのだから、神社で祈願しても良いし、その祈願の内容は、各自によって異なるのが自然な姿だと思います。
最低限の礼儀・作法を守るならば、それで良いと思います。
更に言うなら、天地に真っ直ぐな生き方に各自が目覚めてほしいですね。
まあ、全ての人が目覚めるのは無理だと思いますけど…。
感謝を捧げても良いし、祈願しても良い。
魂に真っ直ぐで、天地に真っ直ぐであれば良い。
それが人間としての 「軸」 ということ。
真っ直ぐに祈願するか、曲がった状態で祈願するかどうか。
真っ直ぐに感謝するか、曲がった感謝をするか。
その人の真実は、全てそこに現れている。
人間が出来ることは、結局のところ 「それだけ」 です。
2008-11-05 身も蓋もない宇宙
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20081105
2007-11-15 宇宙の餌
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071115
「反逆の宇宙」/よりの抜粋編
2009-05-31 形に現れる真実

大地の神業は、私に様々な気付きをもたらしてくれました。
まずは自分自身の傷を癒してゆく。
そうすることによって、大地のヒーリングの力も強化されることを知りました。
日々の自己観察の重要性を思い知ることになりました。
傷に気付かない限り、傷を癒すことは出来ない。
自分は傷だらけであり、破滅寸前なのだということを思い知る必要があった。
そして、その道を歩き続けるうちに、多くの人間もまた、傷だらけでボロボロなのだということが分かってきました。
知識だけの 「分かったつもり」 の世界ではなく、腹の底からの実感を伴った悟りです。
傷というものは、傷のままでは、決して前向きなものを生み出さない。
昔の流行歌に、「傷付いた人間は、優しくなれる」 という意味の歌詞がありました。
ただし、そこには前提があります。
実際に傷をヒーリングしてこそ、その傷は、真の慈悲や愛へと変容される。
傷を癒すことをせず、優しくなったとしても、それは傷の裏返しに過ぎない。
エネルギー的には呪詛です。
癒された傷は、愛そのもの。 力そのもの。
そして、「護り」 の道を歩むエネルギーになります。
必ずしも優しいとは限らない。
恐ろしいほど厳しい形で表現されることもあります。
2009-03-04 『未成熟な愛を守れ』
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090304
私が昔、魂の道を伝えていた時、それを真っ向から否定した人がいました。
様々な難解な観念を駆使して、否定してきました。
「魂・中心軸に基づいた生き方こそが最大のエゴであり、諸悪の根源」 だと…。
「そもそも軸などというものは幻想に過ぎない。 存在しない」 と…。
そういう考え方を持つのは自由です。
しかし…、
軸や真我というものは、幻想以前の話なのです。
人間は基本的に、「それしか出来ない」 からです。
故に、軸というものを否定する人は、自分の現実から逃避しているわけです。
私が説く道にも、観念の罠があります。
真我や中心軸というものを、徒らに観念化し、執着してしまう…という罠です。
「どの様に在るか?」 の指針を、真我という 「核」 に求めてしまう 「観念」 があるために、そこに囚われてしまう。
大切なのは観念化ではなく、「真我そのものを生きる」 ことであり、それは、実際に生きることによって初めて分かることです。
といっても、観念そのものを全面否定しているわけではありません。
「自覚的」 に観念を活用することが、「自由選択」 の境地ということです。
今の自分には自由選択することが無理だというならば、せめて人間として最低限、出来ることをやれば良いのです。
神社での祈願の話をするならば…、願いが叶ったら、ちゃんと報告する。お礼を言う。
その程度のことは、誰でも出来ることです。
まあ、たった一円や十円のお賽銭で、病気を治してくれ、などと望むような人間がいるような現状では、無駄な説教 (?) かもしれませんね。
また、そういう人に限って、「神はお金を必要としていないはずだ」 とか、「大切なのは金額の大小ではない。 真心が大切なのだ」 とか言い出す。笑。
貧窮な生活をしている人ならともかく、よくもそんな台詞を吐くことが出来たものだと。
一円・十円は、その真心の表れですか?
だからまあ、「在り方」 とか 「真心」 という概念を、自己正当化の道具として利用する人もいますね。
そういう人は、「在り方が真っ直ぐならば良い」 とか言いながら、実は曲がっているわけです。
そういうのは論外です。
しかし、在り方が大切…という事実には変わりは無い。
方法論ばかりに囚われる人は、それがいつまで経っても分からない。
形ばかりに囚われ、そこに善悪や優劣を付けたりする。
人類は、そんな下らないゲームを延々と続けてきた。
それが輪廻転生の原因の一つになっています。
方法論そのものは大切です。
在り方が真っ直ぐならば、自分を活かすために適した方法論を選択できる。
そしてそれは、「形」 となって現れる。
心の状態が、形となって現れる。
故に、そういう意味での 「形」 は大切です。
神を大切にしている人なら、お賽銭を乱暴にポーンと投げ付けたりはしない。
そっと静かに落とすでしょう。
紙に包むぐらいの心遣いもできるはずです。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090527
『お賽銭だって、本来は清浄な紙に包んで、捧げるものです。
紙に包まない場合は、「裸のままで失礼いたします」 と黙念するのが礼儀です』
人間同士だって、例えばお中元やお歳暮で、品物を贈るとき、箱をちゃんと紙で包むでしょう。
慶事や弔事でのお金も同じ。
紙で包む。
祝い事ならば金包みの表書きで、「御祝」 とか 「御慶」 とか 「寿」 とか書く。
弔事なら、「御霊前」 と…。
ところが、神々を相手にする時は、手抜きをしてしまう。
こういうのは 「各自の個性」 という言い訳で済むような問題ではないです。
最低限の礼儀です。
それを忘れたり、軽視してしまうということは、心の状態に問題があるわけです。
在り方に、全てが現れている。
パワースポットでの採気も同じことであり、頂いたエネルギーを真っ直ぐに使うのか、それとも自分を腐らせる方向で使うのか。
それによって、パワースポットのエネルギー状態が左右される。
曲がった人間が多ければ、やがてパワースポットのエネルギーはどんどん汚れてゆくし、真気が減少してゆく。
枯渇してしまうかもしれない。
ただし、欲望から出発しても良いです。
赤ん坊は純粋に泣きながら、「オッパイが欲しい」 「オシメを替えてほしい」 と訴えます。
不平不満や欲望をいっぱい溜め込んでいるのに、それをいつまでも吐き出さなかった場合、自己崩壊が加速し、大地も汚れます。
「満たされない思い」 もカルマの一種です。
満たされないエネルギーは、必死に満たそうとして、「繰り返そうとする」。
しかし、本人が望む形で表面化するとは限りません。
重病や事故や悲劇的な出来事…という形で表面化することもあります。
だから、自分が望んでいる形で、満たしてあげればいい。
願望をどんどん叶えてゆけば良いのです。
だから、「クレクレ」 は大いに結構なことです。
素直に願望を吐き出せば、大地はそれを浄化してくれます。
むしろ、願望を抑圧し続けていると、腹がどんどん汚れ、幸福な人に対して嫉妬の念を飛ばしたり、邪霊を飛ばす結果になります。
腹の邪気が、収容限界量を超えた場合、精神異常になる可能性があります。
人によっては、欲望の大暴走を始めたりします。
限度を知らない欲望によって、必要以上に自然界を破壊してしまうのも、大抵は屈折したエネルギーが原因なのです。
ただし、自己観察を忘れた場合、いつまで経っても、軌道修正はできない。
ハートの願望から遠のいてしまう可能性があります。
そして、大地の浄化能力が限界を超えてしまい、汚染が加速するわけです。
欲望そのものは必要です。
人間として生きること自体が、欲望のエネルギーで動いていることなのだから…。
私がカルマ解消の道を伝えているのは、「そこに意識を通す」 ということです。
気付き、理解すれば、無自覚なままに流されることが無くなります。
だからカルマ解消とは、必ずしも贖罪的な要素だけではない。
そもそも前世から現世までの膨大なカルマを、「罪滅ぼし的」 な手法のみで清算しようとしたら、100回以上も殺される必要があるかもしれない。
キリが無いわけです。
実際、そこまで業が重い人が、とても多いです。
基本的にカルマとは、「繰り返し」 のエネルギーに過ぎないのだから、それを断ち切る方法は一つではない。
そういうことです。
ヒーリングによって、無意識層の傷を癒すだけでも、その傷による繰り返しのエネルギーは消滅します。
現象化する前に終わらせることも可能です。
また、傷やカルマが原因で生じる 「カルマ的な欲望」 も消えてゆくので、ハートの願望に立脚できる時が多くなります。
2009-05-30 傷の痛みを理解する道

人は誰もが傷を負っています。
私はそれをヒーリングする道を伝えています。
でもそれは、特定のメソッドやエネルギーの範囲に留まるものではありません。
世の中には、「もう誰も信じない」 「何物にも頼らない」 という決意を固めている人がいます。
「自分の力だけが頼りだ」 と…。
精神世界に限った話ではありません。
信用していた人に裏切られ、深く傷付き、それ以降、誰も信用できなくなった…と。
某ネットカルトに集う人達も、過去に深い傷を負ってきた人が多いと思います。
様々な指導者や団体で、自分が求めた結果を得られなかった。
そういう人が多いのかもしれません。
だからこそ、他のメソッド、他の指導者達に対する激しい批判や誹謗中傷を執拗に展開する教祖のトークに引き込まれ、納得し、共感してしまうのかもしれません。
でもそれは、他の指導者のもとに集う人達も同じだと思います。
程度の差はありますが、やはりそこでも、「他の指導者の教えに従ったのに、上手くいかなかった」 という声をよく聞きます。
自分が信じる指導者の言葉だけを盲信し、他の指導者の教えを全面否定してしまう。
どこの団体・どこの指導者においても、そこに集う人達には、共通点を発見することがあります。
そして互いに傷を広げてしまう。
自分が信じる道によって、救いが得られたと思うならば、他の道で救いを得られた人達のことも尊重すべきなのに、自分の過去の傷を相手に投げ付けてしまう。
相手の選んだ道を全面否定してしまう。
被害を受けた人が、被害報告をするのは良いですし、精神的なケアのためにも必要な時があります。
また、問題の多い指導者や団体を調査・検証するためにも、被害報告が必要になる場合があります。
批判が必要な時もあるでしょう。
理(ことわり)に基づくならば、批判も大いに結構だと思います。
しかし、自分が現在、信じている指導者との関係の中に逃避や安心感を見出すために、以前の指導者のことを誹謗中傷するのだとしたら、もはや加害者に等しいし、傷の拡げ合いに過ぎないと思います。
中には、「もう誰も信じない」 「どんな教えにも頼らない」 と決意する人もいます。
そういう人々からメールを戴くことが何度もあります。
他の道でさんざん裏切られ、やっと最後に 「本当に信用できる指導者に出会うことができた」 と感激していた。
なのに、やがてその 「最後の指導者」 にも裏切られてしまった…と。
最後の指導者の醜い正体を知り、なにもかも信じられなくなってしまったと…。
確かに、道から外れた指導者は多いです。
そういう指導者から霊的指導を受けたり、行法を実践したり、除霊やヒーリングを受けてしまった場合、ますます悪化してしまう可能性があります。
しかし、天地に真っ直ぐな指導者の教えを受けていても、やはり結果が上手くいかないケースもあります。
だからこそ、自己観察が大切なのです。
幸福を求めているのに、内心ではそれを拒否している場合が多いからです。
たとえば、お金が欲しいと願いつつ、潜在意識には、お金を儲けることに対する罪悪感が強烈にインプットされている。
そこに気付いて、知ってゆくこと。
理解してゆくこと。
そこから真のヒーリングが始まります。
無理に癒そうとすれば、心が壊れてしまうリスクがあります。
最初からハードな自己観察をする必要は無いし、それは非常に危険です。
私はそれ故に、ひとつひとつのステップを大切にしています。
何も頼らずに生きていく決意を固める人々もいますが、それはそれで一つの道だと思います。
しかし、もし真剣に 「道」 を求める気があるならば、もう少し踏み込んだ姿勢が必要です。
つまり、「誰にも頼らない。信じない」という思いが、本当にハートから出たものなのか、それとも傷から出発したものなのか、それを見分けることです。
私が今まで観てきた限りでは、「自分の力だけが頼りだ」 と主張する人の多くは、その自分の力を信じ切っていません。
自己不信の裏返しなのです。
何を選んでも自由です。
傷を癒すことなく、誰も信じられず、心を閉ざしながら人生を終えてしまうのも、それはそれで自由です。
私もまた様々な傷を負って生きてきました。
でも、それを乗り越える道を選んできました。
傷を癒す道は、とても辛いことが多いです。
「ヒーリング」 という言葉を聞いて、甘美で優しい世界をイメージする人が多いかもしれませんが、そんな甘いものではないのです。
何故なら、傷に向き合うのだから。
痛みを理解する道なのだから。
私がやってきたのは、それだけです。
特別なものではなく、自分に対する誠意として、当たり前のことを続けてきただけです。
だから、本ブログで出来ることは、真剣に道を求める人達に、ヒントを伝えることだけです。
私の生き様を、読者にコピーするのは意味が無い。
貴方が真に求める生き方は、貴方自身のハートが知っています。
追記
関係ない話だが、昨日はエネルギー攻撃が凄かった。
頻繁に押し寄せてきた。
サラリーマンのお弟子さんも、夕刻から何度も経験したと言っていた。
まあ、攻撃主の背後の 「情けない親玉」 の正体は見切っているので、簡単に対処することが出来たが…、こうも頻繁だと面倒臭いね。
2009-05-28 神と大地の関係

太古の昔から、日本人は自然界に神を見ました。
八百万の神。
あらゆる物に神を見ました。
神社というのも、初期の頃はその土地に棲む霊的存在を祭るものが主体だったといいます。
しかし、時代と共に、人霊を祭ることが多くなってきたのです。
現代の名だたる神社の多くの祭神は人霊です。
大国主命、スサノオ命、天照皇大神などでです。
まあ、神話にも頻繁に登場する有名な人霊というわけです。
(太陽神としての天照大神と、皇祖神としての天照皇大神は区別してください)
ただし、神話といっても、人霊ばかりではありません。
自然界の精霊や特定の自然現象のことを、人格的に表現しているケースも多いです。
でもやはり主役級は、正真正銘の人霊が多いですね。
例えば有名な国譲りの話は、現実的に起きた話を神話化したものだと直観します。
縄文人の平和な楽園。
日本の豊かな国土を狙って、朝鮮半島・中国大陸から弥生人 (天孫) が侵攻してきた。
多くの縄文人が虐殺され、国土が強奪されてしまったのです。
大国主命は、ある牢獄に幽閉され、苦しみながら死んでゆきました。
文明・文化も塗り替えられた。
お稲荷さんというと、多くの人は五穀豊穣の神だと思うでしょう。
でも本当は 「製鉄」 の神なのです。
ところが弥生人たちが勝手に、農耕の神にしてしまったわけです。
故に、「稲荷」 という名称も、適切ではありません。
では、本物の稲荷的な働きをする神……すなわち農耕の神が存在しないのかというと、そうではありません。
農耕の神はいます。
更に、お稲荷さんに豊作を祈ることにより、本当に豊作になるケースもあります。
霊的世界は面白いもので、「代理神」 というものが存在します。
たとえ人間側が間違った思い込みで信仰したとしても、その霊験・ご神徳に関係する霊的存在が、代理でその願いを叶えてやるわけです。
大国主命は、本当は縁結びの神ではないのですが、人々が縁結びを祈願するために、縁結びを担当する霊的存在が、大国主命の名の下に、縁結びの願いを叶えてあげるわけです。
他に、ツクモ神というのも存在しますね。
人間達の想念が集結し、特定の霊的磁場が作られ、人間達が信じた通りの働きをする想念神が発生するわけです。
話を戻します。
神話に存在する神々は、人霊である場合が多いわけですが…。
その人霊のことを、人格神と呼ぶことも出来ます。
ただし、その表現を用いた場合、土地の霊的存在にも被ってしまう場合がありますね…。
土地の霊的存在だって、個々に分かれており、個性があるし、意思があるのだから、人格神と呼んでも良いわけです。
これではややこしいので、今回の記事では、神話の神のことを人霊と呼ぶことにし、自然界・土地の精霊と区別いたします。
神社において重要なのは、土地に棲む霊的存在、および特定の土地を司る霊的存在を祭ることだと思います。
しかし現実的には、人霊を祭っている神社が大半です。
無名の霊的存在を祭っても、参拝客が来ないからでしょうか?
「神話にも登場するような有名な神を祭った方がずっと霊威が増すし、参拝客も集まる」 という計算でしょうか?
まあ、様々なケースがあると思われるので、画一的な決め付けは自粛いたします。
ただ実際、人間の計算・欲望がかなり入っているケースが多いと思います。
いろんな神社を回って、それを実感しました。
人間はどうにも大地の真実から目を背け、神さえも食い物にしたがるようです。
ちなみに、神社で祭っているのは、天界の神だけではありません。
他にとても重要な存在を祭っています。
これは本来、各神社で秘伝的に伝えられているため、ここで具体的に説明することは出来ません。
それは 「存在」 という表現が相応しいかどうか分かりませんが、天地の御柱の中継地点に、様々な真相があります。
私はだからこそ、大地の先住民を無視することが出来ないのです。
分かる人は、この意味に気付くと思います。
私が執り行わせて戴いている 「大地の解放ヒーリング」 では、その視点を重視しています。
大地の悲鳴を何度聞いたことか…。
私が味わう苦しみとは比較にならない。
自然に涙が溢れてしまうことがあります。
有名な神を祭ることにより、土地の本来の霊的存在 (土地神) を制圧してしまう。
大地の霊的エネルギーの流れに悪影響を与えているケースも多いです。
しかし、制圧されたからといって、土地神がその土地から離れてしまうとは限らない。
だからこそ 「制圧」 というのです。
離れてしまうこともありますが、土地の先住民的な霊的存在の場合は、その場所に居続けるケースの方が多いようです。
それ故に、人間達が行なう 「先住民を無視した祭祀」 によって苦しんでしまう場合があります。
眠りについてしまう霊的存在も多いし、悪霊化してしまう霊的存在もいます。
関連記事
2009-05-05 神社をパワースポット扱いすることの是非
2009-05-27 静寂の感謝 無思考の祈り

私は、2年前から何度か、「静寂の祈り」 「無思考の感謝」 というものを説明していました。
その中の2つを引用します。
『真に深い祈りや瞑想では、感謝や幸福感さえ湧いてきません。
根源的な真実を感得するには、「静寂」 が鍵です。
無思考の祈りであり、それは 「静寂と静寂の出会い」 の拈華微笑の境地にも通じるものがあります。』
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071121
『魂次元の根源的な感謝には、一切の思考や感情はありません。
それは静寂であり、祈りの本質にも繋がるものです。』
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20081013
ただし、これは文字通り、「境地」 の話です。
形だけ無思考でも意味がありません。
心の奥に雑念がいっぱいあるのに、自覚がないままに、無念無想の生悟り気分に浸っている人もいます。
拈華微笑というと、「言葉にならないものを伝えた」 という点が強調されがちですが、そこには前提があります。
師匠が静寂の境地にあり、弟子もまた静寂であったからこそ、静寂同士の出会いが実現したのです。
故に、そこでは既に、伝える・伝えない云々も、本来は存在しない。
意識的に伝えるものは何も無かったということです。
「神社では、祈願してはいけない。 感謝の祈りだけを捧げればよい」 という教えがあります。
最近は、そういう主張をする人が増えてきたようです。
しかし、私に言わせれば、それはお陰信仰と同じことです。
まあ、そのことは以前から何度も指摘してきたわけですが、あらためて説明しましょう。
神々に願望達成を祈る方法も、感謝のみを捧げる方法も、同じ土俵です。
まして、感謝の祈りごときで、聖地の汚れを浄化できるわけではない。
神社・聖地・パワースポッが汚れる原因の一つとして、お陰信仰が挙げられています。
願望を持ち込むから、汚れてしまうという理屈ですね。
それは確かにあります。
しかし、感謝の祈りもまた、ゴミの一種であり、聖地を汚す原因の一つになっています。
それは感謝という想念で、場を縛っているからです。
汚れたペンキで、別の色に塗り替えているだけです。
昨年、あちこちの神社に参拝して気付いたことがあります。
妙に異様なオーラを放っている絵馬をよく見かけるようになったのです。
目に見えるわけではないのですが、異様に酷い臭気を感じるのです。
「一体なんだ?」 と思って、その絵馬を覗いてみると、判で押したように、感謝だけの定型句が書かれている。
昨年、戸隠神社の中社でも、強烈な波動のものを目撃しました。笑。
龍神系でしたが、正神ではありませんでした。
堕ちた存在…邪神でした。
某ネットカルトに関与している霊団エネルギーの残滓です。
信者さんに憑依していたのでしょう。
自然に湧き出てくる感謝ならば良いのですが、実際には、余計な教義に支えられている祈りが多い。
教義に縛られ、自らもカルマ思考によって、その教義や修行法に執着している。
ゴミだらけです。
無思考の祈り、静寂の感謝……
天と地との真っ直ぐな繋がりに目覚めない限り、霊的な夾雑物が付いてまわります。
私は、ある日…、自分という存在が、天地との本来の繋がりのままに、「ただ、そこに在る」 という体験をしました。
無思考・無感情の境地でした。
それは特殊な神秘体験ではなく、全てが 「当たり前」 でした。
熟睡していたわけではありません。笑。
そういう無思考のことではなく、「光そのもの」 という感じです。
始まりも無ければ、終わりも無い。
現実的には、始まりと終わりはありますが、現実的な尺度を当てはめなければ、何の区切りも無い。
完全な無思考。
無思考だから、意識的に尺度を当てることができない。
真の祈り…というか、根源的な祈りとは、こういうものだったのか、と気付きました。
ただし、常にこういう祈りができるとは限りません。
現実に流され、自分の軸から外れてしまうことがしばしばあります。
ただ、この境地を体験してからは、私の 「通常の祈り」 の質も大きく変わりました。
有思考・有感情の祈りにおいても、余計なゴミが付きにくくなりました。
根底が静寂に基づいており、魂との繋がりが真っ直ぐだからでしょう。
私が神社に参拝する場合、願い事はしないケースが大半です。
自分が訪問させていただいたことを報告・挨拶し、感謝します。
以前の自分ならば、そういう祈りの時でも、思考があれこれ動きやすかった。
動くのは良いのですが、何かに引っ掛かるようなストレス的な動きが多かった。
でも、無思考の祈り境地に目覚めて以降は、思考が存在する祈りにおいても、余計なストレスが無くなったのです。
故に、参拝の報告においても、自分という存在が丸ごと天地と共に 「ただそこに居る」 という感じなのです。
言葉や思念を用いて報告する前に、既に 「存在そのものが報告済み」 という感じです。
そこに在るのは、静寂と静寂の出会いのみ。
ただ…やはり、常にそういう状態で居られるとは限りません。
通常の祈り (思考がある祈り) の質が大きく変わったとはいえ、やはり無思考の祈りと比べれば、雑音が入ってしまう時もあります。
日常生活における修行でもそうですね。
雑音が多い日もあります。
特定の修行以前の 「生活そのもの」 においても、同じことが言えます。
真っ直ぐな道に目覚めるためには、自己観察が必要になります。
生活そのものが修行です。
ただしこれは、特定の思想や修行法のことではありません。
「自分を観る・知る」
私はその根本的ものを伝えようとしているだけです。
具体的な行法・テクニックの選択については、読者にお任せします。
自己観察のことを批判する指導者もいます。
ある指導者は、「悩む作業の代わりに、別の作業を心にさせて問題から逃避しているだけです」 などと言ってました。
2007-12-09 伊勢白山道・リーマン氏の狂態
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20071209
しかし、そういう指導者でも、「自分を見つめて、省みる」 という程度のことは述べています。
これが罠なんですね。
その教えを信じて、実行している人達は、「自分を見つめたつもり」 という勘違いに陥りやすい。
故に、特定のメッセンジャーや修行法に対する依存心があるにも関わらず、「私は依存していない」 などと思い込んでしまう。
見返りを求める心があるのに、「私は見返りを求めていない」 と…。
時には、他者に対する言い訳に繋がることもあります。
心というのは広大無辺です。
膨大な情報・記憶・想念が詰まっているため、そう簡単に、依存や欲望の有無を断定できるものではない。
なのに、簡単に結論を出してしまう人達がいる。
自分自身に対する嘘吐きです。
こんな人間は、どんな修行しても、どんな祈りをしても、神に真っ直ぐに通じることはありません。
ゴミだらけです。
私が言う自己観察とは、無意識層の実態や真実さえも把握することです。
透徹した観察のことであり、その覚醒意識による純粋観照を前提にしています。
表層意識のごく一部分を見つめただけでは、カルマ思考による遊びで終わってしまいます。
しかし、普通の人が、いきなり意識の深い領域を観察することはできません。
無意識の領域を、やたらと意識化するのは危険です。
そもそも人間の意識は、何故に表層意識と無意識に分かれているのでしょう?
「必要」 だからです。
無意識層の膨大なデータが一気に表面化すれば、大変に危険な状態に陥ります。
まともに意識を保っていられない。
狂死する可能性もあります。
幸い、私達の身体は、無意識層のあらゆる真実を知っているため、身体の意識化を進めることで、比較的、安全に内的情報を把握することができます。
身体に生じた違和感など、あらゆる感覚の中に、ヒントがあります。
故に肉体次元の健康法などを通じて、自己理解を深めるのは、とても良いことです。
まあ、そういう面から始めてみるのも良いと思います。
もちろん、瞑想などを通じて意識の旅をするのも良いでしょう。
貴方に合った手段を選べばいいです。
練達した指導者からの導きを受けることも大切です。
さて、今現在、無思考の祈りができるような境地に至っていない人は、どんな祈りをすれば良いのでしょうか?
願望を祈願しても良いし、感謝のみの祈りでも良いと思います。
「今」 の自分自身から出発するしかありません。
いきなり高度な境地から出発しようとしても無理ですし、いつまで経ってもチャンスが訪れなくなってしまう可能性もあります。
お陰信仰の歴史を執拗に否定し続けるエセスピの人もいますが、騙されないことです。
日本では、太古から現在に至るまで、お陰信仰の歴史が連綿と続いてますし、それ自体は悪いことではない。
ただ、せめて、願解きはしてほしいですね。
祈願した願望が叶ったら、その報告に行く。 感謝する。
つまり、そこで区切りを付けることで、エネルギーを終了させるのです。
願を解く…という意味です。
これだけでも余計な残留思念の量は減ります。
エネルギーの縛りを解き放つわけです。
そもそも神社などで祈願をしなくても、エネルギー的な縛りは生じます。
日常生活や仕事において、何らかの願望や目標を持つだけでも、束縛の霊的磁場が発生するのです。
特定の方向に意識を向けるのだから、「方向性」 の縛りが生じる。 当たり前のことなのです。
そしてそれは、必要なことです。
我々は 「生きている」 のだから…。
ただし、古いエネルギーで縛ったままにするのはマズイということ。
特に神霊への祈願の場合、とても重要になります。
エネルギーを終了させなければ、無自覚のまま 「繰り返しのエネルギー」 に流され易い。
現実的には、お礼参りに行かない人が多いです。
あちこちの神社で祈願をするだけして、結果報告にも行かない。
神々を侮辱しているんですね。
人間同士のことを考えてみましょう。
人の助けを借りたら、お礼ぐらいは述べるはずです。
そういう最低限の礼儀・マナーさえ、神が相手だと手抜きをしてしまう。
他人の家を訪問したり、お邪魔する時は、「ごめんください」 「お邪魔します」 と言うでしょう。
神社に行く時も同じです。
自分がこの場所に訪れたことを報告する。挨拶する。
そういう当たり前のことが大切だということです。
お賽銭だって、本来は清浄な紙に包んで、捧げるものです。
紙に包まない場合は、「裸のままで失礼いたします」 と黙念するのが礼儀です。
報告、挨拶、お礼参り。
これだけで残留思念の問題は軽減します。
ただし、完全に解決できるわけではありません。
それらの祈りの中に、余計なゴミが付いていた場合、やはり残留思念による縛りは生じます。
しかし、最低限の礼儀さえ弁えず、祈願のエネルギーを放置し続ける方が、ずっと問題です。
まずは、「今」 の自分が、出来ることから始めてほしいです。
当たり前のことを、当たり前のように行なう。
それが第一歩です。
2009-03-05 魂と天地のままに…
2009-05-22 上野で最初に知ったこと

大地のヒーリングの厳しさを、表層意識で初めて実感したのは、東京の上野の某池を浄化した時です。
非常に大きな池です。
それ以前のヒーリングでも、「厳しいなぁ」 と思った経験はありますが、心身に深いダメージを負ったのは、上野が初めてです。
上野の某池での出来事は、2000年の秋か冬だったと思います。
時期的なものは、ちょっと記憶があやふやなので、断言はしません。
ただ、第一期の活動に属していることは事実です。
某池は、仕事の帰りに寄ったのですが、なんとも言い難い悲しみや苦しさを感じました。
というより、上野そのものが、波動的に非常に重苦しい。
浅い次元の波動以前に、非常に深いカルマ、因縁の様なものを感じたのです。
某池で、特にそれを感じました。
波動のキツさで言えば、東京の蒲田もなんとも言えないようなキツさがありました。
水気が無い。
真っ黒い排気ガスが充満しているような感じでした。
もちろん霊的エネルギーの次元の話です。
上野の場合は、水気は感じますが、異様なぬめりも感じます。
まあ、日本全国、どこに行っても、波動が良い場所は少ないので、上野や蒲田だけが特別に悪い…というわけではありません。
多くの能力者が、「高級住宅街は波動が良い」 と述べているようです。
私も同感です。
ただし、聖地のような清浄な波動のことではありません。
人間のエゴ欲のエネルギーは大量にあります。
しかし、低所得層が多く集まる土地と比較すれば、高級住宅街の波動の方が良いと感じます。
鬱積された不平不満や苦悩の想念が少ないからだと思います。
物質的に満たされているため、精神的にも余裕があるのでしょう。
腹に溜め込んでいる邪気の量が少ない。
それが土地にも影響するわけです。
まあ、人それぞれですから、「全員がそうだ」 と言うわけではありません。
「家の柱や壁や床など、建築素材の品質の影響もある」 と述べる人もいました。
高級住宅地の家は、良質で本物の素材を使用している率が高いから、波動が良い…という意味でしょうか?
それも一理ありますが、全てに該当するとは思えません。
特急電車では、グリーン車の波動が一番良いですね。
そういうケースが圧倒的に多い。
自由席が最も波動が汚れている。
飛行機などでも、ファーストクラスと、エコノミークラスでは、波動が大きく異なります。
…話を戻します。
上野の某池は、その中や周辺に、幾つかの神社や仏閣があります。
その一つの五条天神は、大己貴命や少彦名命などを祭っています。
この二柱の神は、出雲・国津神であり、薬祖神とも言われ、人々を病苦から救ってきました。
また、天狗の寅吉が少年時代に、常陸国の岩間山天狗界の杉山僧正に最初に出会った場所が、五条天神の前だったということです。
しかし、私が某池の周辺を訪れた時は、エネルギー・バランスが狂っており、波動が乱れていました。
私は某池に、浄化エネルギーを注ぎました。
特別な現象や異変は無かった。
ところが帰りの電車の中で、猛烈な吐き気、頭痛、貧血の症状が出てしまった。
「もう2度と大地の仕事はしたくない」 と思ったほど重い症状になってしまった。
私のメンタル体とスピリチュアル体が、某池に染み込んでいたマイナスエネルギーを浄化するために、極度に消耗したのでしょう。
浄化そのものは、天地のエネルギーを用いますが、自分の霊体もフル稼働します。
土地を縛りつけようとする様々な邪霊・悪霊と、激しい戦闘を繰り広げたのだと思います。
私はこの時の経験により、大地の浄化が決して甘いものでないことを思い知りました。
以前もそのことは自覚していたつもりですが、気付きが浅かったと思います。
このとき初めて、大地の悲惨な状況を理解できたような気がしました。
進む限り、気付きというのは、常に深まってゆきます。
それ以前の気付きが、とても浅いものだったことを思い知るわけです。
求道者の修行は、その繰り返しかもしれません。
故に、某池での気付きも、まだまだ浅いと言えるでしょう。
昨年の活動もそうでした。
毎回毎回、新たな気付きがあり、学びがあり、理解が深まっていった。
それは今後も続くと思います。
死ぬ日が来るまで勉強…という感じですね。
上野の某池の、現在の状況は知りません。
あれから10年近くも経過しているため、浄化エネルギーは雲散霧消しているはずですし、以前よりも酷くなっている可能性もあります。
特定の土地にリンクしている人々が、真我に目覚めない限り、その土地は汚され続けます。
目覚めた人がいるならば、良くなっている可能性もありますね。
私が浄化したのは、池の表面のエネルギーが主体ではなく、もっと中心的な領域に食い込んでいたカルマでした。
土地のカルマ……それも、かなり古い時代のものだった気がします。
ちなみに、私の手法では、大地との対話に務め、本来のエネルギーを回復させるためのサポートを主眼にしています。
特別なパワースポットを作ろうとするのではなく、「その土地の本来の姿」 「自然な状態」 を重視するわけです。
まあ、これは、「原則的には」 ということであり、状況によっては、もっと踏み込んだ処置をする時もあります。
土地の開発など、既に物理的に手を加えられてしまった土地は、元に戻すことは不可能ですが、「エネルギーの自然な在り方」 という点で、改善することは可能です。
霊的に余計なストレスを取り除き、エネルギーの循環をスムーズにします。
だからといって、我欲・利権に任せた過剰な開発は、慎むべきです。
回復が困難なダメージもあります。
東京の高尾山も、かなり酷いダメージを負ってしまいました。
例の工事のためです。
十数年前とは比較にならないほど、エネルギーが低下してしまっています。
エネルギーの安定性が、極めて高い土地もあります。
波動研究家のP氏が、「長野市の善光寺はパワースポットだ」 と述べていたそうですが、私もその通りだと思います。
エネルギー量が多いですし、背後に連なる山から、エネルギーが常に供給されています。
風水的な表現を用いるなら、単に 「龍穴」 のみならず、周辺の 「砂」 「水」 も含めて、非常に興味深い配置になっています。
ただしこれは、極めて広範囲な地形を含めた話ですから、狭い範囲においては必ずしも理想形とは言えません。
でも善光寺は、人間の手による宗教的な霊的磁場も強く、強力な防備が固められているようです。
小生は昨年の秋に、長野に行ってきました。
ちなみに私は、風水の2度目の研究を始めて日が浅いこともあり、龍穴を探し出す技術や能力はありません。
ただし、大地の解放ヒーリングの経験から来る霊的洞察力を駆使して、大地の気が集中的に噴きあがるポイントを発見できる時もあります。
当然それは、風水の手法に基づくものではありません。
善光寺はエネルギーが強く、独特だったので、たまたま 「穴だ」 と気付いただけのことです。
龍穴とは異なるエネルギースポットならば、高い頻度で発見できますが、龍穴は常に発見できるわけではありません。
2009-05-20 パワースポットの落とし穴

スピリチュアル住民の中には、パワースポット巡りを盛んに行なっている人がいます。
しかし、それを長く続けている内に、却って運気を落としたり、体調を悪くしてしまう人達もいます。
何が原因でしょうか?
パワースポットと言っても、その空間や場所に存在するエネルギーは、神気や真気だけではありません。
人気のある聖地やパワースポットの場合、「お陰」 を期待する人々の残留思念が大量に漂っているケースがあります。
また、正神が多く集まるスポットには、邪神も集まる場合があります。
京都の鞍馬山がその典型です。
依存心やエゴ欲が強ければ、パワースポットから邪気や霊障ばかり拾ってしまう可能性が高くなります。
方災が原因になっているケースも多いようです。
波動が良い場所ばかり訪れているのに、奇門遁甲や九星気学方位術でいう 「凶方位」 を犯したために、運気を落としてしまうケースです。
知人の某ヒーラーも、その落とし穴に嵌まった経験があります。
その知人は、生命エネルギーを活性する効果が高いスポットに何度も訪れていました。
ところが、ある日、大きく体調を崩し、深刻なダメージが広がりました。
決して好転反応ではなかったし、また、「霊に憑依される」 という意味での霊障でもなかった。
原因を突き詰めていったところ、方災だったことが判明したのです。
知人はその後、半年間に渡る徹底的な 「剋気抜き」 の法を続けた結果、健康問題と運気の問題を解決しました。
凶方位に引っ越して、仕事や健康に悪影響が出てしまってるケースも多いですね。
別の知人は、引っ越し先の土地に、木炭や竹炭を大量に埋める炭素埋設法や、良質な波動グッズを応用して、高波動な住居環境を構築しました。
風水でいう地脈・水脈の障害を防ぐための処置も行いました。
でも、やはり凶方位の影響を受けてしまった。
たとえ波動が良い場所に引っ越しても、そこが凶方位だった場合、悪影響が出てしまうこともあります。
「風水」 というと、龍脈や龍穴などの 「プラスの気」 「パワースポット」 のことばかり連想する人が多いです。
でも風水には、方位学も含まれているのです。
知人は、その方位の要素を見落としてしまったわけです。
そもそも風水では、吉相の気を採るだけでも、方位を無視することは出来ません。
龍穴だけでは意味が無い。
「水」 や 「砂」 の配置・方向も重要であり、それが有ってこそ初めて吉相の土地だといえるのです。
故に、方位磁石を仕込んだ羅盤を用いるわけです。
そして、そのようにして吉相の土地を選んだとしても、まだ十分とは言い切れない。
吉相の土地に出かけたり、吉相の宅地に住み始めた時期が、凶方位に当たってしまうこともあるわけです。
つまり、方位の要素が、二重に存在するわけです。
私も過去を振り返り、人生上の重要な時期に、凶方位を犯したケースが多かったことが判明しました。
私が10代の頃に遭遇した大事件も、連日にわたる凶方位への移動が引き金になっていたことが判明しました。
もちろん、原因は一つではなく、カルマやマイナス思考など、複数の要因が複雑に重なっていたのですが、だからこそ方災がキッカケで一気に表面化したようです。
私だけではありません。
自分なりに調べた結果、凶方位の影響を受けている人が非常に多いことが分かってきました。
特に、人生の重要な局面である引っ越しや、長距離の旅行などで、不思議と凶方位ばかり選んでしまう人が多い。
普段から自己観察を進め、様々な修行をしたり、ヒーリングを行なったり、ハート思考を強化していても、カルマの全てを清算したわけではありません。
いくら自己観察をしても、「心のブラックボックス」 にはなかなか意識の目が届かない場合もあります。
カルマの罠に気付かずに、見過ごしてしまい、それが原因で、障害を呼び込んでしまうわけです。
以上の理由で、私は昨年から、風水、奇門遁甲、九星気学方位術などを少しずつ勉強するようになりました。
専門家を目指しているわけではなく、個人的な開運や霊的成長のためです。
人それぞれに相性問題があるため、私は不特定多数の読者に対して、画一的に風水や九星気学を勧めるつもりはありません。
ただし、弟子への指導には活かしてゆこうと思っています。
以前から全く無縁だったわけではありません。
若い頃に、風水や道教の専門書を大量に読み込んだ経験があります。
私は稀に秘符や霊符を作成することがあり、そのためには吉日を選ぶ必要があります。
墨を溶かすための聖水も、吉日に吉方位の水を汲む必要があるわけです。(簡略的な方法もあります)
その占断を元に、霊符の書写や祈祷入魂する日を決めていたわけです。
ただ、私はあまり占術を重視していたわけではないですし、詳しくもありません。
普段の生活では占術を意識することは、ほとんど無かったです。
悟りを啓き、解脱すれば、占いで言うところの 「星の障り」 や 「凶方位」 などの影響を全く受けないと思っていたからです。
あらゆる外的・内的な 「縛り」 から解放されるのが解脱 (げだつ) だと思っていました。
でも、それは、認識不足だと思うようになりました。
占星術、方位気学、風水などは、自然界の法則を人間の幸福に役立つ形で利用できるように、体系化したものだと感じます。
人間は、朝起きて、昼に活動し、夜に休むという生命の基本的な活動サイクルに基づいています。
自然界の法則、摂理にリンクしています。
人間もまた自然界の一部であり、宇宙です。
いくら悟りを啓いても、昼と夜が逆転した生活を続ければ、心身の健康にマイナスになります。
当たり前ですよね。
まして、我々のように修行途上の人間は、より強烈に様々な 「凶」 の影響を受けるわけです。
本来、自然界の法則には吉凶は存在しません。
水脈の上に家を建てるのは凶であり、害がある…と言っても、水脈自体は必要なのだから…。
しかし、そこに住む生命体との関わりにおいては、吉凶の基準が生じるわけです。
私はそれ故に、占術を無闇に嫌って、排除するのではなく、幸福や霊的成長のために役立てるのが良い…と思うようになったのです。
もちろん、占術や開運法には、様々な流派があるし、本来の自然法則から離れた 「人間のエゴ欲」 が大量に混入している流派もあるでしょう。
インチキな鑑定家や修法師も多いと思います。
でも本質的には、森羅万象の気を前向きに活用するテクノロジーだと感じます。
ちなみに、自然法則などと言っても、現代科学のそれとは異なります。
科学的に解明されていない 「体験的真理」 「霊的法則」 も含まれています。
私の修行の目的には、霊的法則に沿って活動できるようになることも含まれています。
風水、奇門遁甲、九星気学などは、理論的背景の中に、陰陽論や五行論が含まれています。
陰陽五行論は、机上の空論ではありません。
道教、神道、気功法、鍼灸、整骨、指圧、漢方薬などの理論的背景にもなっており、また、実際に効果があるわけです。
単なるプラシーボだけで説明が付くとは思えません。
ただし、「こうすればこうなる」 という信念の人が増えれば、それに準じた想念霊界が形成され、新しい法則が作られ、その通りの結果を呼び込んでしまうケースもあるでしょう。
凶方位の影響にしても、太古からその法則を信じる人が多かったために、その想念エネルギーの影響で、凶の結果が生じる可能性もあります。
その場合は、九星気学や奇門遁甲の知識を持っていない人でも……つまり知らず知らずに凶方位を犯した人であっても、想念霊界の影響を受けるわけです。
しかし、私の体験上、それが全てではないことが分かりました。
霊的に洞察した結果、「凶殺の気」 は、明らかに想念霊界とは異なるエネルギーが主体だということが分かったのです。
風水や気学を 「住居の東洋医学」 と述べる人がいます。
これは固定された住まいに限った話ではなく、あらゆる場所での行動、大地や宇宙との関わりでもあります。
悟りや解脱とは、自然界の法則に逆らう事ではないのです。
本来の自然を取り戻し、自然界と調和し、一体化する道です。
過去記事で何度か書きましたが…、
日本の国土においては、自然界との調和や共振……すなわち、アニミズムや神道的な観点が大切にされてきました。
自然界と敵対せざるを得なかった 「砂漠の宗教」 の文化圏とは異なります。
アメリカでは、絶対神による善悪の厳しい裁きの如く、裁判官に善悪を決めさせる訴訟社会が、行き着くところまで行き着いてしまった。
また、イスラム教の社会も、苛烈な掟が突き付けられます。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20081218
風水理論の実効性を、地域的なものと見るか、地球規模のものと見るかについては、風水師の間でも意見が分かれています。
砂漠地帯では決して発達することの無かった理論だと…。
しかし、その砂漠地帯も、太古には緑が豊かだったとも言われています。
各国に精霊信仰がありました。
砂漠化は、気象の変化が原因とか、人間が樹木を過剰に伐採してしまったからだ、とか言われています。
木を切るなら、苗木を植えるという、当たり前のことさえしなかった…と。
日本でも、よく似た話がありますね。
たとえ植樹するにしても、杉や檜など、ごく限られた木しか植えないために、林や森のバランスが狂ってしまう。
悟りや解脱の道は、根源的には、自然や宇宙さえも超越する道ですが、個々に分かれた魂と肉体を持つ以上、自然と調和することが大切です。
その意味で、運命学や開運法の類は、使い方を間違わなければ、とても価値あるものです。
ただし、神経質になり過ぎるのも、困りものです。
凶方位を全て避けようとするのは現実的ではないですし、精神的にも不健康です。
方位の影響を気にし過ぎて、却ってマイナス思考を強め、凶運を呼び込んでしまう可能性もあります。
自己観察の目を持つならば、凶の現象を通じて、自己成長に繋げることも可能なのです。
『地球の根本原理には弱肉強食・食物連鎖も含まれている。
真理とは、人間のエゴの都合に合わせて存在しているわけではない』
私は以前から、このことを強調してきましたが、真に理解できた人は少ないと思います。
ムードメイキング的な奇麗事では、自己のハートと調和できるはずが無いし、自然界と調和することも出来ない。
現実は甘くない。
大地のヒーリングを通じて、私はそれを嫌というほど思い知らされました。
風水や気学の智慧を活用する人は、自己逃避・現実逃避のためではなく、「真の自己実現」 を心掛けると良いでしょう。
気学や風水では、運気を貯金し、凶の影響を相殺する方法もあります。
凶を避け過ぎるのではなく、積極的に吉を積んでゆくわけです。
ただし、引越しでは、なるべく凶を避けた方が良いですね。
現代社会は、交通機関が発達しており、通勤だけでも長距離になり、毎日のように方位の影響を強く受けている人が多いです。
そのため、気学の祐気取りや剋気抜きなども、方法論を工夫する必要があります。
有害電磁波の問題も、過去記事で言及しました。
つまり生活環境が大きく変化したため、「気」 の流れにも影響し、昔の理論通りにはいかないケースが増えてきています。
家相や陽宅風水の手法も、再検討する必要があるでしょう。
形だけ開運法則に則っても意味が無いです。
エゴ欲で大地を傷付け、穢している人間が、吉方位やパワースポットの気などを吸収しようと企んでも、十分な効果は出ない。
風水でいう龍穴の気なども同じことであり、たとえ効果が出ても、後々 「帳尻あわせ」 がやって来るかもしれません。
大地のことを深く思い、慈しみ、感謝し、畏敬の念を持ち、自己の真我に立脚し、大地と共に真っ直ぐに生きることが真の開運法なのです。
それを根本に置くことが、様々な占術や開運法の効果を最大限に活かすための秘訣だと感じます。
2009-05-18 レイキ療法は、クリスチャンサイエンスなのか?

知人から、Mind Craftというサイトの、次の記事を紹介するメールが届いた。
『レイキの真実』
http://www.mind-craft.net/?p=92
なんだか、見覚えのある情報が多かったです。
例の妄言ヒーラー kosmos energy 氏が、以前からほとんど同じことを述べていたからです。
元ネタは、上のサイトの情報でしょうか?
クリスチャンサイエンスの手当て療法とは、メリー・ベーカ・エディの 「エディーズム」 を差すと思われます。
クリスチャンサイエンスは、「罪は存在しない。病は存在しない」 という観念哲学みたいなものです。
このような観念を、いくら潜在意識に刻印しても、せいぜいアストラル次元の想念エネルギーが主体になるでしょう。
レイキの極めて精妙で微細なエネルギーは、観念主体のやり方で捉え切れるものではありません。
そもそも、エディーズムの観念自体が、伝統レイキで使用する観念とは異なっています。
「病は存在しない」 と盲信するのではなく、病気を肯定し、病腺を感知し、エネルギーを送るのです。
出発点・ベースが全く異なる。
誰もが掌から 「気」 が出ていますが、レイキのエネルギーは異なります。
正座合掌、発霊行法などの修練を積めば、粗い次元の気のパワーは強化されますが、レイキのようなエネルギーにはなりません。
冒頭のサイトの情報から……。
『明治から精神世界を見つめてこられた生き証人の佐々木浩一先生が、レイキの真実を語った。
臼井甕男氏は、当時、仕事にあぶれており、生活の為にレイキ療法を始めた。
クリスチャン・サイエンス手当て療法をベースに、神秘的な色付けをしたものである。』
そして佐々木浩一先生の主張として、
『手当て療法の力は誰もがもっているので、アチューメントなど必要ない。
戦後のサイ科学によりオーラや氣をある程度、測定できるようになったため、今やこのような秘密めいた方法は必要ないし、宇宙エネルギーなどを持ち出す必要もない。
もっと合理的に手当て療法を広めるべきだ。』
うーむ。「戦後のサイ科学によりオーラや氣をある程度、測定できるようになった」 と…。
でも、オーラや気の存在が、科学的に証明されたわけではありません。
「測定」 と言っても、物理的次元に現れた変化を捉えただけであり、肝心の霊的エネルギーの正体を解明したわけではないのです。
もし、現代科学の場で、気やオーラや霊的波動についての論文を発表しても、失笑を買うだけでしょう。
ちなみに、小生のブログでは、波動とかエネルギーという用語を用いてますが、これは過去記事で説明したように、科学的な定義に基づくものではありません。
私が説いている霊的世界のことを 「科学だ」 などと言ったことはありません。
サイ科学の研究者としては、故・関英男氏や佐々木茂美氏が有名です。
関英男氏は、「幽子」 の存在を掲げ、「素粒子よりも20桁も小さい」 などと言ってました。
これは素粒子の定義すら無視した暴論です。
素粒子の定義の中には、「無限小の物質」 というものがあるからです。
さて…、あるレイキ本に載っていた情報を紹介します。
臼井霊気療法学会の前会長・小山君子氏の話によれば、臼井甕男氏は政治家の後藤新平氏の秘書だったということです。
もし、この話が本当だとしたら、秘書をやるほどの人間が、いきなり無職で、収入に困るような生活に転落するものでしょうか?
もちろん、エリートコースに乗っていた人間が、急転落してしまう事例はあります。
臼井先生においても、人生上で数多くの苦境を味わったと伝えられているため、無職で生活に困っていた可能性はあるでしょう。
しかし、それ自体は、レイキの価値を落とすようなものではありません。
たとえば貴方が、掌の気のパワーの開発方法を説いた本を読み、実際に訓練し、強力な掌パワーを身に付けたとします。
そのパワーは誰のものですか?
貴方自身です。
つまり、外部のテクニックや修行法を取り入れたとしても、実際に掌パワーを発揮しているのは貴方自身なのです。
故に、臼井氏がクリスチャンサイエンスから学んだとしても、なんら問題はありません。
単なる模倣ではなく、臼井氏の創意工夫による体系化と能力を元に、普及させたことになるからです。
ただし、レイキの場合は、各自の気のパワーだけではありません。
レイキの神のエネルギーが関与しているため、その点では話が違ってきます。
もし、ヒーラーさんの中に、個人的な生体の気のパワーと、レイキの精妙なエネルギーを混同している人がいるとしたら、その人は波動感覚が無いことを告白したようなものです。
佐々木氏の話を紹介したブログ主さんの文章を引用させていただきます。
『このページはレイキ関係者の方には、かなりショックだったらしく、佐々木先生のところに確認に走った人もいるようです。
しかし、古老の記憶を否定することはできなかったようです。』
レイキのヒーラーやマスターが、この程度の話に大きなショックを受けるようでは、お話になりません。
エネルギーの本質を全身で感得し、理解している人ならば、そこに 「レイキの全て」 があることに気付くはずです。
もちろん、間違った情報の場合は、否定する必要があります。
レイキを人様に伝える場合、出来うる限りの正確な情報が必要になるでしょう。
小生も今回の記事の中で、臼井先生の生活情報に対する疑問符を提示しました。
ただそれは、レイキの本質とは関係ありません。
私の知人に、生活に困っていた人が、介護関係の職を得て、生活を立て直した人がいます。
生活を支える仕事の種類が、世間の普通の職種なのか、それとも精神世界なのか、その違いは問題の本質ではありません。
生活を立て直すための努力は必要であり、それを放棄する人間こそ問題があります。
精神世界で収入を得るのは良いことです。
大切なのは、そこでの仕事において、真っ直ぐなエネルギーを注ぐことです。
最初のキッカケが生活のためだったとしても、臼井先生が真剣に修行し、実際のレイキの指導において、真摯な情熱を燃やしていたのだとしたら、それでOKだということです。
臼井先生は、他人にレイキを教授するだけでなく、数多くの病人にレイキ療法を施し、快癒させてきたわけです。
クリスチャンサイエンスの手当て療法を、単に知識レベルで学ぶだけでは、そこまでの成果を残すのは難しいと思います。
臼井氏が、どんな体系の療法を学んだのかは別にしても、しっかり技術を学び、しっかり修行したからこそ、そのような結果を残すことが出来たわけです。
臼井氏がエディーズムを学んだという話が本当だとしても、レイキの神との神縁を抜きに、レイキは発現しない。
臼井先生の研修会では、日々、厳しい正座合掌、発霊行法が行なわれていましたが、それだけではレイキにはならない。
アチューンメントも必要だったわけです。
ただし、臼井先生自身が、レイキの普及活動の際に、アチューンメント (霊授) を過剰に売り文句にしていた…という情報はありません。
その点は、現在のレイキとは異なっています。
あくまで正座合掌や発霊行法がメインであり、アチューンメントは補助的に行なわれたという情報です。
霊授にはイニシエーションや灌頂の意味合いがあるのだから、当然のことです。
いくら灌頂を受けても、修行しなければ意味が無いのです。
ある高度な霊覚者が、「臼井氏は魂次元のエンライトメントに達した」 と述べていました。
私も同意します。
私は霊能力者ではありませんが、臼井氏のエネルギーを洞察してみると、原因形成身体の覚醒に至っていることが分かりました。
これは空海の覚醒次元と同じですが、臼井氏の場合は、覚醒だけが先行してしまい、悟りの次元は追い付いていなかったようです。
徒らに神秘化しても仕方ないので、私は私の洞察結果を素直に述べるだけです。
ただし、大正・昭和初期の時代に、あの次元までの覚醒に至ったということは、並大抵の努力ではないと思います。
禅の老僧のアドバイスがキッカケで、修業を深めることが出来たと伝えられていますが、十分に有り得る話だと思います。
まあ、客観的に証明するのは無理・もしくは困難ですけどね。
いくら覚醒の次元が高くても、本人の霊的系統によって、繋がる神は異なります。
故に、小生が覚醒しても、レイキの神に繋がるとは限りません。
そんな小生が、レイキの神に繋がろうとするならば、霊授を受ける必要があるわけです。
正確に言うなら、誰でも神々に繋がることはできます。 心魂を磨けば…。
しかし、伝授能力も含めたエネルギー活用が許されるとは限りません。
臼井先生自身は、誰からもアチューンメントを受けていないのに、自己修行のみでレイキの神と太いパイプが繋がった。
それは、臼井先生の深い神縁に関わっています。
故に、他の人が臼井先生と同じ修行法を実践しても、レイキの神に強く繋がるとは限らないわけです。
正座合掌によって、本人の気の力を高める。
また合掌を通じて生命の尊厳を見つめ、拝む。
更に、アチューンメントによってレイキの神との霊脈を繋ぐわけです。
また、アチューンメントそのものに三密灌頂の精神があり、法の伝授・および内なる仏性との対面の意味合いがあります。
個人的な価値観などで、「私には伝授は必要ない」 と思うのは自由です。
しかし、その基準を、不特定多数の他人にも当てはまると断定するのは傲慢でしょう。
勘違いも甚だしい。
ちなみに 「一人の縁」 は、他の人も生かすことが許される場合があります。
故に、臼井先生と同じように伝授能力を持つティーチャー・継承者が生まれたのです。
それもこれも、臼井先生が 「ある次元」 を超えたからです。
霊的世界では、こういうことが起こり得ます。
私が大地の解放ヒーリングを行なうことを許されたのも、師匠との繋がりがあったからです。
神々が師匠のことを認めていたからこそ、弟子にも様々なものが許される。
さて…、シンボルとマントラという方便を通じて、アチューンメントの次元を上げると、レイキのエネルギーの精妙性も上がります。
各アチューンメントによって、エネルギーの質が異なるわけです。
誰もが持っている掌の力を利用するだけならば、こんな現象は起こりません。
せいぜいアストラルの想念エネルギーが変化するだけです。
仏教的なお手合わせのスピリットに共振することは可能ですが、レイキの神にダイレクトに繋がるわけではありません。
…先ほどのサイ科学の話に戻します。
サイ科学によるオーラや気の測定云々を理由に、「合理的に手当て療法を広めたらどうか」 という主張は的外れです。
むしろ最近、やたら科学の衣を被せて、精神世界の権威付けを計ろうとする人が増えているのが問題なのです。
科学信仰の現代人に迎合し、納得させるために、宗教臭を払拭し、科学を装う。
似非科学は、科学的に見て、合理的なのでしょうか?
佐々木氏の言う 「合理的」 とは、どんな定義なのでしょうか?
誤解のないように付け加えておきますが、小生は、気やオーラの存在自体は肯定していますし、研究することの意義も認めています。
ただ、そこに余計な科学性のペンキを塗りたくることに問題があるのです。
さて、ここで kosmos energy の妄言ヒーラー (ヒ○シ氏) の話に移ります。
彼は昨日、「レイキの神」 という言葉を用いるヒーラーに対して、権威付け・ハク憑けだと批判していました。
私も、権威付けの問題のことを、今回の記事で取り上げました。
2年前の 『発展形レイキの問題』 という記事の中でも検証しました。
しかし、私はさすがに 「レイキの神」 という言葉にまで批判の目を向ける気はありません。
私もその言葉を使っています。
それは、エネルギー・およびその背景の洞察・感得・理解に基づくものです。
妄言ヒーラー氏は、こう述べていました。
『「冷気の神って何よ?」、、という当然な疑問を一切持たないのが、、冷気ヒーラーです』
でも、実際には、レイキの神の有無のことも含め、背景や原理を研究し、洞察するレイキヒーラーは沢山います。
その結果として、レイキの神の肯定に至る人もいる。
妄言ヒーラー氏は、ご自分とは異なる結論に至った人達のことを一括りにして、「疑問を一切持たない奴」 などと決め付けているわけです。
自分と同じ結論しか認められないのですかね?
妄言ヒーラー氏の言動は、根拠薄弱な妄想と固定観念による 「レッテル憑け・レッテル貼り」 というやつです。
権威付け・ハク憑けと全く同じ土俵です。
何でもかんでも、言葉の上っ面だけで決め付けるなら、この妄言ヒーラー氏にも、そのまま当てはまることになります。
妄言ヒーラー氏は、自らが推奨する健康法や、中心軸の概念を説明する際に、しばしば古今東西の武道家の話を持ち込んでいます。
イチロー選手など、有名なスポーツ選手や芸能人のエピソードも引用する。
こういう記事群に対して、「自分の説を権威付ける目的だ」 などと決め付ける人もいるでしょう。
妄言ヒーラー氏がしばしば批判する 「クレクレ」 も同じことです。
ご自分が推奨する健康法に関して、
「肌が白くなり、スベスベしてくる」 「美人になる」 「カッコ良くなる」
…などと、これでもか、これでもかと、その効能を強調する記事をアップすることがありました。
妄言ヒーラー氏のこういう姿勢に対して、「読者のクレクレの欲望を煽ってる」 と判断する人もいるでしょう。
結局、どんな言葉・どんな概念も、批判できてしまう。 キリが無いです。
だからこそ、深い洞察が重要になってくる。
小生が書く文章にも、レッテル貼り的な表現はありますが、様々な角度からの真剣な洞察があり、根拠をしっかり説明しています。
「どの様に在るか」 を無視したレッテル貼りに終始する者は、自分自身に同じレッテルが返ってきても、文句は言えません。
自分だけは違う…という言い訳も通用しません。
理を無視し、冒涜する輩に対しては、誰も理を尽くす義務はない。
私は今回の記事のみならず、以前から精神世界における科学的な権威付けを図りたがるスピ住民に対して批判的だった。
妄言ヒーラー氏は、そのことを知っていて、それを逆手にとり、「宗教的権威・ハク付け」 などと言い出したのかもしれない。
まあ、これは憶測に過ぎない。
だが少なくとも、私自身は宗教的権威ではなく、科学的権威でもなく、ただひたすら自分が感得し、理解し、認識したことに基づいて、記事を書いているだけだ。
「レイキの神」 という言葉には、何ら他意はなく、自分にとって最もしっくり来る表現を、素直に選んだに過ぎない。
要するに、ここでも 「どの様に在るか」 が大切だということ。
単なる権威付けの意図で、レイキの神という言葉を用いるならば、確かに問題だろう。
しかし、理解や素直な思いから出た言葉ならば、自然なことである。
同じ言葉を使っても、人によって、エネルギーの乗り方や、そこに込められた思いは違う。
当たり前の話だ。
故に、相手の言葉一つに、画一的なレッテルを貼るような姿勢は、自ら 「理解」 というものを放棄したことを意味する。
そんな人間が、傍観や理解の道を説くとは…。
悪ふざけも、いい加減にしろ、と言いたい。
私は正魔系の魂を持つ者として、この種の汚い輩が最も嫌いである。
性格なのだろう。
妄言ヒーラーは、相手の真意を洞察することなく、理を解することなく、上辺だけをみて簡単に結論を出す。
それを何度でも執拗に繰り返す。
悪趣味どころの話ではない。
世の中に、そんな人間ばかり溢れた場合のことを想像するがよい。
誰もが互いに理解し合うことが無く、偏見とレッテルだけで物事を運んでしまう世界を想像するがよい。
そしてそれは、限りなく現実に近い。
2007-09-03 発展形レイキの問題
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20070903
2007-11-04 感謝行を説く霊能者A氏 その2
2009-05-17 北枕とレイキと水分摂取

北枕が良いとか、白湯を毎日2リットル摂取すれば良いとか、そういう健康法を薦めるヒーラーさんがいます。
(整体波動ヒーラーkosmos energy ヒ○シ氏)
このヒーラーさんは以前、「2リットルの中から、食事による水分摂取を差し引いた量」 ということを述べていたはずですが、最近の記事では、食事内容とは独立した形で2リットルの飲用を勧めている。
しかも、夏は発汗量が多いから、もっと飲む量を増やせと。笑。
一杯分の計算が、250〜300ccとのことですから、普通のコップよりも大きい。
これを1日に何回も飲む。
会社勤めの人は、保温ポットを毎日持参…。
何処かのネットカルトの4リットル・5リットルと比べれば、多少はマシかもしれませんが、無智という点ではなんら変わりは無い。
しかも、妄言ヒーラー氏は、「自分が勧めている方法はこまめに分ける方法だから、大量摂取ではない」 などと苦しい言い訳まで始めた。
人それぞれ体質が違うし、自分に合った健康法も異なります。
北枕では駄目だった…という人もいるのです。
もちろん、「強い電磁波を放つ物が、頭部の近くにあった」 とかいうオチではありません。
私自身は、北枕は問題なかったです。
でも、水分の大量摂取は向いていないことが分かりました。
私は若い頃、その水分摂取法を2年間ほど実践していましたが、この期間中は体が重く、だるくなることが多かったです。
好転反応でもなかった。
もちろん、一度に大量に飲んだわけではなく、1日に何度も細かく分けての実行でした。
水分摂取が多ければ、体液や血液がさらさらになり、血栓や結石を予防できるという情報がありますが、私は水分を多めに飲んでいた時期に、複数の結石が生じ、激痛に苦しみました。
臓器にも損傷が生じました。
(このエピソードは過去記事で紹介していますが、某ヒーラー氏とは無関係な記事です)
それで手術を受けました。
数年後に、霊的な師匠から、「お前は余計な健康法を実践していただろう? エーテル体に障害がある」 と指摘されました。
師匠には結石のことや手術のことは黙っていたのですが、エーテル体の状態を透視されて、見抜かれてしまった。
手術によって、治ったのですが、エネルギーの障害は残っており、一種の癖になってしまったため、再発の恐れもある…と。
故に、エーテル体の障害をヒーリングすることが急務になったわけです。
師匠を通じて覚醒した独自のヒーリング能力が役立ちました。
また、レイキなども活躍しました。
要するに相性問題です。
水分が多すぎて、筋肉が必要以上に緩んでしまったり、邪気の排出能力が低下してしまった…などという、笑うに笑えない事例もよく見聞きしました。
まあ、体の異常が原因で、本来ならば相性が良いはずの健康法に対して、肉体が拒絶反応を示すケースもあるでしょう。
こういう時は、「慣れ」 が必要な場合があります。
でも、最初から相性そのものが悪いケースもあるのです。
人それぞれ発汗量は違うし、季節によっても異なる。
発汗分を補う上で、誰もが2リットルの水分補給が必要ならば、それを実行していない人は、どうなるのか?
日を重ねる度に体内水分が減少し、誰もが今頃、干からびた状態になっているはずですが、そんな話は聞いたことが無い。
そういう人に限って、皮膚の水分吸収量が桁外れに多いんですかね?
ならば、敢えて大量の水を飲む必要は無い。笑。
尚、水の質は大切であり、キッチンの水道に浄水器を付けている家庭が多いと思いますが、本当は家全体の水を改善した方が良いですね。
風呂やシャワーなど、皮膚からの水分吸収の影響を考えるならば…。
まあ、お金はかかりますけどね。
北枕が良いという説では、地磁気や頭寒足熱が根拠になっているようです。
しかし、「伏角」 を考慮するなら、地域によっては、北枕で水平面から数十度も下げなければ、磁力線と平行にならない。
単に 「北を向いている」 というだけのことであり、横から見れば急角度が付いているわけです。
また、頭寒足熱の説を採用するなら、むしろ西枕の方が良い…という可能性もあります。
遅寝遅起の人は別ですけどね。
ちなみに、インドのヴェーダ思想に吸収されたバーストゥ学では、北枕を否定しています。
バーストゥ学は、5大エレメントの法則に基づく理論であり、人間と自然環境との霊的な関係を解き明かしています。
ただし、私自身は北枕を否定するわけではないし、水分を多めに摂取することも否定しているわけではない。
自分に合ったものを選択すれば良い。
それは、時と共に変化することもあります。
子供と大人では、水分や栄養素の必要量が違う。
健康な時と、病気の時では、食事の内容を変えた方が良い場合がある。
私は水分の大量摂取は向いていませんが、今後、変化する可能性もあるわけです。
今だって、大量に汗をかいた時は、水分を補給します。
ちなみに私は、水飲み療法に関して、過去記事で何度も言及しています。
北枕についても、昨年、『軸の緩みと幽体離脱』 という記事の中で言及していたと思います。
(幽体離脱の危険性などを説いた記事です)
私がいつも 「適切な選択」 を訴えるのは、各自の個性・性質を重んじるからです。
それが欠落してしまった場合、中心軸を確立できなくなります。
自分自身を理解せず、粗末にしているのだから当然です。
故に、修行法にしても、健康法にしても、不特定多数に対して、画一的に 「これが良い」 などと勧めることは出来ない。
「○○健康法が良い」 などと一律に勧める人は、何も分かっていない。
人間の体のことも、自然界のことも、霊性のことも、中止軸のことも、真に理解しておらず、浅薄な考えに固まっているだけです。
だから、他人の書いた文章に対しても、理解をそっちのけで、短絡的なレッテル貼りに終始してしまう。
「私は理解力がありません」 と告白したも同然です。
妄言ヒーラーさんは、昔のブログで、「ここが変だよ精神世界」 のノリで、精神世界ネタを扱っている…と言ってました。
でも、やればやるほど、「自分が変だよ」 と満天下に告白しているわけです。笑。
さて…私は以前、レイキに関する記事の中で、
「穢れを落とし、神性を復活させるための修行」
という文章を書きました。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090228
妄言ヒーラー氏は、この文章を、ほぼ原型に近い状態で引用 (?) して、またも間抜けな揶揄をしていました。
『人の穢れを落とし神性を復活させる為のテクニック等と説く、、冷気洗脳済みの冷気信徒もいますが、、、
風呂に入ることと、、普通に家の掃除と整理整頓をしていくことが、、一番良いかと』
元々、私の記事は、「神性」 という概念における妄言ヒーラー氏の情けない勘違いや浅薄な解釈を突いたものなのに、彼はその点を、またもやスルーした。
そして姑息にも、私の文章を、他のネタの為に利用した。
白湯を大量に飲み続けても、ご自身の腐った思考は浄化できなかったようです。
そもそも 「一番良い」 云々って、何ですか? 笑。
部屋の掃除など、「当たり前のこと」 なのです。
そういうものに、一番だの二番だの、わざわざ言うまでも無い話です。
まあ、私の場合、その当たり前のことを無視したために、酷い目に遭ったこともあります。笑。
でも、肉体的な浄化や、部屋の掃除の必要性は、私も既に過去記事で何回も述べていたことです。
私は部屋の掃除を念入りに行なうことで、心身の不調を改善した経験がありますし、また、知人の修行者にも、同様のアドバイスをしたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20070528
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20080417
でも小生は、掃除や風呂だけで、穢れの全てを落として神性を完全に復活できるほど優秀な人ではありません。
他の浄化法もありますね。
先祖供養で、命を見つめ、心が洗われる人もいる。
不平不満や雑念を、紙に書き出すことで、澱んだ想念エネルギーを吐き出して、浄化する人もいる。
レイキで心身を癒し、浄化する人もいる。
白湯飲み健康法で、邪気を洗い流す人もいる。
人それぞれです。
一体何が 「一番」 なのかと。
まあ、私自身は本当は、妄言ヒーラー氏の言葉尻を捉えるような批判をするのは嫌なのですが、ここに妄言ヒーラー氏の問題の本質が現れているため、敢えてその言葉尻を検証します。
要するに、安易な比較に走りたがる問題のことです。
浄化の手段においては、単に効果だけではなく、好みや価値観に照らして選択する人もいるでしょう。
妄言ヒーラー氏は以前、価値観に関する記事の中で、「人それぞれだ」 と述べていたはずです。
なのに、心身や魂を浄化する方法には、それを当てはめようとしない。
論理破綻です。
まあ、話の前提が異なるならば、それでも良いと思いますが、妄言ヒーラー氏の話はいつも同じ土俵ですから、前提も同じはずです。
妄言ヒーラー氏もまた、神性という言葉を使う時がありました。
「自己の一灯」 「灯」 「中心軸」 「センターライン」 という言葉はよく使っていますね。
そして、彼が勧めている様々な健康法や訓練法は、いずれも霊性の要素が含まれている。
灯や中心軸という概念も、神性の話に繋がっている。
故に、部屋の掃除や整理整頓に関する話のときでも、霊的な淀みが浄化されるとか、体心霊がスッキリする…と説くわけです。
妄言ヒーラー氏は、レイキのことを 「個人の生体の持つ気のパワー」 だと定義している。
ならば、妄言ヒーラー氏が、昔のブログで勧めていた脳幹ヒーリングとほとんど変わらないことになる。
私自身は、レイキの神の息吹を感じます。
でも、仮に 「個人の気のパワー」 という定義を用いるにしても、その話の最中に、部屋の掃除の話を持ち込んで、どれが一番だの、普通だのなんだのと言い出すのは、道理に合いません。
「部屋の掃除や風呂は必要ない。 ヒーリングで十分」 などと言うヒーラーがいたのですか?
掃除の重要性を説くのは良いですが、ヒーリングや神性の話の最中に、意地悪くそれと対比させる性根に疑問を感じます。
それならそれで、妄言ヒーラー氏が勧めている脳幹ヒーリングを叩き台にして、「部屋の掃除の方が一番だ」 と言うことは出来ないのか…と思いますね。
他に、白湯飲み法、肩甲骨ストレッチ、お茶出し供養、ラジオ体操など、あらゆるお勧めメソッドをズラッと大量に並べて、「これが一番。あれが二番」 とやれば良い。
でも、やらない。笑。
彼が常に批判しているメソッドだけを叩き台にし、順番を付け、自分が勧める手法を 「一番」 に位置付ける。
どこかのネットカルトの教祖も、よく似た言動をしていました。
まあ、似たもの同士というか、そういう思考形態だということです。
過去に、「体操や白湯飲みを一等に置いて、その上でお茶出し供養もしましょう」 という記事はありましたが、自分が勧めるものは全肯定…というスタンスは変わらない。
妄言ヒーラー氏は、彼自身が勧める方法のことを、「普通の方法」 「この世的」 と表現しています。
しかし、そこにスピリチュアルな要素を組み込んでいる以上、十分に普通ではないし、この世的でもない。
科学者がそれらの記事を読んだら、「証明してみろ」 と言うかもしれません。笑。
まあ、私自身は、深い洞察を抜きに、普通・異常を決め付けることはありません。
もちろん 「異常だ」 と言う時はありますが、それは 「在り方」 が真っ直ぐではない状況に対するものです。
妄言ヒーラー氏は、「愛」 という言葉や、「光」 という言葉も揶揄したことがありますが、これも、個人個人の在り方によってニュアンスが異なるはずです。
もし、簡単に安易に中傷的なレッテルを貼るならば、妄言ヒーラー氏が多用する 「灯」 「中心軸」 という言葉も、簡単に批判することが出来ます。
愛や光という言葉と同様に…。
灯・中心軸…という言葉を読んで、「奇麗事にすぎない甘言を吐く脳天気ヒーラーだ」 などと思う人がいるかもしれない。
また、数多くの健康法の記事を見て、「そんな多種類の健康法を毎日実践して、人生の貴重な時間を費やすのは、オタクの世界だな」 と思う人がいるかもしれない。
要するに、キリが無い。
言葉狩りまがいの虚しい観念ゲームです。
ちなみに小生のブログでは、「過去記事で何度も書きましたが…」 というフレーズがよく出てきます。
これは以前、某掲示板の住人さんが放った批判レスに対して、私が反論したことに起因しています。
そして、私の反論に対して、「後出しの言い訳だ」 などと再び批判をする人がいました。
でも本当は、後出しではなかった。
私が既に過去記事で述べていた主張を、再び提示しただけなのです。
過去記事をよく読まずに、「後出しの言い訳だ」 とか 「新しいネタを必死に集めた」 などと揶揄する人がいるため、私は 「過去記事でも説明しています」 というフレーズを多用するようになったわけです。
2009-05-13 解放ヒーリングにおける大地との対話

霊能者や波動鑑定家の中には、真気と邪気を正確に見分けることが出来ない人が意外に多いです。
表面的には良質な真気のように感じられても、実は想念霊界の罠に騙されてしまっているのです。
それは幻想の波動感覚に過ぎません。
カルマ思考の影響かもしれません。
ただし、波動の感じ方には、人それぞれ個性があります。
邪霊の罠に何回も騙されるのは論外ですが、たとえ能力を正しく発揮している状態でも、鑑定結果が各自で異なるケースがあります。
ただし、いくら個性があるとはいえ、邪気と真気を取り違えるようでは、どうにもなりません。
また、レイキのような精妙なエネルギーと、粗いエーテル次元の気のパワーまで混同するようでは、能力そのものが曲がっていると思います。
複数のエネルギーが混在している場合は、能力者によって感応するエネルギーが異なることがあります。
そういうケースでは、正反対の結論が出るのは当然のことです。
各能力者の役割の違いにも影響されます。
さて…、私は以前、「自宅の土地の浄化・ヒーリング」 について説明しました。
しかし、自宅の土地のみに限定した浄化法においても、その効果・影響は、隣り合った家の敷地にも及ぶことがあります。
ヒーリング法や浄化法にも様々な種類があります。
特に、特定の土地に棲む霊的存在に働きかけるタイプのヒーリング法では、それが顕著です。
「ここからここまでが、私の家の敷地」
「あそこからあそこまでが、Bさん宅の敷地」
などと言っても、それは人間のマインドで勝手に決めたことであり、本来の土地の姿・個性とは関係ありません。
人間が行なう区画整理の概念とは異なるのです。
貴方が住む土地に棲んでいる霊的存在は、隣の家の土地も含めて棲み処にしているかもしれないわけです。
また、エネルギー面から観ても、気の流れや性質が大きく変わるライン・分岐点は、人間が定めた区画や市町村・都道府県などの区分とは異なるケースが多い。
…というより、本来は全く関係ないのです。
単に 「エネルギーの違い」 という点だけなら、県境でガラッと波動が異なっていることもあります。
例えば、千葉と東京の境の江戸川など、川一本を隔てただけで波動が全く違います。
風水的には、川どころか、人為的に道を1本作った (敷いた) だけでも気の流れが変わります。
一枚の塀を建てただけでも変わります。
しかし、いずれにしても、人間の都合で決めた区別と、大地の本来の個性は全く別物ということです。
ちなみに、土地の霊的存在にも、次元やレベルの違いがあり、広範囲を司っている 「中心的な魂」 というものもあります。
それをもっと深めていくと、日本という国全体を統括している国魂というものもあります。
更に、地球全体の魂とも言うべき巨大な存在もいます。
これは、ある意味、各国の 「国魂」 の集合体と呼んでも良いかもしれません。
逆に、浅い次元になると、極めて狭い範囲になり、先ほど書いたような 「私の住む土地に居る霊的存在」 というものを発見します。
そういう小さな単位になると、「土地を司る」 という大層な役目ではなく、単に 「棲んでいる」 という感じになっているケースがあります。
でも、単に棲んでいるだけなのに、支配者のように振舞ってる場合もあります。
複数の霊的存在が、お互いに縄張りの睨みを利かせていたり…。
私は大地の神業で、広範囲の浄化やヒーリングを行なうケースは少ないです。 今のところは…。
ピンポイント的なエネルギー処理を行なうことが大半です。
その理由は、大地の情報・真相の把握や、大地との対話を大切にしているからです。
(理由は一つではありません)
自分の目に見える範囲……つまり狭い範囲。
各土地の状態を細かく一つ一つ確認しながら、ヒーリングしたいと思っているのです。
広範囲の場合、どうしても自分の知らない場所・要素が出てきてしまう。
「町全体・市全体・都道府県を浄化する」 などと言い出したら、自分が見たことも聞いたことも無い場所が増えてしまう。
特に、初めて訪れる地域では、知らない場所だらけです。
ただし、原則的な話です。
大地の状況と必要性に応じて、広範囲の解放ヒーリングを執り行うこともあります。
この場合は、より中心的で広範囲を司る 「霊的存在」 との対話が主体になるわけです。
まあ、簡単なことではないです。
どれほど対話を重ねても、現実的な情報の密度は、ピンポイント・ヒーリングよりも低くなります。
情報量そのものは、広範囲ヒーリングの方が多くなる場合がありますが、全体的な密度は低下するわけです。
また、霊的存在は一人ではなく、霊的存在同士で縄張り争いを展開していることもあるため、話が面倒になり易いです。
今までの体験で言うなら、親玉的な霊的存在同士は調和的なケースが多かったのですが、その部下に当たる「狭い土地の範囲の住民たち」 は、仲が悪いことがあります。
もちろん、それが全てではなく、仲の良いネットワークを築いているケースも沢山あります。
…話を戻します。
情報の密度のみならず、ヒーリングエネルギーの性質にも違いが出ます。
人間の肉体だって、全体的な生命力を高めるための健康法と、一つの内臓の異常を治療する方法は異なるわけです。
広範囲の解放ヒーリングでは、密度の濃い浄化効果はなかなか出難いです。
ただし、これはこれで意味があります。
より深く、中心的な領域に影響するので、大局的な目で見れば、むしろ密度が濃いと言えるかもしれません。
意識の焦点を徹底的に深い領域に当てた時は、そういうエネルギーの方が濃密に感じられるケースがあります。
ただし、きわめて精妙なエネルギーを用いるため、通常のエネルギー感覚では、希薄な感じがします。
観察する次元をチェンジすることで、霊的情報も変わるということです。
大地の解放ヒーリングでは、特定の場所をパワースポットにする目的はありませんが、結果的にパワースポットになったことも有ります。
ただ、極めて稀です。
最初にその大地が目覚め、続いてその大地にリンクしている人々が目覚めることが前提になっているようです。
まあ、人間が目覚めなくても、パワースポット化する可能性がゼロとは言いませんが、目覚めのエネルギー同士がリンクしない場合、いずれ汚れが加速し、元の木阿弥になってしまうようです。
ただし、昔からパワースポットだった場所と、大地の解放ヒーリングを通じてパワースポットになった場所では、現象の出発点が全く異なるので、この点を混同しないで下さい。
人間が眠っているのにパワースポット…という場所は多い。
しかし、解放ヒーリングを通じてパワースポットになる場合は、リンクする人間が目覚めることが必要なケースが多い、という意味です。
人間の目覚めの話以前に、大地の霊的存在まで眠っているパワースポットもあります。
そういう土地だって、最初から眠っていたわけではありません。
人間と大地……どちらが眠っていても、そういうパワースポットは遅かれ早かれ、汚染が加速すると思います。
最悪の場合は、「凶相の土地」 になってしまうでしょう。
大地のヒーラーの仕事も増えるわけです。
大地が目覚めると、その大地は母性・父性の霊性にリンクする人々に働きかけるようです。
人間が目覚めるためのサポートを開始するわけです。
しかし、人々が目覚めるケースは稀です。
少なくとも、今まではそうだった。
それだけ人間達は、古い思考・カルマのパターンから離れることが出来ない。
その方が楽だからです。
古い思考に流されたままでは、自己の魂の傷を深めるだけなのに、傷付くことが無意識的な快感になってしまっているのです。
幽体と霊体が悪霊化し、魂を汚しているわけです。
2009-05-10 黒い霧と目覚めのエネルギー

それは、黒い霧の世界で、失せもの探しをするかのようです。
私が行なう大地の解放ヒーリングでは、表層次元の邪気や悪想念の浄化などは主目的ではありません。
そんなものをいくら浄化したところで、キリが無いのです。
幽霊とか言われる存在も同じです。
未浄化霊を供養し、浄化し、昇霊するのは、霊能者の仕事です。
私は霊能者ではないので、幽霊の浄化は、必要最小限に留めるケースもあります。
まして邪気など、とても浄化が追いつくものではない。
大地の目覚めの妨げになっている邪気は、なるべく浄化するようにしていますが、いくら浄化しても、人々が思考を根本的に変えない限り、再び汚されてしまう。
長期間、浄化し続けるエネルギーを現場に残してゆくことは可能ですが、それはあらゆる意味で重大な場所に限られています。
昨年、東京タワーに寄ったことがあるのですが、ここでの浄化は諦めました。
もし、この土地と建物を、本格的に浄化するならば、相当な長期戦を覚悟する必要がありそうです。
でも、タワーを浄化する気にはなれません。
他に重要な場所が沢山あるため、全ての場所を浄化するのは体力的に無理です。
2009-02-22 東京タワーの異次元空間
http://d.hatena.ne.jp/cosmic_heart/20090222
いずれにしても、私は土地の深い次元のカルマを浄化することを主体にしています。
ただ、それも完璧ではない。
わずか1%程度しか浄化できなかった時もありました。
そもそも、深い次元のカルマを浄化するためには、表層的な邪気もある程度は浄化する必要があります。
ただし、昨年からは、浄化そのものも主体ではなくなりつつあるような気がします。
「浄化」 はあくまで手段の一つであり、目的は他のところにある…という感じです。
土地を司っている霊的存在を、新しい次元に目覚めさせる仕事がメインになってきた気がします。
その目覚めを邪魔している根源的なマイナス・エネルギー達を打ち破り、浄化し、目覚めを促すエネルギーを注ぐわけです。
人間達のせいで、完全に眠ってしまっている霊的存在もいます。
「半眠り、半起き」 の存在も多いです。
大地が目覚めることが最も重要です。
故に、私は 「大地の解放ヒーリング」 という言葉を多用するようになりました。
以前は 「大地の浄化」 と呼ぶことが多かったのですが、今ひとつ感覚的にしっくり来なかったのです。
自分の活動が、こういう次元に達したということは、単に人類の欲望だけが原因とは限りません。
「大地のヒーラー」 とか 「大地の神業家」 とか呼ばれるような人達も、大地の破壊に加担しているケースが多いようです。
彼等は口先では、「大地を浄化する」 とか 「地球の波動を変える」 とか言っています。
でも、私が見た限りでは、真の浄化になっていない。
表面的な邪気を浄化するだけで、真に深い領域は浄化できていない。
中には、解放と称した 「制圧」 までやっているヒーラーや宗教家もいる始末です。
もっと酷い連中になると、大地に余計な霊的ラインを作ってしまったり、大地のエネルギーにあれこれ手を加え、弄繰り回してしまう。
大地に余計な手を加えることによって、大地はますます傷付いてしまう。
表面的な波動は改善されたとしても、その奥は傷付いてしまっている。
彼等は浅い次元の霊視能力には優れている場合があり、結果として、世間に発表する情報が極めて具体的になるため、それを読む人・聞く人は、強いインパクトを受け、信服してしまう。
それは罠に過ぎません。
しかし、肝心の霊能者やヒーラー本人が、その事実に気付いていないケースが多い。
無智が無智を呼び、もはやパラノイアと化してしまっています。
「私が天の岩戸を開いた」
「我々の神事のお陰で、日本列島に龍神が走るようになった」
「我々の浄化のお陰で、地球が次元上昇した」
この種の大袈裟な自慢話を何回も展開しているヒーラー、宗教家、チャネラー達が沢山いますが、まあ、かなりニセモノが多いと感じます。
偏見が先行するのは問題ですが、私が実際に体験したり、洞察した限りにおいては、やはり問題のある神業家が沢山います。
霊的法則においては、一人の人間や、一つの団体に許されている仕事は限られています。
故に、「我々の浄化のお陰で、地球が次元上昇した」 という主張は、まず間違いなく嘘だと思って良いです。
さて…、自分の土地の波動を改善するという名目で、別の土地 (パワースポット) の波動を導入し、コピーするテクニックがあるようです。
本来とは異なるエネルギーを上書きするわけです。
私はあまりお勧めしません。
まあ、「絶対に駄目」 とは言いませんが、この手法はそれぞれの土地の本来の個性を殺し、傷付け、制圧してしまう可能性があります。
Aの土地の波動は、「Aの土地」 に存在するからこそ、意味があるのです。
気学のお砂取りなども、あれは自分の土地の波動が悪すぎる場合のみ、「最後の手段」 として行なうべきものであって、安易に乱用するのは危険です。
貴方が住んでいる土地の波動は、それ自体を改善するならば良いのですが、全く別の土地の波動を移植するのは良くありません。
それぞれの土地に、それぞれの個性があります。
役割が異なるのです。
多くの超能力者や霊能者の間で、富士山のエネルギーが、東京の皇居に流れている事は、よく知られているようです。
でも、「エネルギー的に繋がっている」 というだけの話であり、両者は別の波動です。
それは 「別の場所」 にあるのだから、当たり前なのです。
同じ人間が、2人も存在しないのと同じことです。
ただし、「他の土地のエネルギーを入れるのは絶対に駄目だ」 という意味ではありません。
極端な解釈はしないで下さい。
風水で云うところの龍脈を通じて、他の土地にエネルギーが流入するように、個々の土地は完全に分断・独立しているわけではありません。
また、炭素埋設法を実行する場合、大半の人は、別の土地で採れた木や竹を使うわけですし、そもそも家屋を建築するにも、他の土地で伐採された木材などを使うケースが大半です。
それ故に、大地との対話、相互理解、許可が必要になるのです。
私が批判しているのは、「大地の意思を無視した勝手なコピー、過剰な操作」 のことです。
ちなみに、風水には様々な分野がありますが、私が最も注目しているのは、地理風水です。
私は浅学の身ではありますが、地理風水がやはり原点だと感じます。
では、陽宅風水はどうでしょうか?
陽宅風水は、良質な気が多い場所に住宅を建てるのが基本です。 龍穴などです。
故に、陽宅風水と地理風水は切り離すことは出来ません。
しかし、現実的には、理想的な土地を入手できるとは限らないため、地理風水とは異なるテクニックが発達しました。
そのため陽宅風水は、ややもすると技術・テクニックに走り過ぎてしまい、土地のエネルギーを不自然に操作し、我欲のために大地を傷付けてしまうリスクが大きいように感じます。
香港では、銀行同士の風水戦争が勃発したことがあります。
まあ、地理風水にしても問題がゼロというわけではなく、大地の気を枯渇させてしまう可能性はあります。
…さて、私は最近、宗教家や霊能者たちが穢してしまった大地の傷をヒーリングすることが多くなりました。
大地を真の意味で浄化できるヒーラーは、日本国内に数百人ほど存在する…という直観がありますが、彼らもまた苦労していると思います。
偽ヒーラー (霊的犯罪者) の残していった汚物を、我々が後始末するわけです。
今、「大地の真のヒーラーは数百人ほど存在する」 と書きましたが、この数は常に変動すると思って下さい。
一時期は、数千人に達した時もあったのですが…。
最近は、霊的犯罪者の方が増えたため、第一期の活動よりも大変になり、数段は消耗してしまいます。
普通の人々が垂れ流す悪想念の処理だけでも大変なのに、道を外れた霊的能力者が 「神事」 と称して意識的に垂れ流している霊的エネルギーの影響は、半端じゃなく強力な場合があります。
私だって、同じような間違いを犯してしまう可能性はあるでしょう。
そもそも、私の現在の霊性では、本当は、大地の神業を行なう資格が無いのです。
師匠との縁を通じて、神々から 「仮の資格」 を授かっただけです。
しかし、「仮」 とはいえ、大変な慈悲だと思います。
私はその恵みを精一杯に活かし、精進し続ける決意です。