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今週の本棚:村上陽一郎・評 『ルポ 医療事故』=出河雅彦・著

 (朝日新書・903円)

 ◇事例から探る「安全」の問題

 今年度の科学ジャーナリスト賞受賞作品である。出版は本年三月末だが、その意味では、この欄への登場は遅きに失した感がある。言い訳がましく聞こえるのを承知で言えば、評子としては、取り上げる機会を探している間に、授賞式の方が済んでしまった、という思いだ。

 医療というのは、もともとリスクの高い現場である。工学の世界では、シックス・ナインズ(六つの九)とかセヴン・ナインズなどといって、色々な根拠に基づいて、九九・九九九九(九)パーセントまで、安全を保証できる、というような事例も多々あるのに比べれば、医療では、疫学上の根拠が保証できる安全度は、桁(けた)が違う。その上、いわゆる個人差があるために、過去のデータをそのまま活用するのに根源的な限界がある。そうであるにもかかわらず、つい最近まで、一般の社会では陳旧となっているような基礎的な安全対策も、医療の世界には馴染(なじ)まないものとして、顧みられてこなかった。アメリカでも、ある医療の安全に関する報告書は、「他のハイリスク産業に比べて、医療界は一〇年は立ち遅れている」と報じている。例えば二十年ほど前、評子が医療関係者の集まりで「品質管理」という概念を紹介したときには、激しい反発を惹(ひ)き起こした。

 前世紀の終わり、Y市立大学付属病院で、肺と心臓の手術患者を取り違える、という事例が発生して、世間の耳目を集め、医療の現場での安全の問題が、ようやく社会的な議論の対象になり、以来事態は急速に進んでいる。その経過のなかで、幾つかの事例が、刑事事件になり、法廷に持ち出された。本書は、それらの事例を詳細に検証する。帯には「隠蔽(いんぺい)されたミス」、「大学病院の『でたらめな医療』」など、刺激的な惹句(じゃっく)が並んでいて、医療関係者には、手に取り難い思いがあるかもしれないが、本書は、いわゆる「被害者」の側に一方的に立った「告発」の書ではない。無論、医療界に厳しい内容ではあるが、是非医療の現場に身を置く人々にも読んで欲しいと切に思う。

 本書で扱われている事例は、新聞で大々的に報じられたものばかりで、その意味では、著者の職業上の活動の延長にある仕事だが、それが特に大きな長所になっていると思われるのが、後半に置かれた二章である。一つは湯沸し器による死亡事故、そしてもう一つは相撲部屋で起こった弟子の死亡事件である。ともに、直接「医療」とは関係が無い事例だが、著者は、死因を追及する司法の領域における医療界、具体的には検死体制の不備の指摘へと、問題を引き寄せる。

 もう一つ、読者にとって有難いのは、諸事例の報告の後、各章の末尾に付けられた「コラム」という工夫で、そこで、著者は、当該事例から汲み取られる教訓と、今後の指針などについて、短いながらも的確に触れている。

 また当然ながら、今大きな課題となっている「第三者機関」についても、検討が施されている。航空機や列車、あるいはパイプラインなど、公共的に大きな被害につながりかねないリスクを抱える領域では、警察や検察とは独立の調査機関が、当事者の事情聴取を綿密に行うことで、警察などでは得られない証言を引き出し、同種の事故の再発を防ぐ手立ての確立に役立てようとしてきた。医療にもそうした機関が必要では、という議論である。ADR(訴訟外紛争解決)の活用もそこに絡むが、現在も仲々まとまらない。こうした問題を考える上でも、本書は格好の教科書になるだろう。

毎日新聞 2009年6月14日 東京朝刊

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