唐沢俊一氏の「悪口」について


初出:hirokiazuma.com

以下の原稿は、「網状言論たち」の企画「『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評」を始めるに際して、本サイトで公開された文章である。時評的な性格が強いので、前文も合わせて収録する。


前文

これから展開されるメール書評の第一回は、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』が主題になっており、その出発点として、僕が7月2日付けの読売新聞に書いた書評が前提とされています。しかしこの書評に対しては、ネットの一部ですでに話題のように、唐沢俊一氏による激しい批判がすぐに現れました。

とはいえそれは書評の内容ではなく文体に対するものであり、しかも批判の内容も、以下に示すようにかなり一方的なものです。したがってとくに反論すべきものではないと思われましたし、またいささか党派的な意図も感じられるので、僕個人としては黙殺するつもりでいました。しかし、今回のメール書評を始めるにあたり、議論の出発点となる文章について最初から罵倒文が流通しているのは他の参加者に対して失礼ですし、そもそもこの企画自体の将来にとってもよくないと考え、例外的に反論を行うことにしたものです。あらかじめ述べておきますが、僕はこの不毛な争い自体にはほとんど関心がなく、したがって唐沢氏が今後この件で再反論を寄せても返答するつもりはありません。

また、以下は東浩紀の個人的な文章であり、メール書評の他の参加者とは何の関係もないことを明記しておきます。(2000.7.11記、7.20修正)


資料1

東浩紀の書評、7月2日の読売新聞に掲載(校正による多少の異同あり)

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』について

本書は「おたく」を対象にしている。「おたく」とは周知のように、一九八〇年代に現れた一群の趣味人たちを意味する。彼らは当初、三〇代になってもコミックやアニメ、ゲームに耽溺する幼稚な存在として社会的に非難されていた。

しかし実際は九〇年代には、彼らの制作物は日本の娯楽産業の根幹を担い、国際市場を席巻するまでに大きく成長している。そのためいまや、おたくたちを抜きにして日本の現代文化を語ることはできない。本書はそのような状況のなかで、おたくの心理と行動を、精神分析医の立場から分析しようとした意欲的な試みである。

本書の独創性は「戦闘美少女」という主題にある。これは著者の造語で、日本の娯楽産業ここ二〇年ほど目立ってきた、戦う女の子のイメージを指している。おたくたちは、なぜ戦う女の子が好きなのか? 詳しい議論は本書で見ていただきたいが、著者の考えはひとことで言えば、日本社会にはある歪みがあり、そのせいで虚構と現実が同様に強い世界感覚が生まれたのだが、そこで虚構の現実性を支えるために特殊な欲望が必要とされた、それが戦う女の子への欲望なのだ、というものである。

この説明が正しいかどうかはともかく、まずは大胆な仮説を出したことを高く評価したい。知識人がいまだにサブカルチャーへの警戒心を根強くもち、逆に実作者からの警戒心も強いいま、娯楽産業の想像力について徹底して理論的に考えてみる著者の態度はきわめて貴重である。

書評者には疑問もある。本書の分析はおたくたちの閉鎖的集団を前提にしているが、書評者の実感では、むしろここ数年おたくの集団は解体し、「おたく」と「非おたく」の境界にあるような作品や商品が普通に蔓延している。その市場はときに国境も越えており、したがって、おたく的感性を「病理」として捉えるのはすでに無理ではないか。しかし、このような疑問も含め、今後の文化論が本書を避けて通れないことは確かだろう。広く読まれ、議論されるべき本だ。


資料2

唐沢俊一氏の「悪口」、同日の「裏モノ日記」(リンク先の内容は毎月変わるので該当部分のみ引用した)

[前略]

……読売新聞の書評欄『戦闘少女の精神分析』における東浩紀氏の文章に曰く“本書の分析はおたくたちの閉鎖的集団を前提にしているが、書評者の実感では、むしろここ数年おたくの集団は解体し、“おたく”と“非おたく”の境界にある作品や商品が普通に蔓延している。(中略)おたく的感性を“病理”として捉えるのはすでに無理ではないか”。どうも精神分析と現代思想とでメシのタネのオタクの取合いをしているようである。オタク諸君、今なら自分を高く売れるぞ。

東浩紀氏の悪口はあまり言いたくない。“またか”と思われるからだが、それにしても東氏ファンに聞きたい。今日の書評もそうだったが、彼、文章があまりに下手すぎないか? 彼の著作におけるデリダ論などは内容が内容だけに、わかりにくいこともあたりまえ、と思ってその難解さを不思議に思ってもいないだろうが、多くの雑誌に掲載されている彼の文章を読むと、その著作の難解さの大部分は彼の文章の下手くそさに起因しているのではないか、と思わざるを得ないのである。今日の書評欄の文章(内容のことは措く)などは最たるものだ。悪文ならまだよろしい。単なる幼稚な文章なのである。ウソだと思うなら、同じ書評欄の他の評者の文章と比較してみるといい。読売の書評欄は評者に多く大学関係者を起用するという悪癖を有しており、大学関係者の文章の読みづらいことは(まあ、読みやすい面白い文章を、という要求を大学というところはそもそもされないところなので致し方ないが)夙に大方より指摘されている通りなのだが、その中でも東氏の文章は群を抜いて下手である。中学生以下である。 若くして名をなした故に、誰も直截にそれを指摘してくれないのは、東氏の不幸だろう。東氏よ、師匠の浅田氏の文章は、そこはやはり学者文であったが、それでも若い読者に向けての工夫と、1パーセントの“売文の徒”としての媚びがあた。この媚びを卑下と思ってはいけない。自分の文章を金を払って読んでくれる者への礼儀としての愛想である。人脈を見るに回りにあまりいい文章書きがいないようだが、誰でもいい、今のうちに上手な文章を書ける人を選んで、半年くらいその人について作文のお勉強をすることだ。さもないと、後で苦労するよ。 

[後略]


唐沢俊一氏の「悪口」について

唐沢氏のこの「悪口」についてはあまり言うことはない。おそらくは僕の仕事のごく一部しか知らないし、また興味もないであろう唐沢氏が、わずか800字の原稿をもとに僕の文章全体を「下手くそ」と断定する(そのなかにはあのデリダ論も入っているらしいが、彼はそれを本当に読んでくれたのだろうか?)のは単に無根拠な振る舞いだし、喧嘩を売っているとしか思えない。僕は唐沢氏の文体や修辞を批判したことはないが、それが彼が活躍してきたフィールドに敬意を払っているからである。それに対して、唐沢氏の批判には異質なフィールドへの敬意がまったく欠けている。

物を書く、というのは単に教科書的な技術論で説明できることではなく、書き手の思想や背景のすべてを包みこんでいる。したがってあるフィールドの読者からすれば、他のフィールドの書き手の文章が意味不明で稚拙に見えることは十分にありうる。この状況については『郵便的不安たち』のなかで何回も強調した。実際に僕は、ポストモダニズム系、アカデミズム系の文章にあまりに慣れているので、むしろ唐沢氏が書くような文章のほうが生理的には分かりにくいと感じる。読売新聞にはそういう読者も一定数いるはずだし、そして現実に、自分で言うのもバカバカしいが、唐沢氏とは逆に僕の文章を高く評価しているプロの書き手や編集者も(唐沢氏よりは名前が知られているエンターテインメント系の小説家などを含めて)結構いる。だから結局この問題は、世の中にはいろいろな言語感覚の人がいるね、という世間話にしかならないし、そんな曖昧な感覚を振りかざして「べき」論を展開しても不毛に決まっている。問題はそのような世界のなかで、どのようにたがいにコミュニケーションを深めていくかだ。

人間が相互に分かりあえ、批判しあえるのは論理と事実に基づいてのみである。それゆえ、他人の文章がまずい云々は、カルチャーセンターの作文授業ででもないかぎり、それぞれの胸のうちにしまっておくべき判断だ。最後の文章を見ると唐沢氏はなにか僕の将来を心配してくれているようだが、別に僕は彼の弟子でも何でもないのだから(それともそのつもりなのか? 一面識もないのに? 妄想か?)、普通に考えてそんな忠告は余計なお世話でしかない。むしろ重要なのは、そのような退屈でステレオタイプな説教以前に、唐沢氏がもともと得意とするフィールドの外から、異質な文脈をもった書き手がつぎつぎとオタク文化論に流れ込んでいる現状を認めること、そしてそこに門戸を開くことではないのか。

「東氏よ……」以下の忠告について言えば、別に唐沢氏に言われなくても、浅田彰氏の文章のどこが良くてどこが悪いのか、アカデミズムの欠陥とは何か(ちなみに言えば、アカデミズムとニューアカは違うし、東大でも本郷と駒場はずいぶん違う、さらに文化研究の研究者はまた違う文章を書く、そしてどれが読みにくいかのの基準はひとにより異なる)、僕のほうがはるかによく承知しているし、真剣に考えている。『存在論的、郵便的』はまさにその苦しみのなかで書かれた。だいたい、僕の文章と浅田氏の文章がどのように似ていてどのように違うのか、そしてそこにどのような時代と状況の変化、例えば人文科学全般の英語圏化が与えた翻訳文体への影響といった問題が隠されているのか、唐沢氏にどれほどのことが言えるのか? 僕が唐沢氏に聞きたいのはそのような「知ったかぶり」ではなく、オタク文化の真っ直中で20年間を生きてきたひとりの論客としての、経験に基づいた誠実な反応である。


というわけで、このレベルでの反論はここで終わる。しかし僕はもう少し書き連ねねばならない。というのも、上のように反論を書いてはみたものの、実際は僕は、唐沢氏の批判の核は僕の文体などとは関係ないと思っているからだ。僕がここで思い出すのは、文学賞の選考会などで「文体がよくない」といった断言を振りかざす委員がしばしばいて、たいていはそういう選評は、何となく作品が気に入らなかったことを粉飾するための言い逃れでしかないことである。同じように唐沢氏の批判も、おそらくは、僕の書評が何となく気に入らなかったことの粉飾として出てきたものにすぎない。彼は何かが気に入らなくて、喧嘩を売ってきた。では何が気に入らなかったのか?

唐沢氏は批判の前に、「どうも精神分析と現代思想とでメシのタネのオタクの取合いをしているようである。オタク諸君、今なら自分を高く売れるぞ」と記している。どうもこの「取合い」が彼の印象を悪くしたようだが(オタクを代表する論客である彼がそう思うのは、感情的には分からないでもない)、ここには二つの誤解がある。それらは、今後行われるメール書評の読まれ方とも関係すると思うので、以下、簡単に整理して反論しておく。実は重要なのはこちらのほうだ。

(1)まず唐沢氏は、斎藤環氏と僕が「オタクの取合いをしている」と考えている。これがまったくの誤解であることは、これからのメール書評が証明すると思う。僕と斎藤氏は確かにいくつかの部分で対立しており、またそれはおたがいがあちこちで言っていることでもある。しかしそれは論理的、事実的なレベルでの対立であり、何ら冷静な議論を妨げるものではない。というか、そもそも僕と斎藤氏は専門領域も書いている媒体も異なり、生きる場所が違うのだから生存競争も生じていない。だからネタの取り合いも起きない。同じことは、メール書評に招いた竹熊健太郎氏、伊藤剛氏、永山薫氏と僕の関係についても言える。

(2)つぎに唐沢氏は、斎藤氏と僕がオタクを「メシのタネ」として捉えていると考え、「オタク諸君、今なら自分を高く売れるぞ」と煽っている。この「高く売れる」がもし普通の経済的な意味で言われているのなら(「メシのタネ」という表現からしておそらくそうだ)、唐沢氏の状況認識は完全に間違っている。斎藤氏も僕も、オタク関係のリサーチや分析をしてもあまり経済的な恩恵はない。出版全体が不況のなかで、アカデミズム系の著者が書いたオタク関係の評論はそれほど(現代思想と比べても!)売れないし、また必要ともされていない。『エヴァ』ブームのときには確かに小谷真理氏の著作のような例外があったが、それは決して一般的なことではない。例えば、僕や野火ノビタや宮台真司や香山リカが原稿を寄せた『エヴァンゲリオン快楽原則』(第三書館)は、僕の記憶が正しければ5000部も売れていない。もしかしたら唐沢氏の本はバカ売れしているのかもしれないが、それは僕たちとは関係ない。

それゆえ、少なくとも僕の場合は、金銭的、部数的なことを第一に考えれば、今後とも現代思想や文芸評論に軸足を置くのが最善とさえ思われる。例えばつぎにオタク文化を主題にした本を出しても、おそらく『存在論的、郵便的』の半分の部数もいかないだろう。これは、現代思想については少なくとも数万規模の固定読者が確実にいて、広告を打つべき雑誌や本を売るルートが確立しているのに対し、オタク系評論ではそのようなシステムがまったく整備されていないからだ。潜在的な読者は多いかもしれないが、実際にはそこに本が届かない。それに論壇・文壇系とオタク系の文章では、単行本になったときの部数以前に、雑誌掲載のときの原稿料や安心感も違う。加えて言えば、僕のもとに来た数少ない講演依頼の経験から言っても、大学や地方自治体主催の学術的な講演と、例えばロフト・プラス・ワンでのトークショーでは、謝礼の額がかなり異なる。そういうことすべて含めて、一般に物書きにとって、サブカルチャーに関わることがイコール「メシのタネ」だとはとうてい思えない。むしろ僕としては、サブカルチャーに関わるライターたちがそのような逆境のなかで着々と素晴らしい仕事を行っていること、その現実にこそ敬意を払っている。

さらに言えば、1990年代、「文化研究」の名のもとに人文系アカデミズムでは何でもありの状態になったと言われているが、実際には学者共同体の先入観はそれほどラジカルには変わっていない。オタク系文化を主題に扱うことは、短期的にジャーナリズムの注目を浴びることはあっても、いまだにアカデミズム内部の長期的な利益には結びにくい。サブカルチャーの現場に関心をもつ研究者は、基本的にはそのような逆風のなかで仕事をしており、したがってそのことには最低限の敬意を払わなければならない。逆に、サブカルチャーを一刀両断で切り捨てて、何となく西欧系の言葉と論壇的な警句を繰り返していれば「偉く」見えるという状況はいまでも変わっていないのであり、長期的な保身を考えればそれが第一なのだ。したがって僕は「メシのタネ」としてオタク文化に接近しているつもりはまったくないし、実際にそれは「メシのタネ」にはなりそうもないと判断している。僕がオタク文化に関心をもつのは、単にそれが重要で面白いと思うからだ。採算など考えていない。これはおそらく斎藤氏も同じだろう。

最後に付け加えれば、この短い文章には、唐沢氏の、オタク文化への内容的な過小評価と経済的な過大評価の両者がともに現れていると言える。彼はオタク文化を「一般には重要だと見なされていないに決まっている」(過小評価)と考えているからこそ、「そこに近寄ってくる言論人は経済的な利益が目当てだ」(過大評価)と考えざるをえない。しかし実際には、オタク文化について論じても僕には何もいいことはないし、そもそもオタク系の媒体全体がそんなに金回りがいいわけではない。それでも近寄っていくのは、単に、オタク文化の展開が自分の仕事にとって重要だと信じているからだ。唐沢氏には唐沢氏の文脈が、斎藤氏には斎藤氏の文脈が、そして僕には僕の文脈があり、それぞれにオタク文化が重要だと考えているのだから、そのあいだで生産的な議論が行われれば誰にとっても損はない。僕は単にそのコミュニケーションの回路を開きたいだけであり、だからこそ『TINAMIX』の立ち上げにも協力したし、ここでメール書評も展開している。その試みを一部のライターたちの党派争い(だと思うのだが、詳しい事情は知らないし知りたくもない)に利用する連中は、文壇や論壇で生き続けている業界評論家たちと同じく、僕は単に邪魔だと思うだけである。唐沢氏がそのような党派争いにくみせず、冷静さをもって豊かな議論の回路を開いてくれることを願って止まない。

2000.7.11記、7.20修正(タイトルと前文のみ)、2001.11.21ディレクトリ変更




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