ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

          トークセッション中止(2009/06/12)



            唐沢さん急病


 会社から帰ってきたら、義父から留守電が入っていた。実は、ジュンク堂の唐沢のトークセッション、義父の名前で予約を入れていたのだ。今日、義父の所にジュンク堂の担当者から電話があって、講師が急病のため中止しますと連絡してきたんだと。去年のDAICONみたいに、予告したために逃げられた苦い経験があったので、今回はシカトして参加するつもりだったのに(kensyouhanさんが質問したとき妨害する奴がいたら、ちょいと痛い目に遭わせるとかさ)。
 おやおや。
 なんか思い切り体調悪そうなのに、漢方を滅茶苦茶な処方で服用してたから、気にはなっていたんだが。ま、とにかく、

 謝罪せずに、死ぬのは許さんぞ

 ってことで。


         「唐沢俊一検証blog」批判(2009/06/12)



          文盲?っつうか、うぜえええええw

 のっけから、下品な文言で失礼しました。これは、消毒しましょ!というblogの6月12日のエントリのタイトルなんです。内容は、「唐沢俊一検証blog」の6月2日のエントリ、ホームレス?っつうか、うぜえええええに対する批判なんでありますが、タイトルからして、喧嘩を売っているのは明らかですね(まあ、kensyouhanさんも唐沢&岡田両名に、喧嘩を売っているわけなんですが)。だから、ここのコメント欄に返してもいいんですが、なんか“素人のblog”というものはコワレモノのように扱わなければならないようで、何か物申すと「暴れた」とか「痛い」とかなんて批判が一人歩きする。で、自分のサイトに書くことにしました。このblog主も自分のblogに書いているのですから、陰口呼ばわりはされないでしょう。

 「家庭内ホームレス」とは一体何なのか。岡田の定義だと、江戸時代に長屋に住んでいた人もみんなホームレスになってしまうのでは。自分のことを「ホームレスなんです」と安易に言うのは、逆にホームレスに対して失礼なような気もする。それにしても、岡田斗司夫って論理的な話ができない人だなあ。どうして「すべての男は、実はホームレスなんです」となるのかさっぱりわからん。(検証blogの引用)
 なんなんだ、こいつわw 字は読めても文章は読めないという手合いかw 批判のための批判にすらなっていないw 岡田の言う「書斎」とは、男が自分の趣味に耽溺できる場所、女房の金切り声や詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻すことの出来る場所、大袈裟に言えば自己表現をしたり自己実現を図れる場所といった程度の意味であろう。実際に部屋を持っているかどうかなど問題とされていないことは「僕や唐沢さんは、ただ単に金を持ってるホームレスなんです」と書いていることからも明らかで、逆に「長屋に住んで」いようが自分が充実していればそこは「書斎」なのである。普通に「論理的な話」であり、「ホームレス」は単なる比喩である。それを「ホームレスに対して失礼なような気もする」だもんなあwww

 草(www)を生やしまくるというのは、真面目に書いちゃいないんだぞという意思表明なんですかね。後で論破されたときの悔し紛れの言い訳「いいのか、そんな素直で」を思い出させます。まず「批判のための批判にすらなっていない」ってのが思いっきりブーメランで、顔面を直撃されてるんですが、こうした輩の常でそれに気付いていない(だからこの手合いとは議論したくないのね。論破されても平気なんだもの)。
 ええと。この方は書斎というものについて、こう書いている。「男が自分の趣味に耽溺できる場所、女房の金切り声や詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻すことの出来る場所、大袈裟に言えば自己表現をしたり自己実現を図れる場所といった程度の意味であろう。実際に部屋を持っているかどうかなど問題とされていない」。岡田氏がそう意図していたか否か以前に、この方は続いてこうも書いている。「「長屋に住んで」いようが自分が充実していればそこは「書斎」なのである」
 なんでしょうね「充実していれば」って。
 「充実していれば、「女房の金切り声も詰まらない世間話から逃れて自分を取り戻」せるのですか。長屋の四畳半一間でも、「充実」によって、そこが書斎になると。金切り声も世間話も聞こえなくなるとは、もの凄い集中力、まさに心頭滅却状態です。それが「普通に「論理的な話」」だというのですから、まともな議論が展開できるはずがない。
 岡田斗司夫がむちゃくちゃな話を展開して、それに対してkensyouhanさんが常識的な指摘をしているのに、この方は岡田氏の意見(と申しますか、“うわ言”のようなもんですが)よりもさらに頭の悪い論を展開して、検証blogを批判しようとしています。低レベルなAA貼りより、かえってイメージを悪くしていると思うのですが。

「現実世界でのヴァーチャル感」というのがなんとも頭が悪いのだが(検証blogの引用)
 別に頭悪くない。「現実」と仮想(ヴァーチャル)という相反する言葉を使っているのは単なる演出であり、そこに突っ込むのは無理筋である。

「単に演出である」
 その演出が頭悪いと言ってるんでしょうが。なにが「演出」ですか。いや、この方の頭の悪い批判自体が、徹頭徹尾「演出」ってことなのかも知れません。でしたら、大変な演出力だと思います。思い切り頭の悪い印象になっていますから。しかも反論できないと判断するや「無理筋」なんて変な言葉を持ち出してくるし。
 
 きりがないので、興味ある方はご自分でもとの検証blogとこの方のblogを比較してみて下さい。そうすれば、この方が、検証blogの中の、辛うじて自分が批判出来そうな部分を選び出して、そこに支離滅裂な言葉を浴びせているだけだと分かると思います。やっぱり、唐沢擁護には、こんなのしかいないんだなあ(大学の教員なんて肩書きの人も何人かいますが、ここまで低レベルではないものの、同類ですから)。
 あ、擁護というのは餌です。またこれが入れ食いなんですよね。
 
このような頓珍漢な批判しか出来ないようでは、こやつの「検証」力も疑ってかかる他ない。

 ご自由に。あなたの「検証」力に関しては、疑ってかかるレベルどころか、ゼロであることは明白ですけど。

 苦笑。


         古本買い 十八番勝負(2009/06/10)



              幻の古本屋

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 嵐山光三郎の著作で、東京の街歩き本、でもってテーマが古本屋巡りなのに、なぜか買ったその日にぱらぱらやったきりで、ずっと書棚に眠っていた。昨日、出掛けにこの本を鞄に放り込んだのも、全くの偶然、『人を殺すとはどういうことか』を読み終えたので次の通勤本を、と思ったときたまたま目に入ったからに過ぎない。
 嵐山光三郎、坂崎重盛、大島一洋、梶屋隆介、石山千絵という面々が一同に介し、古書店一軒につき15分という制限時間を決めて、古本買いをする。そして、その日の〆に一杯やりつつ戦利品を披露しあうという、誠にうらやましき至福の時間が綴られているのです。
 さらに、巻半ばで、嵐山助手で紅一点のチエちゃん石山千絵は、作家石田千に変貌する。応募していた小説が、第一回古本小説大賞を受賞したのだ。ぱちぱちぱち。
 しかし、まあ、この5人が買い漁る古本(数百円から数千円という値付のものばかり)は多岐に亘って面白そうな本ばかり。なのに知らない本ばかりで(知っていたのは数冊しかない)、うむ、人間が生涯に出会える本(読まなくてもいい)の少なさは考えるだけで哀しくなってくる。
 銀座、早稲田、神保町から中央線沿線と既知の土地ばかりだが、ときとしてエアポケットみたいに未知の空間が紹介される。そこに、いかにも良さげな古書店があって、まさに幻の古本屋なんでありますな。仕事を放り出して早速出かけてみたくなる。
 そんな、一軒が水道橋の日本書房西秋書店。白山通りは何度も歩いているが、三崎神社通りや水道橋西通りの間のごちゃごちゃした空間の記憶はない。くだんの二軒はこのあたりにあるのだ。
 地下鉄の中でうとうとしながら、つかの間夢を見る。
 T字路の突き当たりにある矢鱈に間口の広い、薄暗い古本屋の店内にいる。早朝らしいが、店の前の道は大変に賑わっている。坂崎重盛らしい老人が、当たるを幸いと買い漁っている本は、まあ面白そうな本ばかり。本書のなかでも、遅刻してきた坂崎が七分で、両手の袋に一杯本を買い込んだという描写があるのだ。
 オフィスについてPCを立ち上げると、すぐさま地図のサイトを開いた。水道橋界隈……。

 おいおい。
 おれは昨日ここにいたぞ。ランチョンで軽く呑んでから、古本屋を冷やかしながら飯田橋まで歩いたのだ。驚くべし、日本書房も覗いている。いや、日大経済学部前を歩いていたのだが、ぽつんと見えた道の反対側にある店舗が気になってわざわざ道路を渡って覗いたのだ。しかし、専門書ばかりのような気がして、入店はしていない。
 当然ながら、夢で見た幻の古本屋とも全然違う店だった。

 しかし、なんたる偶然。

 『古本買い十八番勝負』 嵐山光三郎 集英社新書 2005


          人を殺すとはどういうことか(2009/06/09)



 彼は天才でも才能のある男でもなく実績もなく単なる妄想の虜です

        殺人

 面白い。
 著者は全く意図していないだろうが、これは一人の“人殺し”を丸裸にした稀有な記録である。
 著者は自分を天才だと信じている。小学生時代に、知能テストで一番になり、将来は東大に進学して医者か弁護士になると当たり前に考えていた。在日韓国人である父親(前科20犯くらいの凶暴な男)が没落し、それは夢に終わったが、高校中退で就職した教科書販売のセールスでは、たちどころに4,000人中のトップになり、同年代の50倍くらいの年収を得る。
 人生の行動規範は総て父親にある。「一番以外はくず」「文句があったら言え」「嘘をつくな」「喧嘩は勝つまでやめるな」「約束は守れ」「言ったらやれ、やらないなら言うな」。著者はこれを守る。そして、他人にもそれを強いる。経営者として成功しながら、「約束を守らない」「嘘をついた」、そんな理由で当たり前のように二人の人間を殺し、信念を貫いて取調べにも真実を包み隠さず話す。無期懲役の判決が下る。
 「自分」というものが全く無い。父親の言いなりになるロボットだ。しかし、完璧なロボットになるこそわが人生と信じる著者に迷いはない。そんな著者に転機が訪れるのは、裁判での検察官の陳述を聞いたときだった。被害者の死に様がどんなに悲惨だったか。それを第三者の口から聞かされたときに、やっと自分がしでかしたことの重大さを知る。
 しかし、だからと言って、反省と祈りの日々を送るわけではなく、父親の教え通り、自分が正しいと信ずる道をいく。すなわち、他の囚人たちを追求しだすのだ。「なんで殺したのか?」「反省はしているのか?」「償いはどのようにするのか」。なにしろ、「文句があるなら言う」「喧嘩は勝つまでやめるな」を信条にしているから、なんの躊躇もなく相手の心に踏み込んでいく。
 それに対する「人殺し」たちの答えは、ある程度想像してはいたが酷いの一言に尽きる。殺した相手の顔が夢枕に浮かび眠ることすら出来ない、なんて奴は一人もいない。
 人を殺したことで反省することは? と著者は尋ねる。
「指紋を残したことかな」
 どう償うのか?
「だから、ここに収容されてるんじゃないか」
 殺された奴が悪いとうそぶく。
 しかし、ここではじめてわたしは、その“人殺し”に共感を覚えた。倉庫に盗みに入り、発見され、守衛を殴り殺した強殺犯の弁。

 てめえの物じゃねえのに安い給料で真面目に仕事しやがってよ。大人しく寝てりゃいいんだよ。余計なことしやがって、頭にくるじゃん。捕まりゃ刑務所だし、動くな、なんて命令口調で言いやがるしよお。何様のつもりだ、動くなだってよ。えっ、殺意か、あったかもな。裁判じゃ、ねえって言うに決まってんじゃん。そんなのチョーエキの常識だろ」
         ~略~
「殴ってる時? 鉄製の枠みたいので殴ってたけど相手が激しく抵抗するから必死だったよ、殴ってもこっちに向かってくるし、俺のブルゾンを握って離さねえんだ。もう必死よ。それによ、そのブルゾン買ったばかりで気にいってて、それを少し破られて余計にかっとなってよ、絶対に許せねえって思ってよ、滅茶苦茶殴ってやったよ」
         ~略~
「だって、自分の物じゃないんだから、放っときゃいいじゃん。無くなったってそれくらいでびくともしないじゃん、大きな会社だし、てめえが損する訳じゃないし、こっちは捕まったらまた何年か寄せ場(註;刑務所)暮らしだぜ。中での不自由も知らないで」
 周りで聞いていた何人かが頷いていました。論理の飛躍に気づいていません。社会でもよくあることですが、初めの前提が誤っているのにその後の理屈を都合の良いように展開しています。しかし刑務所では、そもそも犯罪行為が悪であるという前提がありませんから、この理論の展開はよくあることなのです。


 誤解覚悟で敢えて言うが、この強殺犯の言うことはもっともだ。身勝手で頭が悪い前科者が考えることは手に取るように分かる。著者はその本音を引き出した自分に酔っているけれど、まあ誰だって考えることだろう。さらに著者はそれにひきかえ、ヤクザには立派な“人殺し”がいるとは称えるのだが。

 ハッキリ言って、この著者、どうしようもない馬鹿だ。自分自身の「論理の飛躍」にも「初めの前提が誤っている」ことにも全く気づいていない。“信条”とか“侠気”とか、そんな訳の分からん理由で人を殺すのは、頭がおかしいからに他ならないのだが、こいつはそれを尊いことのように思っている。
 本書は、そんな馬鹿が「冷徹」に「客観的」に、“人殺したち”を観察し、取材し、分析するという体裁をとっているが、その内容は実は浅薄だ。この本の本当の面白さは、そうした行為を通して見透かされる、著者自身の殺人者としての資質、そして、文字通り「人を殺すとはどういうことか」ということがまさに鏡のように著者自身に映し出されていくところにある。
 なんで人を殺してはいけないのか。
 それは最終的な可能性を奪ってしまうから。わたしは、そう考えている。それだけのことなんじゃないか。

 amazonの書評を見たら、著者の自慢話と無反省ぶりに憤り、半分読んだだけでぶん投げ、☆一つの採点をしている人がいた。なにを期待して本書を紐解いたのだろうか。人を殺すことの恐ろしさに気付いた殺人犯の、懺悔の言葉満載だとでも思ったのかしら。

 しかし、もとヤクザとか殺人犯とか暴走族とかチンピラとか、そうしたアウトローたちが語る自己とは、どれもこれもどうしてこう偉そうで浅薄なんだろうか。
 犯罪者というのは所詮馬鹿なんだよな。

※冒頭の言は、ラスコーリニコフに対して著者が下した評価です。

 『人を殺すとはどういうことか』 美達大和 新潮社 2009


            著作権と特許(2009/06/06)



 唐沢俊一検証blogの「虹のレシピにも著作権はある?」の中で、岡田斗司夫の無茶苦茶な発言が取り上げられていた(これは『オタク論2!』の中での発言だが、この本は買っていないので、kensyouhanさんの書き込みをそのまま引用させてもらいます)。まず、一つ目。

 よく僕が例として話すのは、料理のレシピなんです。レシピというものに著作権が認められていないからこそ、料理業界はものすごく進歩するわけです。だから美味しい物がどんどん生まれる。

 先に結論を述べるが、勿論レシピにだって著作権はある。自分の著作物の剽窃云々で訴訟のどうの騒いだくせに、岡田は知的財産権に関しては全く無知だと言っていいだろう。これは「モータリゼーションが発達したのは、普通車なら運転に免許がいらないからだ」と言っているくらい酷い発言なのだ。
 例えば、いま、ここでおれがなんかのレシピを書いたとする。

 春の生野菜サラダのすき焼きドレッシング

 春キャベツは千切りにして水にさらしておく、つまみ菜はよく洗い、水を切っておく。これに千切りの人参、ジャガイモを加えよく混ぜる。昨夜の残りのスキヤキを上からかけ、好みで一味、もしくは七味唐辛子を振りかけていただく。


 この瞬間に、このレシピ(文章)には著作権が発生する。したがって、おれ以外の人間が、この文章をあたかも自分のオリジナルのように、著作物やネットに発表した場合、おれはその人物を訴えることが出来るし、絶版回収、削除等の要求も出来、常識的にその要求は認められる。
 このレシピ(文章)を自分の著作物で使うには、以下の三つの方法がある。

 1、藤岡真のサイトに書かれていたものであることを明示して引用する。
 2、同じレシピに関して、全文を自分の文章で書き直す(アイデアのみ借用=盗用するわけだが、アイデアには著作権はないので問題化しない)。
 3、唐沢方式。盗作して、それと分からないようにするやり方。コピペして、言い回し、語尾など改竄し、新たに書かれた文章のように見せかける。唐沢は『新・UFO入門』でこの手法をとり、改竄が杜撰だったため露見、自分は1のやり方(引用)をしたつもりだった、と苦しい言い訳をしてばっくいれた。

 では、どこぞのレストランがこのレシピをもとにした春の生野菜サラダのすき焼きドレッシングなるものをメニューに加えて売り出したら、どうなるだろうか。
 ――実はなんの問題もない。
 著作権というのは著作物に与えられる。著作物とは、

 「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」

 だから、料理それ自体には著作権はないのである。このことを頭において、岡田の次の発言を検証してみようか。

 ホタテと大根のサラダだって、どこかの婦人誌に主婦が投稿したのが最初でしょう。それがあっという間全国に広がって、居酒屋や家庭料理の定番になった。もしホタテと大根のサラダに特許がついてたら、僕らはそれに特許料を払えませんよ。筑前煮にも、豚骨スープにも払えない。

 これまた出鱈目な発言だ。「ホタテと大根のサラダ」「筑前煮」「豚骨スープ」で「特許」をとることは出来ない。当たり前である。料理人が、なにかレシピを考えるたびに特許登録していたら、自由に作れる料理なんか存在しなくなるだろうっての。さて、特許とはなんなのか、いい機会なのできちんと勉強しておこう。
 特許とは――
 
 特許制度で保護の対象になるのは、「発明」であり、「発明」は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」と定義されている。

 例えば、「純粋な計算の方法」や「純粋なアルゴリズム」は「自然法則を利用した技術思想」とは看做されず、特許を得ることは出来ない。こうした考えは、あまりに現実にそぐわないため、実際には製品化された「ソフトウェア」という「物」としての特許を認めている。
 それでも、料理の特許を取りたいと考えるなら、それはその調理法に「発明」と認められる技術を用いるしかない。
 つまり、「今まで世間に存在しなかった料理」を「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」を用いて調理することで「物」と「調理法」の特許をとるわけである。
 しかし、特許権を持つ、その料理も「全く違った手法で作られる」ならば、特許対象の料理とは看做されないから、特許侵害とはならないのだ。「料理」に特許が与えられないとはそういう意味で、そして、「虹のレシピにも著作権はある?」の中で岡田斗司夫の発言を検証するなら、その意味が分かるだろうということである。高度な技術(板前のソレは当然、特許の対象ではない)でのみ可能となる料理には、その料理法が発明と看做され、なおかつ料理自体今までに無いものである場合に限り、特許権が与えられるのだ。
 岡田主張しているのが、そうしたもの示しているわけではないのだから、あの場でこうした議論を進め、あたかも「料理」に特許が与えられるように主張するのは、徒な混乱を招くだけのことである。
 お分かりかな。


           足利事件(2009/06/06)



            関係者のお言葉

 「私のボランティア」というサイトがある。※
 既に消されたようだが、こんなことが書かれていた。

 ボランティアは、私の最高の生きがいです。 ~略~ ボランティアは、私にとって生涯学習であり、最高の生きがいです。晴耕雨読が理想の生活。自分を信じて、天寿を全うすることが人生の目的と考えております。

                ・・・

 2008/02/13 1時57分45秒
 足利事件(真実ちゃん誘拐殺人死体遺棄事件)の最新要求棄却
 18年前の平成2年5月12日、足利市内のパチンコ店駐車場にいた松田真実(当時4歳)幼稚園児が行方不明となり、翌13日に近くの渡良瀬川河川敷で遺体で発見された。足利市内では、それ以前2件の幼女誘拐殺人死体遺棄事件が発生していた。3件目の事件で子を持つ親を恐怖のどん底に陥れるなど、社会的反響の大きな事件でした。
 県警では、200名以上の体制による捜査本部を設置して、警察の威信・存在をかけて懸命の1年半に及ぶ捜査の結果、平成3年12月2日被疑者菅谷利和(当時45歳)を逮捕した。
 その後、数次の裁判を経て、平成12年7月17日、最高裁判決により上告棄却により無期懲役が確定した。
 平成14年12月25日、宇都宮地裁に再審請求していたが、本日再審請求棄却が決定されたものである。当時、県警の刑事部長・捜査本部長として捜査に携わった者として、感慨無料(原文ママ)であります。当時として、最高、最善の捜査を尽くしたものであり、誤りでないことを再確認していただいたものと思っております。
 以下、操作当時を振り返っての新聞記事を掲載します。

 ~新聞記事略~
※1990年(平成2年)5月15日付け、下野新聞論説「必ず犯人の仮面はがせ」で必検の信念を鼓舞され勇気づけられました。
 
 で。
 サイトを閉鎖すれば、それでいいのか。
 最高・最善の捜査を尽くしたと自負しながら、なにゆえに反論もせずに逃げるのか。今回の件に関して、下野新聞の論説も読んでみたいもの。
 その下野新聞の記事。

「無罪が確定したわけではない。問題はこれから。法律に基づいて妥当な捜査をし、自供も得ている」。当時の県警刑事部長はあらためてこう強調した。元県警幹部も「(釈放は)検察が決めたことだから、何も言うことはない」と語気を強めた。

 ならば、なんで逃げる。

※このサイトの存在は「探偵ファイル」の記事で知りました。


The Otaku Encyclopedia: An Insiders Guide to the Subculture of Cool Japan(2009/06/04)


     外国人のためのヲタク・エンサイクロペディア


            OTAKU

 マイミク、ノリピーこと大野典宏さんが監修したオタク百科事典です。大野さんは日本推理作家協会会員で、英文・露文の翻訳家で1999年度「遍歴者賞小賞(ロシアSF大賞)」を受賞 しています。さらには空手の達人で(その関係で懇意にさせてもらっています)合気道は指導員の資格まで持っています。そのうえ物理学者でテルミンの演奏家でコスプレーヤーという、レオナルド・ダ・ヴィンチ級の多才なオタクなんであります。
 本書の著者、パトリック・ウィリアム・ガルバレスが大野さんを信頼して監修を任せたことは、謝辞が如実に示しているでしょう。

 Oono Norihiro ---- as hardcore an otaku as ever there was, and a saint for his many sleepless nights fact checking.


 as hardcore an otaku as ever there was。ねえ? われこそはオタクの中のオタクと自称していたお二人に、適任な仕事だと思うのに、なんでお声がかからなかったんでしょうか。お二人には『オタク論2!』なんて著作もあるのに。

 いや、本来なら、「外国人にオタクを解説する」なんて仕事、なんでオレに声をかけないんだ! と怒ってしかるべきはずなのに、こんなぬるい本で対談して満足なんだから、ま、本当にショーモナイ“オタク”なんでしょうね、このお二人は。

The Otaku Encyclopedia Patrick W. Galbraith 
                   講談社インターナショナル 2009


        これまでも、そして、これからも(2009/06/04)



            無能なる匿名子諸兄に

 これまで繰り返し述べてきたけれど、もう一度言わせて貰おうか、三歩歩くと忘れちまう鳥頭なのか、馬鹿というものは雲霞のごとく湧いてくるものなのか、いやはや、鬱陶しいったらありゃしない。
 先月のことだけど、唐沢俊一検証blogの「虹のレシピにも著作権はある?」というエントリに、こんなコメントを寄せた。

 >通行人Aさん
 横レス失礼。それは「料理の特許」ではなくて「料理の製造法の特許」です。知的財産管理技能士として断言します。


 「特許」に関して、ネット検索で調べてみれば誰だって(馬鹿以外は)分かることなんだが、これに対してこんなコメントが付いた。

  SS
・マヨネーズ風味を有する低カロリー型ソース及びその製造方法(特公平5-55104号)
・揚げ出し卵豆腐及びその製造方法(特公平7-63335号)
 通行人Aさんがおっしゃるとおり、この2件の発明は、「物と、その物の製造方法」の発明です。
 つまり、「ソース」「揚げ出し卵豆腐」という食品と、その製造方法の発明とを合わせて一件の特許出願にしたものです。
「ソース」は一般的に料理とは呼べないかもしれませんが、「揚げ出し卵豆腐」は料理と呼べるでしょう。
 また、「料理」という言葉は、調理方法と、料理して作った食品の両方をさしますが、そのいずれも特許をとれます。
 ですから、藤岡さんが間違っていると「断言」しますw
 唐沢を笑えませんよ。
 特許庁電子図書館で公報を読んでみてください。


 どうして、こうも頭が悪いのだろう。いや、なんだって、何も分かりもしないくせにしゃしゃり出てくるんだろう。いま、このblogは注目率が高いから、なにか気の利いたことを書けば目立つだろうと考えたのかしら。わたしが「断言」と書いたのをまぜっ返して「w」をつけてせせら笑う。自分が思い切り馬鹿を曝していることすら分からずに。
 当然わたしは返答しました。誤りを放置しておくわけにはいきませんから。

 >SSさん
 製造法があるから、その結果の製品が登録されているのですよ。よく考えてから発言しましょうね。「醤油味のマヨネーズ」とか「キムチ風味のバナナ」とか(なんでもいいが)、製造法も提示せずにいきなり特許を認定しろといって通ると思いますか? 広報なんかチェックしていないで、「特許」というものがどんなものなのか根本的に勉強しなおすといいと思いますよ。無知を曝して、恥をかくだけですからね。


 まあ、なんて親切な助言なんでしょう。この助言通りにしたら、このSSなる方は、今後「特許」に関して語る機会があっても、恥をかかずに済むってことですから、お礼の一言があったってばちは当たらない。さらに、

LAH
・マヨネーズ風味を有する低カロリー型ソース及びその製造方法(特公平5-55104号)
http://www.inapon.com/pc05055104.htm
・揚げ出し卵豆腐及びその製造方法
http://www.inapon.com/pc07063335.htm
 細かいレシピは書かれていませんね、料理の特許というより工場のライン製造の方法の特許ではないでしょうか。
 実際に料理で特許は取れますが実例を見ると調理法が多いようですよ。

藤岡真
>LAHさん
 
>工場のライン製造の方法の特許ではないでしょうか
 その通りです。特許は「実用新案」ではありませんから、特許は発明に与えられ、発明は、
「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」
 と定義されています。「揚げ出し卵豆腐」がこれに該当するか、ちょっと考えれば分かろうというもの。唐沢の擁護をする人は、なんで無知蒙昧のくせに、草を生やしてせせら笑うレベルの人ばかりなんでしょうね。


 というやりとりをしました。すると今度は、2ちゃんねるのわたしのスレッドに、「他人のblogのコメント欄でケンカするな」とか「書き込んだ奴のblogにいってやれ」などという書き込みがあったのですねえ。
 これまた、なんて頭が悪いんだろう。明らかに間違ったことを無礼な口調で書き込んだ奴がいたから、親切にそれを訂正して諌めただけじゃないか。後者なんか言語道断。面と向かって無礼なことをいっている奴がいるんだから、もって廻ったことはせずに直接返すのが当たり前だろうに。大体、blogやってるかどうかも分からない相手なんですから。実際、当事者のblogまで出かけてコメントしたことなんて、いくらだってありますよ。そうすると「素人のblogに乗り込む痛い奴」なんて言われますけどね。
 まあ、きりがないんで結論だけ申し上げますが、無能なる匿名子の皆様、みっともないから他人(今回の場合はわたしね)に、偉そうに助言をするのはやめておきなさい。馬鹿な素人の意見なんか、何の役にもたたないし、こちらだって聞く耳持ちません。そして、皆様はなにゆえに、幼女のごとくひ弱いのでしょうか。反論されると、ショックで立ち直れなくなるのですか。怖いので(匿名ですら)メールをよこせない。mixiにメッセージを送れないって方ばかりのようだし。
 以前、某省庁が主催する会議で、代理出席していた若い女性が、多分、本来の出席者から「代理だからって遠慮しないでいいから、どんどん発言してきなさい」とか言われたらしく、会議の目的も本質もどこへやら、他人の発言に上から目線で、ずけずけ見当違いな反論をするという醜態を演じたことがありました。その女性は某大企業の代表で、わたしから見れば得意先にあたる人間でしたが、さすがにこのときは頭にきて、慇懃な態度は崩さなかったものの、理路整然といちいちそれに答えてやったのです。で、どうなったかと申しますと、その女性、急に黙り込み、目から大粒の涙を流し、言いも言ったり、
「わたしは分からないから質問しただけなのに、なんで叱られなければいけないんでしょうか」
 だと。泣きながら席を立って二度と戻りませんでした。それで大問題になったかといえば、全然そんなことはなく、先方からお詫びの言葉さえなかったものの、それっきり収束いたしました。馬鹿な代理人を送った企業が恥をかいただけです。
 なんか、ネットの匿名子を見ていると、この馬鹿女を思い出します。匿名をいいことに思い切り無礼な発言をし、辛辣に返されると、涙目で言い返してくる。ひ弱な皆様が同病相哀れんで、徒党を組んだのが、「無能なる匿名子」の正体なんでしょうねえ。

 以上、といいたい所だけれど、
 あの。
 メールやメッセージで直接文句垂れてくる方に一言お願いします。頭の悪い人は長文を書くのはやめて下さい。支離滅裂で読む方も面倒くさい。こちらは、訳がわからんと読まずに捨てたりはせず、真摯に対応するつもりなんで。

「こう言っては諸方の反感を買うかもしれないが、ぼくは素人の文章というものが大嫌いなのだ」 筒井康隆


          スーパー編集長のシステム小説術(2009/06/02)



             プロ中のプロ、本物の凄味

              小説

 今年の「トンデモ本大賞 2009」の公開大会が、大騒ぎになりそうということで、2ちゃんねるをはじめとする各サイトがちょっとした騒動になった。
 唐沢俊一の取り巻きの一人、バーバラこと大内明日香と、これまた問題を多々抱えたノベルス作家若桜木虔との共著『すべてのオタクは小説家になれる!』という著作が、「トンデモ本大賞」にノミネートされ、当初、唐沢はバーバラに会場で本を売るように指示しながら、会員(会長?)から、NGが出ると、掌を返したように来るなという指示を出した。バーバラは頭にきて、

 ああそうですか。それでは、あなたがたとしては、「お前は来るな。だけど、お前のいないところで、俺たちはお前の本を思う存分コケにするから」ということなんですね。

 と応じた。ま、当然だろう。これは唐沢が馬鹿だから発生し、世間にバレた
事件だが、この『すべてのオタクは小説家になれる!』自体が、ノミネートされるだけあって酷い内容なのだ。リンク先のamazonの書評を見れば、その内容も知れようというもの。なんせ、著者の一人の大内女史は、自称出版評論家だが、本職はファーストフード店員で、小説の著作なんか一作もないという人物。もう一人の若桜木虔も膨大な架空戦記ノベルスやミステリ、速読法などの著作はあるものの、色々とトラブッた過去のある人物。ただし、通信添削の小説作法教室からは、何人かの新人賞作家が誕生したという実績は持っている。
 こんな本が世間を賑わせているときに、世に出た本書はタイトルといい、惹句(才能なんていらない!)といい、表紙のトーン&マナーといい、なんか、一緒くたにされちまいかねない雰囲気だが、冗談言っちゃいけない。スーパー編集長の肩書き通り、小説新潮編集部に三十年勤めるうちに、乃南アサ、宮部みゆき、高村薫 、帚木蓬生、御坂真之、有沢創司、天童荒太、伊坂芳太郎、戸梶圭太、どさくさに紛れて藤岡真などを見出した慧眼、ノンフィクションに転じれば、250万部を売った『国家の品格』を世に出したという凄腕の編集者なのである。
 作家デビューしたわたしが読んでもワクワクするような内容。小説を書きたい、作家になりたいと思っている老若男女、迷わず本書を購いなさい。ハウツー本としても、エッセイとしても、極めつきに面白い。いや、果たしてこんな面白い文章が自分に書けるか、そこから考えるのもいいだろう。威力業務妨害と言わば言え、『すべてのオタクは小説家になれる!』なんか参照したら脳みそが腐るぞ。そして、総ての小説家志望者は、必読。読まずば、作家になることなど無理と思いたまえ。
 『スーパー編集長のシステム小説術』  校條剛 ポプラ社 2009

 ※ おい、神田三省堂、表紙のイラストが可愛いのと、出版社がポプラ社だってことで、勝手に児童書扱いすんなよな。本来1階の文藝売り場にあるべき本書が、なんで6階の作文コーナーに並んでおるのだ。ポプラ社には営業はおらんのか!


            田紳有楽(2009/06/02)



              気儘な時空の旅

          田紳有楽

 志望した大学に入学し、スポーツに勉学に趣味にと好き放題に時間を使っていた若かりし日、得体の知れない焦燥感に徐々に襲われていた。なんだか分からないが、自分はこのまま日常生活に埋没し、卒業後は勤め人になって社会の歯車として長い一生を生きていくのだという、当たり前なのにやりきれない人生をなんとかしなけりゃあ、という焦りである。学生運動華やかなりしときで、その流れに身を任せる友もいたが、それには全く納得がゆかず、やがて想いは現実からの逃避となっていった。『2001年宇宙の旅』は、まさに象徴的な映画で、現実の延長に過ぎない宇宙開発(キューブリックは、パンナム、パーカー、ヒルトンホテルなどを登場させ、その世界を強調した)の行く手に、ぽっかりと開いた異次元の穴は、永劫回帰への不安を抱いていた若造の心を強く捉えた。
 しかし、しょっちゅう穴ぼこに落ちていりゃあいい、ってもんでもないだろうし、異界へ異界へと果てしなく進んでいったら、そのうちにアイデンティティだって消滅してしまう。だったら、座して小鍋でもつつきながら冷酒を呑んでいる生活の方がずっと楽しいなんてことが納得出来るのは、実は最近になってからだ。
 しかし、日常生活にどっぷり浸かりつつ、異次元への気儘な旅が楽しめたら、それはまた理想的なんじゃなかろうか。
 そんなお話が、本書『田紳有楽』である。
 藤枝静男という名は知れど作品にはトンと縁のなかった作家の作品に手を伸ばしたのは、筒井康隆が『乱れ撃ち瀆書ノート』で絶賛していたからに他ならない。なのに、購入後一瞥し、なんだか面倒くさそうな本だなと本棚の奥に突っ込んで、瞬く間に二十数年という時が立ったのだ。引越しで本の整理をしていたとき、どれどれと読み出したら、最後まで一気に読んでしまった。
 釈迦入滅後56億7千万年後の未来、弥勒菩薩が出現し衆生を救済するという世まで生きたいと願う、偽のラマ僧やら茶碗(!)やらが時空を飛び回るという物凄い話。ユーカリの落ち葉に埋もれる小さな池の泥底には、皿、茶碗、ぐい呑が浸けられ、偽骨董品として仕込まれていたが、時を経て、そいつらはUFOと化して自在に飛び回るかと思えば、人に化けてホステスを口説き、池の中では金魚と交わって子供を産ませる。
 修行中の阿闍梨を縊り殺した偽阿闍梨は大蛇に化身し、深山の池の主として56億年の未来を待つ。なんとその偽阿闍梨偽はかつてUFO茶碗を托鉢碗として懐に入れ、チベット、ブータン、シッキムを旅していた梅毒病みの偽ラマ僧、サイケン・ラマなのだ。
 もはやストーリーなどどうでもいい。それらが、私小説のような淡々とした日常にすっぽり納まっているところが凄い。いや56億7千万年後だって、いつかはやってくるし(茶碗たちは、その前に宇宙はブラックホールに飲み込まれて消滅してしまうと悲観しているが)、それが日常となれば、また新たな刺激を求めるのも人情だろう。だったら、得体の知れない安骨董の皿に、塩辛を盛って、酒をちびちびやるのも宜しいものだと、この歳になってしみじみ思わせてくれる傑作であります。

 『田紳有楽』 藤枝静男 講談社文庫 1978


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