1 一 〜 三十七 2 三十八 〜 七十四 3 七十五 〜 百二十七


三十八

〇ここに病人あり。体が痛みかつ弱りて身動きほとんど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を採ってものを書くことは到底出来得べくもあらず。しかして傍に看護の人なく談話の客なからんか。いかにして日を暮すべきか。いかにして日を暮すべきか。  (六月十九日)


         三十九

〇病床に寝て、身動きの出来る間は、あえて病気を辛しとも思わず、平気で寝転んで居ったが、この頃のように、身動きが出来なくなっては、精神の煩悶を起して、ほとんど毎日気違のような苦しみをする。この苦しみを受けまいと思うて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャムシャとなる。もはやたまらんので、こらえにこらえた袋の緒は切れて、ついに破裂する。もうこうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦しみその痛み何とも形容することは出来ない。むしろ真の狂人となってしまえば楽であろうと思うけれどそれも出来ぬ。もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入ってようよう減じわずかに眠気さした時にはその日の苦痛が終るとともにはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。 (六月二十日)

     

         四十

〇「いかにして日を暮らすべき」 「誰かこの苦を救うてくれる者はあるまいか」ここに至って宗教問題に到着したと宗教家はいうであろう。しかし宗教を信ぜぬ予には宗教も何の役にも立たない。基督教を信ぜぬ者には神の救いの手は届かない。仏教を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返して日を暮らすことも出来ない。あるいは画本を見て苦痛をまぎらかしたこともある。しかしいかに面白い画本でも毎日毎日同じ物を繰返して見たのでは十日もたたぬうちにもはや陳腐になって再び苦痛をまぎらかす種にもならない。あるいは双眼写真を弄んで日を暮らしたこともある。それも毎日見てはだんだんに面白味が減じて、後には頭の痛む時などかえって頭を痛める料になる。何よりも嬉しきは親切なる友達の看護してくれることであるがそれもしばしば出逢うては、別に新らしき話もないので病人も看護人も両方が差向うて一はただ苦み、一はその苦しみを見て心に苦しむようになる。去年頃までは唯一の楽しみとして居った飲食の欲も、今はほとんど消え去ったのみならず、飲食そのものがかえって身体を煩わして、それがために昼夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となって来た。あるいは謡を聞きあるいは義太夫を聞いて楽んだのは去年のことであったが、今は軍談師を呼んで来ようか、活動写真をやらしてみようかとの友達の親切なる慰めはかえって聞くさえも頭を痛めるようになった。大勢の人を集めて、これと室を共にすることも苦しみの種である。請いの声、三味線の音も遥かの遠音を聞けばこそ面白けれ、枕元近くにてはその昔が頭に響き、はなはだしきはわが呼吸さえ他の呼吸に支配せられて非常に苦痛を感ずるようになってしもうた。畢竟自分と自分の周囲と調和することがはなはだ困難になって来たのである。麻痺剤の充分に功を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺剤が充分に功を奏することが出来なくなった。予は実にかような境界に陥って居るのである。いつ見ても同じ病苦談、聞く人には馬鹿馬鹿しくうるさいであろうが、苦しい時には苦しいというよりほかに仕方もなき凡夫の病苦談「いかにして日を暮らすべきか」「誰かこの苦を救うてくれる者はあるまいか」情ある人わが病床に来って予に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで予はために多少の苦を救わるることを謝するであろう。予に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文学談にあらず、宗教、美術、理化、農芸、百般の話は知識なき予に取ってことごとく興味を感ぜぬものはない。ただ断っておくのは、差向うて坐りながら何も話のない人である。 (六月二十一日)      


四十一

〇この日逆上はなはだし。新しく我を慰めたるもの 

一、   果物彩色図二十枚  

一、   明人画 飲中八仙図一巻(模写)

一、   靄拷謇ヤ卉粉本一巻 (模写) 

一、   淇模写 山水一巻(模写) 

一、   煙霞翁筆 十八皴法山水一巻 (模写) 

一、   桜の実一藍 

一、   菓子パン各種 

一、   菱形走馬灯一個 

来客は鳴雪、虚子、碧梧桐、紅緑諸氏。 

事項は『ホトトギス』募集文案、蕪村句集秋の部輪講等。 

食事は朝、パン、スープ等。午、粥、さしみ、鶏卵等。晩、飯二椀、さしみ、スープ等。間食、葛湯、菓子パン等。

服薬は水薬三度、麻痺剤二度。(六日二十日記) (六月二十二日)


         四十二

〇今朝起きると一封の手紙を受取った。それは本郷の某氏より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。  

拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずるところあり左の数言を呈し候  第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし

第二、もし右信ずることあたわずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ  

第三、もし右二者ともにあたわずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよしかして死に至らんのみ小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否をあえて問う病間あらば乞う一考あれ(以下略) 

この親切なるかつ明哲平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであって余の考もほとんどこの手紙の中に尽きて居る。ただ余にあっては精神の煩悶というのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されて居るためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであって、苦しい時には、何ともかとも致しようのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段はもとより「現状の進行に任せる」よりほかはないのである、号叫し煩悶して死に至るよりほかに仕方のないのである。たとえ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様に諦めるというよりほかに諦め方はない。この十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるようになったとしてもやはり諦めるよりほかはないのである。けれどもそれが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとえ諦めることが出来ないでも、慰める手段がないこともない。程度の進んだ苦に至っては、ただに慰めることの出来ないのみならず、諦めて居てもなお諦めがつかぬような気がする。けだしそれはやはり諦めのつかぬのであろう。笑え。笑え。健康なる人は笑え。病気を知らぬ人は笑え。幸福なる人は笑え。達者な両脚を持ちながら車に乗るような人は笑え。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落ちている財布をクスネンとするような人は笑え。年が年中昼も夜も寝床に横たわって、三尺の盆栽さえ常に目より上に見上て楽んで居るような自分ですら、麻痺剤のお陰で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居った時の自分を笑うてやりたくなる。実に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑う時の余も、笑わるる時の余も同一の人間であるということを知ったならば、余が煩悶を笑うところの人も、一朝地をかうれば皆余に笑わるるの人たるを免れないだろう。咄々大笑。(六月二十一日記) (六月二十三日)      


四十三

〇まだ見たことのない場所を実際見たごとくにその人に感ぜしめようというにはその地の写真を見せるのが第一であるがそれも複雑な場所はとても一枚の写真ではわからぬから幾枚かの写真を順序立てて見せるようにするとわかるであろう。名所旧蹟などいう処にはこのような写真帖が出来て居る処もあるがその写真帖はただ所々の光景を示したばかりでそれぞれの位置が明瞭しないので甚だその効力が薄い。それでこの種の写真帖には必ず一枚の地図を付けてその中にあるそれぞれの写真の位置と方位とを知らしむるようにしたらば非常に有益であろうと思う。日光を知らぬ人にもこの写真帖を見せればその人は日光へ往ったような感じになるであろう。西洋に往くことのできない人でもこの種の写真帖を見たらば西洋へ往ったと同じような感じになることが出来る。比較的簡単で廉価でそうしてこれほど有益なものは他に類が少ないであろう。 (六月二十四日)   


四十四

〇警視庁は衛生のためという理由をもって、東京の牛乳屋に牛舎の改築または移転を命じたそうな。そんなことをして牛乳屋をいじめるよりも、むしろ牛乳屋を保護してやって、東京の市民に今より二、三倍の牛乳飲用者が出来るようにしてやったら、大いに衛生のためではあるまいか。 (六月二十五日)      


四十五

〇写生ということは、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては、画も記事文も全く出来ないというてもよいくらいである。これは早くより西洋では、用いられて居った手段であるが、しかし昔の写生は不完全な写生であったために、この頃は更に進歩して一層精密な手段を取るようになって居る。しかるに日本では昔から写生ということを甚だおろそかに見て居ったために、画の発達を妨げ、また文章も歌もすべてのことが皆な進歩しなかったのである。それが習慣となって今日でもまだ写生の味を知らない人が十中の八、九である。画の上にも詩歌の上にも、理想ということを称える人が少くないが、それらは写生の味を知らない人であって、写生ということを非常に浅薄なこととして排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であって、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬことである。理想の作が必ず悪いというわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いというのが事実である。理想ということは人間の考えを表すのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬようになるのは必然である。もとより子供に見せる時、無学なる人に見せる時、初心なる人に見せる時などには、理想ということがその人を感ぜしめることがないことはないが、ほぼ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非常なる偉人の変った理想でなければ、到底その人を満足せしめることは出来ないであろう。これは今日以後のごとく教育の普及した時世には免れないことである。これに反して写生ということは、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけそれだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、ちょっと浅薄のように見えても、深く味えば味わうほど変化が多く趣味が深い。写生の弊害を言えば、もちろんいろいろの弊害もあるであろうけれど、今日実際に当てはめてみても、理想の弊害ほど甚だしくないように思う。理想というやつは一呼吸に屋根の上に飛び上がろうとしてかえって池の中に落ち込むようなことが多い。写生は平淡である代りに、さる仕損いはないのである。そうして平淡の中に至味を寓するものに至っては、その妙実に言うべからざるものがある。 (六月二十六日)


四十六 

○ある人のいうところに依ると九段の靖国神社の庭園は社殿に向って右の方が西洋風を模したので檜葉の木があるいは丸くあるいは鋒なりに摘み入れて下は奇麗な芝生になって居る。左側の万は支那風を模したので桐や竹が植えてある。後側は日本固有の造り庭で泉水や築山が拵えてある。こういう風に庭園を比較したとはいうものの甚だ区域が狭いので充分にその特色を発揮することが出来て居らぬ。そこでこの庭園についても人々によって種々の変った意見を持て居って、これが神社である以上は神々しき感じを起させるために社殿の周囲に沢山の大木を植えねばならぬなどという人もある。けれどもそれは昔風の考えであって神社であるから必ずしも大木がなければならぬということはない。二十年ほど前に余が始めて東京へ来て靖国神社を一見した時の感じを思い起してみると、ほかの物は少しも眼に人らないで、奇麗なる芝生の上に檜葉の木が奇麗に植えられておるということがいかにも愉快な感じがしてたまらなかったのである。もちろんそれは子供の時の幼稚な考えから来たことではあるけれども、しかし世の中の人は幼稚な感じを持って居る方が八、九分を占めて居るのであるから、今でも昔の余と同じようにこの西洋風の庭を愉快に感ずる人がきっと多いであろうと思う。それゆえにもし靖国神社の庭園を造り変えるということがあったら、いっそ西洋風に造り変えたら善かろう。まん丸な木や、円錐形の木や、三角の芝生や、五角の花畑などが幾何学的に井然として居るのは、子供にも俗人にも西洋好きのハイカラ連にも必ず受けるであろう。



もとより造り様さえ旨くすれば実際美学上から割り出した一種の趣味ある庭園ともなるのである。東京人の癖として、公園は上野のようなのに限るという人が多いけれども、必ずしも上野が公園の模範とすべきものであるとは定められない。日比谷の公園なども広い芝生を造って広っぱ的公園としても善いではないか。むやみやたらに木ばかり植えてちょっと散歩するにも鼻を衝くような窮屈な感じをさせるが公園の目的でもあるまい。 (六月二十七日)      


四十七

〇この頃『ホトトギス』などへ載せてある写生的の小品文を見るに、今少し精密に叙したらよかろうと思うところをさらさらと書き流してしもうたために興味索然としたのが多いように思う。目的がそのことを写すにある以上は仮令うるさいまでも精密にかかねば、読者には合点が行きがたい。実地に臨んだ自分には、こんなことは書かいでもよかろうと思うことが多いけれど、それをほかの人に見せると、そこを略したために、意味が通ぜぬようなことはいくらもある。人に見せるために書く文章ならば、どこまでも人にわかるように書かなくてはならぬことはいうまでもない。あるいはあまり文章が長くなることを憂えて短くするとならば、それはほかのところをいくらでも端折って書くはよいが、肝心な目的物を写すところはどこまでも精密にかかねば面白くない。そうしてまたその目的物を写すのには、自分の経験をそのまま客観的に写さなければならぬということも前にしばしば論じたことがある。しかるに写生的に書こうと思いながらかえって概念的の記事文を書く人がある。これはむろん面白くない。例を言えば米国にある支那飯屋というのを書くつもりならば、自分がその支那飯屋へ往た時の有様をなるべく精密に書けば、それでよいのである。しかるにその方は精密に書かずにかえって支那飯屋はどういう性質のものであるというような概念的の記事を長々と書くのは雑報としてはよいけれども、美文としては少しも面白くない。まだ雑報と美文の区別を知らない人が大変多いようである。同雑誌の一日記事のごときもただ簡単に過ぎて何の面白味もないのが多いように見える。これは今少し思いきって精密に書いたならば多少面白くなるだろうと思う。 (六月二十八日)      


四十八

〇この頃売り出した双眼写真というのがある、これは眼鏡が二つあってその二つの眼鏡を両眼にあてて見るようになって居る。眼鏡の向うには写真を挿むようになって居って、その写真は同じようなのが二枚並べて貼ってある。これはちょっと見ると同じ写真のようであるがその実少し違うて居る。一つの写真は右の眼で見たように写し、他の写真は同じ位置に居って同じ場所を左の眼で見たように写してあるのである。それを眼鏡にかけて見ると、二つの写真が一つに見えて、しかもすべての物が平面的でなく、立体的に見える。そこに森の中の小径があればその小径が実物のごとく、奥深く歩いてゆかれそうに見える。そこに石があればその石が一々に丸く見える。器械は簡単であるがちょっと興味のあるもので、大人でも子供でもこれを見出すと、そこにあるだけの写真を見てしまわねば止めぬというようなことになる。遊び道具としては、まことに面白いものであると思う。しかしこの写真を見るのに、二つの写真が一つに見えて、平面の景色が立体に見えるのには、少し伎倆を要する。人によるとすぐにその見ようを覚る人もあるし人によると幾度見ても立体的に見得ぬ人がある。この双眼写真を得てから、それを見舞に来る人ごとに見せて試みたが、眼力の確な人には早く見えて、眼力の弱い人すなわち近眼の人には、よほど見えにくいということがわかった。これによって予は悟るところがあったが、近眼の人はどうかすると物のさとりのわるいことがある、いわば常識に欠けて居るというようなことがある。その原因を何であるとも気がつかずに居たが、それは近眼であるためであった。近眼の人は遠方が見えぬこと、すべての物が明瞭に見えぬこと、これだけでも普通の健全なる眼を持って居る人に比するとすでに半分の知識を失うて居る。まして近眼者は物を見ることを五月蝿がるような傾向が生じて来ては、どうしても知識を得る機会が少くなる。近眼の人にして普通の人と同じように知識を持って居る人もないではないが、そういう人は非常な苦心と労力をもって、その知識を得るのであるから、同じ学問をしても人よりは二倍三倍の骨折りをして居るのである。人間の知識の八、九分は皆視官から得るのであると思うと眼の悪い人はよほど不幸な人である。 (六月二十九日)      


四十九

〇英雄には髀肉の嘆(ひにくのたん)ということがある。文人には筆硯生塵(ひっけんちりをしょうず)ということがある。余もこの頃「錐錆を生ず」という嘆を起した。この錐というのは千枚通しの手丈夫な錐であって、これを買うてから十年余りになるであろう。これは俳句分類という書物の編纂をして居た時に常に使うて居たものでその頃は毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、その書中に綴込まぬことはなかったのである。それゆえ錐が鋭利というわけではないけれど、錐の外面は常に光を放って極めて滑らかであった。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日ふと手に取って見たところが、全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すのにも錆のために妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまって居るのである。「錐に錆を生ず」 という嘆を起さざるを得ない。 (六月三十日)      


五十

〇肺を病むものは肺の圧迫せられることを恐れるので、広い海を見渡すとまことに晴れ晴れといい心持がするが、千仞の断崖に囲まれたような山中の陰気な処にはとても長くは住んで居られない。四方の山に胸が圧せられて呼吸が苦しくなるように思うためである。それだから蒸気船の下等室に閉じ込められて遠洋を航海することは極めて不愉快に感ずる。住居の上についてもあまり狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのはことに窮屈に思われる。蕪村の句に    

屋根低き宿うれしさよ冬籠

という句があるのを見ると、蕪村は吾々とちごうて肺の丈夫な人であったと想像せられる。この頃のようにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐って居ても非常に息苦しく感ずるので、客が来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方に坐って貰うようにする。そのほかランプでも盆栽でも眼の正面一間くらいな間を遠ざけて置いて貰う。それはあまりひどいと思う人があるだろうが理屈から考えても分ることである。人の眼障りになるというのは誰でも眼の高さと同じくらいなものか、またはそれよりも高いものかがわが前にある時にうるさく感ずるのである。それであるから病人のごとくいつも横にねて居るものには眼の高さといってもわずかに五寸ないし一尺くらいなものである。今病人の眼の前三尺の処に高さ一尺の火鉢が置いてあるとすると、それは坐って居る人の眼の前三尺の処におよそ三、四尺の高さの火鉢が置いてあるのと同じ割合になる。この場合には坐って居る人でも多少の窮屈を感ずるであろう。まして病人のごとく身体も動かず、手足も働かずいかなる危険があってもそれを手足で防ぐとか身を動かして逃げるとかすることの出来ないものはたださえ危険を感じるのであるから、その上に呼吸器の弱いものは非常な圧迫を感じて、精神も呼吸も同時に苦しくなることは当り前のことである。その点からいうと寝床を高くしておけば善い訳であるが、それにはまた色々な故障があって余らのごときは普通の寝台の上に寝ることを許されぬからこまる。なぜ寝台が悪いかというと寝台の幅の狭いのも一つの故障である。寝台は腰のところで尻が落ち込んで身動きの困難なのも一つの故障である。病気になるとつまらないことに苦まねばならぬ。 (七月一日)


五十一

〇拝復。盆栽の写真十八枚御贈り下され有り難く存じ奉り候。盆栽のことは吾々何も存ぜず候えども、定めて日々の御手入も一方ならざることと存じ候。盆栽の並べかたについては必ず三鉢を三段に配置しあり候ところ、定めて天地人とでも申す位置の取りかたにこれあるべく、作法もむつかしきことと存じ候。しかしながら小生のごとき素人目より見候えば、三段の並べかたももちろん面白く候えども、さりとてことごとく同じような配置法を取り候ては変化に乏しく多くの写真を見もて行くほどに、あるいは前に見たると同じ写真に非ずやと疑わるることもこれあり候。そは畢竟あまり同一趣味に偏し居り候ためと存じ候。配置法と申してもただ面白く配置すればよきことと存じ候えは、あるいは一鉢ばかり写してよきこともこれあるべく、あるいは二鉢写したるもよかるべく、また時によりては四鉢五鉢六鉢等沢山に並べて面白さこともあるべくと存じ候、また高低の具合も御写真にあるように一定の規則に従うにも及び申まじく、あるいは同じ高さに並べて面白きこともあるべく、あるいはわずかばかりの高低の度に配置して面白きこともあるべく、あるいは一は非常に高く一は非常に低く配置して面白きもあるべく候。また盆栽の大きさについても御培養の物は同一大のが多きように見受け申し候。今少し突飛的に大きなる物も交り居らばかえって興味を添うる場合多かるべく候。また鉢についても必ずしもよき鉢には限り申まじく、あるいは瓦鉢あるいは摺鉢その他古桶などを利用致したるも雅味深かるべく候。ただし画をかきある鉢はいかなる場合にも宜しからずと存じ候。また鉢を置くべき台につきても、紫檀、黒檀の上等なる台のみには限るまじく、これも粗末なる杉板の台にてもよく、または有合せのガラクタ道具を利用したるもよく、または天然の木の根、石ころなどの上に据えたるも面白き場合多かるべく候。また盆栽を飾りたる場所も必ずしも後ろに屏風を立てて盆栽ばかり見ゆるように置きたるにも限り申まじく、あるいは床の間に飾りたるところを写し、あるいは机の上に置きたるところを写し、あるいは手水鉢の側に置きたるところをも写し、あるいは盆栽棚に並べたるところをも写し、あるいは種々の道具に配合したるところをも写し、色々に写しようはこれあるべくと存じ候。もちろん何を配合するにも配合上の調和を欠き候ては宜しからず、この木はこの鉢に適するとか、この盆栽とかの盆栽と並べ置くに適するとか、あるいはこの盆栽はどの台へ適するとか、どの場所に適するとか、それぞれ適当なる配合を得るように考えしかる後に千変万化を尽さば興味限りなかるべくと存じ候。活花にても遠州流など申して、一定の法則を墨守致し候もこれあり候えども、これ恐らくは小堀遠州の本意にはあるまじく、要するに趣味は規則をはずれて千変万化するところにこれあるべく候。したがって盆栽になすべき草木その物についても必ずしも普通の松、楓などには限るまじく、何の木何の草にても面白くすれば面白くなるべくと存じ候。御写真の趣にては、葉のある樹に限りたるように見受け申し候。これもあまり狭さには過ぎずやと存じ候。木には限らず草も面白かるべく、また花の咲く物もそれぞれ面白かるべくと存じ候。右御礼かたがた愚意大略申し述べ候。失礼の段御容赦下さるべく候。頓首。 (七月二日)


五十二

〇日本の芝居ばかり見ている人が西洋の芝居の話などを聞いてその仕組の違うのに驚くことがある。例をいえば、西洋の芝居にはチョボ地の文を義太夫節で語ること)がない、花道がない、廻り舞台がない、などいうことが、不思議に思われることがある。ある方が不思議か、ない方が不思議か、それは考えてみたらはわかることであるけれど、日本の芝居ばかり見て居る間は何も考えないで、チョボも廻り舞台も花道も皆芝居には最も必要なもので極めて当然なもののごとく思うて居るのである。さてこれらの日本芝居に限られたる特色はどうして出て来たか、というと、それは大概能楽から出て来て居るのである。能楽と芝居との関係は知って居る人にはわかりきって居ることであるが、どうかすると芝居のことばかり心得てその能楽との関係に少しも注意せぬ人がある。今試に両者の類似点、すなわち芝居がどれだけ能楽の仕組みに倣うているかということを挙げてみると 

第一、舞台の構造について見ても、芝居の花道は能の橋がかりから来て居ることはいうまでもない。ただ花道は舞台の前へ、すなわち見物の座の中へ突き出て居るのと、橋がかりは能舞台の横の方へ斜に出て居るとの違いである。芝居の上手下手の入口は能楽の切戸(臆病口ともいう)に似て更に数を増して居る。芝居の引幕は能の揚げ幕とは趣きを異にして居るようではあるが、しかし元はやはり揚幕から出た考えであろうと思う。チョボ語りの位置は地謡の位置とともに舞台に向うて右側の方にある。

第二に楽器の関係についても能にも芝居にも囃方というものがある。その楽器は両者の間に著しい差違があるが、しかし能に用いらるる笛、鼓、太鼓は芝居にも用いられて居る。ただ能では鼓をおもに用いる代りに、芝居では三味線をおもに用いる。芝居で長唄、常磐津などの連中が舞台方に並んでいわゆる出語りなるものを遣ることがあるが、それは能の囃し方や地謡の舞台に並んで居るのと同じ趣である。 

第三に脚本の上についていうと、能では詞よりもむしろ節の部分が多くて、その節の部分は地と地でないのとの二種類になって居る。芝居は詞が主になって居るけれどもやはり節の部分も少なくはない。そうして節の部分は必ずチョボで語ることになっては居るが、その文句の性質からいうとやはり能のごとく地に属すべきものと、そうでないものとの二つがある。地でない部分といえば、役者の自らいうべき詞に節付けをしたもので、能では役者がその節を自ら謡う、否ある時は地に属すべき分までも謡うことがあるが芝居では役者が謡うということはない。チョボ語りが必ず役者に代って謡うことになって居る。それから能には番ごとの間に必ず狂言を加えることになって居る。芝居に中幕とか付け物とかいうことがあるのはいくらか能に狂言の加わって居るところから思い付いたのではあるまいか。また能は大概一日に五番と極まって居るが近松あたりの作に五段物が多いのは能の五番から来たのではあるまいか。また脚本の性質についていうても、能には真面目なものばかりがあって滑稽な趣向は一つもない。滑稽の部分はただ狂言にのみ任せてある。芝居にてもやはり真面目な趣向のものが多くて特に滑稽劇というべきものは極めて少ない。ただ真面目な趣向のところどころにいわゆる道化または茶利なるものを挿むくらいである。 

その他能楽の始に翁を演ずるに倣いて芝居にても幕初めに三番叟を演ずるがごとき、あるいは能楽を多少変改して芝居に演ずるがごとき、あるいは芝居の術語の多く能の術語より出でたるがごとき、これらは類似というよりもむしろ能楽そのものを芝居に取りたるものゆえその似て居ることは誰も知って居ることで今更いうまでもない。なおこのほかにごく些細な部分の類似は非常に多いであろう。 

芝居の廻り舞台については別段に能楽から出たと思う点はないようである。これは全く芝居の発明というて善かろう。 

芝居の早変りということはいくらか能の道成寺などから思いついたかも知らぬが、しかしこれもまず芝居の発明というて善かろう。 (七月三日)      


五十三

〇川村文鳳の書いた画本は『文鳳画譜』というのが三冊と、『文鳳麁画』というのが一冊ある。そのうちで『文鳳画譜』の第二編はまだ見たことがないがいずれも前にいうた『手競画譜』のごとき大作ではない。しかし別に趣向のないような簡単な絵のうちにも、自ずから趣向もあり、趣味も現われて居る。『文鳳麁画』というのは極めて略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見るとほとんど人間社会の有様を一目に見尽すかと思うくらいである。華山の『一掃百態』 はその筆勢のたくましさことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくずれぬところとは、天下独歩というてもよいが、しかし『文鳳麁画』 に比すると、数において少なきのみならず趣味においてもいくらか乏しいところが見える。ただ文鳳の大幅を見たことがないので、大幅の伎倆を知ることが出来ぬのは残念である。○尾張の月樵は、文鳳に匹敵すべき画家である。その『不形画薮』というのを見ると実にうまいもので、趣向は文鳳のように複雑した趣向を取らないでかえってごく些細のところを捉まえどころとし、そうして筆勢の上については文鳳のごとく手荒く書きとばす方ではなく、むしろ極めて手ぎわよく書いてのけるところに真似の出来ぬ伎倆を示して居る。このほかに何とかいう粗画の本で、拙ない俳句の賛があるのは悪かったが、その粗画は沢山あるがことごとく月樵の筆であって、しかも一々見てゆくと、一々にうまい趣向のある本を、ある人に見せられたことがある。それは端本であったようだが、そんな本が未だほかにあるならば見たいと思うけれど、誰に聞いても持って居る人がないのは遺憾である。この人の大幅というでもないが、半切物を二つ三つ見たことがある。一つは鶴に竹の画で別に珍しい趣向ではないがその形の面白いことは、とても他人の及ぶところではない。今一つは寒菊の画でこれは寒菊の一かたまりが、縄によって束ねられたところで、画としては簡単な淋しい画であるが、その寒菊が少し傾いて縄にもたれて居る工合は、極めて微妙なところに趣向を取って居る。そのほか賀知章の画を見たことがあるが、それも尋常でないということで不折は誉めて居った。けれども人物画は少し劣るかと思われる。とにかく月樵ほどの画かきはあまり類がないのであるのに、世の中の人に知られないのは極めて不幸な人である。また世の中に画を見る人が少ないのにも驚く。 (七月四日)    


五十四

〇近刊の『ホトトギス』第五巻第九号の募集俳句を見るに、鳴雪、碧梧桐、虚子ともに選びしうちに    

着つつなれし菖蒲重や都人  朧月堂

とある。着つつなれし菖蒲重とはいかが。菖蒲重というは、端午の節句に着る着物なるべければ着つつなれしというわけはないはずである。着つつなれしといえばむろんふだん着か旅衣かの類で長く着て居るものでなければなるまい。同じ部に    

枇杷の木に夏の日永き田舎かな   太虚

とある。この枇杷の木には実のなり居るや否やそこが不審である。もし実のなって居る枇杷の木とすれば、ここの景色は枇杷の木に奪われてしまうわけになる。もし夏の日の永き田舎の無聊なる様を言わんとならば実のない枇杷の木でなくては趣きが写らぬ。しかし夏の枇杷であれば実のないとも限らぬ。そこが不審なところである。鳴雪選三座の句に    

上京や松に水打つ公家屋敷   井々

とある。この句において作者の位置がわからぬ。上京やという五字も浮いて聞える。公家屋敷の外から見た景色とすればよいけれど、それでは松に水打つところが見えぬであろう。碧梧桐選三座の句に    

鄙振や蓼を刻みて鮓の中に   梅影 

鮓の中にというはことさらに聞える。中にということが散らし鮓の飯の間から少し蓼の葉が見えて居ることだという選者の説明であるが、まさかそうはとれまい。虚子選三座の句に    

院々の高き若葉や京の月   石泉

とある。院々というのは叡山か三井寺かのような感じがするけれど、それでは京の月というのに当てはまらぬ。あるいは知恩院あたりの景色でもいうのであろうか。高き若葉というのは若葉の木が高いのか、あるいは土地が高みにあるので若葉まで高く見えるという意味か明瞭でない。鳴雪選者吟のうちに    

時烏鳴くやお留守の西の京    

麦寒き畑も右京の太夫かな    

筍や京から掘るは京の薮

とあるのは面白そうな句であるが、いずれも意味がわからぬ。碧梧桐選者吟のうちに

      江戸役者を団扇と謗り京扇

とある。これも解しがたい句じゃ。 (七月五日)


五十五

〇鉄砲は嫌いであるが、猟はすきである。魚釣りなどは子供の時からすきで、今でもどうかして釣りに行くことが出来たら、どんなに愉快であろうかと思う。それを世の中の坊さん達が殺生は残酷だとか無慈悲だとか言って、一概に悪くいうのはどういうものであろうか。もちろん坊さんの身分として殺生戒を保って居るのはまことに殊勝なことでそれはさもあるべきことと思うけれど、俗人に向って魚釣りをさえ禁じさせようとするのは、あまり備わるを求め過ぐるわけではあるまいか。魚を釣るということは多少残酷なこととしても、魚を釣って居る間はほかに何らの邪念だも貯えて居ないところが子供らしくて愛すべきところである。その上に我々の習慣上魚を釣ることはさまで残酷と感ぜぬ。これよりも残酷なこと、これよりも邪気の多いことは世の中にどれだけあるかわからん。鳥獣魚類のことはさておき、同じ仲間の人間に向ってさえ、随分残酷な仕打ちをする者は決して少くない。殺生戒などと殊勝にやってる坊さん達の中にも、その同胞に対する仕打ちに多少の残酷なことも不親切なこともやる人が必ずあるであろうと思う。これというほどのひどいことでなくても人間同士の交際の上にごく些細な欠点があっても極めて不愉快に感ぜられるもので、それは生きた魚を殺すよりも遥に罪の深いような思いがする。予は俗人の殺生などは、むしろ害の少ない楽みであると思うて居る。 (七月六日)


五十六

〇酒は男の飲むものになって居って女で酒を飲むものは極めて少ない。これは生理上男の好くわけがあるであろうか、あるいは単に習慣上しからしむるのであろうか。むしろ後者であろうと信ずる。 

女は一般に南瓜、薩摩芋、人参などを好む。男は特にこれを嫌うという者も沢山ないにしてもとにかく女ほどに好まぬ者が多い。これはいかなる原因に基くであろうか。 

男でも南瓜、薩摩芋等の甘さを嫌うは酒を飲む者に多く、酒を飲まぬ男はこれに反して南瓜などを好んで食う傾向があるかと思われる。してみると女の南瓜などを好むのは酒を飲まぬためであって、男のこれを好むことが女のごとくないのは酒を飲むがためではあるまいか。酒は酢の物のごとき類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくいことは一般に知って居るところである。南瓜、薩摩芋、人参などは野菜中の最も甘味多きものであるので酒とは調和しにくいのであろう。酒飲みでも一旦酒を廃すると汁粉党に変ることがある。してみると女は酒を飲まぬがために南瓜などを好むのに違いない。 (七月七日)      


五十七

〇画賛ということは支那に始まって、日本に伝わったことと思われるが、恐くは支那でも近世に起ったことであろう。日本でも支那画をまねたものには、画賛すなわち詩を書いたものがあるが、多くは贅物と思われる。山水などの完全したる画には何も文字などは書かぬ方が善いので、完全した上に更に蛇足の画賛を添えるのが心得ぬことである。しかし人の肖像などを画がきたるものには賛があるのが面白い場合がある。それは人物独りでは画として不完全に考えられることもあるので画賛をもってその不足を補うのである。いわゆる俳画などという粗画に俳句の賛を書くのは、山水などの場合と違うて、面白きものが多い。粗画にても趣向の完全したるものには、画賛は蛇足であるが画だけでは何だか物足らぬというような場合に俳句の賛を書いて、その趣味の不足を補うことは悪いことではない。それゆえにある画に賛をする時にはその賛とその画と重複しては面白くない。例えば狐が公達に化けて居る画が画いてある上に 

公達に狐化けたり宵の春

と賛したのでは、画も賛も同じことになるので、少しも賛をしただけの妙はない。祀園の夜桜というような景色を書いた粗画の上に、前にいうた「公達に狐化けたり」 の句を賛として書くなればそれは面白いであろう。蛙が柳に飛びつこうとして誤って落ちたところを画いた画に、也有は    

見付けたりかはづに臍のなき事を

という賛をした。これは蛙ということは重複して居るけれども、臍のないと特に主観的にいうたところは、この画を見たばかりでは、思い付くべきことでない、一種の滑稽的趣向を作者が考え出したのであるから、これは賛として差支えがない。ただ葵の花ばかり画いた上へ普通の葵の句を画賛として書いたところで重複という訳でもあるまいがしかしこういう場合には葵の句を書かずに、同じ趣きの他の句を書くのも面白いであろう。それは葵の花の咲いて居りそうな場所をあらわした句とか、または葵の花の咲いて居る時候をあらわした句とか、または葵の花より連想の起るべき他の句とか、そういうものを画賛として書くのである。も一つ例を挙げていうならば団扇の画に蛍の句を書くとか、蛍の画に団扇の句を書くとか、もしまた団扇と蛍とともに書いてある画ならば、涼しさやとか、夕涼みとかいうような句を賛する。要するに画ばかりでも不完全、句ばかりでも不完全という場合に画と句を併せて、始めて完全するようにするのが画賛の本意である。歌を画賛にする場合も俳句と違うたことはない。 (七月八日)


五十八

〇自分の団扇ときめて毎日手に持って居るごく下等な団扇が一つある。この団扇の画は浮世絵で浅草の凌雲閣が書いてあるので、もちろん見るに足らぬものとしてよく見たこともなかった。ある時何とはなしにこの団扇の絵をつくづくと見たところが非常に驚いた。凌雲閣はとても絵になるべきものとは思われんのであるが、この団扇の絵は不思議に妙なところをつかまえて居る。それは凌雲閣を少し横へ寄せて団扇いっぱいの高さに画いて、そうしてこのひょろひょろ高い建築と直角に帯のような海を画いて、その地平線が八階目の処を横切って居る。下の方は少しばかり森のようなものを凌雲閣の麓に画いて、その上の処の霧も地平線に併行して横に引いてある。これはやや高き空中から見たような画きようである。そうして片隅のそらに馬鹿に大きな三日月が書いてある。こんな大きな三日月はないわけであるが、これも凌雲閣という突飛な建物に対して、この大きさでなくては釣合ぬからこう画いたのである。面白い絵ではないけれども、凌雲閣を材料として無理に絵を画くならば、まずこんな趣向よりほかに画きようはないであろう。つまりこの絵の趣向は竪に長い建築物に対して、真横に地平線と靄とを引いたところにあるのである。玉英と署名してあるが、あまり聞いた名でないけれども、もしこれが多少の考があって画いた絵とすれば、ほかの日本画の大家先生達はなかなかにこれほどにも出来ないであろうと思う。この団扇の裏を見ると、裏には柳の枝が五、六本上からしだれて萌黄色の芽をふいて居る、その柳の枝の間から桜の花がひらひらと散って少し下に溜って居るところが画いてある。これだけの簡単な画であるがよほど面白い趣向だ。落花を書いておきながら桜の樹を書かずかえって柳をあいしろうたところは凡手段でない。大家先生の大作の写真などを時々見るが、とてもこれほどの善い感じは起らない。ことにこれがごく下等な団扇であるだけにかえって興が深いので、何だか拾い物でもしたような心地がする。 (七月九日)      


五十九

〇今日人と話し合いし事々


巴 旦 杏 ( ア ー モ ン ド )


一、徳川時代の儒者にて見識の高さは蕃山、白石、徂徠の三人を推す。徂徠が見解は聖人を神様に立てて全く絶対的の者とする。宋儒のごとき心を明にするとか、身を修めるとかいうような工夫も全くこれを否認し、ただ聖人の道を行えばそれで善いというところはよほど豁達な大見識で、丁度真宗が阿弥陀様を絶対と立てて、すべてあなた任せの他力信心で遣って行くのと善く似て居る。もっとも徂徠の説は、吾々は到底聖人にはなれぬ、いかに心の工夫しても吾々の気質が変って聖人になるということは断じてない、というのであるから、そこのところは仏教の即身即仏というのとは少し違うては居るように見えるが、しかし徂徠のいうところは吾々は聖人にはなれぬけれども、聖人の道をそのまま行いさえすれば聖人になったも同じことであるというのだから、やはり即身即仏説と同じような結果になるのである。彼があながちに仏教を排斥せずして、人民は仏教を信じていても差支えない、吾々は聖人の道を行えばそれで沢山である、などと説くところは実に心持の善い論で、とても韓退之などの夢にも考えつくところではない。ただ惜いことには今一歩というところまで来て居ながら到頭輪の内を脱けることが出来なかったのは時代のしからしむるところで仕方がない。もし彼が明治の世に生れたならばどんな大きな人間になったろうかといつも思わぬことはない。一、生活の必要は人間を働かしめる。生活の必要が大になればなるほど労働もまた大にならねばならぬ。しかし人間の労働には限りがあるばかりでなく、労働に対する報酬にもまた限りがある。それゆえに人によると、いくら働いても生活の必要に応ずることが出来ない場合がある。ここに漢学者があった。その学者は死んでしもうてその遺産の少しばかりあったのを三、四人の兄弟に分配した。その時はそれで善かったが、だんだんその子が年を取って、女房を要る、子が出来る、それも子一人くらいの時はまだ善かったが、だんだん殖えて来て三人も四人もとなった。上の子二人は小学校へも行くという年になった。父親は小学校の教員を勤めて十円か十一円の月給を取って居る。二十年一日のごとく働いて居るが月給も二十年居坐りである。さあどうしても食えないということになったところで、どうしたら善かろうか、これが問題なのである。まことに正直で、まことに勉強で、親譲りの漢学の素養があって、まことに貴ぶべき人であるけれど、ただ世の中にうといためにほかに職業の更えようもない。月給十一円で家内六人、これはどうしたら善かろうか、願わくは経済学者の説を聞きたい。

一、名古屋の料理通に聞くと、東京の料理は甘過ぎるという。もっとも東京の料理屋に遣うのと名古屋の料理屋に遣うのと、醤油がまるで違っているそうな。一、茶の会席料理は皆食い尽くすように拵えたもので、その代り分量がごく少くしてある。これは興味のあることである。しかるに料理屋にあつらえると、金銭の点からどうしても分量を多くして食い尽くすことが出来難いのは遺憾である。

一、能楽界の内幕はかなり複雑して居って表面からは充分にわからぬが、要するに上掛りと下掛りとの軋轢が根本的の軋轢であるらしい。

一、   高等学校生某曰、私は今度の試験に落第しましたから、当分の内発句も謡も碁も止めました。

一、今度大学の土木課を卒業した工学士の内五人だけ米国の会社に雇われて漢口へ鉄道敷きに行くそうな。世界は広い。これから後は日本などでこせこせと仕事して居るのは馬鹿をみるようになるであろう。 (七月十日)


六十

〇根岸近況数件

一、   田圃に建家の殖えたること

一、   三島神社修繕落成、石獅子用水桶新調のこと

一、   田圃の釣堀釣手少なく新鯉を入れぬこと

一、   笹の雪横町に美しき氷店出来のこと 

一、   某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりしこと

一、   ほととぎす例によってしばしば音をもらし、梟いずくに去りしかこの頃鳴かずなりしこと

一、   丹後守殿店先に赤提灯、廻灯籠多く並べたること

一、   御行松のほとり御手軽御料理屋出来のこと

一、 飽翁、藻洲、種竹、湖邨等の諸氏去りて、碧梧桐、鼠骨、豹軒等の諸氏来りしこと

一、   美術床屋に煽風器を仕掛けしこと

一、   奈良物店に奈良団扇売出しのこと

一、   盗賊流行して碧桐の舎に靴を盗まれしこと

一、草庵の松葉菊、美人蕉等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざること

(七月十一日)


六十一

〇明和頃に始まったしまりのある俳句、すなわち天明調なるものは、天明とともに終りを告げて、寛政になると蘭更、白雄のごとき、半ばしまりて半ばしまらぬというような寛政調と変った。それが文化文政と進んで行くに従って、またさらに局面を変じて、三分しまって七分しまらぬ文化文政調となった。それが今一歩進んで、天保頃になると、総タルミの天保調、いわゆる月並調となってしもうた。文化文政の句は天明調と天保調の中間に居るだけに、その俳句が全くの月並調とならぬけれども、所々に月並調の分子を学んで居る。今ここに寛政の末頃であるか、諸国を行脚して俳人に句を書いて貰うたというその帳面を見るに

春の風磯の月夜は唯白し    

雉啼て静かに山の夕日かな

のごときがある。この「唯白し」とか「静かに」とかいう詞は、ここでは少しも月並臭気を帯びて居るとは言えないけれども、この詞の底がだんだんに現われて来ると、つづまるところ天保調が生れて来るのである。極端な月並調ばかりの句を見て居てかような句を不注意に見過す人が多いが、歴史的に見て行くと、天明調と天保調との中間にこういう調子の句が一時流行したということに気がつくであろう。また同じ帳面に    

居鷹の横雲に眼や時鳥

糠雨に身振ひするや原の雉子    

畑打のひまや桜の渡し守

などいう句はすでに月並調に落ちて居る。ただその落ちかたが浅いだけに月並宗匠に見せたらばこれらは可も不可もなき平凡の句として取るであろう。 (七月十二日) 


六十二

〇泥棒が阿弥陀様を念ずれば阿弥陀様は摂取不捨の誓によって往生させて下さること疑なしという。これ真宗の論なり。この間に善悪を論ぜざるところ宗教上の大度量を見る。しかも他宗の人はいう、泥棒の念仏にはなお不安の状態あるべしと。泥棒の信仰については仏教に限らず耶蘇教にもその例多し。彼らが精神の状態は果して安心の地にあるか、あるいは不安を免れざるか、心理学者の研究を要す。 (七月十三日)      


六十三

〇日本の美術は絵画のごときも模様的に傾いて居ながら純粋の模様として見るべきもののうちに幾何学的の直線または曲線を応用したるものが極めて少ない。絵画が模様的になって居るのみならず模様がまた絵画的になって居る。ことに後世に至るほどその傾向がはなはだしくなって純粋の模様を用いて善き場合にも波に千鳥とか鯉の滝上りとかそのほか模様的ならざる、むしろ絵画的の花鳥などを用いることが多い。たまたま卍つなぎとか巴とかの幾何学的模様があるけれどそれらは皆支那から来たのである。近頃鍬形憲斎の略画を見るにその幾何学的の直線を利用したものがいくらもある。たとえば二、三十人も一直線に並んで居るところを書くとか、または行列を縦から見て書くとかいうような類があって、日本絵の内ではよほど眼新らしく感ぜられるところがある。そのほか能楽の舞には直線的の部分が多い。これは支那から来た古い舞楽に直線的の部分が多いので能楽はあるいはその影響を受けて居るかも知れん。近来芸妓などのやる踊りなるものは半ば意味を含んだ挙動をやるために幾何学的のところが極めて少ない。日本人は西洋の舞踏の幾何学的なるを見て極めて無趣味なるものとして排斥する者が多いが、よし無趣味なりとしても日本の踊の不規則なる挙動の非常に厭味多く感ぜられるのには優って居るであろう。支那の演劇の時代物ともいうべきものには非常に幾何学的の挙動が多いので模様的に面白いところがあるが演劇としては幼稚なもののように見える。それに比すると日本の能楽は幾何学的にも偏せず、むしろ善く調和を得たるように思われる。 (七月十四日)


六十四

○七月十一日、晴。始めて蜩(ひぐらし)を聞く。

梅雨晴や蜩鳴くと書く日記

○七月十二日。晴。始めて蝉を聞く。

      蝉始めて鳴く鮠(はや)釣る頃の水絵空   (七月十五日)


          六十五

〇病気になってからすでに七年にもなるが、初めの中はさほど苦しいとも思わなかった。肉体的に苦痛を感ずることは病気の勢いによって時々起るが、それは苦痛の薄らぐとともに忘れたようになってしもうて、何も跡をとどめない。精神的に煩悶して気違いにでもなりたく思うようになったのは、去年からのことである。そうなるといよいよ本当の常病人になって、朝から晩まで誰か傍に居って看護をせねば暮せぬことになった。何も仕事などは出来なくなって、ただひた苦しみに苦しんで居ると、それから種々な問題が沸いて来る。死生の問題は大問題ではあるが、それはごく単純なことであるので、一旦あきらめてしまえばただちに解決されてしまう。それよりも直接に病人の苦楽に関係する問題は家庭の問題である、介抱の問題である。病気が苦しくなった時、または衰弱のために心細くなった時などは、看護のいかんが病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。ことにただ物淋しく心細きようの時には、傍の者が上手に看護してくれさえすれば、すなわち病人の気を迎えて巧みに慰めてくれさえすれば、病苦などはほとんど忘れてしまうのである。しかるにその看護の任に当る者、すなわち家族の女共が看護が下手であるというと、病人は腹立てたり、癇癪を起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬようになるので、普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添えるわけになる。我々の家では下婢も置かぬくらいのことで、まして看護婦などを雇うてはない、そこで家族の者が看病すると言っても、食事から掃除から洗濯から裁縫から、あらゆる家事を勤めた上の看病であるから、なかなか朝から晩まで病人の側に付ききりに付いて居るというわけにも行かぬ。そこで病人はいつも側に付いて居てくれという。家族の女共は家事があるからそうは出来ぬという。まず一つの争いが起る。また家族の者が病人の側に坐って居てくれても種々な工夫して病人を慰めることがなければ、病人はやはり無聊に堪えぬ。けれども家族の者にそれだけの工夫がない。そこでどうしたらばよかろうという問題がまた起って来る。我々の家族は生れてから田舎に生活した者であって、もちろん教育などは受けたことがない。いわゆる家庭の教育ということさえ受けなかったというてもよいのである。それでもお三どんの仕事をするようなことはむしろ得意であるから、平日はそれでよいとして別に備わるを求めなかったが、一朝一家の大事が起って、すなわち主人が病気になるというような場合になって来たところで、たちまち看護の必要が生じて来ても、その必要に応ずることが出来ないということがわかった。病人の看護と庭の掃除とどっちが急務であるかということさえ、無教育の家族にはわからんのである。まして病人の側に坐ってみたところでどうして病苦を慰めるかという工夫などはもとより出来るはずがない。何か話でもすればよいのであるが話すべき材料は何も持たぬからただ手持無沙汰で坐って居る。新聞を読ませようとしても、振り仮名のない新聞は読めぬ。振り仮名をたよりに読ませてみても、少し読むと全く読み飽いてしまう。ほとんど物の役に立たぬ女共である。ここにおいて始めて感じた、教育は女子に必要である。 (七月十六日)


六十六

〇女子の教育が病気の介抱に必要であるということになると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、そうではない、やはり普通学の教育をいうのである。女子に常識を持たせようというのである。高等小学の教育はいうまでもないことで、出来ることなら高等女学校くらいの程度の教育を施す必要があると思う。平和な時はどうかこうか済んで行くものであるが病人が出来たような場合にその病人をどう介抱するかということについて何らの知識もないようでははなはだ困る。女の務むべき家事は沢山あるが、病人が出来た暁にはその家事の内でも緩急を考えてまず急なものだけをやっておいて、急がないことは後廻しにするようにしなくては病人の介抱などは出来るはずがない。掃除ということは必要であるに相違ないが、うんうんと唸って居る病人を棄てておいて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それが女の義務を尽したというわけでもあるまい。場所によれば毎日の掃除を止めて二日に一度の掃除にしても善い、三日に一度の掃除にしても善い。二度焚く飯を一度に焚ておいてもよい。あるいは近処の飯屋から飯を取寄せてもよい。副食物もことごとく内で煮焚をしなくてはならぬということはない。これも近処にある店で買うて来てもよい。しかし病人の好む場合には特に内で煮焚きする必要が起ることもある。そういう場合にはなるべく注意して塩梅を旨くするとか、または病人の気短く請求する時はなるべく早く調製する必要も起って来る。たとえば病人が何々を食いたいという、しかも至急に食いたいという。けれども人手が少のうて、別に台所を働く者がない時には病人の傍で看病しながら食物を調理するという必要も起って来る。かようなことは格別むずかしいことでもないようであるが、実際これだけのことを遣ってのける女は存外少ないかと思われる。それはどういうわけであるかといえば、それを遣るだけの知識さえ欠乏して居る、すなわち常識が欠乏して居るのである。女のすることを見て居ると極めて平凡な仕事を遣って居るにかかわらず割合に長い時間を要するという者は、畢竟その遣り方に無駄が多いからである。一つのものを甲の場所から丁の場所へ移してしまえば善いのを、まず初に乙の場所に移し、再び丙の場所に移し、三度目にようよう丁の場所に移すというような余計の手数をかけるのが女の遣り方である。平生はこれでも善いが一旦急な場合にはとてもそんなことして居ては間に合うものではない。それくらいな工夫は常識がありさえすれば誰にでも出来ることである。その常識を養うには普通教育よりほかに方法はない。どうかすると女に学問させてそれが何の役に立つかというて質問する人があるが、何の役というても読んだ本がそのまま役に立つことは常にあるものではない、つまり常識を養いさえすれば、それで十分なのである。 (七月十七日)    


六十七

〇家庭の教育ということは、男子にももとより必要であるが、女子にはことに必要である。家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教えようと思わないことでも、子供はよく親の真似をして居ることが多い。そこで家庭の教育はその子供の品性を養うて行くのに必要であるが、また学校で教えないような形式的の教育も、ごく些細な部分は家庭で教えられるのである。例をいえば子供が他人に対して、辞誼をするということを初めとして、来客にはどういう風に応接すべきものであるかということなどは、親が教えてやらなくてはならぬ。ことに女子にとっては最も大切なる一家の家庭を司って、その上に一家の和楽を失わぬようにして行くことは、多くは母親の教育いかんによりて善くも悪くもなるのである。ところが今までの日本の習慣では、一家の和楽ということが甚だ乏しい。それは第一に一家の団欒ということの欠乏して居るのを見てもわかる。一家の団欒ということは、普通に食事の時を利用してやるのが簡便な法であるが、それさえも行われて居らぬ家庭が少なくはない。まず食事に一家の者が一所に集る。食事をしながら雑談もする。食事を終える。また雑談をする。これだけのことが出来れば家庭はいつまでも平和に、どこまでも愉快であるのである。これを従来の習慣によってせぬというと、その内の者、ことに女の子などは一家団欒して楽むべきものであるということを知らずに居る。そこで他家へ嫁入して後も、家庭の団欒などいうことをすることを知らないで、殺風景な生活をして居る者がある。甚だしいのは男の方で一家の団欒ということを、無理に遣らせてみても、一向に何らの興味を感ぜぬのさえある。かようなことでは一家の妻たる者の職分を尽したとはいわれない。それゆえに家庭教育の第一歩として、まず一家団欒して平和を楽むということぐらいから教えて行くのがよかろう。一家団欒ということはただに一家の者が、平和を楽むという効能があるばかりでなく、家庭の教育もまたこの際に多く施されるのである。一家が平和であれば、子供の性質も自ずから平和になる。父や母や兄や姉やなどの雑談が、有益なものであれば子供はそれを聴いてよき感化を受けるであろう。すでに雑談という上は、むずかしい道徳上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備えた人の談ならば、無駄話のうちにも必ずその高尚なところを現して居るので、これを聴いて居る子供は、自ずから高尚な風に感化せられる。この感化は別に教えるのでもなく、また教えられるとも思わないのであるが、その深く浸み込むことは学校の教育よりも、更に甚だしい。ゆえに家庭教育の価値はある場合において学校の教育よりも重いというても過言ではない。 (七月十八日)      


六十八

〇この頃の暑さにも堪えかねて風を起す機械を欲しと言えば、碧梧桐の自ら作りてわが寝床の上に吊りくれたる、仮にこれを名づけて風板という。夏の李にもやなるべき。    

風板引け鉢植の花散る程に 

先つ頃如水氏などの連中寄合いて、袴能を催しけるとかや。素顔に笠着たる姿など話に聞くもゆかしく

涼しさの皆いでたちや袴能

総選挙も間際になりて日ごとの新聞の記事さえ物騒がしく覚ゆるに   

鹿を逐ふ夏野の夢路草茂る  (七月十九日)


六十九

〇病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱というのは看護人が同情をもって病人を介抱することである。形式的の介抱というのは病人をうまく取扱うことで、例えば薬を飲ませるとか包帯を取替えるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の具合を善く直してやるとか、そのほか浣腸、沐浴は言うまでもなく、始終病人の身体の心持よきように傍から注意してやることである。食事の献立塩梅などをうまくして病人を喜ばせるなどはその中にも必要なる一カ条である。この二様の介抱の仕方が同時に得られるならば言分はないが、もしいずれか一つを択ぶということならばむしろ精神的同情のある方を必要とする。うまい飯を喰うことはもちろん必要であるけれども、その介抱人に同情がなかった時には甚だ不愉快に感ずる場合が多いであろう。介抱人に同情さえあれば少々物のやり方が悪くても腹の立つものでない。けれども同情的看護人は容易に得られぬものとすればもちろん形式的の看護人だけでもどれだけ病人を慰めるかわからぬ。世の中に沢山あるところのいわゆる看護婦なるものはこの形式的看護の一部分を行うものであって全部を行うものに至っては甚だ乏しいかと思われる。もちろん一人の病人に一人以上の看護婦がつききりになって居るときは形式的看護の全部を行うわけであるが、それもよほど気の利いた者でなくては病人の満足を得ることはむずかしい。看護婦として病院で修業することは医師の助手のごときものであって、ここにいわゆる病気の介抱とは大変に違うて居る。病人を介抱すると言うのは畢竟病人を慰めるのにほかならんのであるから、教えることも出来ないような極めて些末なることに気が利くようでなければならぬ。例えば病人に着せてある蒲団が少し顔へかかり過ぎていると思えばそれを引き下げてやる。蒲団が重たそうだと思えば軽い蒲団に替えてやるとかあるいは蒲団に紐をつけて上へ釣り上げるとかいうようなことをする。病人が自分を五月蝿がって居るようだと思えば少し次の間へでも行って隠れて居る。病人が人恋しそうに心細く感じて居るようだと思えば自分は寸時もその側を離れずに居る。あるいは他の人を呼んで来て静かに愉快に話などをする。あるいは病人の意外に出でて美しき花などを見せて喜ばせる、あるいは病人の意中を測って食いたそうなというものを旨くこしらえてやる。かような風に形式的看護と言うてもやはり病人の心持を推し量っての上で、これを慰めるような手段を取らねばならぬのであるから、看護人はまず第一に病人の性質とその癖とを知ることが必要である。けれどもこれは普通の看護婦では出来る者が少ないであろう。多くの場合においては母とか妻とか姉とか妹とか一家族に居って平生から病人の病癖の具合などを善く心得ている者の方が、うまく出来るはずである。うまく出来るはずであるけれども、それも実際の場合にはなかなか病人の思うようにはならんので、病人は困るのである。一家に病人が出来たというような場合は丁度一国に戦が起ったのと同じようなもので、平生から病気介抱の修業をさせるというわけに行かないのであるから、そこはその人の気の利き次第で看護の上手と下手とが分れるのである。 (七月二十日)


七十

〇梅に鶯、竹に雀、などいうように、柳に翡翠(かわせみ)という配合も略画などには陳腐になるほど書き古るされて居る。この頃画本を見るにつけてこの陳腐な配合の画をしばしば見ることであるが、それにもかかわらず美しいという感じが強く感ぜられていよいよ興味があるように覚えたので、柳に翡翠というのを題にして戯れに俳句十首を作ってみた。これは昨年の春、春水の鯉ということを題にして十句作ったことがあるのを思い出してまたやってみたのである。

翡翠の魚を覗ふ柳かな

翡翠をかくす柳の茂りかな

翡翠の来る柳を愛すかな

翡翠や池をめぐりて皆柳

翡翠の来ぬ日柳の嵐かな

翡翠も鷺も来て居る柳かな

柳伐つて翡翠終に来ずなりぬ

翡翠の足場を選ぶ柳かな

翡翠の去つて柳の夕日かな

翡翠の飛んでしまひし柳かな

春水の鯉は身動きもならぬほど言葉が詰まって居たが、柳に翡翠の方はややゆとりがある。従っていくらか趣向の変化を許すのである。しかしてその結果はというと翡翠の方が厭味の多いものが出来たようである。しかしこんな句の作り様は、一時の戯れに過ぎないようであるが、実際にやってみると句法の研究などには最も善さ手段であるということが分った。つまり俳句を作る時に配合の材料を得ても句法のいかんによって善い句にも悪い句にもなるということが、このやり方でやってみると十分にわかるように思うて面白い。 (七月二十一日)

      

七十一

〇近刊の雑誌『宝舟』 に   

甘酒屋打出の浜に卸しけり   青々

という句があるのを碧梧桐が賞讃して居った。そこで予がこれをつくづくと見ると非常に不審な点が多い。まず第一に「卸しけり」という詞の意味がわからんので、これを碧梧桐に質すと、それは甘酒の荷をおろしたというのであると説明があった。それが予にはわからんのでどうもこの詞でその意味を現わすことは無理であると思う。しかしながらこの句の句法に至っては碧梧桐、青々などのよく作るところで予は平生より頭ごなしに排斥してしまう方であったから、この機会を利用して、更に研究しようと思うたので、第一の疑問はしばらく解けたものとして、それから第二の疑問に移った。すなわち甘酒屋と初句をぶっつけに置いたところが不審な点である。すると碧梧桐の答えは、そこが尋常でないところであるというのであった。この答はかねて期するところで、一ひねりひねって句法を片輪に置いてあるために、予はどうしても俳句として採ることが出来ぬと思うような句をいつでも碧梧桐が採るということを知って居る。しかしこの青々の句は少し他と変って居るように思うたので、予は幾度も繰り返して考えてみた。そうするというと、打出の浜に甘酒屋が荷をおろしたという趣向には感が深いので、おろしけりの詞さえ仮に許してみれば、非常に面白い句でありそうにだんだん感じて来た。この話をしてから一夜二夜過ぎてまた考えてみると、このたびは前に感じたよりも更に善く感じて来た。甘酒屋と初めに据えたところを手柄であると思うようになった。甘酒屋と初めに置いたのは、丁度小説の主人公を定めたように、一句の主眼をまず定めたのである。仮にこれを演劇に譬えてみると今千両役者が甘酒の荷を担いで花道を出て来たというような有様であって、その主人公はこれからどうするか、その位置さえ末だ定まらずに居るところだ。それが打出の浜におろしけりという句でその位置が定まるので、演劇でいうと、本舞台の正面よりやや左手の松の木陰に荷を据えたというような趣になる。それから後の舞台はどう変って行くか、そんなことはここに論ずる必要はないが、とにかくおろしけりと位置を定めて一歩も動かぬところが手柄である。もし「おろしけり」の替りに「荷を卸す」というような結句を用いたならば、なお不定の姿があって少しも落着かぬ句となる。また打出の浜という語を先に置いてみると、すなわち「打出の浜に荷を卸しけり甘酒屋」というようにいうと、打出の浜の一小部分を現わすばかりでせっかく大きな景色を持って来ただけの妙味はなくなってしまう。そこでまず「甘酒屋」と初めに主人公を定め、次に「打出の浜に」とその場所を定め「おろしけり」という語でその場所における主人公の位置が定まるので、甘酒屋が大きな打出の浜一面を占領したような心持になる。そこが面白い。演劇ならばその甘酒屋に扮した千両役者が舞台全面を占領してしもうたような大きな愉快な心持になるのである。その心持を現わすのには、予が前に片輪だと言ったようなこの句法でなければ、しまつがつかぬということになって来る。そうなって来た序に、この「おろしけり」という詞もほかに言いようもなきゆえに仮にこれを許すとしてみると、この甘酒屋の句は、その趣味と言い、趣味の現わしかたと言い、古今に稀なる句であるとまで感ずるようになった。 (七月二十二日)    


七十二




〇先日『週報』募集の俳句の中に         

京極や夜店に出づる紙帳売

というが碧梧桐の選に入って居った。あまり平凡なる句を何ゆえに碧梧桐が選びしかと疑わるるのでよくよく考えてみた末全く中七字が尋常でないということが分った。普通には「夜店出したる」と置くべきを「夜店に出づる」としたところが変って居るのであった。「夜店出したる」といえばただ客観的に京極の夜店を見て紙帳売の出て居たことを傍から認めたまでであるが「夜店に出づる」といえばやや主観的に紙帳売の身の上に立ち入ってあたかも小説家が自家作中の主人公の身の上を叙するごとく、紙帳売のがわから立てた言葉になる。すなわち紙帳売になじみがあるような言いかたである。これを演劇にたとえていうならば、幕があくと京極の夜店の光景で、その中に紙帳売が一人居る、これは前の段にしばしば見てなじみになって居る菊五郎の紙帳売である、といったような趣になる。しかしこの句についてはなお研究を要する。 (七月二十三日)      


七十三

〇家庭の事務を減ずるために飯炊会社を興して飯を炊かすようにしたならば善かろうという人がある。それは善き考えである。飯を炊くために下女を置き竃を据えるなど無駄な費用と手数を要する。吾々のごとき下女を置かぬ家では家族の者が飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要するゆえに病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事が出来るというと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、出来そこなうようなことが起る。それゆえ飯炊会社というようなものがあって、それに引請けさせておいたならば、至極便利であろうと思うが、今日でも近所の食物屋に誂えれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取ることもあるが、やはり昔からの習慣は捨てがたいものとみえて、家族の女どもは、それを厭うてなるべく飯を炊くことをやる。ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少なくて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識のないためである。そんなことをする労力を省いて他の必要なることに向けるということを知らぬからである。必要なることはその家によって色々違うことはもちろんであるが、一例を言えば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、よほど飯はうまく喰える訳である。病人のある内ならば病床について居って面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方がよほど気が利いて居る。しかし日本の飯はその家によって堅きを好むとか柔かきを好むとか一様でないから、西洋のパンと同じ訳に行かぬところもあるが、そんなことはどうとも出来る。飯炊会社がかたき飯、柔かき飯、上等の飯、下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数の内などは内で炊くよりも、跳える方がかえって便利が多いであろう。 (七月二十四日)      


七十四

〇大阪は昔から商売の地であって文学の地でない。たまには蒹葭堂、無腸子のような篤志家も出なんだではないが、この地に帷を下した学者というても多くは他国から入りこんで来た者であった。俳人で大阪者といえば宗因、西鶴、来山、淡々、大江丸などであるがこのくらいでは三府の一たる大阪の産物としては、ちともの足らぬ気がする。蕪村を大阪とすればこれはまた頭抜けた大立者であるが当人は大阪を嫌うたか江戸と京で一生の大部分を送った。近時新派の俳句なるもの行わるるに至って青々のごとき真面目に俳句を研究する者が出たのも、大阪にとっては異数のように思われる。しかのみならず更に一団の少年俳家が多く出て俳句といい写実的小品文といい敏捷に軽妙に作りこなすところは天下敵無しという勢いで、何地より出る俳句雑誌にも必ず大阪人の文章俳句が跋扈して居るのを見るごとに大阪のためにその全盛を賀して居る。しかるにこの少年の一団を見渡すにいずれも皆才余りありて識足らずという欠点があっていかにも軽薄才子の態度を現して居る。その文章に現れたるところに因って察するに生意気、ハイカラ、軽躁浮薄、傍若無人、きいた風、半可通、等あらゆるこの種の形容詞を用いてもなお足らざるほどの厭味を備えて居って見る者をして嘔吐を催さしむるような挙動をやって居るらしいのは当人にとっても甚だ善くないことでこれがために折角発達しつつある才の進路を止めてしまうことになる、また大阪にとっても前古未曾有の盛運に向わんとするのをこれきりで挫折してしまうのは惜しいことではあるまいか。畢竟これを率いて行く先輩がないのと少年に学問含蓄がないのとに基因するのであろう。幾多の少年に勧告するところは、なるべく謙遜に奥ゆかしく、真面目に勉強せよということである。 (七月二十五日) 



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