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2004年10月22日
水道橋博士の「本、邪魔か?」(3)掟ポルシェ
『文筆業とは、分泌業である』
とは、中原昌也でなくとも、エロ本を主戦場とするライターなら一度は書いてしまう、ありがちなフレーズではあるが、チン汁をペンシルに、チン先をペン先に変え、自らの迸るリビドーを、妄想の趣くままに自慰行為のごとく吐き出す様は、あながち間違った例えではないはずだ。
そして、エロ本ライターとは、自らの、やるせない、モテない、恨み、ツラミを、“棒の哀しみ”に集約させる、短小、包茎の租チンの持ち主であり、その己の貧弱な陰茎に、復讐感情を抱いたルサン‘チン’マン、なのである。
そういう意味では、“怒れる説教マシーン”掟ポルシェは、今、最も乗っている、エロ本ライター、旬の「分泌家」であると言えよう。
俺が掟ポルシェと出会ったのは、2000年1月、一本の電話であった。
当時の俺のガールフレンドのMちゃんが、無類のサブカル大好きのフシギちゃんであり、ロマンポルシェも、いち早く贔屓にしていた。その説教バンドという芸風を聞いて、すっかり「お笑い」だと勘違いした俺は、当時、俺たちが主催していた、若手芸人の登竜門的ライブ、「浅草お兄さん会」への出演交渉の電話をかけたのであった。
しかし正直言って、その行動は、純粋に彼女へのご機嫌取り、実のところ、ロマンポルシェに興味はなかった。
それから2週間後、Mちゃんと、その友人で、パンクバンドをやっている女の子のTちゃんに誘われ、恵比寿のライブハウス「みるく」へと出かけた。
ライブハウスへ俺が出向くことも珍しいが、時間は、どういうわけか真昼間であり、客層も雑多にバラバラ、おまけにノリも悪かったが、聞いてみると、どうやら渋谷の美容師組合新年会イベントだったのだ。どおりでカリスマ美容師もどきの連中から、パーマ屋のおばちゃん風まで、幅広く年齢層が居るはずである。
そのなかで説教バンド・ロマンポルシェのステージは、しょぼくれた二人組みが登場し、ほとんどロック・バンドの演奏らしきものもなく、ボーカルの掟ポルシェは、白いスーツ姿から、洋服を脱ぎだすと、褌一丁で、整髪業の客の前で怒髪天を衝き、ポルシェの空冷エンジンを空ぶかしするがごとく、「男というものは……」と大声でがなりたてていた。
その姿は、イニシエの愛国党、赤尾敏先生の、有楽町数寄屋橋のチャンスセンターの宝くじに群がる平和ボケ愚民共に浴びせかけた憂国右翼の街頭演説を彷彿させた。
しかし、ステージを降りると、その高見から睥睨し、人を見下す芸風を豹変させ、俺に丁寧に挨拶する様は、芸人そのものではないか。
その後、ロマンポルシェは、「第26回浅草お兄さん会」に出演した。
普通ならネタ見せなどの手順を踏んで出るところを、予選ラップなし、俺の推薦枠で初出場した彼らは、いかにも場違いであり、楽屋で芸人仲間から浮いていた。バンドとしての知名度があれば、扱いも違うのであろうが、芸人の流儀の挨拶のない彼らは、若手芸人にとっては、「あんた誰?」、本格的に“邪魔”もの扱いだった。
しかも、お笑いライブの審査を終えて、客席投票で、今を時めく鳥肌実と5位を分け合ったロマンポルシェは喜ぶわけでもなかった。
その日の打ち上げで、俺も見るに見かねて「君ら新人なんだから、ライブに出たら、もっと他の事務所の芸人に、ちゃんと挨拶しなきゃあダメだよ!」と逆に説教を垂れていると、掟ポルシェは、実に怪訝そうな顔をして、「博士、俺たち、別にこういうところから出て行きたいわけじゃないんですけど……」と、逆に申し訳なさそうに言った。
聞けば、既に30歳を過ぎており、若手という歳でもなく、ミュージシャンとしても、既にあの武道館に立っている〜と言うではないか。すっかり売れない芸人だと思っていた俺は、不明を恥じ、同席した仲間に、彼らがイロモノではなく、音曲の人であり、今、最も注目され、引く手あまたのご両人であると説明した。
が、この日、掟ポルシェは、「じゃあ、俺、今日はビルのガラス拭きのバイトがあるんで、先に帰らせていただきます」と早退したのであった。
その後も、前述のバンドガールからストリッパーに転身したTちゃんに呼び出され、目黒川の夜桜見物の花見に集合したこともあった。そのときのメンバーは、俺と掟ポルシェ、コレクターズのオリさんであったが、小雨振る肌寒い天気のなか、しかもお互いよく知らないもの同士が、まるでホームレスのように、路上にゴザを敷いて語り合った。
当時、発売されていた、「ホットドッグプレス」のグラビアに載っていた、掟ポルシェの部屋の、雄鹿の剥製を飾ったインテリアの悪趣味ぶりを褒めたら、「博士、何年、この業界にいるんですか?あれ、借りものの部屋ですよ!」と、掟に芸能界の掟をご教示いただいてしまった。
こんな、しょっぱい出会いや、度重なる俺の誤解で、彼の存在感も、マチズモが屹立した男節も、俺の前では消え入る寸前だったのである。
そんな、冴えない関係のなかで、俄然、掟ポルシェが見直されるのは、2000年5月9日の、「第27回、浅草お兄さん会」、新宿シアターサンモールである。
この頃、「週刊プロレス」編集長の座を追われ、食い詰めていた、ターザン山本を毎回、ライブに出演させては「芸人化計画」を推し進めていた我々は、毎回、舞台に乱入してくるターザンとの抗争を激化していたのである。
この日、エンディングで壮絶な殴り合いの末、ターザン山本を返り討ちにして、全裸にして、舞台の上で、俺がマングリ返しに決めた。
そして、その後ろで、浅草お兄さん会 メンバーは、洋服を脱ぎ捨て、全裸でお神輿、「全裸ワッショイ」するという、バカバカしくも恒例の段取りのエンディングとなった。
そして、本番。
若手芸人が次々と裸になるなかで、事件は起こった。
若手芸人たちをして、息を呑むほどに驚愕せしめたのは、掟ポルシェの、掟やぶりの陰茎であった。(下の写真:右スミ)
台湾バナナの叩き売りのごとく並んだ、租チンの群れのなかで、彼の一本だけは、特大級突然変異の逸物であり、そのカリのカーブは独特の流線型を描き、ポルシェだけに、水平対抗6亀頭とおぼしき巨大なポテンシャルの持ち主であったのだ。
売れない若手芸人が集うマイナーの舞台であっても、彼のみがメジャーリーガーだったのである。
ここに、エロ本ライターは、祖チンの持ち主であるという、俺の先入観は見事に打ち破られた。掟ポルシェの男語りは、決して夜郎自大でなく、‘野郎’自大であり、その主張も虚構ではなく、巨根という根拠、チンポを担保に据えた、実に説得力のある魂の叫びであることが判明したのである。
さて、CDは3枚発売されている、ミュージシャンらしき、掟ポルシェの本のベスト・オブ・ベストは、今のところ、「男道コーチ屋稼業」であるが、主に「BUBUKA」に連載されたコラムをまとめたものだが、読者の童貞、ボンクラ率の高さは並みではないだろう。そのなかで、大槻ケンヂが本当に購入したポルシェに、掟ポルシェが乗る企画は、かって「リングの魂」で企画された、「アンディーフグとふぐを食おう」やら、「ジェラルド・ゴルドーとボルドー飲もう」を彷彿させ素晴らしい。
いつか、掟ポルシェのポルシェに乗り、自宅の牡鹿の剥製の前で飲み明かしたいものだ。
投稿者 davinci_orange : 00:00