モジモジ君の日記。みたいな。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-11

「レイプレイ」と言論の自由、その2

 昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。


 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。

 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場」だ。いかなる言論も制約を受けない完全なる言論の自由を、まず、思い描く。これを出発点とする。

 ここに、いくつかの現実的問題を考える。たとえば、脅迫という言語行為、あるいは、フラッシュバックという現象に見られるように、表現が直接に暴力として作用しうる。だから、「完全なる言論の自由」をただ掲げるだけでは残される問題がある。そこには、表現することの意義と表現が直接にもたらす暴力についての比較考量の問題が生じる。そこで、表現することの意義が問われる。


 そもそも「それ」は悪であるのかを考えるために、「それ」を表現する必要はあるから、「それ」を表現することがある。結果、「それ」が悪であるならば、悪を表現することにもなる。「それ」が悪であるとして、その悪に抗うという場合には、その悪について知る必要があるから、やはり「それ」は表現される必要がある。だから、やはり、悪は表現される。

 悪を表現することの意味の一つは、たとえば、こんな風にある。だから、悪を表現すること自体が問題になるのではない。問題にする人はいるが、僕はそれに賛成しないし、そういう人はかなり多いと思う。さらにつっこむと、悪を肯定する表現にだって、可能性はある。それは肯定しうるのか。考え抜いてみることはアリだろう、とは思う。肯定しきれるのであれば、それは定義により悪ではなくなる、ということではあろうが、それはどうでもいい。あるいは、それが真に悪であるならば、それを徹底的に肯定しようとしたら必ず綻びが生じるのであって、その綻びを明らかにすることを通じて、悪が悪であると理解する。そういうことだってある。だから、原則としては、どんな表現も許されることの方が望ましい。と僕は思っている。

 悪を表現することが偉大でありうるのは、「悪を表現しているから」ではない。戦争の悲惨を表現した作品が名作でありうるとして、その理由が「戦争の悲惨を表現しているから」ではないのと同じように。悪を表現することを通じて、何をしようとしているのか、その表現の意義は何か、ということが、常に問われる。そして、名作・傑作とは、その意義の実現に大きく成功している作品に対して言われる。意義を作者が示す必要はない。しかし、その意義を読み解くことが「誰もできない」ような表現には、表現としての価値はないし、表現としての役割を果たしてもいない。逆に言えば、一人でもちゃんと読み解けるんであれば、そこに価値を見ることは可能だ。

 陵辱ゲームはいかに「読み解かれて」いるのか。以上述べたような肯定的な読み解きはまったくない。それは陵辱をたのしむことを目的とした表現であり、つまり、それが肯定されることは前提されている。繰り返すが、「前提されている」だ。それは人間の中にある悪を悪として「問うている」のではなく、それを前提して「たのしんでいる」のだ。そのような「読み解き」を前提するならば、それは純然たるヘイト・スピーチ以外の何物でもない。そんな表現に意義などないし、規制論を押しとどめるものはもはやない、ということになる。これに抵抗したいならば、別の「読み解き」を示す必要がある。ところが、示されない。言い換えれば、陵辱ゲーム擁護論は「表現の自由市場」に参加していない。

※ というわけで、id:furukatuさん、「言論の自由」ってのは、「盾」じゃなくて、「土俵」なんですよ。「土俵」にさえあげてもらえない主義・主張はあってはならないとは言える。しかし、現実に両立不可能なものの両方に対して「盾」であることは論理的に不可能ですから。だから、まじめに「土俵」に上がってください。


 意義などなくとも、それが人畜無害であるなら放置でいい。ただし、人に有害であることがこれほどハッキリと主張されている場合には、それではすまない。原則としては、どんな表現も許されることの方が望ましいとしても、それが直接の暴力として作用する場合には、その暴力としての意味と比較しなければならない。意義がない、つまり、ゼロであるなら、比較の結果は明らかだ。

 表現としての意義が述べられているならば、少なくとも、比較の余地はある。すぐに結論は出ないにせよ、当面は規制をせずに見守る、ということもありうる。しかし、最初から意義なんぞないと認めているなら、もう擁護する余地はないわなぁ。暴力としての批判の観点から考えるしかない。

 そうであるなら、陵辱ゲームが規制されるとしても、僕は反対できんな。もちろん、陵辱という現象を表現することを通じて、その悪を、あるいは善を明かそうと試みる別の表現については、今のところ擁護するつもりではあるけれど。

md2takmd2tak 2009/06/11 12:04 科学的に有害とされているタバコが販売規制されないのは何故か?公共の場で吸わないだけで十分ではないか?

mojimojimojimoji 2009/06/11 12:39 タバコはかなり規制されてますよ。未成年者は吸うことはもちろん、購入することも制限されてます。
それはともかく。とりあえず、原則として、制限しないですむなら制限したくないのです。最小限の制限を加えて、その効果を測る。後は(社会的な)損得勘定の問題です。不十分なら規制強化もありうるでしょう。もちろん、緩和だってありえます。

sinxsinx 2009/06/11 12:49 「愛好者が存在する」事が表現にとっての存在意義。
規制しようとする者に必要なのは愛好者を納得させられる「正当な理由」。
正当な理由が存在するのなら、愛好者がするべきは表現の自由を盾にする事では無く、正当な理由への反論。
正当な理由が規制しようとする者によって説明されてない今、愛好者が表現の自由を盾にしていたところで何の問題は無い。
正当な理由無き規制の訴えは妄想の槍でしか無い。
ならば土俵を掘り起こして盾にする妄想をしても良いのではないか。

md2takmd2tak 2009/06/11 17:51 未成年には規制されてましたね。すみません。

mojimojiさんの主張する善悪とは別の善悪により、mojimojiさんの表現が土俵の外に弾き出されることがいつか起こるかもしれませんが、それに対して恐怖はないですか?

kachirakachira 2009/06/11 20:16 横レスで失礼ですがそもそもタバコと同列に語るのがおかしくないですかね。
私は煙草の煙が原因で小児喘息になりましたが、エロゲによる害を被ったことはないですよ。
『明らかに有害である』論拠がないのなら、規制云々以前に一緒くたにしちゃ駄目でしょう。
表現によって傷付いたなんて感情論持ち出したらそれこそ人を傷つける物なんて山のようにあるし、
それらをいちいち規制して回るんですか?

mojimojimojimoji 2009/06/11 23:40 >sinxさん
「愛好者が存在する」ことは表現にとっての存在意義でしょうね。後は、それを脅迫と感じる人々の問題との比較考量です。で、立証責任ぽい話については、「その3」で書きました。刑事での黙秘ならわかりますが、民事で理由も示さず黙秘するバカは相手の主張を認めたと見なされることがありますよ。

>md2takさん
僕が問題視しているのは、陵辱ゲーム擁護者が「言論の自由」のみに言及するときに、事実上、「表現を脅迫と受け取る」(という意味での、直接の暴力)人をネグっていることにあります。だから、少なくとも土俵に乗って自分たちの表現の意義を問う姿勢があるならば、その中で、自分たちの欲望と、脅迫から自由でありたいという欲望の折り合いをつけるための努力がなされているなら、僕は規制に賛成しません。僕の要求は、とりあえずは、その程度のものです。ですから、別に心配はしていません。

>kochiraさん
タバコと同列に語れることと語れないことがあるでしょう。語れないことを語っているつもりはありません。

で、「ヘイトスピーチではないか」という異議申し立てを「表現によって傷付いたなんて感情論」としかみなさないから、規制やむなし、みたいな話になるんでしょう。「いちいち規制して回る」かどうかは、少なくとも、性暴力肯定表現に対するのと同じような強力な表現規制要求があったら、その都度考えますよ。特に要求もなく、自分も問題だと認識していなければ、特別何かする必要はないでしょう。

ma-kanohma-kanoh 2009/06/12 00:53 どちらかと言えば、「レイプレイ」規制反対派です。

>原則論的な「言論の自由」信奉者

日本は「完全な」言論の自由はないと思います。
私から言わせれば、この記事の人のいう「言論の自由」は日本に存在していない以上
存在していない「言論の自由」の見地から「規制に賛成」などと言っても
聞く耳を持つ必要はないと思います。

もちろん、一般的建前としては言論の自由が存在することになっていますが
性本能と対比する意味での「完全な言論の自由」でいえば、
少なくとも日本には存在し得ないと思います。

例えば、日本のAVにはモザイクが入っていますが、それ誰決めましたか?
少なくともそういう「雰囲気」に「口出し」する「言論の自由」は存在しません。

モザイクなんか無駄だから(しかも警察の天下り先で税金の無駄遣いだから)
やめようなどという言説は考慮さえされません。

モザイクだけの問題ではなく、少なくとも日本に性風俗に関しての
言論の自由なんてまったく存在しません。

その存在しない「言論の自由」の見地から、はっきり言えば上から目線から

>そこで、表現することの意義が問われる。

と言われても、そういう立場の人から、意義を問われなければいけない
理由などひとつもありません。「土俵」に立っていないのではない。
あなたの方が別の「言論の自由」の「土俵」に立っているのだ。

ちなみにあなたの土台では、「性風俗」の議論には不適正だ。
>表現としての価値はないし、表現としての役割を果たしてもいない。
という言説自体、「こっち」の言論の自由では意味が薄い。

性風俗の場合、いろいろな人が勝手な意味づけをしているから
「価値」至上主義の場合はすわりが悪い場合がある。

あと、性風俗の規制を反対する理由は「ばかげたことをする権利」を
保障する必要がある(あるいはした方がよい)と考えるからです。

社会に無用だから、という理由だけで簡単に排除されてしまう社会に
したいと思っていません。全体主義まっしぐらだからです。日本の全体主義は
容易に戦争の道であるのは歴史に見るところですし。

だから「こんなことをしても意義がない」ことを規制する必要性はない
ということです。

とはいえ「有害」ならば、一応考慮する必要はあります。
例えば、公然わいせつのように「見たくもない人がいる」
ことに関して見せないように努力すること自体は協力します。

でも、今の日本では議論なんぞせずにAVにモザイクはかかってるし
本屋から「わいせつ」と勝手に決められたものは消えるし
努力は十分しています。これ以上の規制なんぞまったくの無意味です。

>人に有害であることがこれほどハッキリと主張されている場合には、

「有害」だという人は全員論破されているので
はっきり主張されていることはありません。
最近見た「規制派」言説だと、ゲームだと実際の場合無害なので「害など問題でない」
などというのもあります。

日本は規制大国です。なんでもかんでもすでに規制されています。
「レイプレイ」なんてくだらないのをわざわざ規制するために税金を使うこと自体ばかげてます。

ほんとにこんな「上から目線」で「レイプレイ」を規制していいの?

md2takmd2tak 2009/06/12 01:03 脅迫と受け取る人がいるのであれば「脅迫文を書くな。もしくは見せるな」という主張をすべきではないですか?「社会的意義がある、もしくは読み解きの可能性のある脅迫文」を書いたところで、その暴力性は少しも減らないと思うのですが、どうでしょうか?

kumonopanyakumonopanya 2009/06/12 02:31 >>「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。
と書いている割には専門用語や代名詞を多分に使っていてよみにくい、
もう少しまとめるなり出来ませんでしたか?

mojimojimojimoji 2009/06/12 07:24 >md2takさん
そうですね。その上で、「でも書く」と言われるなら、それこそ規制しか残らないでしょう。

>kumonopanyaさん
「専門用語や代名詞の使いすぎで読みにくい」とまで原因がわかっている人には読めますよ。がんばれ。

>ma-kanohさん
いまの時点で「規制か、規制反対か」の軸でしか考えられないというのは、よほど頭固いです。もう少しがんばれ。

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