モジモジ君の日記。みたいな。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-06-11

「レイプレイ」と言論の自由、その3

 二つほど。


問題は「性暴力を助長する」ではなく「性暴力そのもの」

 問題は、性表現一般ではないし、性暴力一般でさえなく、とりあえずは、性暴力を肯定する表現です。性暴力とそうでないものの境界が曖昧だとしても、問題になっているのは曖昧な事例ではなく、規制派も反対派も「性暴力の肯定的表現」と認識しているものです。そのような表現を、性暴力被害者に対して今なおセカンドレイプ的言説が繰り返される社会において流通させることの問題です。

 で、表現は、表現であると同時に、直接の脅迫でありえます。わからないようだからハッキリ言いますが、「性暴力を助長するかもしれない」じゃなくて、それ自体が性暴力なんですよ。レイプが、身体の自由に対する直接の侵害であることは説明の必要はありません。では、脅迫はどうか。脅迫は、身体の自由に対する侵害の予告であって、侵害自体ではありません。しかし、侵害の予告をもって実際の行動の自由を奪うという意味で、やはり「自由に対する直接の侵害」なのです。まして、性暴力被害者に対する誹謗中傷が野放しになっている社会において。

 もちろん、女性でも、性暴力表現を脅迫と感じない人がいるのは当然のことです。では、気にする奴は繊細過ぎ、気にしすぎ、オマエが悪い、ということになるか。なるわけがありません。

 だから、性暴力を肯定する表現に対して、それは現にある社会的文脈において脅迫として作用するヘイト・スピーチではないか、という疑義が突きつけられる。これに対する応答が、「表現の自由、侵害するべからず」のみであるならば、まったく対話が成立していない、と言うほかないでしょう。性暴力を肯定する表現が「役に立つ」以外だっていいですよ。とにかく、その表現することの肯定的意義を、社会に向かって説明すべきです。自分にとっての意義であれ*1、社会にとっての意義であれ。意義の説明の仕方に、唯一の正しい方法がある、と言っているわけではない。

 いずれにせよ、「そもそも意義なんかない」などと言うのであれば、脅迫になることが避けられない、という点からのみ考えるしかありません。賛成するかどうかは別にして、「規制」という主張が出てくるのも当然至極。

 だから、単に「表現の自由」などと言い張るのではなく、表現そのものを擁護する必要がある。それでもどうしても「表現の自由」としか言わないというのは、性暴力表現に恐怖する女性は本人の問題、勝手に怖がっておけ、と言っているに等しい。そんなものが認められるわけがない。

 もちろん、この社会が性暴力被害者に対して誹謗中傷を繰り返すのは、陵辱ゲーム愛好家・制作者の責任ではありません。「自分たちの表現が脅迫になるだなんて思わなかった」。そういうのもあるでしょう。ただし、その言い訳が許されるのは、大目に見ても最初の一回までです。改めて文脈を示された上で、自分たちの表現について考え直すことはできます。にも関わらず、さしたる申し開きもなく同じ表現を繰り返すなら、脅迫とわかっててやってるとみなすしかないでしょう。やはり、賛成するかどうかは別ですが、「規制」という主張が出てくるのも当然至極。


立証責任

 関連する論点として、「立証責任」なるものについて。規制が必要だと主張する方が、表現の有害性を立証すべき、などと言っているが、バカを言うな。

 たとえば、刑法上の罪を裁く場合であれば、それは国家と個人の間の問題であって、その場合に「推定無罪」などの原則が用いられるのはわかる。しかし、民事、つまり、個人と個人の間の問題である場合には、両方ともが自分の主張を述べ、相手の主張に対する見解も述べ、それらを総合的に判断する。だから、黙秘の意味も、刑事と民事では全然変わる。民事での黙秘は、それ自体が「相手の主張を認めた」と解釈されることだってある。

 法規制が存在する場合に、ある表現が規制にひっかかっているかどうかを判断するという場合には、当然「推定無罪」「罪を問う側に立証責任がある」ということになる。しかし、ある法規制を行うかどうかという話は、個人間の権利衝突の問題であって、民事の話の方に近い。アプリオリにどちらかに立証責任を帰すような話になるわけがない。

*1:もちろん、「俺が好きだから」というだけでもOK。しかし、その場合に考えるべきことについては、後で述べます。

md2takmd2tak 2009/06/12 01:37 「表現することの肯定的意義=性欲解消に役立つ」という本来の意図では不十分ですか?
また、実際の脅迫にあたるというのであれば、刑法の脅迫罪を適用すれば十分だと思います。

kumonopanyakumonopanya 2009/06/12 02:13 絵、artというのは多数決で決まる物ではないと思います。
あなたの言い分は、屏風に書かれたトラの絵が夜な夜な暴れて困ると、一休さんに解決を求めたどこかの将軍様に似ています。

hummer_and_anvilhummer_and_anvil 2009/06/12 05:19 立証できないから立証責任を回避したいのはわかりますが、それじゃ主観の押し付け合いにしかなりませんよ。
規制がないところに規制を行うなら、まず規制の正当性を立証しないとそもそも議論が始まりません。
立証無しで空気のみで規制を行いたいとでも言うのでしょうか???

y_arimy_arim 2009/06/12 06:08 瑣末な突込みを入れてしまうけれども、
A)「そもそも意義なんかない」などと言うのであれば

B)「脅迫になることが避けられない」「脅迫とわかっててやってるとみなすしかない」
↓だから
C)賛成するかどうかは別にして、「規制」という主張が出てくるのも当然至極。
A)→B)はいいとして、B)からC)へつなげるのは無理筋ではないかなあ。
「規制」という主張は、何に対してだって出てくる。たとえ社会的な意義があるものに対してでも、いろいろな都合で出てくる。
A)→B)とC)はそもそも別の話で、それを無理やり因果関係に仕立て上げているとぼくには思われる。その点で非常に胡散臭い。

ただまあ、せっかくなので、ちょっと考えてみた。「表現することの意義」を。
a)性暴力表現を発表でき、それを批判することが認められる社会は、そうでない社会よりも自由である。
b)現状としてそのような表現に需要があり、商行為として成立している。「鬼畜エロゲーの制作者」も市民社会の一員の職業である。職業差別は許されない。
c)「ぼくたちの社会では、欲望は裁けないことになっている」ことの再確認(c.f.東浩紀の渦状言論: 児童ポルノの単純所持禁止問題 http://www.hirokiazuma.com/archives/000368.html)
とりあえずこんなところかな。
ついでに、以前知り合いが書いたこういうブログ記事がある。ご一読をお勧めしたい。
中里一日記: ポルノ産業を本当に潰したければ
http://kaoriha.org/nikki/archives/000167.html

ところで、「さしたる申し開きもなしに」というのに、ぼくは強い違和感を覚えている。
関係ないようであるような話なんだけど、いわゆるボーイズラブ小説はポルノなのか? という話がある。BL小説が図書館から排除されそうになったという問題が去年の夏から秋にかけて起こっていたのはご存知かもしれないけど、そのときに「ありゃポルノだろどう見ても」という主張がけっこうあったのね。主に男性側から。論拠は「男同士が性行為を行っている描写があり、そのような場面を描いた挿絵もある程度付されている」というもの。
これに対して、BL小説『愛好家』の女性たちから「ポルノではない」という反論があった。ぼくの見るところ、ここで言われている「ポルノ」というのは「性的興奮→勃起→射精」という男性的な価値観を無批判に前提とした概念で、勝手にそちらの文脈に回収しようとするなという異議申し立てとして「ポルノではない」という意見が上がっていたように思う。
この異議申し立ては、必然的に愛好家の女性たちのセクシュアリティへの問いを引き起こす。非常にプリミティヴな形式としては、「腐女子はああいうのを読んでも濡れないの?」というもの。いかなる形であれこれに回答するというのは、自らのプライヴァシーの中でもコアなものでありうる、セクシュアリティについて開陳せねばならないということだ。これがどれほど抑圧的か。
mojimoji氏の求める「申し開き」は、これに近いようにぼくには思える。それを裏付けるのが、「その1」へのlisagasu氏のブクマコメント。メタブクマ、さらにそのメタブクマ……と4重くらいになっているが、これはぜひ読んでいただきたい。もちろん、そういう面での申し開きを「必要なコスト」と見做すことはできるけれども。

mojimojimojimoji 2009/06/12 07:19 僕は、例のゲームだけが問題、と言うつもりはありません。暴力的な(どころか、ほとんど暴力そのものを売りにした)AVも問題ですし、現在流通しているポルノグラフィの多くに考え直されるべき点があると考えています。

その上で。
最初の三人。性暴力を肯定する表現の意義をまじめに考えるならば、本文中で述べたような「それを脅迫と受け取る人」の問題をどう考えるか、という点に触れないわけにはいかないのです。そして、その点を三人ともがスルーしている。その点が問題なのです。

>y_arimさん
僕の提起にまともに応答しようとしているあちら側?の人はほとんどあなただけです。感謝します。ご指摘の点はごもっともですし、まったく考えなかったわけではありませんから、これから述べていくことにします。

とりあえず、「セクシュアリティについて開陳せねばならない」ことは抑圧になりうる点には同意します。ただし、「「セクシュアリティについて開陳せねばならない」ことは抑圧になりうる」と指摘するだけでも、「言論の自由」を連呼するよりは遙かに誠実な応答になっているということはわかりますでしょうか。あるいは、「私的なことなので、公言はできないが、それでも考えている」と言うだけでも違うはずです。

表で語れないことは語らずとも、語れないものがあることは語れる場合があるし、語らなくとも考えることができる場合はあるし、語らなくとも考えていることの表明はできます。たとえば、そのときに、その表現を脅迫と受け取っていた人たちの中にも、「自分たちはなぜそれを恐怖するのか」ということへの問いが芽生えうるはずです。

性暴力肯定表現を欲望する人と、その表現を自分への脅迫とみなす人が、ともに生きるためには、その間で(なんでもいいから実質に関わる)言葉がやりとりされる必要があります。その果てに応えがあるかどうかはわかりません。あるかどうかなんかわからなくても、あるとすれば、そのようにしてしか見つかりません。で、「表現の自由を盾にする」という言説がそれを阻んでいる、ということは、ここまで考えて来ればわかるのではないでしょうか。

sinxsinx 2009/06/12 07:32 フィクションという体裁をとっている以上、私はエロゲーを「性暴力の肯定的表現」だとは思えません。直接的な暴力だとも思えません。相手を傷つけるための表現ではないのです。
(むしろ「性暴力=フィクション」とされる世の中のほうが平和だと考えます。)
もちろんその差別的表現のフィクションによって傷つく人が出るのは悲しいことです。しかし行うべきはその傷つく人に対してのケア(フィクションをその人から遠ざけるゾーニングも含まれる)、傷つく原因となった要因の排除が優先されるべきであり法規制によって表現を規制する事は間違っています。
フィクションが無くなったからといって個人の差別意識は変化しません。犯罪率は増える要因はあれど減る要因はありません。
表現規制で得られるのは表向きの平和。そのようなポーズは法規制でされるべきでなく自主規制によってされるべきです。
異議の無い表現の法規制にこそ、反対の声をあげるべきではないのでしょうか。

hummer_and_anvilhummer_and_anvil 2009/06/12 08:26 >「それを脅迫と受け取る人」の問題をどう考えるか
それを脅迫と受け取る人の実在と、その正当性を立証してくださいな。
想像上の存在を持ち出されては反論すら出来ません。

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