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    序文
 99年度に法政へと入学したぼくは、学部生が自主的に運営するサークルである「日本文学研究会」に入った。最初から潰れかかっていたサークルであり、新入生で部長になった。そして卒業する03年度末まで丸四年間代表を務めた。「小説・R.E.S.」はこの活動の前半戦から、評論「埴谷雄高論」はこの活動の後半戦により生まれた。「崇高な理念」に基づき真剣に信じられた学生運動も今や往時の見る影もない。「埴谷雄高論」は世間一般の倫理と運動について論じたものだ。
 一方こちらはいわゆる「学内運動」について論じたものだ。二つの「学生会館論」うち、前のものは03年度の日文研年間活動総括からの抜粋だ。法政の教授にはかつて新左翼運動をした元運動家が多くいる。彼らは自分の行動の総括を、どう考えているのだろうか。そのような疑念がここに含まれている。また今後何年もかけてこういう方向に法政は向かうのだろうとも思う。
 後のものは01年度の年間活動総括を再録しておいた。この年は例の「貿易センタービル」のテロと、「ボアソテロ」がおこった年だ。この「ボアソテロ」により法政の、以前には相当な勢力を占めていたノンセクトやアナキズム色の強い団体は全体的に壊滅した。ぼくは彼らに入学当初はかなりの親近感を持っていた。しかし例えば三島由紀夫の『美と共同体と東大闘争』を読んでも思うのだが、テロリズムは良くも悪くも「祭り」なのではないかと思う。
 日本はかつて戦争で多くの死者を出した。その後左翼運動で少々の死者を出した。今は学生からそのような気概は失われ、一方で自殺者が増えている。結局、常に一定数の死を求める人々は存在しつづける。戦争も運動も精神病も、「死の欲動」を解消するための「物語」なのではないか。そしてそのような陳腐な「物語」を脱却することをめざすなら、勉強が必要なのだろう。もっともぼくは人が物語へと走ることを必ずしも批判するわけではない。  2004/03/09
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  法政大学学生会館論

 今後の学内運動について
学生が解くべき奇妙な謎―この十年間全法大生を緊縛し、誰一人として解いたもののない、《法政の究極の秘密》とは何なのか?「やれ」と「やるな」、大学が学生にかける奇妙なダブルバインドは?この《秘密》は全部まとめて一挙に、解ききらなければならない性質のものなのかもしれない。学生会館が今後も活動を続けていこうと考えたとき、以下の事柄が必要だと私、松平は考える。すなわち、自主管理運動と自主文化創造運動の根幹は次のところにある。

☆今すぐサークルを増やそう!
 ボックスにはそれぞれ巨額の金がかかって誕生した。これは学生の学費がもとになったものである。それゆえ、空きボックスを抱えたままにしている本部団体は、学友に対する裏切り行為を働いているものとして糾弾されるべきだ。学生会館全体で空きボックスを減らす運動をしなければならない。例えば本部塔3階の空きボックスの多さは自治能力の欠如をさらけ出していて痛々しい。
 その際できるだけ規模が大きくてできるだけ真面目そうな活動を行うサークルを入れたほうがいい。ボアソをメインに活動する大規模サークルにも声をかけるべきである。学内において大規模非公認サークルを減らす方向で努力するべきだ。学友会費は全学生から集められたものが本部団体に配分されているものである。これは全学生へと返還されなければ不平等なのである。学館の更なる発展のためには常に全学生との連帯を目指すべきだ。現在学館利用者は四千人ほど。一万三千人いる市ヶ谷生皆が使うようになれば、学館の活気も能力もアップすることだろう。その中から有能な次期本部員も育つかもしれない。
また、多くの学生が入りやすいムードをつくるために全体をクリーンにし、政治的なアジテーションをなくすことも有効だろう。「変な政治団体の秘密アジトみたいで怖い」という学生のアンケートもあった。  
 一文連は準加盟の段階でボックスを使用できるシステムを採っている。これも模倣すべきだ。一年間使用しているときの状況を見て、次年度本加盟にするかどうかを検討すればよい。

☆連盟における取り組みーJリーグシステムを導入しよう!
 学館全体で「サークル活動第三者評価委員会」を設置し、法政の全団体・サークルをG1とG2に分けるべきだ。G1はボックスを持つサークル、G2はボックスを持たないサークルである。

Aいいサークル活動をしてサークル員が多い
Bサークル活動をしていてサークル員がいる
Cサークル員はいるがサークル活動をしていない
Dサークル員がいない

 学館の全サークルを四段階評価し、位階制を作り出すべきだ。Cのサークルには警告をし、Dの状態に陥ったG1のサークルは取り潰すべきである。空いたボックスには次点候補にあるG2のサークルを即座に入れる。年度ごとにこれを行う。本来的には各団体において本部員や会計監査がやっていた仕事であるが、これらの活動が失われて久しい。この活動を完全に無視している団体は糾弾されるべきだ。第三者機関が本部団体の枠を超えて、全サークルを一律に評価する必要性がある。しかし「いい活動悪い活動」というものを政治的観点ばかりで捕らえてはならない。学館はイデオロギー的にはもっと透明化すべきだ。ボックス保有団体が獲得権益の防衛をすることにより、学友間に機会不平等を産んでいる。これほどの差別があることか!そもそも学館にはボックスにおんぶにだっこで存続しているサークルが多すぎる。任連などもそうであるが、学術系サークルを中心に、ダミーサークルといわれてもしょうがないサークルが多い。先日のアンケートは赤裸々であったが、しばしば学館は学館を使用しないものに陰口をされるのである。しかし、それにしても、いっそ学館を閉鎖してしまえばそれらのサークルは淘汰されて、きちんと活動しているサークルにメリットが返却されるようになり、平等が回復されるとも言えるかもしれない。

☆一人の百歩より百人の一歩を!
公認団体において各サークルの活動報告は外部に打ち出されるべきである。また、学館利用者、公認サークル、本部団体は平等に義務を果たすべきだ。一サークルにばかり仕事が集中するのは望ましい状態ではない。一つの本部団体だけが学生の代表者となるのも望ましくない。公の場にめったに顔を出さない本部にも、積極的に勧告をしたほうがいい。定例事務局のような本部団体同士の集まりも、例えば頻度や時間を落とし、最低これだけは出てくださいというふうにハードルを下げ、全団体が参加しやすくなるよう配慮してもよいように思う。
ボックスを持つサークル一つで、一人の労働力を確保できれば、学館全体で300人を集めることができる。指導者が、やるべきことを高く設定しすぎる傾向もある。「理想のレベル」を落とし、その分広く浅く全サークルが参加することを目指すべきである。一人の百歩より百人の一歩を!これが民主主義の鉄則である。

☆「三十本部団体」を整理すべきではないのか!非公認化された連盟はつぶすべきではないのか!
学術団体を何とかする必要もある。今、連盟公認化要求が行われているが、いくつ本部団体があるというのか。学団連、文連のみが「学生の代表者」であるのか。それは15分の一の勢力に過ぎないのではないか。本当に三十も本部団体があるのか。そして自己治療できない本部団体も多いのではないか。本部団体の除名と加盟を行い、「三十本部団体」を整理すべきではないのか!非公認化された連盟はつぶすべきではないのか!それを行った上で公認化要求の体勢に入るべきではないのか。

☆非公認化された自治会はつぶすべきではないのか!
 自治会は自治会員の代表をなす団体であろう。自治会の思想は自治会員の思想の総和であるのか。一人でも自治会の政治思想に違和を唱える自治会員がいたら、そのような思想は撤回すべきではないのか。自治会は多くの自治会員にそれと気づかれないように政治を行い、自治会の活動方針を牛耳ってはいないのか。自治会が存在する事で自治会員にどんなメリットがあるのか。自治会員のうち何パーセントが自治会の活動を承認しているのか。上部組織だけが独走し、民主主義の理念を無視してはいないのか。自治会は民主的な運営がなされているのか。非公認化された自治会はどのような法的根拠に基づき学生会館に存在しているのか。非公認化された自治会はつぶすべきではないのか。

☆「新団体」の具体的内容を問い正そう!
数十年の伝統を破り、今年初めて事実上、3・6を学生側で飲んだのだから連盟を公認化してくれてもよさそうなものではないか。なぜダメなのか。04年1月30日学生部長会見で学生部長が述べていたが、「民主的に運営された、学生会館の運営に責任を持つ正式な組織」を立ち上げねばいけないらしい。それは連盟とどのように異なる組織でないといけないのか。今の連盟は民主的でない要素がまぎれこんでいるとでもいうのか。自治会をその新組織から追い出せとか何とか、当局が言っていると噂で聞いたことがあるが本当なのか。もし本当なら、それはどのような思想的根拠に基づくのかということを、当局は公の場で声明を出す必要があるのではないのか。当局の理事会や学生部長は、何をこそこそとやっているのだろうか?「新団体」の具体的内容を問い正そう!

☆これらの作業を全て実行するために、本部団体全体を統括する強力な指導部が必要である! 
連盟は非公認化された団体である。また、自治会も長年をかけてそのすべてが非公認化された。存在に対する法的根拠の不在、ここに最大の問題がある。両者は当該ボックスを不法占拠しているとみなされうるのではないか?連盟と自治会のどちらをとるかを、当局は学生に突きつけ、分裂を誘っているのではないか?
しかしいずれにせよ、本部団体の上位組織を作り、それを公認化させなければあらゆることにおいて話にならない。今後学生に求められるのは責任と主体である。真の連帯と真の正義である
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二〇〇一年度 日本文学研究会年間活動総括

(1)学習会
 今年度、学習会は以下のものを行った。
四月一四日(土)太宰治「女生徒」
四月二八日(土)宮本輝「蛍川」
五月二六日(土)三島由紀夫「金閣寺」
六月九日(土)安部公房「無関係な死・時の崖」
六月二三日(土)川上弘美「いとしい」
七月一四日(土)森鴎外「雁」
八月一一日(土)川端康成「雪国」
八月二三日(木)重松清「ナイフ」
九月二二日(土)武者小路実篤「真理先生」
一〇月一三日(土)松浦理英子「葬儀の日」
一〇月二七日(土)泉鏡花「外科室・海上発電」
一二月八日(土)村上龍「限りなく透明に近いブルー」
一二月一五日(土)芥川竜之介「杜子春・南京の基督」
一月一二日(土)北杜夫「天井裏の子供たち」
二月九日(土)森鴎外「舞姫・阿部一族」
二月二三日(土)梶井基次郎「檸檬」
        太宰治「駆け込み訴え」
三月九日(土)大岡昇平「野火」
三月二三日(土)坂口安吾「桜の森の満開の下」

(2)機関誌「埃風」の発行とその批評会
 今年度、埃風の発行とその批評会は以下のように行った。

《埃風発行》
四月一日(日)埃風四七号(新入生歓迎号) 三四〇部
七月一日(日)埃風四八号(夏季号)二二〇部
一〇月三〇日(火)埃風四九号(学祭号)三五〇部
一月一八日(金)埃風五〇号(新年号)一五〇部
《批評会》
五月一二日(土)埃風四七号批評会
七月二八日(土)埃風四八号批評会一
八月二四日(木)埃風四八号批評会二
一一月三日(土)埃風四九号批評会一
一一月一七日(土)埃風四九号批評会二
一月二六日(土)埃風五〇号批評会

(3)読書会
 今年度、読書会は以下のものを行った。
四月二三日(月)三島由紀夫「音楽」
五月九日(水)小野不由美「十二国記シリーズ」
五月一四日(月)武田泰淳「司馬遷」
五月一六日(水)上遠野浩平「ブギ―ポップシリーズ」
五月二八日(月)大江健三郎「万延元年のフットボール」
六月九日(月)柄谷行人「近代日本文学の起源」
六月二一日(木)蓮實重彦「反=日本語論」
七月四日(水)柄谷行人「終焉をめぐって」
八月一日(水)ロラン・バルト「物語の構造分析」
八月三〇日(木)蓮實重彦「表層批評宣言」 
九月一九日(水)「批評空間〜責任と主体をめぐって(1997.6))」
一〇月四日(木)大澤真幸「戦後の思想空間」
一一月一五日(木)マックス・ウェーバー 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
一二月六日(木)グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」
一二月二〇日(木)斎藤環「文脈病」
一月八日(火)スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」
一月一八日(金)丸山真男「日本の思想」
一月二四日(木)ミシェル・フーコー「性の歴史T 知への意志」
二月七日(木)カール・マルクス「ドイツ・イデオロギー」
二月二八日(木)市川浩「精神としての身体」
       カール・マルクス「賃労働と資本」

(4)新歓活動
「失敗したら解散するしかないぞ」を合言葉に、昨年度・一昨年度の失敗を踏まえ、上級生同士が結束して新歓活動に取り組むようにした。教室周りは堅実に行い、サークル員全員でビラ貼り・机出しを精力的に行った。その結果多くの新入生が日文研に仮入部する運びとなった。新歓にきちんと取り組めば、多くの人が集まってくるものだなと実感した。しかし、我々は「本入部」のハードルを高く設定することにした。それは次のような思考の結果である。
 他大の大抵の文学サークルにおいては、かなりの金額の部費を徴収した上で、機関誌を大体三百円から高いところでは千円で販売している。日文研において機関誌「埃風」は無料配布を行っている。これはどうして可能であるのか。
 多くの未公認サークルがそうでないのに対し、日文研は部室を持っている。それは何故であり、どうしてこの部室は存在しているのか。
 日文研の正規サークル員はこの二つの疑問に対する解答の構造を把握している必要がある。
 世間の普通の場合であったならボックスと同程度の広さの部屋を借りようとすれば月五万の家賃を超えることは想像に難くない。学生会館と同規模の建物を市ヶ谷において借りようとすれば、一年当り何十億かかるのか計り知れない。学生会館の建設費用・維持費用は、基本的には学生の学費によって賄われているわけであろう。各団体に分配される予算も、ほとんどが学費に由来しているわけであろう。「自主管理」という制度は一つには、「ボックスや予算の恩恵を受ける学生を学生が取捨選択することが出来る」という事を意味している。このことは重大な意味を持つ。
 例えば、二部学生は皆二部学友会に所属して学友会費を払っているわけであるが、二部生が全員二部学友会のサークルに所属しているようでなければ、学生の中で不公平と差別が生じているわけである。日本の文化発展に寄与しうる、より優良な学生に対して学生から集められた学費は還元されるように保つことこそが、「自主管理」を行う上で重要な使命であるわけだ。サークル員数がより多く、サークル活動の盛んな、自主性と公平性と責任感を持ったサークル活動の活発なサークルこそが「大学の公認サークル」として認められ、予算及びボックスの恩恵を受けるべきなのである。二文連加盟サークルである日文研は、そのようなサークルであろうとすることを邁進するようなサークル員が優遇されるようなシステムを持つよう、善処すべきなのだ。
 故に日文研は、仮入部のサークル員を「準サークル員」とし、本入部のサークル員を「正規サークル員」と呼んでいる。「部会・批評会・埃風製作・二文連活動・合宿・ビラ貼り等の行事へ積極的に参加し、埃風執筆ないしは学習会を目的として継続的にサークルに通う者である」ことを日文研正規サークル員の条件としている。もちろんある程度以上サークル活動には携われないが、日文研に興味があり、これと関わりたいと考えている学生もいるわけで、これらの学生を準サークル員としたわけである。別に難しいことではない。学問を追及していきたいという意志があるか。作品による自己表現にこだわりを持つか。サークルの維持のために心を尽くす人間であるか。それらの観点から複合的に評価の高い人間が、サークル員として認められるべきだ、というだけのことである。

(5)今年度の活動について
 年四回の埃風発行、月二回の学習会と部会。これらの高密度なサークル活動を計画通りに維持できたことは法政に六、七個ほどある文学サークルの中で日文研が唯一であろう。このことは誇りをもって訴えたい。
 正規のサークル員数は〇一年度の六名から一名増え、〇二年度は正規サークル員七名、準サークル員七名ほどでスタートする見込みである。日文研の中核である「日文研三役」のうち、ようやく「会計」「編集」の引継ぎに目処が立った。なんとか「〇二年度」も日文研を存続していけるかもしれない。しかし今年度も例年通り、「読書はしたくない。実務はやりたくない。日本文学研究会という名の責任と主体は担いたくない。ただ作品は発表したい。ただおしゃべりする場は欲しい。出来たらいい人をゲットしたい」そんな学生が多く訪れた一年だった。戦中の学生が聞いたら涎を垂らして羨ましがるような恵まれた環境に今の学生はあるはずなのに、どうしてそんなに読書や勉強を倦厭するのだろうか。戦後における『近代文学』のような文学サークルを目指したかったのだが、その夢への道のりは遠く険しい。とりわけここ十年における文学サークルの凋落は激しいようだが、同人誌発行が経済的な面と国家の検閲により困難とされていたかつての時代に対して、今の学生はたいして勉強もせずにいろいろな文章をポンポンと書き散らしすぎている印象を受ける。全ての人文系学問がそうであるのと同様、ここに日本文学の陥る最大の危機がある。
 日文研の運営において民主主義的な形態をとっているのにも関わらず、一部の勉強したい学生ばかりが責任と主体を担い実務を行い回しているのが現状である。来年度、日文研は二文連本部員を出せないであろう。この点に関して日文研は大いに自己批判をしたい。二文連、及び各団体本部員や学生連盟理事の方々には常々頭が上がらないように思う。このような情けない一文学サークルであるが、九・二一ボアソ事件と、今後の学生会館運営における当局との交渉について、一応見解と提言を述べさせて頂く。

(6)学生組織における責任と主体
―九・二一ボアソ事件に関する見解と、「学館つぶし」対抗対策案―
 他大の学生会館は全国的に全て潰され、最後に残されたこの法政においても、公安警察・法大当局が一体となった学生会館潰しがいよいよ本格化し始めた。とりわけ二〇〇二年度から二〇〇三年度にかけて、学生会館始まって以来の、五・二七を超える最大の危機が訪れる事が見込まれる。しかし、我々は慌ててはいけない。全ての法大生が理性的に連帯すれば、この危機を乗り越えられるだろう。
 第一に、当局による規制はある程度飲んでもいい。もちろん基本的には徹底的にそれを弾劾し、抗議を行っていくべきであるが、二〇年前・三〇年前に較べて、我々を取り巻く社会状況は余りに変化し、余りに悪化し過ぎて来ている。その事を考慮に入れ、大学によるある程度の規制は受け入れた上で「学生会館自主管理」だけは護持するよう、当局と交渉するのがいいと僕は考える。「学費値上げは飲んでやったのだから、自主管理は続けさせろ」といった抗議が今後有効であるように思われる。
 第二に、理事会は諦め教授会レベルで「学館潰し」を否決させることが有効であるように思う。もちろん我々は当局追求行動の度に出来るだけ学生部に集結することは重要なことであるが、同時に個々の教授に直接に「学館の素晴らしさ」を訴えるべきである。ゼミや授業などで機会あるごとに、教授を学術の分野で圧倒しつつ、「学生会館存続の日本社会における必要性」を説くことに我々は力を入れるべきだ。「規制」に関しては理事会から直接学生部に降りて来るためあまり効果をもたないであろうが、「学館潰し」に反発してくれる教授を増やすことが出来れば、理事会の決定を教授会で覆すことが可能になるであろう。
 この二点を視野に入れつつ、さらに次の三項目に留意すべきである。

 A.今後、責任の所在の不明確な抗議行動・暴力は糾弾すべきである
 九・二一ボアソ事件とは、「差別と殺戮を生み出す資本主義のシステムに、無自覚に奉仕し、それらを拡大させようとする法大総長・早大総長及び各種企業体の構成員に、自分達の暴力行為を自覚・認識させるために、身元不明の黒ヘル集団がボアソナードタワーで行われていた、私大連盟シンポジウムに突入した」事件なのだろうと僕は考えている。ボアソは貿易センタービル同様、資本という悪の物象化された姿だ。僕はこの事件に理念としては賛同できる。しかし、やり方は不味かったのではないか。
 その黒ヘル集団が学生会館に逃げ込んだという風聞により学生会館構成員に対して容疑がかけられ、靖国訪問時と会わせて学生会館に対する捜索は今年度、六回を数えるまでになった。カトリックの信仰が物象化された存在として教会があるのと同様、「国家及び資本の死滅」という理念が物象化された存在として「学生会館」がある限り、こういった形での警察権力及び国家権力との対峙はどうしても必然なものとなる。この度の捜索で公安がボックスに乗り込んでくる所に居合わせたのだが、彼は僕の「容疑はなんだ」という問いに答えられず上官のもとに容疑を聞きに戻っていた。自分のやっていることも分からず上官の意志に主体性を持たずに従い、日本という国の過誤に自覚なく貢献する公安の彼にまず、即座に上部廃絶をし理想社会を共に作りだそうよと訴えたい。又、ある学友が家宅捜索を受け、ゼミで行った埴谷雄高のレジュメを証拠物件として公安に押収されたと聞くが、僕はこの行為を弾劾する。二・三人返り討ちにしてやりたい位弾劾する。確かに埴谷雄高の思想は徹頭徹尾「刑務所の中の思想」であり、あらゆる組織と存在の総転覆を狙った危険思想であるが、政治的立場・思想的立場の自由を奪う劣悪な思想弾圧を僕は決して許しはしない。言論・出版の自由を奪う体制など糞食らえ、である。それにしても学館捜索の度に動員される二〇〇人近い機動隊、公安の人件費は一体いくらに膨れ上がっているものなのだろうか。学生がペンキをまいたという程度のことで、数千万円の税金が空費されているように思われる。国家のこれらの対応は往時に較べ、やけに過敏になっているのではないかと推測される。日本におけるノンポリ化・保守化は相当進行して来ているようだ。
 そういった思想の社会的な流れに乗って、ここ数年で暴力的に学館に対する攻勢を強めてきた当局に対する弾劾は徹底的に行うべきであろう。そこには確たる理由も、今後の日本のあり方に関する思想的な展望も見出せない。ひたすら自由と自主に対し否を突きつけるだけとしか思えない。学生会館の理念及び日本における運動の意義というものを一方的に否定し、それらに対する過去の総括や今後の日本のあるべき姿の提示もせず、差別と殺戮を拡大する資本主義システムへの傾倒を強め、一方的に学生への規制を強めるのが法政大学教職員の総体の意志であるというのならば、はっきりいって教職失格である。我々はどんどん学生部におしかけ、当局を追求すべきである。あらゆる大学職員に自己批判を要求すべきだ。私大連盟シンポジウムが蒙った災難は、当然下されるべき天啓であったとは思う。
 ところで、僕も日帝という組織に無自覚に貢献する人間に死を突きつけてやりたい気分になることは多々あるが、抜け駆けはよくない。少なくとも僕は日文研員全体の了承を採らずに日文研の存続を危機に陥れるような行為はしないように心がけている。やるならやはり、決定的に足が着かない方法を模索するか、全体の了承を採った上で犯行声明を出し責任の所在を明確にした上でやるべきである。学生会館は暴力を容認する組織なのだと、あるいはその行為が学生会館全体の意志だと捕らえられてしまうのはよろしくない。少なくとも僕はその行為に賛同した覚えはない。抗議内容も抗議理由も不明確で、相手にも本来味方であるはずの学友にもきっちりとその意図を示さずに行われる暴力的な抗議行動が成功するとは思えない。そういった行為は学生全体に不当逮捕される危険性をばらまきうるし、それをきっかけに学生内部での意志が分断しうる。そしてもちろん、学生会館全体にその行為の責任を取らされる形になるわけである。我々は半端な暴力で権力に立ち向かっても、より強大な暴力に押しつぶされることをしっかりと認識し、「責任の所在の不明確な暴力」に頼らずに「学生会館自主管理」を守り抜き、国家と資本を死滅させる方法を模索すべきである。何よりも怖れるべき事は、学生間における信頼関係の欠如である。我々は突発的な匿名による暴力の行使を忌避すべきである。

 B.「自主管理」を中心としての連帯をし、政治的なコンテクストはある程度抑えるべきである
 学生会館本部棟キャンパス側の壁に政治的なスローガンが恒常的に掲げられているが、あれは誰がどのような手続きにより文面を決定しているのか、僕にはよく分からない。学館構成員総体の意志であるのか、不明でもある。僕はあのスローガンに概ね賛成であるが、あのスローガンが自明なものであるとして、話が展開されがちである学生会館の現状は、抑圧と廃絶の権力がそのシステムに内在されているように思われて、どうかと思うのである。スローガンはボアソに対し否を突きつける学生会館の姿勢を象徴していて、まことに正しいものであるが、しかし「ボアソ学生」も非常に多いのが現状であり、学館とボアソの間に分かたれた距離は百メートルどころではない。ボアソ学生に対する排他性はもちろんある程度必要であろうが、それでも真に学術・文化・表現・体育を実践したいという学生に対し、学生会館は常に開かれているべきである。スローガンを見ただけで「こわ〜い」などと言い、四年間学生会館に立ち入らない学生の方が、既に数的に法大生の大部分である現状を踏まえ、我々は学生会館の運営をある程度無政治化し、「自主管理」という部分においてのみで、学生会館における連帯を成立させる、ということを建前とすべき時が来ているのではないか。読書はしない、政治を語らない。それが多くの学生の前提であるということを我々はよくよく認識し、明るく爽やかで開かれた学生会館を作り出す努力をすべきである。様々な思想を持つ学生が集まっていてこそ、学生会館存在の意義がある。

 C.「自主管理」を徹底する
 今年度の新入生の中に、ミステリー研究会に入りたかったので当局発行のパンフによりその存在を確認し、法政に入ることを決めたのだが当該サークルを訪れようとしてみたら実はサークル員が一人もいないと知らされた、と訴える学生がいた。こういう例は良くないのではないか。学術系サークルは学術を研究していてこそ学術系サークルであり、それをやっていなかったりサークル員がいなかったりしたら、学術系サークル足りえないのではないかと思う。「日本文学を研究したい」と考える入部希望者及び日文研サークル員に、僕はあまり出会ったことがないのでこの問題提起も基本的に自己批判にしか帰結しえない。しかし我々が今、もっとも懸念すべきことは「アンチ学生会館」の立場を取る学生数の増加である。「(4)新歓活動」で指摘した通り、学生の払った学費やその結実であるボックスというものが、学術・表現・体育それぞれの分野において、がんばっている学生にきちんと還元されるようなシステムを維持することこそが「自主管理運動」の意味であろう。学術系サークルの衰退と、「学生会館の理念」への懐疑が学生の分断を招いているように思われる。敵は当局だけではない。我々が真に恐れるべきなのは、学生間における信頼関係の欠如なのだ。これに関しては去年のGLCで発表した「サークル提起」をここに抜粋し、再録しておく。

 サークル提起(去年の日文研活動総括より)
 僕は、学生会館を利用する機会のない学生に、「学館は法政のダニだ」と罵倒されたことがある。僕はその学生に反論を試みようとしたが、相手を納得させうる有効な回答をなしえなかった。
 学生会館の構成サークルは表現系サークル、学術系サークル、体育会系サークル等に大別されるだろう。もともとは、政治・社会・学術に興味があり学んでいきたいと考えている学生の多かった学術系サークルが、率先して学生会館を引っ張って運営して来ていた。けれども法政に入るそのようなタイプの学生自体が減少しているように思われる。又、入ったとしても現在の学術系サークルの活動内容に魅力を感じず、すぐに多くが離反する現状があるのではないか。
「サークル活動が活発に行われなければ、サークル員は増えない」。それはサークル運営に当たっての不文律であり、多くの学術系サークルを蝕む病であろう。学術系サークルのサークル員数は往時に較べて非常に落ちている。日文研は十四、五年前から六年前まで外部に敵を見出し、それと喧嘩することでサークルのまとまりを作り出していた。しかしその後、喧嘩は内部対内部の戦いに集中されるようになった。そして最近の新入生に関しては喧嘩自体を厭い、それの匂いが感じられると即座に引いていく様子を見せるようになった。
 共通の目標、あるいは共通の敵が組織の運営には必要なのであろう。営利組織においては共通の目標を「貨幣」に置く。貨幣を神とし、これの獲得を構成員全体で目指す宗教組織が営利組織である。ここには貨幣を獲得するための統一的行動を取れない構成員を排除する差別システムが現存する。体育会系サークルもまた、共通の練習と上下関係の秩序とゲーム自体によりシステム運営を保っている。むろんここにも年功序列と、「ゲームに強いか弱いか」という理念が支配する厳然とした権力構造及び差別システムにより組織運営が行われる。表現系サークルはそれぞれ映画を撮るとか演劇をするとかに共通の目標を置くのだろう。それらの組織は目標と、宗教的組織形態が確定されているため、逆に比較的スムーズに組織運営が行われる。では学術系サークルはどうなのか?文学系サークルは?前衛組織は?
 ソ連崩壊に伴うマルクス主義の衰退と、文系学術の持つ権威への不信感の増大はそれらのサークル、及び運動体に深刻な打撃を与えたものと思われる。学術はあまりに多様化・細分化・分裂化し、個々の人間がまとまるための統一見解は決定的に存在しなくなってきている。そして、殺戮と差別を生み出し続ける資本主義システムを破壊するためには「国家と資本を死滅」させなければならない。前衛組織において目標点はここに設定されるのであろうが、各種運動体においてそこへと至るための差し当たっての目標や、日々の闘争の対象がそれぞれ分散し混乱をきたしているように思われる。運動体として発生した学生会館であり二文連であったが、権威への反抗という概念やマルクス主義思想を前提としない学生が多数派となり、学術系サークルや本部の運営が苦しくなってきたのではないか。数十年前、学術系サークルが理論的支柱となり作り出した学生会館のシステムであったわけだが、団体・社会に対する主体性、自主性、自己責任感の欠落した学生の増加と、その結果としての学生会館の衰退が生じて来ている。「自主」を叫ぶこと自体多くの学生にとって、既に時代遅れなことなのかも知れない。「世界における自己の役割」という概念の消滅は宗教の衰退を呼び、「社会における自己の役割」という概念の消滅はノンポリ学生を増加させる。「友達や異性や企業」に対してどんな役割を果たせるか、それが多くの現代学生が必死に立ち向かうテーマである。
 ところでもちろん、「サークル活動を保証するための本部であり、学館である」というのが本部、学館の存在理由の第一義であったはずである。二文連活動やサークル活動の停滞したサークルにはそれぞれ定款に従い罰則規定を適用すべきなのかもしれない。その上でサークル活動をしっかりやっているサークルを二文連に入れていく。定款通りの二文連のシステムに戻すべきなのではないかと思う。定款通りの運営のシステムを踏み外した事がじりじりと、二文連や各本部団体の現在の貧窮を産み出してきたのではないのかとも思える。もちろん二文連定款が正常に適用されていれば、ここ十数年の二文連を存続して来られなかったということもよくよく理解出来る。けれども各サークルが地道に体力を回復させることと、総サークル員数を増やすためにサークルの加盟を考える事は急務であるように思う。ただし、前者について補足するなら一度サークル活動の途絶えたサークルを真っ当なサークルになるまで回復させるためには、相当な労力を数年間かけ続けることを覚悟しなければいけない。たぶん五年はかかる。後者に関しては準加盟は一月、本加盟は一年で出来る。空きボックスを三つも四つも二文連は抱えているのだし、それらを有効利用しない手はないように思われる。いくつかの他団体においてその動きは出始めているが、二文連は常任委員会制がネックとなり出遅れている。又、始めから二部生しかいないサークルなど存在するわけがないので、一部生がメインのサークルであってもそのことにこだわるべきではない。
 文連・学団連・任連・サ連、それぞれ保有サークル員数は二文連の三から十倍はいることだろう。けれども本部員の数はそれに比した、大差があるわけではなかろう。百人ちょっとのサークル員しか保有していない二文連が、他団体に迫る質、数の本部員を輩出してきたことは凄いことだと思う。しかし、時代の波に合わせて二文連の改革を推し進めなければならない時期が来ているのではないか。全てのサークルが年度毎に新歓活動を行うべきであるのと同様、学生団体は随時新サークル勧誘を行うべきである。新たな他者との出会いが自己の持つ価値の普遍性・一般性を高め、自己・他者ともにその存在を弁証法的に止揚させる契機となるであろう。
 十年前日文研のサークル員は五〇人以上いたが、現在では七人になってしまった。当時、二文連全体のサークル員数は総勢三〇〇から四〇〇人近くいたが、現在では一三〇人未満に落ちていると推測される(日文研調べ)。特に学術系においてサークル員数の減少は激しいように思う。「政治、社会、文学、学術に興味があり、真面目に研究したいと考える二部法大生が十年前に比べて激減していること」がその原因の一つであると考えられる。
 十年前、一サークルあたりの平均サークル員数は二〇人を超えていた。今では平均八人ほどではないのか。平均サークル員数が二〇人を超えていたからこそ成り立っていたのが二文連のシステムなのではないか。今、二文連の年中行事や、伝統的な二文連活動やそのシステム自体を見直す必要に迫られているように思う。
― サークル提起 ―
 現在の二文連(二〇〇一・冬)は二文連の発足当初(一九五一)に比べて全サークル員数、サークル活動総合力が共に落ち、二文連を維持しつづける事が難しい状況になっているのではないか。今、二文連が採るべき手段は次の二つがある。

1.二文連全体のサークル活動力、サークル員数を増やす。
2.二文連全体で行う活動を見直す。


 二文連全体のサークル活動力、サークル員数を増やす。又は、一サークルあたりの平均サークル員数を上げる。サークル数を増やす。これらを行うためには次の三つの方法がある。
a.加盟
 学問・文化・芸術に関する研究学習活動を発展させ、その成果を全学友に反映させていくことを目的とした活動を活発に行い、二文連の理念を継承する意欲を持つサークルに二文連への準加盟を呼びかけ受け入れる(二文連規約第二条)。
b.除名
 二文連規約第二十七条「加盟団体の解散は総会の承認を要する。ただし一定期間研究活動なき団体はこれを必要としない。一定期間とは一か年間とし、研究活動に本部への連絡、各会議への出席を含むものとする」
 この条項を実践する。 
c.各サークルが新勧活動・サークル活動を積極的に行う。           


 二文連全体で行う活動を見直す。
 全体のサークル員数が十年前に比べて二分の一未満に落ちているので、いろいろな事柄を二分の一に減らすのはどうか。
a.常任委員会の頻度を二分の一にする。
b.各種スタッフ会議で行う企画を二分の一にする。
c.年中行事を二分の一にする。
d.自主法政祭の日数を減らす。
e.総務委員の数を二分の一にする。
          等々があるように思う。

(7)おわりに
 以上の五つの事柄が僕の主張である。又、本部員不足が各団体において最大の問題であるが、「地域通貨」と「くじ引き制」の導入がこの問題への突破口になるように思う。学館通貨を作り出し本部員への支払いに充て、権力が一局集中しないようくじ引きで役職を決定する。そのようなシステムを定款に導入できれば本部員不足は忽ち解消され、国家と資本の死滅への道も、より近づくことであろう。
 しかしこれらの主張を二文連や学館のレベルで実際的に具体化するだけの体力と能力を日文研は有しておらず、基本的にはただの意見である。サークル内の政治において心がけていることをここに開示して見せただけに過ぎない。「サークルの自主管理」ほど難しいものはないと常々思う。サークル活動のために本部は存在し、学生のために学生会館は存在する。我々はこの前提を踏まえ、サークル活動を更に盛り立てつつ、来るべき当局・公安とのラストバトルに全学生の連帯を持って立ち向かえるよう内治に専念することが、来年度の二文連、及び学生会館の目標であるように思う。おこがましいことを大分述べたが、学術がまともに研究されず人員の層も浅い、本部員も出せない日文研をもう一度自己批判してこの総括を終える。

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法政大学学生会館論
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