―これって、学問? それともプロパガンダ?―
「三光」 が「殺光」 「焼光」 「搶光」(略光、奪光ともいっています)を表し、それぞれ「殺しつくす」「焼きつくす」「奪いつくす」という意味の 中国語 であることは明らかでしょう。
中国戦線に従軍した日本人将兵の99.9%、つまりほぼ全員が、「三光作戦」だの「三光政策」などという言葉を聞いたことはありませんでした。まして、「三光」なる言葉が、殺しつくし、焼きつくし、・・などという意味を持つことなど知るはずもありません。
ところが、これが大手を振って歩き出し、日本軍の作戦名 と認知され、教科書に載るやら百科事典に載るといった按配ですから、どこかが狂っているのだと思います。
また、日本国内に点在する「平和記念館」には写真やら説明文が掲示され、なかには訪れた生徒に対し、クイズもどきに「三光」を教えところもあります。まったく、野放図このうえもありません。
日本人が知らなかった作戦名を、生徒が教えこまれるようになって20余年が経ちました。これが日本の歴史学の水準かと思うと、バカバカしいやら腹立たしいやら・・。
「三光作戦」「三光政策」について書いたものを読むたびに、学問だの報道だのと呼ぶのもおこがましい、中国のプロパガンダのお手伝いではないか、という思いを強くするのです。
ですが、「三光作戦(政策)」なるものが、わが国で「歴史的事実」として取り扱われていることに疑いありません。
まず、終戦50年の節目の年(1995年)に発行された社会党 の『国会決議実現にむけて』とした約30ページのパンフレット(左写真)をのぞいて見ます。このパンフレットは公党としての社会党(当時)の「歴史認識」を記したものです。
「過去に眼をとざすことはできない」 というタテ書きを読めば、おおよその見当がつくように「ドイツは過去を清算」したのに、「日本は・・」というわけです。
南京虐殺につづく「三光作戦」は、次のように書いてあります。
「また、日本軍は中国全域で三光(奪い、殺し、焼きつくす)作戦を展開し大きな被害を与えるとともに強制連行、強制労働などによっても膨大な犠牲者を出しています。」
「中国全域」 で三光作戦が展開されたというあたりがユニークといえるのかもしれません。
また、百科事典や多くの日本の高校用歴史教科書に載っていることからも分かるように(中学用は日本書籍新社の教科書だけになりました。あと一歩です)、また、新聞を中心とする報道機関がいく度となく報じたことでも分かるように、日本で市民権を得てしまっているのです。
もっとも、思わぬ効用もあることはあります。それは、日本の近現代史研究の水準 がどのレベルにあるのかを知る格好の材料になっていることでしょう。
新聞の方を見てみますと、左の写真は1994(平成6)年11月24日付けの河北新報 で、「半世紀の検証」と題した連載(16)の紙面です。
河北新報は発行部数約50万、仙台市を中心に宮城県で圧倒的なシェアを有しています。また、頻繁に旧日本軍を断罪する記事のでること、朝日新聞も顔負けするくらいです。おそらく、地方紙の多くがこういった調子なのではないでしょうか。
「事実遠ざける検定」 の小見出しのもと、次のように書かれています。
〈 「焼いて、殺して、奪い尽くす」三光作戦。16万人以上を無差別に殺したといわれる南京大虐殺。「天皇の軍隊」が、アジアで殺した数は1千万人を超えるとされている。日本人は300万人が死んだ。
しかし、戦後の歴史教育では、こうした事実は検定によって遠ざけられ、長い間教科書には載らなかった。〉
そして、「ドイツの態度と対照的」 とお決まりのコースに話が進みます。ですが、少し勉強した人なら、新聞記者がいかに不勉強で、他の受け売りをしているか見抜ける内容なのです。
まず、不思議に思うことは、「三光」は中国語ですから、日本軍が「三光作戦」という作戦名を使うはずがなかろうという疑問です。現に、日本軍の将兵で「三光」という言葉を知っている例は、皆無ではありませんが、ほんの数えるほどでしょう。下級将校や兵はまず、聞いたことがなかったといって間違いないものと思います。
にもかかわらず、同時代の関係者が知らなかった作戦名が、学生や一般人に知識として教え込まれ、やがて日本人の共通認識になる、というのですから、まったく首を傾げてしまいます。
いうまでもなく、このような結果を生じるには、“歴史学者”が重要な役割を果たしたはずですから、歴史学者の水準をうんぬんされて仕方のないことだと思うのですが。
また、「三光作戦」にあたる日本軍の作戦が「燼滅作戦」(じんめつさくせん)であったという解説をよく見かけます。おそらく、出所は『中国の旅』の注釈 あたりだと思いますが、そもそも「燼滅作戦」という作戦が日本軍にあったのでしょうか。
私はまず、なかったと思っています。といいますのも、それなりに調べたからです。たしかに、「燼滅」という言葉は使用していましたが、作戦名は見あたりません。
それに、「三光作戦」という用語、中国は使っているのでしょうか。中国は「三光政策」と言っているのであって、「三光作戦」はこれに便乗した日本人の知恵者の創作と思うのですが、違っているでしょうか。
では、日本軍がとった「三光作戦」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。
実は、しだいに範囲(カテゴリー)が広がり、あれもこれもといった感じになっているのです。
藤原彰・元一橋大学教授 の見解を見ることにします。以下は季刊誌「戦争責任研究」 (1998年秋季号)に掲載された「『三光作戦』と北支那方面軍」からの引用です。
まず、日本軍の中国側の反日根拠地の掃討作戦について記した後、次のようにつづきます。
〈 だが、(これらの掃討作戦は)失敗に終ったとはいえ、未治安地区にたいする日本軍の燼滅掃蕩作戦、これにともなう遮断壕 の構築や無住地帯 の設定によって、華北の民衆の蒙った被害ははかり知れないものがある。人命の被害だけでも、それを総計すれば、南京大虐殺や細菌戦の犠牲者とは桁違いの多数に上るだろうことは確かである。 〉
そして、
〈 加害者側の数字が一切ないのだから、被害者側の数字に頼るより他はないのだが、これもきわめて大ざっぱな数しか示されていない。・・〉
としたうえで、「三光作戦」の被害 について次の結論を導いています。
〈 ここでは姫田光義が中国側の公表された数字をもとにしてあげた 「とりあえず 華北全体の被害は将兵の戦死者を除いて『247万人以上』 」 によっておきたい。これだけでも、南京大虐殺の10倍もの犠牲者が出ていることになるのである。 〉
この数字は『「三光作戦」とは何だったか』 (左写真。姫田光義、岩波ブックレット)から引用したものです。
さらに、藤原は次のようにつづけます。
〈 この他にも強制連行 され労働力として満州その他に送られた膨大な人々、犯された女性、奪われた財産、焼かれた家、数えあげれば際限のない「三光作戦」 の被害は、ようやく最近その一端が紹介されるようになった。これらについては、被害者である中国側の調査が、より精密になることが期待されるが、それよりも加害者側の責任として、日本での史料の発掘、聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう。 〉
というような次第で、「三光作戦」の範囲はどんどん広がっています。
もっとも、南京虐殺はどう頑張ったところで、マキシマム30万人ですが、「三光作戦」ならいくらでも被害を膨らませることが可能ですから、死傷者3500万 に向けて、あらたな「三光作戦」が加わってくるかもしれません。
以上を整理しますと、
@ 日本軍の未治安地区(反日根拠地)の掃討作戦
A 無住地帯(無人区化政策)
B 遮断壕の構築
C 強制連行
が「三光作戦」の中身のようです。さらに、D 毒ガス作戦 を含める例もあります。
藤原元教授は「日本での史料の発掘。聞きとりの徹底など、為すべきことがたくさん残っているといえるだろう」と書いていますが、私が日本側(軍人、民間人)からの聞き取り調査中、1人の学者、1人の報道人、1人の研究者にも出会ったことがなく、調査に来た痕跡さえありませんでした。
調査報告は順次、掲載する予定ですので、詳しくは、それぞれの項をお読みください。
( このHPのURLは、http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/ です )