「南京大虐殺」「戦後補償」……日本人が踏まえるべき「事実」は何か�◆ ‘�本は「戦後処理」を終えている
「日本は個人に補償していない」「ドイツと較べて極めて少額」……それらは俗論にすぎない。これが「戦後補償」を巡る事実だ。
「戦後補償」という言葉を新聞などでしばしば目にする。正確な定義があるわけではないが、大まかに言って、いわゆる「従軍慰安婦」や「強制連行」に関わる訴訟などを巡って、個人に対する補償を主張する意味で使われているようである。
その際、常に日本政府の姿勢が「戦後補償」と対比して描かれる。戦後処理は平和条約、請求権協定の締結によって終了していると政府は言うが、それは国家間の処理が終わったに過ぎず、戦争によって被害を受けた個人は補償を受けていない。例えば、「従軍慰安婦」、「強制連行」された朝鮮人・中国人などは現に補償されていないと言って訴訟を起こしているではないか。だから、戦後処理はまだ終わっておらず、加害者である日本は、当然、被害者である個人に補償すべきであると。
また、そうした議論で決まって持ち出されるのがドイツとの比較である。ドイツが個人に対して補償しているのに対して、日本はどうかという具合である。国内でドイツとの比較論議があるだけではなく、中国も韓国もドイツの例を持ち出して日本批判を展開している。例えば、韓国の盧武鉉大統領は昨年三月一日、「ドイツを見習って、（日本も）過去を克服すべきだ」と主張した。
しかし、結論を先に言えば、こうした主張は政治的主張でしかない。というのも、「戦後補償」は、実は戦後処理に関わる条約・協定などの内容とこれまでの日本の努力を無視した主張に過ぎないからである。
◆個人への補償は済んでいないのか？
まず最初に、賠償・補償を中心に、日本の戦後処理について見てみよう。
日本は、昭和二十六年のサンフランシスコにおいて、米、英、仏、オランダ、オーストラリア、フィリピンなど四十五ヵ国との間で平和条約を締結する。この条約こそ日本の戦後処理の大枠を決定した講和条約であった。
では、このサンフランシスコ条約において、日本の賠償・補償はどう決められたのかというと、同条約第十四条は「日本国は、戦争中に生じさせた損害および苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される」とする一方、「……連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」と規定した。
「賠償」とは「戦争中に生じさせた損害および苦痛」の対価であり、この条約によって、そうした戦争にまつわるすべての請求権を「連合国及びその国民」が放棄することに四十五ヵ国の連合国が合意したわけである。条文にあるとおり、単に連合国との政府間だけではなく、「連合国及びその国民」との間での清算が終結したことが明記された。
しかし、このサンフランシスコ条約をもって賠償を放棄し、補償問題を清算したのは、米、仏など少数の国であった。フィリピンのように賠償を放棄しなかった国や、財産などの清算、さらに私権の放棄だけは例外として新たな請求権協定を要求した国々があり、日本はそうした国々との間で個別に賠償・補償に関する請求権協定を結んだ。
ここでは、そうした個々の条約や協定の詳細は述べないが、その文言を見れば、日本の戦後処理がいかに厳密に行われたかは明らかである。
例えば、オランダは講和会議において一国だけ私権への補償問題（在インドネシア資産、民間人の収容問題を巡る請求権）は放棄しないと宣言した。日本は、異議を唱えたが、最終的に一千万ドルの見舞金（請求権に基づく支払いではなく、日本の自発的な行為としての見舞金）を支払い、次の様な協定を結んだ。
「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」（私的請求権に関する議定書・第三条）
また、サンフランシスコ条約に調印したが、賠償は請求するとして批准しなかったインドネシアとの間では、日本は個別に平和条約を結んだ。
「インドネシア共和国は、……インドネシア共和国のすべての賠償請求権並びに戦争遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する」（第四条）
こうして見れば分かるように、サンフランシスコ条約とそれに基づく賠償・請求権協定は、単なる戦争賠償に留まらず、「すべての請求権」を清算する「戦後処理」として締結されているのである。その意味で、国家の賠償はすんだけれども、個人は済んでいないなどという、いわゆる戦後補償の主張は明らかに事実に反すると言える。
◆中韓両国とも決着済み
次に、いつも問題となる中国・韓国との間での戦後処理はどうなったのかを見てみよう。
まず、韓国の場合は戦勝国ではないので、講和の対象国ではなく、サンフランシスコ条約では日本が請求権を放棄するということだけが決定された（在外資産の放棄については後述）。それを受けて、韓国の独立にともなう国家間関係の正常化ということで、昭和四十年に日韓基本条約と請求権・経済協力協定が締結された。つまり、日本の朝鮮統治を清算するという方式で「戦後処理」が行われ、無償三億ドル、有償二億ドルが韓国に供与された。
では、この条約・協定で何が清算されたのか。日韓の請求権・経済協力協定はこう規定している。
「両締結国は、両締結国及びその国民（法人を含む。）の財産、権利及び利益並びに両締結国及びその国民の間の請求権に関する問題が……完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」（第二条第一項）
つまり、一切の請求権に関する戦後処理は、この協定をもって「完全かつ最終的に解決された」というのである。
つい最近まで、韓国では個人の請求権は放棄されていないとか、いわゆる「従軍慰安婦」は請求権の範疇に入っていなかったとかという主張が行われていた。しかし、昨年八月に韓国側が全面公開した日韓交渉の合意議事録によっても、すべての問題について「完全かつ最終的に解決した」ことが改めて確認された。つまり、韓国民が日本政府を相手取って損害賠償を請求する法的根拠はなく、韓国が国内措置として対応するしかないことが改めて確認された。
一方、中国の場合はどうかというと、昭和四十七年の日中共同声明、昭和五十二年の日中平和友好条約によって「戦後処理」がなされたが、賠償・請求権問題については、共同声明において「中華人民共和国政府は、日中人民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と規定されただけであった。
つまり、先に見たような詳細な請求権協定が結ばれたわけではないため、中国では、共同宣言で放棄したのは国家としての「戦争賠償」であって、中国国民が損害賠償請求権を放棄したわけではないという主張もある。
しかし、これも共同声明交渉の前提を考えれば間違った議論と言える。日本側は一貫して賠償請求権問題は解決済みということを前提として交渉し、その立場は日中共同声明においても貫かれたからである。というのは、中国との戦後処理問題は、交戦当事国であった中華民国（蒋介石政府）との間で日華平和条約（昭和二十七年）によって決着済みだからである。この日華条約はサンフランシスコ条約といわばセットで締結された条約であり（事実、日本はサンフランシスコ条約において中国についての請求権を放棄させられている）、こうした枠組みを変える訳には行かないと一貫して主張した。
これに対して、中国側は日華条約を無効とする立場から、賠償請求権そのものが中華人民共和国にあると主張し、その権利を放棄するのだと主張したが、日本の主張と妥協するため、共同声明では「請求権の放棄」という文言から「権」を削除し、単に「賠償の請求を放棄する」との規定で合意したわけである。つまり、この規定は、サンフランシスコ条約・日華条約に対する態度が違う日中双方が、いずれの立場に立っても、賠償・請求権問題はすべて解決したことを確認できる規定だったと言える。実際、周恩来は田中訪中直前の段階で「台湾の蒋介石はすでにわれわれより先に賠償を放棄した。共産党の度量は、蒋介石より広くなければならない」と述べている。中国も中華民国と同様の請求権放棄を前提としていたことは明白である。
◆「ナチス犯罪」に補償したドイツ
さらに、日本はドイツと比較して補償額が少ないこと、さらには日本の場合は個人への補償でない点をあげて、日本の「戦後補償」がなされていないなどという主張について検討しておこう。
確かに、ドイツは巨額とも言える補償を行ってきた。その額は、一九九九年段階で日本円に換算して約八兆円とも言われ、そのうちかなりの部分が個人に支払われている。さらに補償の一部が年金の形で支払われ続けているため、最終的には十兆円を超えると推定されている。
一方、日本が条約に基づいて支払ったのは、韓国への賠償・準賠償（条約と同時に締結された無償供与など）合わせて約六千二百億円（供与時）。ドイツと比較すれば一桁違うではないかというわけである。
しかし、これこそとんでもない間違った比較と言える。ドイツの補償は、大まかに言って、連邦補償法、対イスラエル協定、連邦返済法、西側十二ヵ国との包括条約という四つの法律や条約に基づいて支払われているが、これらはすべて「ナチス犯罪」の被害者が対象である。
例えば、補償額全体の過半を占める連邦補償法による補償は、「ナチズムに対する政治的反対あるいは、人種・信仰または世界観の故に、ナチの暴力的支配下で迫害された人々に対して不正が行なわれた事実」に基づくものである。イスラエル関係の補償は、言うまでもなくユダヤ人集団虐殺という典型的なナチス犯罪に対する補償であり、連邦返済法による補償もナチスによって不法に接収された財産（主としてユダヤ人の財産）の返却・弁済であり、西側諸国との包括協定もナチス犯罪による不正に対する補償である。
要するに、ドイツの補償とは、人種、信仰などを理由として生命、身体、財産などの損害に対するものである。つまりはナチス犯罪に対する補償なのであり、戦争行為とは直接の関係を問わないものなのである。また、であるが故に、個人に対して補償する他ない性格のものでもある（対イスラエル協定を除く）。
この点こそ、日本とドイツの補償問題を比較するにあたって最も重要な点と言える。戦争裁判で言えば、ドイツを裁いたニュルンベルク裁判はナチス犯罪を「人道に対する罪」として裁いた。一方、東京裁判では、「人道に対する罪」で有罪になった被告はなく、問われたのはすべて戦争に伴う法規違反だった。
つまり、日本はドイツの「ナチス犯罪」と比較できるような不法行為を行っていないということである。従って、日本は講和条約とそれにともなう戦勝国と敗戦国間の戦時賠償、国際法や国際慣例が想定している通常の戦後処理を行った。
これに対して、ドイツは、通常の戦後処理では裁けない「ナチス犯罪」を行ったために、まずその補償が行われ、戦争賠償問題は棚上げされた。一九五三年のロンドン債務協定では、最終的な平和条約が締結されるまでは戦争賠償問題は棚上げすることで合意しているが、現在、ドイツ政府は五十年以上経ったことなどを理由にもはや賠償問題は存在しないとの立場をとっているというだけの話なのである。
要するに、ドイツが行った多額の補償と日本が講和条約など踏まえて支払った賠償や請求権の処理とはまったく性格の違うものであり、それは戦後問われた問題（つまりは戦時中に行った行為）がドイツと日本ではまったく違うものに由来するということである
◆放棄させられた在外資産
もう一つ、われわれが知らなければならないことは、賠償支払いなどの戦後処理は当時の日本にとって決して容易く実行できたのではないということである。
日本が支払った六千二百五十三億円については、一般予算が七十兆円にものぼる今日の感覚で見れば、少額と思えるかもしれない。しかし、昭和三十年代の日本の経済力を考えれば、到底少額と言えない金額だからである。
例えば、最も早く昭和三十年に賠償協定が結ばれたビルマの場合、賠償、準賠償は合せて九百億円だったが、供与を開始時の政府予算はわずかに九千九百億円にすぎなかった。いかに十年払いとは言え、これは一般歳出の九％にも相当する。また、フィリピンとの賠償協定が結ばれた昭和三十一年の政府予算は約一兆円余り。この時代に、二十年の分割とは言え、予算の三割近い賠償（賠償・準賠償合せて二千八百八十億円）を支払うことは決して容易なことではなかったはずだ。
韓国との協定が結ばれた昭和四十年でさえ、予算は一兆七千六百億円であり、外貨準備高は十八億ドル。この当時に三億ドル、つまり一千八十億円を無償供与し、さらに二億ドルを有償供与しているのであるから、決して容易いものでなかったことは確かである。その意味で、日本が行った戦後処理が少額だなどという主張は、戦後の日本人の努力を無視したものと言ってもよい。
しかも、こうした賠償に加えて、実はほとんど議論されないのだが、膨大な額の事実上の賠償も行われていることを明記しておきたい。
それは戦前の日本が海外で保有していた在外資産の放棄である。政府が海外にもっていた預金などの公的な資産から、満州や朝鮮半島の鉄道、工場、果ては個人の預金、住宅に至る私的資産まで、これらすべてが放棄させられたのである。
この在外資産の額は、集計した機関によって方法も違い額に大きな差があるなど、明確な数字は出されていない（例えば、日銀の調査では千百十億ドル、大蔵省在外資産調査会は二百三十七億ドル。ただし、日銀集計は申告によって集計、調査会集計は公的資産と主要企業のみで軍と個人は除外）。しかし、その額が膨大なものであることは確かであり、大蔵省が編纂した『昭和財政史』は「これこそ最大の賠償」と表現しているほどである。言うまでもないことだが、連合国が日本に持っていた在日資産は、完全な保全・回復が日本側に義務付けられ、そのすべてが返還されている。
この在外資産放棄は、サンフランシスコ平和条約（第十四条ａ項２）によって行われた。サンフランシスコ条約というと、賠償について日本の資産が「完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される」（第十四条ａ）としていることから、日本に対する賠償規定は「きわめて不十分」「日本に対して有利」だとする主張もあるが、在外資産を公私の別なく没収したことをもってすれば、賠償について決して不十分であったなどとはまさに言いがかりというべきである。
いずれにしても、日本は誠実に賠償・補償を実行してきたことだけは確かであり、その意味で、賠償・補償が「不十分」であったとの主張、またドイツと比較して日本の戦後処理を非難する主張は、事実に基づかない政治的主張と言わざるを得ないのである。
〈『明日への選択』平成18年5月号〉