2009-06-10
ユーザがなぜ頭が悪いか?
2回ほど書いた過去のモデムビジネスについてのエントリで、頭の悪いユーザをだましているだけじゃないか、のようなコメントがいくつかついていたので、そこだけ、もうちょっと説明したい。だいたい、ぼくはユーザのことを頭が悪いと思っていない。
およそものづくりをする人間にとって、気がつきにくかったり、忘れがちになる重要なことある。ほとんどの人間はあなたのつくったものに興味もなければ、大事なものとも思っていないということだ。しかも、あなたのつくったモノやサービスのユーザであってすらも例外ではない。
自分の仕事で他人の人生に影響あたえることができるなんて本当にまれな幸運な出来事だ。
ふつうは、自分の細かいこだわりとか思いなんてものは他人には、まったく伝わらない、興味をもってもらえない。
もし、一見、ユーザが馬鹿にみえるとしたら、その理由は、彼らが馬鹿だからじゃなく、基本的には興味ないか、専門じゃないからだ。
人間が真剣になにかをやったとき、本気になったとき、個人間での差は、それほど大きくならない。
アリより遅くしか走れない人間はいないし、馬よりも早く走れる人間もいない。人間の個体差なんてそんなもんだ。
人間で大きな個体差がうまれるのは、片方が本気でないときだけだ。
人間心理を読みながらマーケティングを考えるとき、このことはゆめゆめ忘れてはいけない大事なことだと思う。
くそなモデムがバカ売れした理由についても話す
この前のエントリを、サポートが評判よかったのでモデムが売れまくったという話に受け取ったひとが多かったが、それは間違いなので補足したい。
そもそも世の中にサポートが良くてヒットする商品なんてない。サポートがよくてヒットするなんてことがあったら、大変な美談になって“ちょっといい話”になるところだとは思うが、現実はもっと夢がないものなので、そもそもモデムがなんでヒットしたのかについて補足しようと思う。
サポートではモデムが売れない理由は簡単だ。サポートがよいことによる販売数量の増加効果は購入した人のリピートか、まわりのひとへの口コミ効果によってしかあらわれないからだ。つまり売れた後に中長期的に効果が現れるパラメータであって、最初に売れる理由にはならない。
じゃあ、最初に売るために必要なのはなにかというと、まあ、人間がモノを購入する過程をモデル化して以下の順序で脳内シミュレーションすれば推測が可能だ。
(1) ユーザがどこで商品のことを知るか。
(2) どういう情報でユーザは購入を判断するか。
(3) (1)のユーザの数はどれくらいか、(2)の割合はどれくらいか?
まあ、簡単にいえば、どこでどれだけユーザに露出をして、購入にまで結びつけるかということをパターンで分類してよくよく考えてみるということだ。
モノが楽に売れることを目指すときになにを狙わなければいけないかというと2つある。ひとつは世間一般に、このジャンルといえば“XX”が一番有名、もしくは売れている、または無難っぽい、という”常識“をつくることだ。
もうひとつは顧客が存在する導線をたくさん味方につけることで、具体的には有力な販売店で一押しの商品にしてもらうということだ。
モデム以前にぼくが手がけた商品は米国Diamond社のビデオカードだったりAdaptec社のSCSIカードだったり、既にワールドワイドでブランドが確立しているものばっかりだった。そういうもののマーケティングは楽勝だった。コアなユーザはすでにネットでも情報交換されているから、たんにちゃんとした日本語版がでて、サポートも受けられるということをアピールすれば、まず、顧客の指名買いがはじまる。そうすると秋葉原などでの有力販売店は基本的にユーザに媚びるから、自動的に店頭でそのジャンルの売れ筋のポジションを獲得できる。
当時は雑誌の影響力はかなりあったから、日経パソコン、DOS/Vマガジン、アスキー系の3つに広告をだしておけば、客、販売店双方の認知度と信頼度はあがり安心して買える雰囲気ができる。あとは記事を書いてもらうのにてっとりばやくて多用したのは外人だ。外人というのは素晴らしい。とにかく米国から有名企業の重役がきてインタビューを受けるというとだいたい取材にきてもらえた。
あとは並行輸入をやっている販売店をひとつひとつまわって日本語版もおいてもらえるように説得した。別に米国の仕入れルートをつぶす必要なんてなかった。価格差は2割高くなるぐらいまでに押さえるだけで十分だった。それぐらいの価格差だと、ユーザが日本語版を選ぶし、サポートの保証無い製品を売るリスクの面倒くささを考えると、マージンがたいして変わらないのなら、結局、販売店も日本語版を売ることに力を入れる。
モデムの場合はこれらのノウハウは使えなかった。同じやりかたでやるなら当時US.Roboticsという製品が一番有名でここの代理店権を獲得するのが正しかっただろう。ところが、モデムというのは性能の差がほとんどでない製品であって、だから、ブランド力の対価として比較的高価な値付けをしているUS.Roboticsを日本にもってくると、国内のアイワ、オムロンなどと価格競争力がでない分、不利だ。
また、JATEという認可を国内でとる必要があって、日本版をハードウェアから生産する必要があった。なのでUS.Roboticsというビッグネームとの取引はコミットする数量が高くなる方向に作用するだけで、ビジネスリスクも増える。そう考えてモデムについては、低価格な台湾からOEM調達し、自社ブランドを一からつくるという初めての手法で勝負することにしたのだ。
なにしろ聞いたことのない自社ブランドなので、コアユーザ間での世論の後押しはまったく期待できなかった。そうなると信頼性の低さを値段の安さでカバーする商法が一般的だ。しかし、それだと儲けもすくないし、それはそれで競合もたくさんいるから、数量もさほどでない。
そこでぼくが考えたのが当時はだれもやっていなかったおまけソフトの大量バンドル作戦だ。DOS用のパソコン通信ソフト、FAXソフト、Windows用のパソコン通信ソフト、FAXソフト、インターネットブラウザを数量コミットして低価格でライセンスをうけて全部バンドルした。全部バンドルというのが重要だ。それは店頭での質が高くないことが多い販売員でも説明が楽だからだ。ブランド力がない段階では、最大の告知手段は店頭だ。
手に取っただけで、全部のソフトがついていて簡単安心と思えるパッケージづくりに時間をかけた。最終版のパッケージデザインができるまで3回ぐらいダメ出しをして、つくりなおした。製品の発売スケジュールを遅らせてもパッケージの完成を優先させた。
これでいけそうだと思えるパッケージのサンプルができたときにすぐにそれをもって秋葉原のショップをまわった。自社ブランドのモデムなんてうれないよって断言していたソフマップの有名バイヤーが、ぼくらのもってきた化粧箱のサンプルを見た瞬間に、その場で200本の発注をくれた。モデムそのものはみせていない。ブランドもないというか発表すらしていない箱だけの製品だ。
そして価格設定である。アイワ、オムロンの場合は店頭価格が3万円前後だったので、たぶん25000円ぐらいでショップは仕入れていたのだと思うが、それよりも安い21000円で卸して、“希望”店頭価格を28000円ぐらいでショップには説明した。そうするとマージンは7000円となり、アイワオムロンでの5000円よりもショップは儲かる。かくして無名のモデムは発売初日から秋葉原の有力ショップでアイワオムロンよりもいい場所で平積み販売されることになった。
しかし、いくら28000円ぐらいで売ってくれと希望しても、商品力がなければすぐに投げ売りがはじまり値崩れをおこすので意味はないのだが、実際は飛ぶように売れた。むしろアイワ・オムロンの無骨な段ボールの箱よりもユーザは店頭でぼくらのモデムを選びたがり、しかもすぐ品薄になったので、店頭価格は逆に31500円に跳ね上がった。卸価格は変わらなかったから、ショップにとってみたら、あるジャンルの売れ筋商品が突然5割マージンをのっけて売れるようになったということだ。そりゃショップも力をいれて販売する。
雑誌には評価記事用の貸し出しはまったくしなかった。どうせ、無名ブランドのモデムなんてあんまり興味ないだろうし、書いてもらっても、読者が買いたくなる記事ができるイメージがまったくもてなかったからだ。
雑誌には記事は書いてもらわなくても広告は掲載した。そのときにこだわったのは掲載位置だ。表まわり(裏表紙、裏表紙の裏、表紙をひらいた次の見開き)以外は出稿しなかった。無名ブランドが広告を掲載するのは店頭で興味をもった商品を購入する最後の一押しとなる安心感を与えるためだ。アイワ・オムロンよりもいい位置に掲載されていなくては意味がない。そしてパッケージと同じく安心・簡単・なんでもはいっているというメッセージが伝わるような広告にした。
ちなみにふつうは常識的にモデム本体の写真をでかく表示するのが常識だが、なにしろ台湾のOEMだし、費用と時間がつくるのでオリジナルの筐体用とかつくってない不細工な本体だったので、よくわからない程度にすごく小さくしか表示しないことに気をつけた。
以上が、モデムが売れるためにぼくがやったことだ。売れたこととユーザサポートはあまり関係ない。ただ、そこで足をすくわれてその後の販売に悪影響がでなかったというのはある。
ただ、そのあともモデムが売れ続けたのも原動力はバンドル商法だった。一番、最初の通信ソフトのバンドルは1年もせずに他者が真似してきたのは想定内だた。よりコストの安いOEM調達元に切り替えたタイミングで、モデム本体の性能は変わらないのだが、筐体の形状がかわったので、バージョン2ということにして、バンドルソフトを追加して売り出したら、これも売れまくった。
競合他社に真似できないバンドル商品ということで考えたのが、自社モデムユーザ専用の無料プロバイダをつくることだ。光回線256KbpsとISN1500で23回線しかないプロバイダを見よう見まねでつくってみた。ユーザに無料配布するID/PASSが数十万件あったので、認証用のRADIUSサーバだけフリーのソースコードのバックエンドをMSのSQLサーバに置き換えれば楽勝だとおもって、見積もりをとったら700万円といわれたので、結局、自分で土日をつかってソースコードを書き換えた。ちなみに、それが、ぼくが自分で書いた最後のプログラムになった。
無料プロバイダ以外になんかおまけをつけれないかと思って、なにか、通信ゲームがいいだろうというので、世界中を探して見つけたのが、FPSの原点といえる名作ゲームDOOMを電話回線をつかって対戦するパソコン通信サービスであるDWANGOだ。DOOM以外にもIPXをつかったLAN対戦ゲームのほとんどに対応していた当時としては画期的なサービスだった。さっそくモデムのおまけにつけるためだけに米国にいってライセンス契約を締結し、日本でDWANGOサーバの運営を開始した。
さすがに無料プロバイダもゲーム専用パソコン通信サービスも競合他社は追従してこなかった。日本の会社は競合会社のやることを真似するという戦略をとることが多い。これを許すと消耗戦にひきずりこまれる。そのためには、量と質を競合会社が真似することが不可能なところまでにもっていくことが重要だ。そうすると、一部だけ選択して真似することをはじめ、結果、まがいものだったり2流品であったりといういわゆる“劣化コピー”のイメージがつきやすい。
最後に、ぼくの我流なマーケティングでよく使う思考法について説明する。ぼくは上に書いたようなマーケティング上の施策をすべて脳内で簡単な数理モデルにあてはめていって数値的なイメージを持ちながら考える。数理モデルといってもたいしたものじゃなくて、実際には思考のフレームワークに数学のアナロジーを用いているだけだ。ぜんぜん数学でもないし、厳密な議論でもない。
たとえばモデムをある数量売るということをテーマにした場合に、サポートがいいというのは2次微分の係数に関係する話だと、ぼくは考えることにしている。なぜ2次かというと、さきほどの説明のようにサポートは売れる本数じゃなくて、売れた後の販売数量の増減にかかわってくるパラメータだからだ。ものを売ることを考えるには、基本は1次微分の係数にかかわることを中心に考えなくてはいけない。母数となるのは雑誌だったら発行部数だったり、お店だったら、その店で一ヶ月に売れるモデムの総数とかをあてはめる。
そのなかである割合が自社製品を購入してくれわけだが、その数値がマーケティングの施策によってどういうように上下するかを見極めることが大切だ。その数値を直接上下させる要素はかなり限定される。価格とかはわかりやすい。こういうものは一次微分の係数としてぼくは考える。サポートとかは直接には購入比率の上限には貢献しないが、長期的には購入者からのフィードバックという形で影響する。こういうものは2次微分の係数として考える。同様に3次微分に相当するマーケティングの施策も考えられるが、3次以降は通常無視していい。
ブレストとかやると、いいアイデアというのがたくさんでてきて、どれもやったほうがいいよね、でも全部はできないね、という話によくなるが、まずはアイデアが、目標となる数字にたいして、何次元的にプラスの作用をもたらすのかというのを考えてみるのは有効だ。具体的に数値をあてはめて定量的な類推をするのには相当な経験が必要だが、次元だけなら、まだ、入り口としては、わかりやすい。
マーケティングに計算式とか数値を多用するひとをみていてよく思うのは、自分のつくった数理モデルに対する過度な信仰だ。信仰にも似た自信は、自分のモデルが現実と一致しているかではなく、現実から数理モデルへの抽象化のプロセスがどう教科書的に理にかなっているかで担保されている。
で、不確実な部分をなぞのパラメータxにあてはめて、このxさえ計算できれば答えはでます。みたいなことをいったりする。式自体は理論的に正しいというわけだ。そしてここはいきなり勘です。といってxの値をだしてくる。
およそ現実の問題を数理モデルにおきかえるときに、一番、難しいのは実用的な数理モデルをつくることであって、たいていの場合はほとんど不可能に近い。不完全なモデルを試行錯誤しながら、現実と照らし合わせて、より矛盾が少ないものへと変化させていくことになる。
なのでモデルは基本的な構造を理解することが重要で、パラメータの推定は都度検討して現実と乖離しないように調整していくほうがいい。そう思って、ぼくは、いつも脳内でいい加減なモデルをつくってはこわしながら、つぎになにをすればいいか考えている。
2009-06-05
自分の考えたアイデアを内緒にしたがるひと
企画をするという仕事はどういうものなのかについて書いてみる。
よく企画屋と自称するひとがいるが、ぼくは企画屋という職種は存在しないと思っている。
パワーポイント屋ならよくいる。パワーポイントできれいな資料をつくってくれるひとだ。
とても便利な存在であり必要な存在だ。
まあ、企画をやっていますというひとのほとんどはパワーポイント屋であるといってもいいと思う。ところが、それを自覚していないひとが意外と多い。なにか自分の仕事をすごくクリエイティブなものだと思っている。気の利いた素敵な特別なアイデアをひらめかせることを仕事だと思っているひとが多い。そして、そのひらめきを才能とか能力の賜物と勘違いしていて一生懸命磨こうとしている。実際はそんなの無駄でひらめきというのは訓練で手に入る汎用の能力ではなく、豊富な経験と知識の結果としてあらわれてくるものだ。だから、アイデアだすのに頭ひねるよりも先に勉強しろよ、ということだ。
さて、勉強したとしよう。でてくるアイデアというのは、算数でいえば計算結果にすぎない。
5X7=35 という計算式に例えると、
(a) 経験と知識 → 5とXと7という記号を知っていて、計算式を理解できること
(b) ひらめき → 一桁の数字2つをかけざんする計算能力
(c) でてくるアイデア → 35
にそれぞれ相当する。このなかでもっとも価値が低いのは(b)で、企画に必要とされるロジックなんでだれでも理解できるようなものしかないから、人によってほとんど差はつかない。(c)も(a)から簡単な(b)をつかって導き出されるだけだから、結局のところ、(a)のぶぶんがどれだけのパターンに対応できるかということが、一番重要ということになる。
ところが現実的には、ひらめきをロジックではなく乱数かなんかと勘違いしている企画者が多くて、計算式から連想しただけのほとんどランダムな数字をセンスとかいう言葉でごまかして答えとして提出しようとする。いや、正しい答えを出すのに、足らないのはセンスじゃなくて、知識と経験だから。
ようするになにがいいたいのかというと、知識も経験も足らない人間が、後生大事に自分の思いついた計算結果を内緒にしていても意味がないということだ。アイデアを他人にぱくられるのを恐れているのは非常に滑稽で、アイデア自体に価値なんてない。同じ知識と経験をもつひとは、だれでも同じアイデアは思いつく。だから、本当にアイデアをぱくるためには、背景となる知識と経験までぱくる必要がある。そこまで含めてぱくられる程度のアイデアだったら、しょせんその程度の価値でしかないということだ。
まあ、ぱくるぱくられる以前にそもそも知識も経験もないひとが思いつくアイデアなんて、あっているにせよ、平凡なので無価値。まちがっていたら、ゴミでしかないわけで、いずれにせよ価値がない。
なんで画期的なアイデアを思いついたひとは、よほど自分の知識経験の量に自信があって”だれにも”負けないとか思っているのでなければ、他人に話して意見をきいたほうがいい。たぶん、間違っているか、すくなくとも画期的ではない平凡なものであることにきづくだろう。
例えば自分の価値判断の情報ソースをはてな界隈とかのブログにたよった知識でおこなっているひとのアイデアは、必然的にotsune氏以下になるということだ。
ああ、あともうひとつ追加。もし本当に画期的なアイデアだったら、背景となる知識・経験が他人とちがったものになっているはずなので、しゃべっても絶対に理解してもらえないから大丈夫。おれの過去の経験でも大成功するプロジェクトは、だいたいキックオフ会議の雰囲気が最悪になる。「あー失敗プロジェクトに関わってしまった」というものいわぬ顔で満ちあふれる。そういう企画が成功する。そういうアイデアに価値がある。
結論:おれがせっかく好意でアドバイスしてやろうといっているのに、アイデアを内緒にされるとむかつく。
2009-06-04
ユーザサポートでめちゃくちゃ感謝された経験について話す
もう15年前にぐらいになるが、僕の仕事のやりかた、ユーザにたいしてどうやって向き合っていけばいいかについての信念を決定づけたある事件について語ってみようと思う。ほぼ懺悔にも近い。
ぼくが企画したモデムがバカ売れした。無名のブランドだったのにもかかわらず発売した瞬間に、秋葉原のショップで1番の人気モデルになった。理由は他者のモデムが無骨な段ボール箱にはいっていて、いかにもコンピュータの部品っぽかったのに、ぼくのモデムはカラフルな化粧箱をつけて、とても初心者が使いやすそうに見えたからだ。実際、簡単そうにみえる化粧箱をつくるのに何回もつくりなおして半年以上もかかった力作だった。
当時windows95が登場してインターネットが話題にのぼりはじめたあたりで、いままでマニアのパソコン通信ぐらいしか用途がなかったモデムをインターネットという単語に引き寄せられた大量の初心者が買い始めた時期で、とにかく簡単そうに見えた僕の企画したモデムは売れまくった。
ところが簡単そうに見えたのは外側だけで、中身をあけるとマニュアルは貧弱な8ページのマニュアルがはいっていた。僕が週末の土日を2日間潰して、一太郎でつくったやつだ。版下はプリンタで印刷したものをそのままつかったみすぼらしいものだった。ようするに簡単そうにみえて買ったユーザから、つかいかたがわからないという電話が殺到したのだ。
なにしろ買うのは初心者だ。とにかく一日中サポートセンターの電話がなりっぱなしになった。10時から、17時までのサポート時間。2回線しかなかったサポートセンターの電話はつねにふさがってしまった。いろいろしらべてみたが、どうも電話回線を10倍の20回線ぐらいにしてもさばけないぐらいの電話がかかってきているということがわかった。そもそもスタッフがぼくをいれても4人しかいないから、20回線つないでもどうしようもない。
それでぼくがどうすればいいのかを必死に考えた結論として、まず、急ぎの対策として、2回線のサポート電話を1回線にへらしてみた。95%のひとがつながらないのも97.5%のひとがつながらないのもどうせ大差ないと思ったからだ。
サポート電話がつながらないという販売店からの苦情をきいた社長が僕の机まで飛んできて怒鳴りつけられた。4人全員で電話を受けろ、サポート時間を延長して残業してでもできるかぎりの電話を捌け、それが客に対する誠意だ、と叱責された。そんなに激怒した社長を見るのは初めてだった。
いや、ぶっちゃけそこまでやっても無駄ですからやりませんと僕は初めて社長と喧嘩をした。強引に社長の指示を拒否して、ぼくがやったのはマニュアルのつくりなおしだった。サポートを1回線にしたことで浮いたスタッフひとりといっしょにわかりやすくてカラフルなマニュアルを大急ぎでつくりなおして登録ユーザ全員に発送した。また、それだけでは不十分だと考えて、当時、でたばかりのショックウェーブをつかって、音声と写真でモデムの接続と設定をナビゲーションしてくれるマルチメディアマニュアルをつくってユーザへ無料配布するCDROMに同梱した。
結果、どうなったかというと、配布して直後に大量の感謝の手紙がサポートセンターに届き始めた。買ったあとにもサポートされるなんて思ってもみなかった。パソコンを買って、こんなに親切な対応をしてもらったのは、はじめてだ。自分みたいな初心者にも本当にわかりやすいマニュアルでありがとうございます。など。
そしてサポートにかかってくる電話も急激に減り、たまにかかってきた電話も、みんな恐縮した電話ばかりになった。こんなに丁寧なマニュアルがついているのに、つかえないのは自分が悪いんだと思っているからだ。
実際には当時としては画期的にわかりやすいようにみえるマルチメディアマニュアルもケーブルをつなぐところをコネクタの写真から説明するあたりは衝撃的にわかりやすいが、Windowsの設定になるとやっぱりわかりずらく自動とはいいがたいつかいずらさだったんだけど、そのことも初心者のユーザには判別できない。だから、設定できないのは自分が悪いせいだと思いこんでメーカーへの不満は生まれない。
もちろん、ヘビーユーザにはあまり評価されることのないモデムで、ぼくがユーザだったら買わないだろう商品だったが、大多数の初心者ユーザにはサポートも含めて顧客満足度のずばぬけて高い商品になったのだ。結果、1年足らずのうちにリテールマーケットではシェアがトップになった。
この一連の出来事は、僕のマーケティングに関する考え方を決定づけた大事件だった。ぼくがつくづく痛感したのは以下のようなことだ。
・ ユーザへの真摯な対応はたんなる自己満足であって伝わるとは限らない。
・ お客様本意のサービス設計をするときに重要なのは、お客様が本当に得をするかどうかではなく、どう感じるか、どう行動するかを想像することが重要だ。そのとき想像が具体的なほど、全員がそうじゃないので、対象となるお客様の人数も想像すべき。
・ 細かいことをいくら一生懸命やっていても、基本、否定的・懐疑的なユーザには効果はない。ユーザの意識を一変させるには、よほどの明確な差別化をしないとだめ。いったん味方になったユーザは細かい気配りに感動してくれる。
われわれは、サービス・商品を設計する場合に、漠然とした空想の中のお客さん像をつくりがちになる。よくよく考えると、自分で現実にいるとはイメージできないお客さんは、やっぱり現実世界にも実在しないことがほとんどだ。でも、まわりから教わったビジネスのノウハウ、常識・マナーといったものを無意識のうちにどんどんあてはめると、気がついたら、架空のお客様像相手にマーケティングをしてしまっている。現実にいそうなお客さんを想像し、次にそのお客さんがどのぐらいの割合でいるのかを考えることがとても重要になる。
そういったことをできるためにベースとなるスキルは人間に関する知識を持つことだ。多くのマーケティングもどきをやるひとはユーザを想像するときに、自分のなけなしの知識と上司からの指示・同僚からのアドバイスをよせあつめた架空のユーザをつくるか、自分の趣味をあてはめるか、どちらかのパターンしかできない。どういう育ち方、経験をしてきたひとがどういうことを考えて、どういう気持ちになるか、それをたくさんのパターンで想像できないといけない。でも、ほとんどのひとって他人の気持ち、行動っていうものをあまり真剣に考えない。
そこで、ぼくが思うのは人間が本当に他人の気持ちを考えるのは恋愛をしているとき、それもまだ実っていないときとか、ふられそうなときぐらいじゃないんだろうかということだ。そういうときって同じことを何時間、何日間、何週間も考える。10秒ぐらい考えたら出る答えが気に入らなくて、受け入れることができなくて、1万回ぐらい考えたりする。人間は普段、とくに仕事では、そこまで集中して、他人の気持ちは、なかなか考えない。
なので、ぼくはマーケティングを仕事にしたいと志すなら、出会い系サイトでナンパしてみるのが有効じゃないかとアドバイスをすることにしている。それも必勝法的なノウハウをおぼえるんじゃ意味がなくて、自分で考えて、何度もひどい目にあうのがいいんだと思う。メールの相手の女の子が、サクラだったり、同じサクラでも、女の子のバイトじゃなくて男だったり、そもそも人間ですらないロボットかもしれないという世界は、現実のマーケティングで遭遇するだろう世界ととても近いと思う。
a1121
相手の気持ちを考えたい→恋愛する のは、小説家だけで十分だと思います。仕事での利益や自分の能力向上のために恋愛しようとしても、結局ゲームでしかなく(どっちが勝った負けた)、あたたかい気持ちのやりとりはできなくなってしまうと思います。好きだから結果的に○○になるという方が傷ついてしまうかもしれないけれど、人間らしい恋の仕方だと思うし、自分もそのようでありたいと思います。当初のマーケティングの目的を忘れてしまうくらいに好きになる相手ができたらいいですね。ご検討を祈ります。
nsoderland
現実の人に売り込むためには 失敗を取り込んで
理解することと 受け取りました。よい助言でした。
2009-06-03 日本のwebがレベルが低い理由
梅田望夫さんの記事が話題になっている。
日本のwebがサブカルチャー分野を除いて、米国よりも遅れている。米国では頭のいいひとが使っているが、日本だと馬鹿が使っている。まあ、こんなかんじの主張として受け止められていて、批判をずいぶんと浴びているようだ。
梅田氏のおもうレベルの高いネットの使い方というのは現実をパワーアップさせるツールとして用いることらしい。
当然、現実をパワーアップさせるためだから、現実世界でも能力の高いひとがネットをつかってさらにパワーアップするというイメージなのだろう。そして米国にくらべて日本のネットにいるひとが優秀ではなくて馬鹿ばっかりだという感覚があるのだろう。
おそらく、ここの認識に根本的なずれがあると思う。
梅田氏は早く日本も優秀なひとがネットをつかいようになってほしいと願っているんだろうが順序が逆だ。日本は米国よりも遅れているのではなく、米国よりもすすんでいるので、”馬鹿”が優秀なひとを駆逐しただけにすぎない。日本のほうがネット文化は5年から10年ぐらいは先を進んでいると思う。
梅田氏が思っている日本の”馬鹿”とはなんだろうか。それはネットをつかいこなし、ネットの情報に精通するヘビーユーザのことだ。現実社会に住み、ネットをツールとして利用するために一時的にネット社会に腰掛けている現実社会で優秀な人ではない。どちらかというと、現実社会では居場所がなくて、暇がたくさんあるひとたちである。
梅田氏が彼らが”馬鹿”と思おうが、ネット社会において”馬鹿”がヒエラルキーの上位になるのはあたりまえだ。日本はネットをツールではなく住み場所として選んだ”馬鹿”がとても多いという意味で世界の一歩先をいっているネット先進国なのだ。
日本でネットをツールとしてつかうひとたちはネット上では”馬鹿”たちのせいでみえにくくなってしまった。それは時代の進化の必然だ。いま、むしろ梅田氏のいう優秀なひとたちがいるのはケータイネットの世界だろう。現実世界でもハイレベルなひとたちはPCネットはつかわなくてもケータイネットは使っていることが多い。
しかし、おそらく海外に住む梅田氏は日本のケータイ文化のことはしらないだろうし、しっていてもケータイこそが彼の理想だとは思わないと思う。
今後、ネットにすみはじめたひとと現実にすむひととの折り合いがどうなるか、ケータイとPCのネット社会がどのように融合していくのか、それが今後のネット社会の未来を決めるテーマであって、そのこたえは世界中のすべての国のなかで、まず日本が示すのだと思う。
misojionna
ここ数日、梅田さんの事を書いた記事を色々読みましたが
一番しっくりとしました。
2009-06-01
コンテンツの2次創作が重要な理由
フェアユースの議論が、ぼくにはどうにもなじめないので書いてみる。
なじめないというのは、現在、おこなわれているフェアユースのテーマはコンテンツの質をあげてより面白く、素晴らしいものにするという観点がまったく欠けているからだ。
米国先導で推進されているフェアユースの本質は、いわば21世紀版”囲い込み運動”であって、ネットにおける覇権というものを確立するために都合のいいような制度に変えようというだけのはなしだ。
コンテンツ業界の利益とかはあんまり考えられていない。犠牲にしてもかまわないという判断は働いているのだろう。もしくは、犠牲にしようというつもりすらないぐらい、考慮されていないのだろうと思う。
ネット時代においてフェアユースがある国とない国ではネット産業の競争力に大きなハンデがつくので、フェアユースを認める流れ自体は変わらないとは思う。なんで、現状の議論自体がどうなるかについて、そっちにはまったく関心がない。
じゃあ、なにをいいたいのかと思うと、世界的にもフェアユースの考え方にはコンテンツ主体のアイデアはまったくないというのが現状だと思うから、日本はコンテンツ主導のフェアユースの考え方をつくったほうがとくじゃないかと思うのだ。
そのほうが中身のあやふやというか、たいした内容も意味もない「日本版フェアユース」という言葉も生きてくるというものだ。
コンテンツ主導のフェアユースつうのは、適当に、いま、でっちあげた言葉なので、なにがいいたいのかというと、検索における引用だとか、サムネイルだとか、ネット産業があたらしいビジネスをつくるときに既存のコンテンツを利用しやすくするためのルールだけじゃなくて、コンテンツ産業があたらしいコンテンツをつくるときに既存のコンテンツを利用しやすくするためのルールをつくりましょうということだ。
こういう話をすると、ようするにユーザがつくるMADとかの二次創作が面白くてオリジナルコンテンツの宣伝になるから認めるべきというよくある主張なのかと思う人がいるかもしれないが、そんな表層的なことをいいたいわけではない。
ぼくが主張したいのはクリエイターのクリエイティビティを確保・維持するためには、コンテンツ制作の難易度をさげていくことが、とても重要だということだ。
現代においては、コンテンツがマルチメディア化、高度化していくにしたがって、コンテンツ制作のハードルはどんどんあがっている。
一番わかりやすいのはゲーム産業だ。かってゲームビジネスはもうかってもうかってしょうがなかったが、現在のゲームビジネスはかなりギャンブルに近い。
理由はCPUの性能があがってできることが増え、プログラム容量も肥大化し、3DCGなんかもつかいはじめてコンテンツの制作コストがあがっていく一方で、ユーザが細分化されていって、作品あたりの売り上げ本数が落ちているからだ。
ネットでのコンテンツビジネスも似たようなことが発生する潜在的な可能性はもっている。ただ、ゲームビジネスとちがって、幸いなことにネットのコンテンツビジネスはまったく儲からないので、そもそもそこに新たにコストをかけたコンテンツを投入するプレイヤーはあらわれないというのが違いだ。なので現状はネット以外で成立しているコンテンツを二次利用というかたちでネットに供給するというのが現在の落としどころになる。
ただ、この構図は既存のコンテンツビジネスにネットが寄生しているだけで、もし、CDやDVD、TVCMの売上が今後減少していく中でオリジナルの市場が消滅したとすると、ネットにコンテンツは提供されなくなる。
このままいくとプロのコンテンツは死滅して、UGCばかりがネットにあふれる結果になりかねない。
重要なのはネットからの乏しい収入で成り立つようなプロがつくるコンテンツの世界というものが、まず、ないといけないと思う。本当は乏しい収入じゃいけないし、現状のコンテンツ産業の市場規模までもってくポテンシャルはネットにはあると思うのだが、すぐには無理だ。
そう考えると、ぼくはコンテンツ産業を守りたいのであれば、優先度が高いのは、ユーザがMADをつくる自由よりも、プロがMADをつくる自由じゃないかと思う。
ユーザの自由は、ぶっちゃけ、なし崩し的なかたちもあって、現状、半分認められている状態に近い。プロは完全に駄目だ。ということはネットでコンテンツをつくるのにプロのほうがハンデがあるという状態だ。これじゃ勝てるわけがない。MADはひとつの例にすぎなくて、プロがコンテンツをつくろうとするときの制約は他にもいろいろある。だれがうつっているか、なにがうつっているか、テレビだとすべてに権利処理が必要だ。そのルールをそのままネットに持ち込んだときに不利になるのは既存のコンテンツ産業だ。
コンテンツ産業が成立するためには、現実のマーケットサイズにあわせてコンテンツの制作コストを下げるというのと、アマチュアとつくるコンテンツと差別化することが必須条件で、そのためにはコンテンツ制作するためのルールを変える必要があるというのが、コンテンツ産業にとっての攻めのフェアユースの議論になるのではないだろうか。
もうひとつ、ぼくが2次創作とかを自由にしたほうがいいと思う理由は、そのほうが個人にクリエイティビティの主導権がもどってくるだろうからだ。また、ゲームの話にもどると、RPGがここまで量産される中、シナリオは本当にクソばっかりだ。わりあいシナリオがましなのは、ゲームシステムがこなれて、ほぼ固定化されているものだ。
人間を感動させるコンテンツは大勢の会議から生まれるものではなくて、究極的には個人がつくるものだ。ところが、ここまで表現方法が多様な世界では、クリエイターが表現方法のすべてに携わることはほとんど不可能になる。クリエイターとしてスタート地点にたつために政治力と権力が必要になったりする。
個人がもういちどクリエイターの主役になるために、2次創作の自由と分業がスムーズにできる仕組みが必要なのだと思う。いまネットで既に進行中のことだ。そしてそれが本当に必要としているのはユーザではなくて、コンテンツ産業なのだとぼくは思っている。
>ひらめきをロジックではなく乱数かなんかと勘違いしている企画者が多くて
納得です!!納得っていうか共感です!!
僕はデザインをやってるんですけど、デザインを理解していない人はまさに閃きを乱数だと思っている人ばかりです。
今までその勘違いを指摘したくてもいい言葉がなかったんですけど、これからは「乱数」って言葉を使わせてもらいます。