2009-05-03
外部サイト「食品添加物を巡る諸問題」(長村洋一氏)
著名な「食品添加物批判」批判者のお一人、同協会理事長の長村洋一・千葉科学大学教授、通称「多幸之介」氏による論説。
食品添加物を巡る諸問題 その1
http://www.ffcci.jp/wp-content/uploads/2009/01/kaiho_2-2-2.pdf
はじめに
健康食品管理士認定協会の設立の大きな目的はH14年2月21日付厚生労働省医薬局から出された「保健機能食品等に係るアドバイザリースタッフの養成に関する基本的な考え方について」に基づいている。このガイドラインには10項目の重要な事項が記載されているが、その中の第6項として「食品および食品添加物の安全性や衛生管理等に関連する知識」があげられている。健康食品管理士認定協会の大きな設立目的が「健康食品を含めた食の健康に対して有する意義および食の安全・安心に関するリスクコミュニケータ−の養成」にあり、健康食品管理士となられた方は健康食品に限らず食に関する安全・安心に関する情報を的確に把握することが重要な課題である。私は、直接的な健康食品ではないが、食品添加物の世界には、「えせ学者」や「食品添加物の神様」と自称される方が一部マスコミでも食育の重要な話題提供者として取り上げられ、国民をだまし討ちにあわせているような深刻な問題が大きくなりつつあると感じている。
ことの発祥は一昨年秋に食品添加物の販売に携わっておられた著者がご自分の経験を基に食品添加物の使用方法の実態を暴露された本を発行されたことに始まる。この著者の書き方は、科学的には何でもない問題に対して極端な表現が多く、読んだらびっくりするような書き方がしてある。私もこのベストセラーが、比較的化学分野から遠い方から絶賛されているのは分かっていたが、自分の周りのしっかりした研究者はみな「茶番」と歯牙にもかけないので、たいした問題ではないとあまり問題意識もなかった。
しかし最近、私が関与した市民講座等でうける質問から、食の問題や環境問題にかなりまじめに取り組んでおられる方がこの著書に心酔しておられ、添加物全般に対するバッシングに走り始め、遂には業界もこの流れに迎合し始めて「無添加」表示が価値ある商品としてイメージ作りに一役果たしだしていることが判明してきた。私はこの流れには前述のようなリスクコミュニケーターとしての健康食品管理士の方にはその責任として竿をさして頂く必要性を感じ始めている。そこで、食品添加物に関する問題点をこれから数回にわたり掲載させて頂く。
まるで麻薬のような「白い粉」という表現
前述の本の著者は、皆さんに「白い粉」から豚骨スープを作って見せますよ、と言って聴衆の目の前でいくつかの試薬瓶に入れた粉を混ぜ合わせて豚骨スープを作って見せたり、食用油と乳化剤を混ぜて乳白色の溶液を作ったりしている。このようにして、まず聴衆がよく知っている身近な食品を化学薬品のように勘違いさせた物質から合成しているように見せかける。そして、皆さんが豚骨ラーメンとして食べているスープは化学薬品のみからできており、コーヒーフレッシュのミルクだと思っているのは実は油に化学物質を混ぜてできていて牛乳、生クリームには無関係なものだと言ったりして聴衆をあっと驚かしている。
ところで、試薬瓶に入った「白い粉」というのは一般の人にはいわゆる合成化学薬品と映っている。演者はそこがねらい目である。その実演と講演を聴き、感激をした何人かの人に直接出会って聞いているが、その人達は異口同音に「薬品」を混ぜ合わせて本当に豚骨スープやコーヒーフレッシュができたのにはびっくりしたと言っておられた。一般の人には合成化学薬品は、天然には存在しない怖いものというイメージがある。その怖い薬品を何種類か混ぜ合わせて自分が食べたことのある豚骨スープができあがっているから化学に縁の薄い人のその驚きは尋常ではない。このパフォーマンスを見ながら講演を聴いた人々は、非常に驚いて、こんな怖いものからラーメンのスープができているのか、と幾分の疑問を持ちながらも目の前で起こった現実に「私は確かに、化学薬品からスープが作られる現場を見た」という驚きを胸に刻み込んでしまう。そして、スーパーで改めて豚骨スープの表示欄を見ると、講演で聴かされた化学薬品が確かに書いてある。これで、実験を見た人の恐怖感は完成の域に達し、演者のもくろみは成功する。
「白い粉」の大半は食品そのものの乾燥品
では、現実にはどうなのか?その著書によれば豚骨スープは図1に示すような組成である。すなわち、「食塩」「グルタミン酸ナトリウム」「5'-リボヌクレオチドナトリウム」「たんぱく加水分解物」「豚骨エキスパウダー」「ガラエキスパウダー」「野菜エキスパウダー」「しょうゆ粉末」「昆布エキスパウダー」「脱脂粉乳」「ガーリックパウダー」「ジンジャーパウダー」「オニオンパウダー」「ホワイトペッパー」「甘草」「リンゴ酸」「ねぎ」「ごま」である。実際、我々がもし豚骨スープを実験室で作成するために、いわゆる出入りの試薬屋さんに注文すると「食塩」「グルタミン酸ナトリウム」「5'-リボヌクレオチドナトリウム」「リンゴ酸」以外は扱っていないので食品メーカーに注文してくださいとの返事が返ってくる。すなわち、この組成そのものは、大半が実際の食品であり、この本には豚骨スープの一滴も入っていないと書いてあるが、豚骨エキスパウダーまで入っている。
これらを「試薬瓶」に入れ、いかにも化学物質のように見せているわけである。化学に縁遠い人達からは、これらはすべてダイオキシンなどにつながる「怖い化学物質」のように見える。しかし、これらを化学薬品の販売メーカーに注文したら買える物は前述のように4品しかない。残りは全部食品メーカーに注文しないと入手できない。
そして、購入できるのは、塩化ナトリウムの「食塩」、「グルタミン酸ナトリウム」、「5'-リボヌクレオチドナトリウム」と「リンゴ酸」のみである。食塩は我々に必須のミネラルであり、グルタミン酸は蛋白代謝に欠くことのできない重要なアミノ酸であり、5'-リボヌクレオチドナトリウムも核酸の重要な代謝産物であり、リンゴ酸はTCAサイクルのメンバーとして重要であっていずれも我々の体内には非常にたくさん含まれており、食品としても摂取しなければならない物質である。
いいかえれば、食品添加物としての使用量で摂取した場合、毒性などという問題は全く考えなくても良い物質のみである。しかも、「グルタミン酸ナトリウム」、「5'-リボヌクレオチドナトリウム」は有機化学合成ではなくトウモロコシや、サトウキビの糖分などから発酵法によって作られている。これら4つの化合物は、生きてゆくためにはきわめて重要な物質である。そして残りの試薬のように見せかけられている物質は全て食品そのものである。
やっていることはインチキ大道芸人と同じ
しかし、試薬瓶にこれらを入れて混ぜ合わせ「白い粉」から皆さんの大好きな「豚骨スープ」ができましたとやってみせる。これがいかに馬鹿なパフォーマンスか、本質的には乾燥味噌に水を注いで「はい、茶色の薬品から味噌汁を合成しました」といっているようなインチキ大道芸人の姿でしかない。化学の分かる人だったらこのパフォーマンスを見せられたら笑ってしまうが、化学から縁遠い人にはそうでもないところに深刻な問題が内在している。さらには、これをテレビの番組で紹介し、スープを飲んだタレントが「私やば〜い」などと大声をあげてびっくりしたりして何か悪いものを飲んだように報道されている。このように、メディアもこの馬鹿げた大道芸を取り上げることにより食品添加物は怖い化学物質といった情報つくりに一役買っている。
ただ一点、この著者に弁解を許すとするならば、この世の中の物質はすべて化学物質で構成されているという点で、化学物質から作ったという言葉は「厳密な意味で正しい」と言える。しかし、もし、こんな弁解をするならば「ふざけるな」の一言を浴びせたい。この著者によって目から鱗が取れた人は、化学の専門家ではない人たちばかりである。何故かと言えば、講演を聴いて目を開かれた方々は皆「自分たちが食べている豚骨スープが、実は有機合成された化学物質の固まりだと認識して食品の見方が変わった」と言っておられるからである。化学の世界で天然物を抽出して「これは有機化学的に合成しました」と言えばいわゆるデータの捏造であり、一般社会でこのような行為のことを「だます」という。
その結果が引き起こしていること
さて、私が問題としたいのは、このようなまやかしは、一般市民の方々が抱いている化学薬品に対する必要のない心配に、心理的根拠を与えて過剰な不安を抱かせてしまっていることである。実際に、あるコンビニのホームページに次のような記載がある。そのコンビニは限りなく食品添加物の無添加に挑戦しており、その理由を「現在、我が国には食品添加物の使用に関する厳しい規制があり、加工食品などに使用しているものは全て科学的な実験によって安全性を確認したうえで、厚生労働省の認可を受けています。しかし、その一方で、食品添加物を不安視するお客さまも少なくありません。そうしたお客さまの声にお応えするために、・・・・・・・・・・・」と記している。食品添加物の安全性とその有用性についてまともな知識の人が読めば、気の毒にと感ずるようなことをしなければならないほどに業者はすでに追い込まれ始めている。このようなインチキ大道芸人のパフォーマンスの結果は一般の方々に不要な不安を与えるだけに、まさに、一種の詐欺行為または犯罪行為と言ってもよいほどあくどい行為である。
数年前に「買ってはいけない」と警鐘をならす書籍が販売され大ヒットをしたことがある。この書籍は改訂版が今も出されているが、食品添加物の毒性を種々の観点から取り上げ、そうした添加物が入っている食品を写真入で公開したものであった。特に初版が刊行された時には、その多くの商品は大手食品メーカーのものであるのでかなりの読者が一度は口にしたことがあった。そこで、自分が食べている食品にとてつもなく怖い物質が入っていると教えられたために、この本が出版された時には非常に大きなセンセーションを巻き起こした。
しかし、その指摘された食品は相変わらず販売され、一般市民も心の隅に「食品添加物って怖いものだな」という考え方の種だけを植えられてやがては忘れ去ろうとしていた。その後も、幾つかの類似本が出されたが、一度「買ってはいけない」に洗脳された人々にとってそれらの書籍は「食品添加物って怖いものだな」ということを再確認するのみで結局はそれ以上のことはなかった。ところが、一昨年に出された食品添加物暴露本は、こんなに危険ということもさることながら、こんなに汚いとか、こんなものを食べさせていては食に対する考え方が破壊される、といった精神的側面から食品添加物の攻撃がなされている。そして、この精神的側面のあることが、教育にも取り入れられている「食育」という、最近流行の問題と関連があり重要な指摘だと錯覚させている。そこで、この著者の大道芸と語りがもてはやされ、化学に縁の薄い人たちへの意味のない恐怖心が蔓延している。
すなわち、「買ってはいけない」ではもっぱら食品添加物の過剰表現による危険性を煽り立てることにあったが、今回は食品添加物の化学物質的側面を強調して、精神面からの煽り立て攻撃が行われている。そのため、いつも自分が口にしているものはこんな作り方がしてあったのか「気持ち悪い」とか、「美味しいと感じて食べている」ことはこんなに悪いことをしているのかと悟りを開かされている。そして、まともに食品を買うときに深刻に悩んでおられる方が最近非常に多くなっている現状を私は目の当たりにしている。
かつての「買ってはいけない」に始まった「食品添加物って怖いものだな」という何とはなく心の隅で育てられていた「恐怖感」は、この精神面からの攻撃によって磐石なものになり、いまや食品添加物は多くの人々にとって無添加こそ最高の食というようにとらえられてきている。
そして、この恐怖の煽り方はさらに「このように非常に多数の食品添加物を混合して起こるかもしれない複合的な化学反応については厚生労働省も全く調べておりませんので何がおこるか分かりません」と付け加えられている。複数の食品添加物の相互作用により何かが起こる可能性については回を改めて論ずるが、例えば生体にもともとかなりの量が存在する「食塩」、「グルタミン酸ナトリウム」、「5'-リボヌクレオチドナトリウム」、「リンゴ酸」を食品中に添加することで新たな毒性物質が合成されることを心配して添加をやめなければいけないと考えるまともな化学者はいない。
化学物質は全て怖いものではない
今回は、やたら食品添加物は怖い化学物質という図式を強調して一般の人をとまどわせている現状の一端にメスを入れてみた。私の経験からすると、市民講座などの受講者として熱心に勉強をされる方でさえ、理系でない方には、ごく普通の化学物質であっても、化学名で聞かされると何か特殊な怖い響きを与えてしまうものである。それは、この人たちが不勉強なのではなく、かつて砒素ミルク中毒事件、水俣病、カネミ油症、イタイイタイ病と言った食品公害によりいわゆる化学物質で苦い思いをさせられた国民としての当然の感覚であるのかもしれない。こうした人たちに向かって、グルタミン酸、グリシン、コハク酸、クエン酸などと生体に存在する非常に重要な物質をやたら並べ立て、さらには酢酸をわざわざ氷酢酸と言ったりして食品に添加されている現状が紹介されている。そして、今では食品添加物の中でれっきとした位置を占めているうまみ調味料のことを化学調味料と表現している。
この化学調味料という言葉に対しては、一般市民の大半の方は何かの化学物質を元に有機化学的に合成されている物質であると感じておられる。この調味料に該当するもので我々の体内にもともと存在しない物質は一つもない。しかも、うまみ調味料という立派な総称がある。全てのうまみ調味料は生体内の極めて重要な基礎物質であり、その調味料としての合成は、サトウキビやトウモロコシの糖分を発酵させて作られている。
このように発酵させて作られた物であっても、食品添加物として粉末となっている物質を見せられると我々は「化学調味料」という言葉に納得をしてしまうものである。しかし、これを有機合成された危険な化合物のように扱うのは、麦やブドウを発酵させ、蒸留によってアルコールが濃縮された「ウイスキー」や「ブランデー」を化学合成飲料という表現をするような奇妙なことと同じである。すなわち、うまみ調味料を化学調味料として問題視することは、ほとんど日常的な食品成分を、単に化学物質名を使用して化学に無知な人々に対していたずらな恐怖心を引き出しているに過ぎない。
終わりに
「白い粉」という言葉は通称麻薬をさすことが多い。著者はその著書の中に「忘れていけない添加物の利点」という見出しを設けて、私は「決して添加物を攻撃することを目的にはしていない」と訴えている。そして、食品添加物の利点に溺れることなく食生活を見直すことを勧めている。こうしたところどころに垣間見せている著者のせりふには、ふと共感を覚えるものもある。
しかし、「白い粉」という麻薬のような表現を用いていることからも明らかなように、この本を読んだ人は最終的には「食品添加物は可能な限りなく排除しなければいけない」と確信をする。確信に至るまでの経過において、読者はこの著者は今までの「買ってはいけない」のような世の中の人に恐怖を煽り立てているわけではなく食文化を語っていると感じて共鳴しているだけに、この確信には精神的な基盤が大きく関与している。
食品添加物を巡る諸問題 その2 量を無視した危険論のナンセンス
http://www.ffcci.jp/wp-content/uploads/2009/01/kaiho_2-3-2.pdf
ある大都市の消費生活センターの講演で食品添加物の話をしたときのことであった。私の講演が終了するやいなや、待ちかまえていたように非常に真面目そうな主婦の方が質問をされた。その問答は次のように行われた。
質問者「今日の先生のお話は大変分かりやすく良く理解でき勉強になりました。そこで、一つ質問があるのですが、ソルビン酸のような保存料はどんなにたくさん食べても絶対に問題がないですか?」
長村 「いいえ、講演の中でも申し上げましたように大量に摂取すればどんな物質でも健康に被害がでます。」
質問者「ほら、先生は食品添加物は安全だと言っておられますが、量の問題でごまかしていらっしゃるじゃないですか。先生は安全だとおっしゃってもたくさん食べれば毒になるわけですから実際には危険じゃないですか」
長村 「いいえ、ですから食品添加物として取る量では問題が発生する可能性は無いと申し上げているのです。そして、保存料を添加することによる利益を考えたら加えた方が良いと申し上げたのですが、・・・・」
質問者「私がお尋ねしているのはどんなに大量に食べても保存料は絶対安全かどうかを聞いているのです。」
長村 「ですから、大量にとればどんな物質でも毒になります。しかし、食品添加物として摂る量では何の問題も起こりません。」
質問者「先生の理論は間違っていると思います。大量に摂れば毒だと言うことが先生も分かっておられるではないですか。ですから本当は毒物を少しなら安全だとごまかして見えるではないですか」
長村 「ですから、毒性があるかないと言う点から申し上げれば先程のスライドにもありましたように食塩でもアルコールでも大量に摂れば死にます。どんな物質でも大量に摂れば毒性がです。」
質問者「何回も申し上げますが、私がお尋ねしていることは、保存料はどんなにたくさん食べても安全かと言うことです。先生は大量に食べれば体に悪いが少しなら安全だという言い方で毒物を安全だとごまかして見えるではないですか」
長村 「ですから先程から何回もお答えしているようにどんな化学物質も量がすぎれば・・・」
この問答は同じような話の繰り返しでしばらく続いたが、理論がかみ合わないのは質問者に量の概念がないために生じているトラブルである。この会場におられた多くの聴衆は私の講演を通してどんな物質も量の問題が大切で、量が過ぎれば毒性がでるという話を理解しておられた。そのため、私と質問者の押し問答にも似た議論の中で質問者に量の概念が無いことは分かる人には分かっていた。会場ではこの質問者が「先生のお話はよく分かった」と最初に言っていたが、結局は私の話した量の概念の問題を全く理解していなかったことを露呈していたので、その質問に嘲笑的な笑いを投げられる方が一部おられた。
安全か危険かは量によって決まる
毒性学の分野では重要な概念となっている「どんな物質も毒物である。それが毒物になるかならないかは単に量の問題である」という言葉がある。食塩、酢酸、クエン酸というような我々の生活に非常に密着した化合物にも立派にLD50がある。従ってこれら身近な化合物も量の問題を間違えれば立派な毒物となる。実際、保存料として悪の権化のように語られているソルビン酸であるが、そのLD50はラットの経口投与で10.5g/kgであり、酢酸(3.3g/kg)や食塩(3.9g/kg)に比較しても、毒性が低いことが明らかにされている。食品添加物を気にせずに食事をしている人たちの一日に摂取しているソルビン酸の量は数mgと計算されている。一方、食塩は健常者であれば多くの場合1日5g以上摂取している。こうした点から考えてソルビン酸の毒性は現実の問題としては全く問題にならないと考えてよい。
しかし、この概念は説明されたときには何となく納得しても気持ちの問題として納得をできない人がいわゆる一般の人たちには非常に多い。ある物質の危険性について量から物事を判断することのできない人達と議論をした幾つかの経験に基づく問題点を挙げてみる。
食品添加物の危険度を表記した書籍にビタミンC(アスコルビン酸)が避けるべき食品添加物としてあげられている。その理由のところには「毎日10g以上摂取すると尿路結石になる可能性があるという報告がある。」と記載されている。ビタミンCは過剰摂取により尿路結石発症の可能性は否定できないのは事実である。しかし、ここで問題とすべきは量である。
抗酸化剤としてビタミンCは非常に良く使用されている。たとえばペットボトルのお茶には例外なく添加されている。そして、緑茶などの場合は酸化を非常に受けやすいカテキンが多く含まれているからもしビタミンCの添加なしで保存しようとしたら味は数時間でも大きく変化してしまう。試しに緑茶をいれ、耳かき一杯ほどのビタミンCを添加したお茶とそうでないお茶を作成して数時間後に飲み比べてみれば簡単に分かる。ところで、その食品添加物としての効果が分かったところで、心配される健康被害の問題であるが、耳かき一杯のビタミンCで尿路結石を心配するのは余りにも愚かである。こう説明すると、酸化防止剤としてのビタミンCはお茶以外にも非常に多く用いられているから一日に摂取する量はかなりになりますと主張される。しかし、いくら種々の食品を摂取したところで10gを超えるような量の摂取はあり得ない。
ところが、ビタミンCの話を持ち出すとビタミンについては我々の体にとって必要な物だから仕方がないが、保存料は絶対に加えるべきではないと主張される人がいる。まず、保存料が必要ないという考え方のおめでたさを問題にしたい点もあるが、その人達のおっしゃる理論は「ビタミンCの摂りすぎは我々の体に必要な物であり、その量が過ぎただけであるが、保存料は元々我々の体には存在しない物なので、そういう物は必ず毒性がどんなに少なくともあり、その量が多なった時に毒性がひどいのです」と話される。
すなわち、元々自然界に存在する物は例え毒性を出したとしてもそれは軽微であるが、自然界に存在しない物は例えどんなに微量であっても毒性があるという奇妙な理論を唱えられる。この理論は自然界に存在する物質は体に優しいと信じている人達にはそのようなイメージを与えているだけに納得をしている一般人は非常に多い。しかし、科学物質の毒性はその物質の化学構造と量によって決定される事項であって自然界に存在する物は安全で化学合成品は毒性が強いという考えは明らかな誤りである。
一日摂取許容量の意味
食品添加物の多くに一日摂取許容量(Acceptable Daily Intake(ADI))が設定されている。法律によって食品添加物はその使用量が決められているが、その使用量を決定するための非常に重要な根拠となるのがこのADIである。ADIは次のような手続きを経て決められる。
まず、食品添加物としての候補となる化合物をマウスなどの実験動物に与えて、その実験動物が毎日一生食べ続けても絶対何も障害が発生しないと推測される量を決定する。そして、マウスなどが一生の間毎日摂取しても何ら問題がないと考えられる最大の量を最大無作用量と決定する。
このようにして決定された最大無作用量の100分の1をADIと設定している。この100分の1は安全性を考慮して決められた数字である。それはこの最大無作用量が実験動物によって決められた値なので人間に適用するにはその10分の1にしてさらに、食品添加物は大人、子供、男性、女性さらには健常者、病弱者といった様々な人が摂取するので年齢、性差、健康状態などの差異を考慮してさらに10分の1という値を決め、結局10分の1と10分の1を掛けて100分の1という値を出している。従ってADIは実験に基づいた一生食べ続けても何も健康障害が発症しないと予測される量である。
最後に法律で規制されている実際の食品に対する使用許可量であるが、これはADIの更に何分の1かになっている。この全体的な量と健康障害の可能性の関係について保存料を例として図1に示してみた。すなわち保存料の観点からのみ効果を考えれば量が多ければ多いほどその効果は強くなる。しかし、その量が極端に多ければそれは人間にとって致死量となり、致死量に至らない場合はその量に応じて中毒量、作用量と少なくなるに従って健康に対しては影響が無くなってくる。そして何ら作用を及ぼさないと実験的に確かめられた最大無作用量の100分の1をADIと定め、さらにその何分の1かを使用量と定めている。そして、図2に東京都のホームページに掲載されていた食品添加物の使用実態調査の結果を示した。この図を見ると明らかなように実際に我々が食品から摂取している食品添加物の量は大半がADIの更に100分の1以下である。言い換えればADIの1万分の1以下である。
この量から計算をしてみると、例えば保存料の添加された佃煮を保存料で健康障害が発生するほど大量に摂取しようとするならば通常10g位食べる佃煮をその1万倍、すなわち10万g食べなければいけない。ばかげたことであることは非常に明確である。しかし、この話を聞いても「先生のお話になられていることは良く分かるのですけれどやっぱり毒物が入っていると言うこと気持ち悪いですよね」と言われる方がいる。それは確かに感覚的には言われていることに無理がないようにも取れる。従って何も加えない方が良いという主張が成り立つように見える。しかし、必要のない物であるとするならば、何故保存料を加えるのかという原点に戻って良く考える必要がある。保存料の添加は勿論食品の腐敗を防ぐことである。食品の保存が利くということは消費期限、賞味期限が長くなると言うことであるが、もう少し具体的に考えるとその本質は食べても食中毒にならない状態で食品がおいておけると言うことである。
消費期限、賞味期限が長くなることにより明らかに食品が無駄にならなくて済むことは地球環境規模で見て極めて大切なことである。私は平成12年より昨年の3月まで名古屋市の生ごみ資源化検討委員をやっていた。その時に大きな問題となったのは消費期限、賞味期限切れ食品の廃棄の問題であった。すなわち、昨今のスーパー等で購入する食品は消費期限や賞味期限が切れた瞬間に食べられなくなるわけではない。現実に期限に関係なく自己判断で食べている人も多いが期限が切れたものは子供には絶対食べさせないなどと捨てておられる方もかなりの数ある。
行政サイドから「消費期限や賞味期限が切れても自己判断で大丈夫そうだったら食べましょう」などと言うことは言えるわけでもない。しかし、本当は食べられるものを実際に捨てているということも大変気になる事項であった。図3に平成17年度のいわゆる生ごみの発生量を示してあるが家庭から廃棄されている生ごみは食品廃棄物のごみ全体の57%も占め、決して無視のできない量である。
そして、もう一つ注意してみたいことがある。それは日本の食糧自給率を示した図4である。
平成17年度の実績を示した物であるが、カロリーベースで40%、飼料自給率に至っては25%と30%を下回っている。逆に言えば日本の飽食が諸外国の食物を集めて来ての結果であることは極めて明白である。ところで世界の人達の食糧事情はどうかと言うことを見てみると、世界中の人々のうち、3人に一人は毎日飢餓に苦しみ、3人に一人は今日の食事がやっと取れ、3人に一人がいわゆる先進国の人々と言われ、食べても太らないことを願っている。この現状を考えるとき少しでも消費期限、賞味期限を長くして食品の無駄遣いを無くすことは地球規模で考えることのできる人類として重要なことでは無いだろうか。
先述したように現在使用されている保存料は食塩よりも毒性の低い物質であるから確かに大丈夫であると言うことを納得されてもハムなどの発色剤として添加されている亜硝酸は絶対添加すべきではないと考えている人が相当にいる。実際、亜硝酸は教科書レベルでも危険な食品添加物として扱われており、高等学校の先生などにもそのように教えられ、メディアの報道においてもかなりしっかりした学者がそうした発言をしている。
亜硝酸はソルビン酸などとは比較にならないくらい毒性が強く、アミノ酸から誘導されるアミン類と反応して発ガン性のあるニトロソアミンを生成することは試験管レベルでは極めて明白に認められている事実である。従ってハムなどの発色剤として用いられている亜硝酸は肉の中にあるアミンと反応してニトロソアミンを生成する可能性は否定できない。しかし、ここにおいても現実に亜硝酸がどれくらいの量であるかをまず問題としてみたい。
厚生労働省は健康な生活のために一日350gの野菜の摂取を勧めている。ところが野菜の中には硝酸塩がかなり大量に含まれている。多い物になると1kg当たり1gを超えている物もある。私の食生活で摂取する野菜を350g摂ったときどれくらいの硝酸を摂取するか野菜の硝酸含量を示した表から計算をしてみた。そうすると野菜の組み合わせでかなり幅があるが、多ければ500mgで少なくとも150mg位の硝酸を食べることになる。ところで、この摂取された硝酸はかなりの量が亜硝酸に変化する。実際に米国でかつてブルーベービー事件と言う事件が発生したが、これは離乳食の法蓮草に入っていた硝酸が乳児の体内で亜硝酸となり、毒性を発揮したことで発生した事件である。このような状況から考え逆算してゆくと我々は野菜から毎日数100mgの硝酸を摂取し、その相当な量が亜硝酸に変化していると考えるべきである。
ここで、例えば使用限界量まで亜硝酸が添加されているソーセージを50g食べたとしても、実際にソーセージから摂取する亜硝酸は0.5mg位である。我々の他から摂取する亜硝酸に比較したらまさに無視すべきような量である。ところが、この発色剤が添加されたソーセージは色がきれいでボツリヌス中毒を防いでくれる可能性がある。もともと亜硝酸が食品添加物として用いられるようになったのはドイツのある地方の岩塩を用いたハムは色がきれいでボツリヌス中毒にならないことから見つけ出された物である。
ヨーロッパの長いハムやソーセージの歴史の中でボツリヌス中毒を起こさず色をきれいに仕上げる素晴らしい食品添加物として見つけられたものを、量的にみたらナンセンスに近いような問題で廃棄してしまうのは愚かなことである。ボツリヌス中毒は頻繁に起こる食中毒ではないが、10余年前に熊本の芥子レンコンで10数名の方が亡くなられた事件を思い起こすべきである。亜硝酸無添加のハムやソーセージにはそんな危険性が潜んでいるのである。
量の概念のない食品添加物の神様の馬鹿さかげん
ところで、前回の会報に掲載した食品を試薬瓶に入れて混ぜ合わせ、私は化学物質で豚骨スープを作って見せるというインチキ大道芸人の食品添加物の神様は、その著書の中に次のような一説を書いておられる。
添加物として使っていいかどうかや使用量の基準がそのネズミでの実験結果にもとづき決められているのです。「ネズミにAという添加物を100g使ったら死んでしまった。じゃー、人間に使う場合は100分の1として、1gまでにしておこう」大雑把に言えばそのように決めているのです。
少し文章がおかしいが書いてあったことを忠実にコピーしたためである。この神様は食品添加物の使用量が致死量の100分の1であると思っているようである。ご自分がそう思っているのはかまわないとしても一般の人々にこんな無茶苦茶なことを伝えることは許されない。食品添加物の実際に使用されている量は最大無作用量の100分の1以下である。それを致死量の100分の1であると記載されることがいかにひどい嘘の脅し文句であるかは図1の量的な関係を見れば一目瞭然である。
化学の世界で「存在するのかしないのか」のみを問題にして、量の有する意義の分からない人は、経済の世界で言えばお金の単位が分からない人とおなじである。100円と100ドルの区別がつかない人は経済を論ずる資格がないように、化学の世界で量を無視した議論をする人は化学について論ずる資格はない。
しかも、食品衛生学の心得が少しでもある人ならば驚いてあまりあるこんな馬鹿な記述をした書籍が60万部近く版を重ねて売れても、まだその記事が訂正されもしないで書店で確固たる位置を確保している。ここにはいわゆる一般市民と科学者の大きなギャップの存在を感ぜずにはいられない。このギャップを埋めることができるのはまさに科学的な問題を量の概念で理解し、危険、安全、利益といったリスク管理の観点から物事を論じられる健康食品管理士の皆様のような知識人でしかないと確信をしている。
科学の問題と心の問題
ここまで説明しても「先生のお話になられていることは良く分かるのですけれどやっぱり毒物
が入っていると言うことは気持ち悪いですよね」と言われる方がいる。ここにあるのは安全の問題は科学の問題であるが、安心の問題は心の問題であるという現代科学の抱えている複雑な側面である。これは、人間という感情のある生き物を対照にして安全を語る場合の無視できない難しい問題であり、この質問に対する回答はある意味で無い。
かつて多くの外国人は日本人が刺身を食べると聞いて身震いをさせ驚いていた。そこにある感情は、ただ気持ちが悪いという感覚だけである。そして、そんな外国人も実際に刺身を食べている外国人を見かけ、さらには健康に良いという情報が付加されて今は多くの外国人が競って刺身を食べるようになってきた。食習慣には実際に食べて何でもない物であっても、気持ちが悪いからという理由で一部の人に食べられないケースがかなりある。そして気持ちが悪くて食べられなくなるかどうかは多くの人達がその食品に対してどのような態度を取るかで決まってくる。
食品添加物の入った食品も食べられる安全な物であっても誰かが汚い、怖いと科学的根拠の乏しい、または間違った情報をもとに騒ぎ立てると聞いた人が結局は食べるのを止めようかとなってしまう。食品添加物を使用しないことにより人々が大きなマイナスを被らなければそれはそれで良いかもしれない。しかし、食品添加物の不使用は明らかに人類に対して大きな不利益を発生させているケースがある。それにもかかわらず無添加を理想とする流れが大きく最近できはじめている。この流れは感情の問題として作りあげられて行くからメディアの無責任な報道の影響力が非常に大きい。しかし、残念ながら今のところ、非常に多くのメディアが前述の食品添加物の神様にコメントを求め、またこうした本に感動した生徒の作文が賞を取るような社会的風潮ができあがってしまっている。
こんな社会では食の安全・安心に正しい食情報を出すことのできるリスクコミュニケーターが本当に必要とされる。当協会はそのような知的集団としての活躍も行えるよう順次環境を整えて行く予定である。
(2009.5.12付記)
「量の概念」がぴんと来ない方は、500年前の錬金術師、パラケルススの言葉でも調べて欲しい。
食品添加物を巡る諸問題 その3 うま味調味料は何が問題か
http://www.ffcci.jp/wp-content/uploads/2009/01/kaiho_2-4-2.pdf
昨今の無添加ブームの中にあって最近は図1に示すような表示のある食品をしばしば見つける。そして、市民講座などでも排除対象の食品添加物として化学調味料という言葉が良くでて来る。今や化学調味料という言葉は有機合成された何か体に悪い化学物質で我々の舌をごまかしている物質のように語られている。しかし、本当にそうであろうか?
うま味調味料の発見の歴史
今多くの人から嫌われているうま味調味料のいわゆる化学調味料について少し論じさせていただく。いわゆる化学調味料のご先祖様とでも言うべき対象はグルタミン酸ナトリウムである。この物質は当時東京帝国大学の農学部におられた池田菊苗博士が昆布の旨みに注目してその成分を単離、構造決定をされたことに始まる。
うま味成分として単離されたグルタミン酸ナトリウムを少量色々な食品に添加してみると味が劇的に変化することから食材の味を一段と良くする素晴らしい物質であることが明らかとなった。すなわち、昆布のだしをいちいち取らなくてもグルタミン酸ナトリウムを添加することによって料理をおいしくすることが可能であることが明らかとなった。このようにしてグルタミン酸ナトリウムの有する素晴らしい物質としての可能性が発見された。
ところが、昆布からこの物質を抽出していては大変なので、グルタミン酸を構成アミノ酸として多く含む小麦のグルテンを加水分解して製造することが工夫され、大量に市販されることになった。そのため、このグルタミン酸ナトリウムをうまみ調味料として最初に販売したメーカーはその商品のデザインに小麦の穂を使用していた。このようにして日本では色々な料理をひと味おいしくする魔法の物質に恵まれた。
化学調味料と言う言葉には賞賛の意味があった
今は、化学調味料というとダイオキシンの親戚のような感じがして体に悪い物というイメージでかなり多くの人はとらえている。しかし、このグルタミン酸ナトリウムが食品添加物として世の中に出た当初、日本の食生活は決して豊かな状態ではなく、あらゆる物を食材として食べていた。従って、まずい物を少しでもおいしくして食べたかった。そんなまずい物をおいしくしてくれるまさに躍進する科学の勝利としての化学物質である調味料ということで、化学調味料という名称はむしろ素晴らしい物質であるというニュアンスを含んでいた。
このグルタミン酸の発見以後、小玉新太郎博士によってかつお節の旨み成分としてイノシン酸が同定され、國中明博士がグアニル酸にしいたけのうま味を呈することを発見、報告された。こうして、日本の伝統料理のおいしさを支えているうま味の化学的成分が次々と見つけられ食品添加物として使われるようになった。このことは、手軽に食事をおいしくする手段として食品製造業者から一般家庭まで広くこの食品添加物が用いられる事となった。昭和30年代には多くの家庭および大衆食堂の食卓にはグルタミン酸ナトリウムの小瓶がおいてあり、それをあらゆる食品に振りかけていた時期もあった。これは、日本人が第2次大戦から復興してまずい食材を少しでもおいしくさせてくれるある意味で貴重な添加物であった。
そして、昭和35年に慶応大学医学部の林髞教授は条件反射の研究で有名なパブロフの研究所への留学後「頭の良くなる本」という本を書かれ空前のベストセラーとなった。林教授はグルタミン酸ナトリウムが脳内でγアミノ酪酸(GABA)に変化し、これが重要な神経伝達物質になることを分かりやすく大衆に伝えた。この本の記事を契機としてグルタミン酸を大量に摂取することに抵抗が比較的うすくなっていた。
やがて発生した中華料理店症候群
そこへ追い打ちをかけるように次のようなことが発生した。グルタミン酸ナトリウムを販売していたある会社が、食卓に置く振りかけようの小瓶のキャップの穴を少し大きくした。このことにより、グルタミン酸ナトリウムの売り上げが大幅に伸びたことが、経済学関係の一工夫の語りぐさとして今も伝えられている。逆に言えば大衆は知らない間に多量のグルタミン酸ナトリウムを摂取させられる状態になった。そして、間もなくグルタミン酸ナトリウムを空腹時に多量に摂取したとき感受性の強い人に、灼熱感、顔圧迫感、胸痛、頭痛などを主徴とした症状がおこることが、Schaumburgらにより報告され、中華料理店症候群(CRS)と呼ばれ、グルタミン酸ナトリウムに関する危険情報が発信された。その少し前当たりに日本では水俣病、イタイイタイ病、ヒ素ミルク中毒事件など公害的な原因での化学物質による悲惨な事件が次々と発生していた。また、バターイエローのような食品添加物に強い発がん性が報告され、使用禁止になるようなことも大きなニュースとして伝えられた。こうした報道は多くの国民に化学物質、特に合成化学物質に対するそこはかとない恐怖心を植え付けた。この恐怖心を日本では天然物は安全であるという根拠の薄い理論によってカバーしているのが現実である。
さらに、アメリカでは食品添加物に対して「量に関係なく発がん性が少しでも認められる食品添加物は使用禁止にする」というデラニー条項が添加物に適用され、非常に多くの食品添加物が使用禁止になった。日本もこれに追随して多くの食品添加物が使用禁止になった。このデラニー条項は「量に関係なく」という点に大きな問題があり、現在ではこの条項に対しての過剰反応が問題視されている。事実、幾つかの消えていった食品添加物のうちには通常の使用量の何百倍もの量を一生食べ続けた時に僅かに発がんの危険性が増加するようなものまで禁止にされた。後に取り上げるチクロなどもある意味でこの条項の過剰反応によって禁止されたと私は考えている。
そして危険な化学物質へ祭り上げられた
こうした次々と報道される化学物質の危険性は多くの国民になんとはない化学物質不安感を育て上げた。そんな矢先に報道された中華料理店症候群は「やっぱりグルタミン酸ナトリウムは良くないのだ」という確信と共に「化学調味料」というネーミングで華々しくデビューしていたこの物質の化学という部分の不安要素が強調される結果を導いた。この中華料理店症候群はその後の2重盲検法を用いた厳密な実験で完全に否定されている。何よりも脳神経の研究者の多くがこの事実を否定している。しかし、一端報道されたこの問題は今なお多くの人に信じられおり「グルタミン酸ナトリウム」は危ないという根拠にされている。
さて、ここでこうしたうま味調味料を化学物質として排斥しようとしている人達の幾つかの理論について検証をしてみたい。まず、化学調味料という言葉に対しては、一般市民の大半の方は何かの化学物質を元に有機化学的に合成されていると感じておられる。しかし、たとえばグルタミン酸は最近ではサトウキビやトウモロコシの糖分を発酵させて作られている。そして、イノシン酸、グアニル酸といった調味料も皆天然物から抽出し、生成されている。このように発酵させて作られた物であっても、食品添加物として粉末となっている物質を見せられると我々は「化学調味料」という言葉に納得をしてしまうものである。しかし、「化学調味料」という言い方は、麦やブドウを発酵させ、蒸留によってアルコールが濃縮された「ウイスキー」や「ブランデー」を化学合成飲料という表現をするような奇妙なことである。
おいしく感ずることは悪いことか
次にグルタミン酸ナトリウムなどの使用は昆布を使わずして昆布のうまみを感じさせているが、「料理を美味しく感じさせられるのは手抜き料理であり、だましであり本物の料理ではない」と主張される。しかし、これはうま味調味料の発見の経過とその本質を考えてみると非常に愚かな議論である。「本物の味」という何か素晴らしく聞こえるこの単語に向けて食材を選択し、「手作り」といった要素を入れることによりそれは最高の料理のようにもてはやされる風潮がある。また、食材は極上の部分のみを使うことが理想のように感じさせられて、まだ食べられる部分を大胆に捨てることをグルメと勘違いしている人もいる。そして、うま味調味料に対しては食品添加物を使って食べられないような食材を食べさせることに利用している。こんなことは直ちに辞めるべきだという人達もいる。
しかし、私は「まずい物をおいしく食べさせることの何が悪いのか」ということをまず申し上げたい。このまずい物をおいしく食べるという事の素晴らしい話として私はドイツへ留学していたときのことを良く思い出す。それは、30年近く前になるが、私は当時西ドイツのデュッセルドルフ大学糖尿病研究所に留学していた。その時に私の共同研究者から「長村、お前はオックスシュバンツズッペを食べたか」と聞かれた。オックスシュバンツズッペというのは英語では「テールスープ」と言っている牛のしっぽのスープのことである。しかし、私はまだ食べていなかったのでいないいと回答したところ、「おいしいから是非食べなさい。あれはドイツ人の誇るべき料理だ。」と説明した後で彼は非常に面白いことを話してくれた。「オックスシュバンツと言うのは牛のしっぽの事だけれど、良く考えてみろ、牛のしっぽというのは牛の肛門のそばにくっついているために毎日うんこまみれになっている。そして、食べようと思えば非常に堅くて筋ばかりなので焼いても煮てもまずくて食べられないようなところだ。しかし、我々ドイツ人はそこを何とか食べようと色々な野菜や香料を加えて長いこと煮込んで始めて食べられるようにしたのだ。」とおよそこんな話であった。
私がドイツへ行った30年前にはマクドナルドは今ほど普及していなかった。そのために、日本でハンバーガーと呼んでいるメニューがドイツでは「ゲハックネスステーキ(挽肉ステーキ)」となっていた。そして、しばらくしてからハンバーガーの語源はドイツのハンブルグであることを知った。それは、ハンブルグからアメリカへ移住した人達が貧しい生活の中で骨から削って取ったような肉を少しのまともな挽肉と混ぜてステーキにして食べていたことにあったと聞いている。
すなわち、オックスシュバンツズッペもハンバーガーも今はおいしい料理の一つかもしれないが、元はと言えば食べられないような肉を工夫して食べた結果の産物であることである。まさに「もったいない」の一言で、食べられないような食材を工夫して何とか食べられるようにしてきたのが人類の食文化の一つの在り方である。そして、食べられるところを限りなく食べると言うことは我々の食のために殺されている動植物へのせめてもの供養であると私は考えている。この「もったいない」の精神を教えることこそが命の大切さを教える食育の基本を支える一つの事象であるとも考えている。
本当に味覚がダメになるのか
ところで、もったいないの考え方は良いにしても「食品添加物は味覚をダメにするから与えてはいけません」という意見が存在する。この意見に対してネーチャーに出た論文を基に日本うま味調味料協会は「うま味調味料を常時使用しても味覚の感覚が衰えるということはありません。わたしたちの口の中には、食べ物の味を受け取る「味細胞」と呼ばれる細胞がたくさん存在しています。この味細胞は約10日間で新しい細胞と入れ替わります。」という記事を出している。しかし、現実には「調味料(アミノ酸等)と書いてある食品をできるだけ子供に食べさせないでください。子供はそれを美味しいと感じて味覚が駄目になるからです。本物の食材の味が分からなくなります。」と言うことが自称食品添加物の神様という方の書かれた本に記載してある。
食文化破壊論に対して
私はこの理論は時代錯誤的見解であると考えている。もともとうま味調味料というのは人間が食材をおいしく感じる化学的成分として単離された物である。そして、そのうま味成分を生化学的に見ると面白い共通点にぶつかる。次に掲げるのはいわゆるうま味を感じさせる幾つかの物質であるが、いずれも生体に存在する生化学的には極めて重要な物質のみである。そして、これらは勿論人工的に合成された自然に存在しない化学物質ではありません。言い換えれば細胞が直ぐ役立てる事のできる重要な物質を我々はおいしいと感じているのである。
そこで、おいしいと感ずるから子供に食べさせないでください、という理論に対して私は次のような話をさせて頂く。
ピアノやバイオリンの音はとっても美しい音である。その音の本質は空気がある波形で振動することである。では、ピアノやバイオリンでなしに空気を電気的に振動させたら一体どうなるだろうか。限りなく楽器に近い音が出せることが明らかとなった。そして、電気的に空気を振動させるシンセサイザーという楽器が音楽の新しいジャンルを構成している。
まさにうま味調味料はこのシンセサイザーに相当する。うま味の本質を化学物質によって感じさせる事によって新しい食文化を開いていると言っても過言ではないと私は考えている。うまみ成分をすべて食材から引き出しなさいという理論は食文化の一つのあり方である。逆に、抽出された特定のうまみ成分を添加して料理をおいしく感じさせるのは新しい日本の食文化である。それを使ってはいけないと言うのは、シンセサイザーを楽器でないというのと同じである。エンヤ、喜太郎などは私の好きなミュージシャンであるが、それを音楽でないというのはかまいません。しかし、好みの問題である。ピアノやバイオリンのみが音楽であるとの主張は愚かである。
うま味調味料の使用によって食塩の使用量は減る
さらに化学調味料と言ってうま味調味料を排斥する人達が良く話される内容に「化学調味料グルタミン酸ナトリウムはナトリウムが入っているから食塩の使用量が減ると言うのは嘘です」とさも理論的に装って低レベルの嘘が語られる。しかし、化学的に作られたダシと言っても良いうまみ調味料により食塩の使用量が減ることは実験的に証明されている重要な事項である。「だしを効かせて食塩を減らす」は高血圧料理の基本である。事実、図2に示す煎餅菓子は学生に食べさせると塩味はほぼ同じと答えるが、その食塩相当量は化学調味料不使用と記載してある煎餅の方がかなり多かった。
私は本年の7月から8月にかけて1ヶ月少々ドイツのハンブルグ大学へ招聘教授として招待されドイツに滞在していた。その時に休暇を利用して小旅行を行ったが、その時に面白い物を見かけた。それは、人工甘味料としてチクロがホテルなどの食卓に置いてあったことである。私は前述のように約30年前ドイツの糖尿病研究所へ留学をしていた。その当時は日本では人工甘味料チクロが発がん性を理由に禁止になった後であった。留学先のGris所長が「日本はアメリカやイギリスの真似をしてチクロを禁止にしましたね、何故あんな素晴らしいものを禁止にしたんだね、僅かばかりの、しかも恐らくあり得ない発がんの可能性と、糖の使用量が減ることによる、特に糖尿病予備軍の人達が糖の使用量が減ずることの利益をどう考えているのか。後者の重要性の方が遙かに意義が大きい」と若干毒々しいという感じで日本がチクロを禁止にしたことを非難された。彼の意見では「確かに非常にたくさん毎日長年使用すれば発がんの可能性はあるのかもしれない、しかし、日常の使用量を考えてやられた実験では全く発がん性は認められないのだから馬鹿みたいな量を使用した実験などを取り上げるべきではない」と量の問題を明確に指摘しておられた。
そして、事実この所長の主張は正しかった。1970年代から80年代にかけて行われた米国のがん研究所を始めとする世界各国のチクロ発がん実験はすべて失敗に終わっている。そして、猿を用いた長期投与の実験の結果も含めて考慮し、米国の幾つかの行政機関がチクロには発がん性は認められないとの結論を宣言している。
このチクロの禁止に関する日本とドイツの在り方は非常に興味深い対比の例である。すなわち、ドイツは発がん性があるとの報告に対してもその使用量から考えた時、発がんのリスクより糖尿病予備軍の人達の糖の消費量を減らせることの重要性を考えて禁止にしなかった。一方、日本やアメリカは発がん性のリスクの方を採用したわけであるが、結局発がん性は確認されなかった。
そして、その時にもGris所長が言っていたように無茶苦茶な投与量でやっと発生するような問題を問題にすべきではないと言っていた量の概念の指摘は今なお非常に重要な問題である。
食品添加物はもともと意味がなくて使用されているわけではない。何らかの目的があって添加されているわけであるが、そのリスクとベネフィットのどちらを取るかは厳密な量の概念に基づいた化学の問題として論じられることの重要性を改めて主張したい。
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tahata 2009/05/04 09:21 私のblogを紹介いただき,ありがとうございます。
私のblogは,ほとんど他からの引用で自分自身のlogという性質が高いのですが,多少なりとも参考になれば幸いです。
安部氏については,批判的な紹介も若干あるものの,多くが内容を検証せず無条件に受け入れているサイトが多いため,参考になるサイトが見つけにくいですね。
そういった意味でも,本blogが安部氏を評価する上で指標となるのではと,期待しています。