ドダン・ブーファンのポトフ
  ハンバーガーヒル(Hamburger Hill)



  映画 ハンバーガーヒル


 映画、ハンバーガーヒルは、1969年5月にベトナム中部で起こった、ベトナム戦争の実際の戦いを元に、製作されている。
 残酷でグロテスクなまでに、リアルな戦争描写で、戦争へ行くなんて、冗談じゃない!!と思ってしまう。

 ハンバーガーヒルとあだ名された、937高地、ベトナム名ドン・アプ・ビア(Dong Ap Bia)への攻撃は、米軍側にかなりの損害を出し、挽肉にされる丘と言う意味から、兵士たちにハンバーガーヒルと呼ばれていた。
 現在の軍事資料を見ても、ハンバーガーヒルの戦い(Battle for Hamburger Hill)と呼ばれている。

 映画のストーリーについては、DVD等を見て頂くとして、この映画は作戦全体ではなく、101空挺師団、187連隊、第1大隊のブラボー中隊と言う下級組織からの視点で描かれている。
 そのため、マクロ的視野で、なぜハンバーガーヒルへの攻撃が必要だったのか?何が原因で、大損害を出しているのか?さっぱり分かりにくい。
 ここでは、いくつかの軍事資料を元に、映画の補完的意味で、作戦的見地からの史実ハンバーガーヒルを記述しようと思う。



  ハンバーガーヒルの戦い


 1945年に誕生した共産主義国家の北ベトナムが、南ベトナムへ南下し、東南アジアが共産化する事を防ぐため、1963年、トンキン湾事件を口実に、米軍が軍事介入した。
 ハンバーガーヒルの戦いがあった1969年当時のベトナム戦争では、北ベトナム軍は、米軍とは正面切って対峙せず、ホーチミンルートと呼ばれる、北ベトナムからラオス国内経由南ベトナムへの連絡路によって、北ベトナムゲリラ、通称ベトコン(実は北ベトナム正規軍が多かった)が浸透して、ゲリラ戦を展開していた。
 ホーチミンルートの捜索と殲滅(せんめつ)、ベトコンの掃討を目的として、アパッチ・スノー作戦(Operation Apache Snow)が企図された。
 ハンバーガーヒルの戦いは、アパッチ・スノー作戦の一部として、戦われた。


 戦いを指揮した101空挺師団、第3旅団長ジョセフ・コーミィ(Joseph Conmy)大佐は、当初は軽い威力偵察のつもりで、937高地の攻撃を命じた。
 5月11日、輸送ヘリによって、101空挺師団、187連隊、第3大隊は戦場近く、937高地の北方の尾根、ランディングゾーンまで空輸され、アルファ中隊とデルタ中隊は、北および北西から、ブラボー中隊およびチャーリー中隊は別のルートから、937高地へ向かった。
 ブラボー中隊は、予想外のベトコンの激しい抵抗を受けた。
 第3大隊指揮官ウェルドン・ハニーカット(Weldon Honeycutt)中佐は、攻撃ヘリ、ヒューイ・コブラの支援を受要請したが、深いジャングルのため、ヒューイ・コブラは誤って、ブラボー中隊および187連隊司令部に攻撃して、2名の戦死者、35名の負傷者を出した。
 ハニーカット中佐は、937高地の占領がかなわなかったため、配下の4中隊で12日、13日と攻撃を命令した。
 12日も攻撃失敗し、特にデルタ中隊は、側面攻撃の命令を受け、泥の海の中進撃したが、損害が大きく、敵前の負傷者を放置して峡谷へ後退せねばならず、2日間も負傷者をそのまま放置する事となった。デルタ中隊は、15日まで攻撃参加出来なかった。


 予想外の、ベトコンの抵抗だったが、1つは937高地にいたのが、少数のベトコンのような非正規軍ではなく、ラオス国境から進入した北ベトナム正規軍、第29連隊、第7および第8の2個大隊だった。
 対する米軍は、攻撃兵力に勝る戦力の敵部隊へ、攻撃していたのだ。しかも、北ベトナム正規軍なので、ベトコンより装備も補給も充実している。
 937高地の西方は、ホーチミンルートがあった。
 北ベトナムにとっても、ホーチミンルートが見下ろせる937高地は、戦略要衝地点だった。

 米軍の攻撃を困難にしたのは、北ベトナム第3連隊は、空からの攻撃や砲撃をを想定して、バンカーと呼ばれる、上からの攻撃に耐えうる塹壕で待ち受けていた事。
 937高地への攻撃に対し、隙間なく火線の配置をしていた事。
 937高地へは急斜面で、うっそうと背の高い植物が茂り、米軍お得意のヘリボーン攻撃を困難にしていた事がある。


 米軍は、再三部隊を戦場から後退させ、砲撃による支援砲撃や空からのナパーム弾による爆撃を行ったが、北ベトナム軍のバンカーの前に、北ベトナム軍に大きな損害を与える事は出来なかった。
 再三の、米軍の攻撃のため、斜面の植物が焼けて、937高地ははげ山と化して行った。
 13日には、コーミィ大佐は、ラオス国境で、作戦参加していなかった506連隊の第1大隊の派遣を決定した。506連隊は、15日早朝に、937高地南方から攻撃参加し、187連隊の攻撃を支援した。
 ハニーカット中佐は、再三配下の中隊を督戦したが、最終的戦闘指揮は、前線指揮官が行い、火砲の支援も空軍支援もしばしば、小隊指揮官からなされた。度重なる支援要請と指揮統制の欠如により、5回の空軍支援では、味方にも戦死7、負傷者53の損害を与えた。
 コーミィ大佐、そしてハニーカット中佐は、目前の現実を見ようとせず、楽なはずの戦いに手間取っている配下兵士達に、いらだっていたのではないだろうか?


 16日、AP通信の記者、ジェイ・シャーブット(Jay Sharbutt)は、この激戦を知り、戦場でインタビューを開始した。
 このインタビューにより、兵士たちがスラングとして、937高地を挽肉にされる丘、ハンバーガーヒルと呼んでいたため、この名称が広く使われるようになった。
 ジェイ・シャーブットの報道により、この戦いは注目を集め、両部隊(187連隊と506連隊)の損害が大きいため、世論が騒ぎ、101空挺師団長メルヴイン・ザイス(Melvin Zais)少将も、作戦中止を検討するようになった。


 18日、情勢を重く受け止めたのか?コーミィ大佐の命令により、187連隊は北から、506連隊は南から同時に攻撃し、北ベトナム第29連隊が一方の防御に専念出来ないように計画した。
 コーミィ大佐が、いまごろ、このような当たり前の作戦命令を出すなど、元々は937高地への攻撃を楽観視していた事が、伺える。
 実施された攻撃は、両部隊のコンタクトまで、後75メートルに迫りながら、187連隊のデルタ中隊が損害を出して後退した。
 この攻撃は、空から大隊指揮官(ハニーカット?)が指揮したが、おりしもの雷雨で、空中指揮出来なかった。
 506連隊の3個中隊が、ハンバーガーヒルの戦いの支援のため、900高地を攻撃した。当初、順調に進捗した攻撃は、900高地頂上で激しい抵抗に遭遇した。

 ザイス少将は、攻撃力の不足を悟り、新たな3個大隊を派遣し、60%もの大損害を受けた187連隊を支援する事を決定した。
 506連隊第2大隊指揮官、ジーン・シェロン(Gene Sherron)中佐は、18日午後に187連隊の救援のためハニーカット中佐の指揮所に到着した。この時はまだ、シェロン中佐は、ハンバーガーヒルの戦いの状況を知らなかった。
 ハニーカット中佐は、ザイス小将に掛け合い、187連隊の戦力は攻撃に有効である事を認めさせ、結果として、506連隊第2大隊のアルファ中隊を187連隊に派遣する事が決定した。ハニーカット中佐にも、メンツがあったろう。


 19日、506連隊第2大隊は北方に、南ベトナム軍第1師団、第3連隊、第1大隊は南からヘリコプターのランディングゾーンに空輸され、攻撃発起地点に移動した。
 506連隊第1大隊は、900高地への攻撃を続行した。
 20日、10時から2時間の準備砲撃と航空支援、90分の支援射撃の後、4つの大隊は同時に攻撃を開始し、1つずつ北ベトナム軍のバンカーを占領して行き、17時までには937高地を掃討した。北ベトナム軍の一部は、ラオス国境に逃走した。


 ハンバーガーヒルの戦いでは、10日間の戦いで、戦死70、戦傷372もの損害を出した。
 101空挺師団は、アパッチ・スノー作戦に参加した5個大隊に対して、戦力の維持のため、作戦後1800名の兵士の補充をした。
 空からの支援はのべ272回、合計450トンの爆弾と69トンのナパーム弾が消費された。
 北ベトナム軍の第29連隊の第7および第8大隊は、937高地に約630人の遺棄死体があった。

 937高地の占領も、ベトナム戦争の趨勢(すうせい)には、何の影響もなかった。ザイス少将は、この戦いの後、24軍団長に昇進する。
 「一将功成りて、万骨枯る。」そんな戦いだった。



  ハンバーガーヒルの戦い 米軍戦闘序列




  ホーチミンルート(Ho Chi Minh Trail)




  ハンバーガーヒルの戦い 戦況図




 Wikipedia Battle of Hamburger Hill
 Operation Apache Snow
 Hamburger Hill Real Story
 The Battle of Hamburger Hill から引用


Last Update 2007.12.15 Created by Majin