満ソ国境紛争2/ノモンハン事件 概説1 昭和14年5月11日〜昭和14年9月16日
本事件は昭和10年頃から激化した満州国とソ連・外蒙との間の国境紛争中最大のものである。ソ連は西方において強国ドイツと相対する必要上、数次にわたる五ヶ年計画によって軍装備と資質の強化向上を図っていた。我が軍も機械化を図りつつあったが、国力上の制約から完全な機械化にはほど遠く、欧州大戦/第一次世界大戦を経験せず、帝政ロシア、支那軍閥と戦ってきた帝国陸軍にとって、ノモンハン事件は始めての本格的な近代戦となった。全軍を挙げて立ち向かったソ連に対し、大本営、関東軍ともに、ソ連の企図や兵力集中の状況を掌握することができず、航空部隊は様々な制約の中でよく活躍したが、地上戦闘ではソ連軍の優秀な戦車や砲兵火力により悲惨な戦闘を強いられ、壊滅的打撃を受けた。一方ソ連・外蒙軍もまた日本・満州軍を上回る損耗を生じ、圧倒的な戦力差の中で我が第一線部隊は勇戦敢闘した。 この大きな犠牲が建設的な結果を生まなかったのは、上級司令部並びに中央部の責任である。ノモンハン事件は帝国陸軍近代化への大きな警鐘であった。しかしこの貴重な戦訓は重視されないまま、大東亜戦争へと突入するのである。 |
満ソ国境紛争2−1 | :日ソ軍事概況 事件背景 事件経緯 第一次ノモンハン事件 など |
満ソ国境紛争2−2 | :第二次ノモンハン事件 ハルハ河攻防戦 砲兵戦 持久防御 など |
満ソ国境紛争2−3 | :ソ連軍8月攻勢 停戦交渉 戦果と損害 事件の教訓 など |
昭和14年5月11日の衝突から6月上旬までを第1次ノモンハン事件、その後、昭和14年9月16日に停戦が成立するまでを第2次ノモンハン事件と称する。なお事件勃発を5月12日とする説もあるが、ここでは11日説に基づいた。
昭和13年8月10日 「張鼓峯事件」の停戦協定がモスクワにて成立した。 昭和14年4月25日 関東軍司令官植田謙吉大将(10)は、兵団長会同において「満ソ国境紛争処理要綱」を作戦命令(関作命第1488号)として下達し、第一線部隊の準拠とした。
@ 侵さず侵さしめざることを満州防衛の根本とする。 これは関東軍第1課参謀辻政信少佐によるものであった。辻参謀の基本方針は、日本軍の兵力が劣勢であるからこそ、ソ連が国境を侵す場合は即座にソ連軍に一撃を加え、その出鼻をくじくことが紛争拡大を防ぐうえで重要である、というものであった。関東軍は「満ソ国境紛争処理要綱」発令と同時にこれを参謀総長に報告したが、中央部は正式には何の意思表示もせず、関東軍としては、作戦計画が容認されたものと考えていた。
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欧州大戦(第一次世界大戦)後、帝政ロシアが崩壊し、米国の対日圧迫が強まるにつれ、大正12年国防方針を改訂して米国、露国及び支那を想定敵国とし、米国を想定敵国の第一位に置き換えていた。ところが赤色ソ連の勃興が意外にも早く、満州事変による日ソ勢力の接触と相まってにわかにソ連に対する国防に危険が感じられるようになった。
ソ連は昭和3年から第一次五ヶ年計画を開始、赤軍の戦備強化に努め、昭和6年には109万人に及ぶ世界最強の陸軍国となっていた。その後も増強を重ね、昭和7年には第二次五ヶ年計画を推進し、昭和10年末頃の極東における日ソの軍事比率は対ソ3割と概観された。昭和11年には赤軍は160万に達し、翌12年7月の支那事変勃発時には185万の膨大な軍容を整えるに至った。
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ソ連と満州の国境東部及び北部は黒龍江で境され、これらの対岸はトーチカを配した堅固な縦深陣地で固められていたが、これに反し西部国境はいわゆる外蒙の広漠不毛の草原であって、国境線は極めて流動的な状態にあり、極端な言い方をすれば付近の外蒙士族の勢力消長によってあるいは西進し、あるいは東進していた。ノモンハン事件の起きた戦場付近の国境線も、我が軍はハルハ河と信じていたのに、後日戦場で捕獲した赤軍の地図によると、彼の国境線は明瞭に将軍廟付近を南北に走って描かれていた。 昭和14年1月 ノモンハンの満州側監視哨付近でモンゴル軍の一中尉と兵12名が捕虜となった事件が、この正面における最初の武力衝突であり、以後頻繁に衝突が繰り返されるようになった。ノモンハン方面のモンゴル側ハルハ河正面の第7国境警備哨は、ハルハ河西岸にあって東岸に対し巡察、歩哨を派遣しており、一方の満州側はノモンハンに警察隊分駐所があってモンゴル系警官が常勤し、巡察を行っていた。 当時この西部国境の第一線は、ハイラルに駐屯していた第23師団であった。この師団は昭和13年7月熊本で新設されて関東軍の隷下に入っていた。我が国最初の三単位制師団で、その任務は専ら持久作戦でそれを主眼として訓練され、当時ようやく師団として団結を整え得た程度であった。師団長小松原道太郎中将(18)は、駐ソ武官、ハルピン特務機関長を勤め、参謀長大内孜大佐(26)はラトビア駐在武官の経験があり、ともにソ連通として知られていた。この第23師団は独立兵団として運用するには歩兵力が不足し、砲兵火砲も旧式であった。新設されたばかりで作戦資料の収集程度が中央の期待であったとされている。しかし「満ソ国境紛争処理要綱」の示達により、慎重姿勢から軍司令官の意図を体して積極姿勢に転ずることになり、既に強硬化していたモンゴル側との相互エスカレーションがノモンハン事件に発展するのである。
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上記のようにノモンハン付近の衝突は既に1月以来起こっていたが、昭和14年5月11日早朝 将軍廟に近いこのノモンハン付近の満州軍国境監視哨に対し、外蒙軍約20〜60名が越境攻撃して来て彼我の銃撃戦が始まった。翌12日には外蒙兵700が越境と報告された。そのころハイラルの第23師団司令部では、「満ソ国境紛争処理要綱」を徹底するための団隊長会議が開催されていた。 5月13日 小松原師団長は越境した外蒙軍の撃破を決心、師団捜索隊長東八百蔵中佐(26)の指揮する東支隊(捜索隊主力と歩兵2個中隊基幹)と満州国軍(約300)を出動させた。しかし700というのは虚報で、数十名に過ぎない外蒙兵は15日 ハルハ河西岸に後退したので、小松原師団長は出動目的を達成したと判断し、直ちに東支隊を帰還させた。 地図の上にその名を見つけ出せない程の小さな蒙古部落を舞台とした、彼我のシーソーゲーム的戦闘はこれから始まった。
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外蒙軍総司令官であったチョイバルサン元帥は、日本側の撤退命令と同じ5月15日頃、国境警備隊に主力到着までハルハ河で阻止するよう命じ、外蒙第6騎兵師団を進出させた。同時にソ連第57狙撃軍団は相当の兵力を5月20日までに進出、ソ連・外蒙軍は東支隊の撤収後の東岸に進出して陣地を構築した。これを知った小松原師団長は再び「満ソ国境紛争処理要綱」に基づき、ハルハ河東岸のソ連・外蒙軍の撃滅を決心する。 この敵にどう対処するかについては、第23師団と関東軍司令部との間に意見の相違があり、関東軍は敵の侵入を静観して、油断した頃を見て一挙に撃破することを主張したのに対して、第23師団は直ちに一撃を加えることを主張した。第一線の心理と大局的見地から抑制しようとする思想の違いである。結局、関東軍司令官植田謙吉大将は小松原師団長の主張を認め、5月23日中央部へ本事件の処理方針について報告するとともに関東軍として事件を拡大しないように注意する旨を伝えた。 小松原師団長は、歩兵第64聯隊長山縣武光大佐(26)指揮の山縣支隊(歩兵1個大隊、山砲4門、捜索隊基幹)に出動を命令、飛行隊も増強して5月28日攻撃を開始した。我が戦闘機は空中戦で50余機の撃墜を報告、快勝であった。一方機動速度の速い捜索隊は、ソ連・外蒙軍の退路をいち早く遮断し、支隊主力から分かれて迂回して側面攻撃に向かったが、敵はハルハ河西岸台上からの砲兵射撃のもとに優勢な機械化部隊をもって反撃した。中でも側面攻撃に向かった捜索隊主力は、正午から戦車隊を伴う歩兵約150と、我が主力の奇襲を受けて後退してきた敵約100に包囲され孤立した。敵の行動は翌29日を迎えいよいよ活発となり、砲10数門の支援を加えるに至った。1600頃激戦のうちに捜索隊長東中佐以下一丸となって敵中に突撃して玉砕、出動兵力の半数が戦死、死傷63%の大損害を受けた。 小松原師団長は全般の戦況から撤収命令を下達、山縣支隊は命令により5月31日戦場を離脱してハイラルに帰還、ソ連・外蒙古軍も日本側の行動を誤判断して30日以降ハルハ河西岸に後退した。さらにソ連空軍の活動も低調になったので、出動した航空部隊(飛行第11戦隊、第24戦隊等)も原駐地に復帰を命じられて撤収、ここに第一次ノモンハン事件は終了した。
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師団捜索隊−東支隊は220名中、戦死105名、戦傷34名の大損害を蒙った。 この第一次ノモンハン事件は、西北満州防衛司令官として、小松原第23師団長が「満ソ国境紛争処理要綱」に基づき、自発的、強硬的に作戦を遂行したものであり、第一義的な責任は第23師団にあった。それに対し、この後発生する第二次ノモンハン事件は、関東軍の「独断専行」の形による命令で、第23師団が作戦を実行したものあった。関東軍は基本的に不拡大方針をとり、数多い国境紛争の一つとしてこの事件を対応できると考えていた。 ところが日本側が事件終息と考えて撤収していた時、ソ連は逆に重大な手を打ちつつあった。
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