日本軍はなぜノモンハン事件を教訓にしなかったのか
ノモンハン事件とは1939年、満州国西部国境付近で発生した日本軍とソ連・モンゴル軍による国際紛争。
この事件は従来、「旧式な装備しか持たなかった日本の関東軍が、ソ連軍の機械化部隊によって完膚なきまでに叩きのめされ完敗した」と伝えられていた。日本史や世界史の教科書をはじめ、ノモンハン事件について書かれた著述は大体そのように書かれていた。
また実際にノモンハン事件に参戦した経験を持つ作家の故司馬遼太郎氏は生前、NHKだったと思うが歴史スペシャルなどの番組によく出演し、「ノモンハン事件は本当に悲惨な戦いだった。圧倒的な数を誇る敵戦車群に対し、日本軍は対戦車火器すらわずかだった。歩兵は戦車に突撃させられ無駄死にした」といった、痛烈な批判を展開していた。
私の一番大きな疑問は、なぜ日本軍は何も教訓を得なかったのかという点だった。1万7000人もの犠牲を払い大敗を喫するという汚点を残しながらも、ノモンハン事件を反省し、日本陸軍の陸戦装備を近代化することはついになかった。
これについては、「日本軍が愚かだったから」と簡単に結論づけてしまう論調がほとんどだった。司馬遼太郎氏をはじめとする日本の知識人は、「当時の日本軍の精神主義の愚かさ」を証明するひとつとして、よくノモンハン事件を引き合いに出す。
ところが最近の調べによると、ノモンハン事件はどうも日本側の「大敗」とまではいえないようなのである。
平成2年に出版された獨協大学教授中村粲氏による『大東亜戦争への道』では、従来8000人と発表されていたソ連側の死傷者が実際は2万人だったという。ソ連崩壊後、それまで秘密にされていた文書が公開されたため、その数字が明らかになったのだ。
日本側は死傷者に行方不明者を合わせて1万7000余人と発表しており、犠牲者の数でいえばソ連の方が多かったといえる。
圧倒的な敵の近代装備に対し、敢然と立ち向かった日本軍
中村氏も指摘しているように、火力・機械力の不足を考え合わせれば、戦闘自体は必ずしも日本軍の敗北であったとはいえないのではないかと思えてくる。
当時ホロンバイル地区の防衛を担当し、ソ・モン軍と戦った23師団は熊本に司令部があった。戦後熊本日日新聞社が発行した『熊本兵団戦史』(昭和40年発行)には驚くべきことに、「生き残った者の大多数が敗戦意識を抱いていない」と書いてある。この当時は存命の方が結構おられ、当事者のインタビューもある。
「ソ連軍には友軍同士の横のつながりがまったくない。隣の隊がどんなに困っていても、上から命令がなければ決して協力しない」
「(ソ連軍は)友軍機のおちるのがあっても、それを友軍機と思わぬ。おちるのは皆敵機と信じ込んでしまっている」
「野砲兵中隊は、のちのちまで敵戦車の数が多ければ多いほどエモノは多いと勇み立って、すこしも戦車を恐れなかった」
「ソ連兵が負傷すると大声で泣きわめくのでなんだ弱虫と笑った。格闘となれば(中略)1対1なら絶対勝つと確信していた。わが死傷者も多かったが、敵の死傷はさらに多かった」
う〜ん。なんとも凄まじい闘志である。司馬氏の発言とはかなり違うのだが、私は別に司馬氏が嘘をいっていたとは思わない。全体的に見れば、ノモンハン事件が悲惨な戦闘であったことは間違いないだろう。
ただ、「あんな悲惨な戦いであったにもかかわらず、なぜその後反省しなかったのか」という自分の疑問は少しとけてきた気がする。現地の日本軍の全体的な気持ちとしては、負けたと思っていなかったのではないだろうか。むしろ、「貧弱な装備しかない我が軍が、ソ連の機械化部隊と十分やりあった。それどころか、もう少しで勝てる戦いだったのに、状況を知らない東京の参謀本部が作戦終結命令を出してきやがった」という空気だったのではないか。反省するどころか、逆に精神主義に自信を持ってしまったといえそうだ。
事実、辻政信参謀など関東軍作戦課の面々は、中止の命令を聞いて怒り心頭だったという。
ここまで書くと、「どうもお前の話は日本軍の視点からしか書いてないではないか。日本軍が自分たちは強かったというのは当たり前だろう」といわれそうなので、最後にソ連側の意見も加えたい。
この方面のソ連軍の指揮官は第57軍団長のジューコフ元帥だったが、その後対独戦の英雄となった歴戦の勇士である。そのジューコフは、戦後アメリカの軍事史研究家・ミシガン大学教授のロジャ・F・ハケット氏のインタビューで「戦歴中で最も困難だった戦いは何か」と聞かれ即座に「ノモンハンの戦いだ」と答えたという。
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