事件・事故・裁判

文字サイズ変更
ブックマーク
Yahoo!ブックマークに登録
はてなブックマークに登録
Buzzurlブックマークに登録
livedoor Clipに登録
この記事を印刷

19年目の真実:検証「足利事件」/上 もろかった「動かぬ証拠」

 「DNA型が一致した」。91年11月初旬の夜、栃木県警捜査1課長は帰宅直後、警察庁から電話を受けた。足利市で4歳女児が殺害された遺体で見つかってから1年半がたち、捜査は行き詰まりをみせていた。「本当かい」。課長は、思わず聞き返した。

 その年の8月、県警は警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA鑑定を依頼した。女児の半袖下着の体液と菅家利和さんが捨てたごみのDNA型が一致するか調べるためだった。

 課長は翌日、東北新幹線に飛び乗り東京にあった科警研で「一致する確率は数千人に1人」と説明を受ける。捜査を一気に進展させる突破口になると確信し、菅家さんの任意同行を心に決めた。安堵(あんど)感と最新の科学技術への驚きが交錯していた。

    ◇

 90年5月の遺体発見から、県警は捜査員200人体制で臨んだ。捜査線上に浮かんだ不審者は約3000人。しかし決め手はなく、容疑者を絞り込めなかった。市民から「刑事は寝るな」という手紙が届き、過労からか2人が「殉職」した。

 約半年後、巡回中の巡査部長が、週末だけ借家で暮らす菅家さんに不審を抱いた。幼稚園バスの運転手。遺留物と血液型が同じで土地勘もある。「やってねーべね?」との問いに、答えはなかった。以降、県警は菅家さんをマークし1年間尾行したが、不審な行動はなかった。

 DNA鑑定の結果判明から1カ月後の91年12月1日朝。県警は菅家さんに任意同行を求めた。当初「やんね、やんね(やってない、やってない)」と否認。だが午後10時ごろ様子が一変する。複数の県警幹部によると、捜査本部のある足利署の取調室で、現場の捜査員をまとめる警視のひざに顔をうずめ泣き崩れた。

 「本当にやったのか」

 「ごめんなさい」

 やりとりを繰り返す間、警視のズボンが涙でぬれるほどだったという。

 警視は当時の状況を「あれだけ涙を流し謝った。うそかどうかは分かる」と振り返る。しかし、菅家さんは09年5月に支援者へ出した手紙で「自白」を否定した。「刑事の取り調べが厳しく、怖くて『やった』と言ってしまった」

    ◇

 当時の県警幹部が「万人不同の指紋に近いという認識。『一致』の連絡は捜査員を勢いづけた」と語り、最高裁も証拠能力を認めたDNA鑑定。しかし当時は精度が低く、別人で一致する可能性は「1000人に1・2人」だった。現在は「4兆7000億人に1人」。格段に進歩した技術で行われた再鑑定の結果を受け入れ、東京高検は4日、菅家さんを釈放した。

 別の元県警幹部は「DNAだけに頼ったのではない。任意の自供を得たから逮捕した」と強調する。ある捜査員は困惑しながら漏らした。「自白を書き留めた、あの分厚い調書は、一体何だったんだ」

 当時のDNA鑑定と自白に寄りかかった捜査。その「過ち」が問われている。

    ◆

 菅家さん逮捕の決め手となったDNA鑑定が否定され、事件から19年を経て新たな鑑定が無実の証拠になろうとしている。事件の「真実」を追った。

毎日新聞 2009年6月5日 東京朝刊

事件・事故・裁判 アーカイブ一覧

 

特集企画

おすすめ情報